明清帝国の再来か
- 2019年 2月 9日
- 評論・紹介・意見
- 中国阿部治平
——八ヶ岳山麓から(275)——
わたしは、中国が従来の20世紀型帝国主義的政策に加えて、近年ますます前近代の明清帝国的ふるまいが露骨になってきたと感じる。
2017年第19回中国共産党大会で、習近平総書記は「新時代の中国の特色ある社会主義の偉大な勝利」「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を強調し、しまいに「中国は世界舞台の中心に近づきつつある」と宣言した。舞台の中心で中国は何をしようというのか。
2013年習総書記が提唱した「一帯一路(大陸と海洋のシルクロード)」構想は、中国主導のアジア共同体を企図したものである。中国は潤沢な財政を背景に東南アジアに多額の投資を行っているが、スリランカが借款の返済不能に陥ると、中国は港湾施設の99年にわたる管理・運営権を手中にした。パキスタン、モルディブなども中国からの多額の借款返済に苦しんでいる。これを見ると「一帯一路」は明清帝国の冊封体制の再来かと疑う。
ことし2019年1月18日にも、北京で開かれた「改革開放20周年」の記念式典において、習総書記は「開放型の世界経済の建設を積極的に推進し、覇権主義に反対する」と述べ、貿易摩擦で対立するトランプ米大統領を批判しつつ、「わが国は国際秩序の擁護者である」と強調した。
その心意気は壮とするが、「国際秩序の擁護者」には笑ってしまった。国連は1970年に武力による「いかなる領土の取得も禁止する」と宣言したが、中国は常任理事国でありながら、南シナ海を軍事的に制圧し、その領有をめぐる国際裁判での敗訴を認めず、判決を「紙くず」とけなしたのである。
意外なことにアメリカの専門家たちは、中国のこの覇権主義志向をながいあいだ認識できなかった。ひところマイケル・ピルズベリーの著書『China 2049、原題The Hundred-Year Marathon』(日経BP社、2015)が評判になった。「世界の覇権を握る」という中国の長期的戦略に著者が気が付くまでの過程を詳細に語ったものだが、その冒頭で、氏は2012年・13年・14年の3回の中国訪問の間に、付き合いのある学者らが従来の態度を一変させ、「中国主導の世界秩序を目指す」ことを隠さなくなったことに愕然とした、と書いている。
マイケル・ピルズベリーはCIAなど米情報機関の要員で、親中国派としてアメリカの対中国政策に深くかかわった人物である。それが2012年の中国訪問まで、中国の覇権国家を目指す「隠された意図」を見抜けなかったというのである。
これより時代を遡る90年代、中国は鄧小平の「韜光養晦(才能を隠して外に出さない)」を原則とした。これは外交軍事戦略上、「ときが来るのを待つ」という意味である。
2006年には、中国中央テレビ局(CCTV)が「大国崛起(大国の勃興)」というシリーズ番組を放映した。大航海時代のポルトガルから現代アメリカまで覇権国家9つの興亡を描いたものである。また当時CCTVは、清国最盛期の康熙帝や乾隆帝の伝記や故事を何回も放映した。
当時私は中国の大学にいたので、学生たちに、番組放映の意図は「10番目の覇権国家は中国なりというところかね?」とか、「目指すは大清帝国最大領土じゃないのか?」などと訊いてみたことがある。これに誰一人反論するものはいなかった。
2007年5月には、米太平洋軍司令官が中国を訪問した際、中国海軍上級将校が「ハワイから西を中国が、東をアメリカが分割管理する構想」を提案した。なんとまあ、アメリカには遠慮しているが、日本はおろか他の太平洋諸国を歯牙にもかけない話である(2017年11月にも習総書記はトランプ米大統領との共同記者発表で「太平洋には中国とアメリカを受け入れる十分な空間がある」と発言した)。
中国は公式にはいつも「覇権を求めない」といってきた。ピルズベリー氏はこれを信じていたのだろうか?!
私は、中国で生活していたとき、中華民国期の文人林語堂の「我が国には支配するものと、されるものの二種の人しかいない」という言葉を思い出すことが多かった。
清朝は厳格な思想統制をおこない、ひとたび反清思想とみなせば徹底的に弾圧し、一族係累を皆殺しにした。皇帝と民衆の間には、支配のための強固な官僚制があり、官僚には特権が与えられた。また清朝は、満洲以外のモンゴル・チベット・新疆(東トルキスタン)などを藩部として自治を認めたが、反抗すればジェノサイドをもって報いた。
現代中国では、儒教に代わる指導思想は「マルクス・レーニン主義」「毛沢東思想」「鄧小平理論」である。だが重要な原則は中共が労農人民の党だということだ。これだと中共独裁はすなわち全人民の独裁となる。これを批判する者は国籍を問わず逮捕投獄され、国家分裂罪で処断される。この傾向は習政権以後異様に強まっている。
最高領導集団と労農人民の間には、やはり党に領導される官僚組織が存在する。党幹部に上は上なり下は下なりの役得があるのは清朝同様である。少数民族の統治は、清朝は間接統治だったが、現代中国は党組織を通した直接統治を行なっている。憲法は民族自治を認めているが、それを求める者は苛烈な弾圧を受ける。
清朝の経済基礎は土地税であり、地主制であった。農民は「抗糧(反税闘争)」「抗租(反地主闘争)」に絶えず立上った。ときには悪徳官僚や地主が当局によって処罰されることもあったが、それがかえって「一天万乗」の皇帝への崇拝を高めた。
習近平政権は派閥抗争をたくみに反腐敗闘争におきかえて、ライバルを悪徳幹部として糾弾し、その都度数百人を連座処分した。これが大衆の喝采を浴びたこと清朝時代同様である。
以上まとめていえば、「中華民族の偉大な勃興」は、アジア諸民族に君臨した明清帝国の再現だ。「中華民族の大家庭」は国内少数民族の漢民族への融合・同化にほかならない。
ピルズベリー氏も、日本の中国通同様、経済発展が中間階層の生成発展を促し、その成長が民主主義への傾斜を強めると考えていた。日本が「失われた20年」に呻吟しているあいだに、中国はアフリカの資源を抑え、アジアの覇者の地位を獲得した。各分野の技術は軍事・宇宙開発を中心に躍進し、月の裏側へもロケットを飛ばし、ヒトの遺伝子組み換えに及び、さらには社会統制のためにAI・デジタル技術を利用するに至った。これにつれて中間層も肥大化した。
ピルズベリー氏が1989年の民主化運動に参加した学生らのその後を注意深く観察していれば、もっと早くに、「絶望的な民主・人権の実現」や「中国の隠された意図」を発見できただろう。私の知る限り、学生のほとんどが変節した。中国の中間層は政府・企業の管理層や、研究者など知識人を中核とするが、多くは現体制によって養成され、中共支配のおこぼれを頂戴して民主や人権を西側思想として否定し、地位と財産を得たものである。
2018年1月、環球時報社説は、「今日、中国のGDPはすでに日本の3倍近くになり、両国間の実力比は歴史的に逆転した。日本は中国の台頭を真剣に受け入れるべきであり、中国は19世紀以来、長らく日本に圧迫され侮辱されてきた民族感情を調整する必要がある」と書いた。——中国は一流になり日本は二流国家に転落した。わかったか!わかったら中国に逆らうな!今度はおれたちが日本に馬乗りになる番だという意味である。
習近平政権下のこの国家は、果たして21世紀の世界の指導国家足りうるだろうか。
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