テント日誌9月18日 経産省前テントひろば739日目 ~ いくらかは秋の気配も
- 2013年 9月 19日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
「もう秋か、―それにしても何故…」と歌ったのはランボーだが、季節はそれぞれのこころに何かを刻み込んでいて、また、よみがえらすものだ。秋には格別の思いを持つ人も少なくはないだろうが、季節の切れ目がぼやけてきているなぁ、というのが感想だ。残暑というには厳しすぎる日々だが、それでもいくらかは秋の気配も感じられる。テントの朝夕は半袖では寒いくらいである。これくらいがいいなぁーとはテントに出入りする面々の挨拶である。
僕は彼岸花が好きで秋になったらといつも思うのだが、なかなか見に行けない。昨年は多摩川で群生しているのを見つけて嬉しかったが、今年は埼玉の巾着田に行きたいと思っている。そういえばテント近くの日比谷公園も彼岸花が咲いており、テントにきたついでのお薦めだ。二葉あきこが歌っていた『恋の漫珠華』が好きだった。こちらは人知れずひっそりと咲いているイメージだから、こちらが彼岸花の本来の姿かもしれない。群生もひっそりもいい…
テントに時々、顔を出してくれる女性の少し遅れた誕生祝いをした。無愛想といわれる男性陣ではあるが、たまにはこういうこともしている。以前に僕の誕生祝いをしてもらったお返しでもあるが、秋の夜にはふさわしい、愉しい時間だった。深夜にどういうわけか、珍客が現れた。一人は若い女性でこんな時間に大丈夫と心配したのだけれど、「原発がないと困るでしょう」「何でこんなところにテント張っているの」という質問に答えていたのだが、最後の方は「あなたら左翼」という問いになり、「うふふ」と笑って答えないでいると、「左翼は怖い」と言って立ち去った。これに唖然とした。しばらく、すると今度はイギリスの青年がやってきて原発の話をした。こちらは好青年でイギリスの原発のこと等、ビールを片手に話は弾んだ。こちらは珍客ではなかったのだが、深夜の予期せぬ客の訪問にびっくりというところか。月も見どころとあってか、こういうお客の訪れるのもテントだからだろうか。
オリンピック招致のための安倍首相の発言の波紋は広がる一方である。政府は国会を開かずことの鎮静化を待っているかのようだが、毎日、放射能汚染水は増え続けているのであってとどまる所を知らないわけだから、この問題を隠し通せるわけがない。参院選挙までは隠すことに成功したかもしれないが今度はそうは行くはずがないのだ。外圧でなんて嫌なことだが、こうなった以上世界の視線の中でこの解決の方法を見つけてもらいたい。遮断壁の話は既に以前から提起されていたことだが今さら検討なんて遅すぎる。それよりも各原子炉は冷やし続けるほかなく、毎日汚染水は増え続けるのだし、何年先に止められるかもわからないのだ。オリンピックどころではないというのが現実化するかもしれない。この現実の認識からことは進まない。そこに立っことから初めてもらいたい。そうは言ってもという思いはするが…
オリンピックについて言えば、誰もが忘れたふりをしているもう一つの重大事がある。昨年のロンドンの女子柔道選手らが提起した問題である。オリンピックの一方のというか、それこそが主役は選手たちである。彼女らの側から現在のオリンピックに対する疑問が提起されたのが、この間の動きだった。選手たちの監督やコーチいうなら指導陣に対する、暴力行為等への批判が出てきた。その背景にはスポーツ界のオリンピック観への批判があった。それはメダル獲得を至上化するオリンピック観である、何故なら、指導という名の暴力行為はこのオリンピック観と結び付いていたのだから。もちろん、女子選手団は何のための柔道かという問いを根底にしていた。そこから、勝こと、つまりはメダルの獲得を至上化するオリンピック観を批判していたのだ。オリンピックの名のもとに矛盾に満ちたスポーツの現状が隠されてあることを告発し、暴いたのだ。これは体罰問題などの教育問題に繋がっている。社会の問題である。
オリンピックはスポーツ選手にとって大きな目標であるし、それは選手たちの励みになる。いろんな意味でスポーツ界の頂点にあるのがオリンピックである。だからこそ、オリンピックと本来のスポーツの関連を問うことも必然のように出てくる。国家の栄誉を担う、メダルを獲得する等、いくつかの答えが用意されてきたのかもしれない。それは観る側からの期待であるかもしれない。
だが、その多くは部分か、結果に過ぎず、選手たちの自問に答えるものではないと思う。オリンピックを観る人たちの中にもこれへの疑念はある。
ロンドンオリンピックの女子柔道選手団は従来のスポーツ界のオリンピック観に疑念を出したのであり、これへの解答は出てはいない。柔道指導陣の入れ替えに問題がすり替えられて行った感もする。選手たちの納得する形のオリンピックとはどういうものかという重大な問題は忘れされている。この問題を解決しないでは現在のオリンピックだという疑問は解けないはずだ。スポーツ界が脚光を浴びれば浴びるほどこの問題もまた深まると思う。従来のようにメダル獲得に選手を駆り立てるだけのオリンピックなんて必要があるのか、国威掲揚のオリンピックってなんだという疑問は広がると思う。
9月11日・12日の2周年集会や第三回口頭弁論も終わり、夏の疲れが重なってテントの秋はと少し懸念したが、それなりに動いている。伊達に時間を経てきたのではないと思う。ほんとに持久戦というのはしんどいところもあるが、身についたものもある。いろんな風評もあるテントだが風の又三郎のようにどどっと吹き払って進んで行くだろう。愉しくなければ闘いではないのだから。この政審は生きている。 (M/O)
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