近すぎるアメリカ、遠すぎるヨーロッパ
- 2015年 3月 19日
- 交流の広場
- 藤澤豊
一体何が何故起きたのかを気にして説明していそうな本を探して読んだ。極端に言えば新自由主義でもマネタリズムでも株主資本主義でも。。。呼び名はどうでもいいが素人ゆえに呼び名-表面的な響きに振り回されかねない。巷の素人、能力も時間も限られていて、つい分かりやすい本に手がゆく。ただ分かりやすいだけが売りの本をいくら読んでもしょうがないし、特定の学説や学派に肩入れして全容のありようを見失った本に時間を取られたくもない。
大きめの本屋に行ってこれはと思う本を携帯電話で撮って、アマゾンとウィキペディアでどのような本なのか確認しながら何冊か読んだ。何が、何故起きたのか、その経緯から現状まで、全容がおぼろげに見えてきたような気にはなった。なったところで、自分の言葉で自分に説明し得るところまで行けるのか、ゆけるとして何時のことやら見当もつかない。まだまだ基本的な知識が足りない。
次はどうするかと思いながら本屋で『金融資本主義の崩壊』ロベール・ボワイエ著、山田鋭夫・坂口明善・原田裕治=監訳を見つけた。不勉強で著者や訳者について何も知らない。経済学を専門とされていらっしゃる方々にはそうは思えないのだろうが素人には四百ページ超でちょっと重い。定価五千五百円は即買おうとするには高い。アマゾンの“カスタマーレビュー”を参考にと思った。2011年5月に初版が出ているにもかかわらず、レビューが一件もない。参考にならないどころか参考にしてはいけないカスタマーレビュー(身内のやらせ?)に遭遇したことがある。あったところでなんらかの参考になればいいというぐらいにしか考えていない。それでも一件もないのはどうしたことか。買うのを躊躇って図書館で借りてきた。
経済学と一口に言い切れないほど個々の専門領域に特化し深化してきた。同時に定量的な経済学への進化が数学を駆使した技術面(テクニック?)を重視するあまり、本来経済学が必然として包括しているはずの社会的、政治的視点が軽視され続けてきたように思えてならない。この経済学のありようの歴史的遷移-ケインズから新古典派、さらにマネタリズムから新自由主義や株主資本主義に続く経済学の進化の中心地がアメリカだったこともあるのだろう、書店には日本語の本に並んで英語の原書を翻訳した本-原書の多くがアメリカ出版されたものが並んでいる。
そのため日本の本で満足しきれない人たちがさらなる知識と求めて手にするのは、必然的にアメリカ発の本になりやすい。なかにはドイツやフランスなどヨーロッパ大陸で発展してきた経済学に近い立場の研究者や先生方もいらっしゃるだろうが、残念ながら巷の素人、容易に目につく、手に入りやすいという視点でみればやはりアメリカの書籍になる。
『金融資本主義の崩壊』を読み進めて、歴史的視点からも社会学や政治の視点も包括したしっかりした基礎認識と広汎な調査研究に基づいた記述に感動した(素人だからかだろう?)。ただ原文が持って回った言い方をしているのか、翻訳が固いせいなのか分からないが引っかかる文章が多かった。基礎知識がないからだと言われそうな気もするが、訳本によくあるひっかかり方だった。ピンとこない文に出くわしているうちに、日本語訳ではなく英訳があればそっちの方が読みやすいかもしれない(訳者には失礼?)と思った。英語版であれば発行部数も多いだろうから多少でも安いかもしれないと調べたが見つからない。それもそのはず、フランス語の原テキストは出版されていないし、される見込みもないとある。訳者のあとがきによれば、書籍としては著者の原稿から日本語に翻訳された日本語版しかない。妙に感心するやらあきれるやら。。。
所属する社会や仕事によって人様々だろうが、多くの人々にとってアメリカはあまりに近くヨーロッパは遠くになりすぎた。画像処理(Computer graphicsではなくMachine vision)業界で禄を食んでいた時、似たようことを痛感した。八十年代の黎明期には米国で二百社以上が試行錯誤しながら業界の覇者を目指して競っていた。二十五年くらい前には実質数社に絞られ、独自のアルゴリズムを武器に米国のメーカが世界市場を席巻した。米国から十年以上、あるいは二十年近く遅れて日本の画像処理業界が、それに続いてヨーロッパの画像処理業界が立ち上がってきた。
この歴史的な事情のため、日本にいても米国の画像処理メーカを否が応でも知ることになる。日本では業界紙を見ても展示会に行っても米国メーカの存在が目につく。ところがヨーロッパメーカはと改めて見渡しても一、二社しか見当たらない。ヨーロッパには画像処理メーカはその二社しかないのかと短絡的に思いかねない。
日本企業の米国支社からヨーロッパ市場の開拓を始めようとしていた時にシュツットガルトで画像処理業界の展示会があった。ちょうどいい機会だったので見学に行って驚いた。名前だけしか聞いたことのないメーカがこれほどまでの力を持っていたのか、こんなメーカがこんな製品を。。。日本にいてもアメリカにいても知り得ないメーカが技術的には無視しえない製品を展示していた。
戦後アメリカが身近になるのと反比例するかのように明治時代には身近にいたはずのヨーロッパがこれほどまでに遠い存在になってしまったのかとちょっと不安になる。
今回の金融危機で多くの人が気付いたと思うのだが、アメリカはアメリカ、それはアメリカという国、その生い立ちまで遡って今日を見てもそれはアメリカでしかなく、アメリカが世界の標準ではあり得ない。特殊アメリカを日本のお手本にしようとすれば必ず齟齬をきたす。中国文化や朝鮮文化を持ち込んでも、持ち込んだものに日本を重ねあわせて自分を失うことはなかった日本人。その日本人が二十一世紀にもなってまさか自分を捨ててアメリカになろうとしようとしているわけじゃないよなと思うのだが、巷で聞こえてくる上っ面な御託-アメリカが言っていることの解説を耳にするとまさかと心配になる。
自分で考えてつくり上げる能力をつかさどる遺伝子が萎縮してしまった社会がその機能を回復しようとしたとしても途方もない時間がかかる。とりあえずの対応策でしかないが、大きすぎるアメリカの影響を多少なりとも中和するために遠くなりすぎたヨーロッパをもう一度身近に引き寄せてみるのも一案だと思うのだが。素人考えでしかないか?
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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