「近代の超克」論を超えて
- 2020年 3月 1日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
- 「近代の超克」論の問題圏
―空洞化する戦後体制―
2020年1月―アウシュビッツ解放75周年~世界のトップ指導者参列せず、だが依然として「アウシュビッツは単なる歴史ではなく、我々にとっての鏡だ」 国際アウシュビッツ委員会クリストフ・ホイブナー
はじめに
かつて学生運動時代に「近代の超克」という言葉を初めて聞いたとき、なぜ「資本主義の克服」ではいけないのかと疑問に思ったことを憶えています。いま顧みると、15年戦争中に京都学派が「近代の超克」や「世界史的立場」を唱えた際、そこにはいくらかは文明論的視角が働いていたのだと推察できます。つまり「近代の超克」とは、端的には「ヨーロッパ近代文明」のいきづまりの克服・乗り越えを意味していました。しかしそうであれば、それに代わる文明がなんであるのか、あるいは如何にあるべきものかについて、最低限その見取り図をデッサン程度であれ提示すべきであったでしょう。しかし京都学派の主目的が、まずは日中戦争を含む全面戦争の政治的文化的意味付けにあったとすれば、日本を中心とする同心円に中国を包摂し、欧米列強対東亜協同体ないし大東亜共栄圏という自己都合の線引きをすることでとりあえずは十分であり、真摯な近代の見直しなど望むべくもなかったのです。
当時西洋近代文明に代わる選択肢として東洋文明を掲げた大川周明らの日本主義者や大アジア主義者、はたまた近代化の歩みそのものをオール否定する日本浪漫派はおりました。しかし京都学派の「四天王」らには、少なくとも西欧的教養を授けられた官学知識人としてそこまで言い切る厚顔さはありませんでした。ただ彼らとて一方で「近代の超克」を言い募りながら、日本の中国・朝鮮はじめアジア諸国への優越の理由、大東亜の盟主たる根拠を、日本がアジアで唯一欧米的近代化=脱亜入欧に成功したところにおいていたのですから、ダブルスタンダードの厚かましい使い分けでしかありませんでした。論理的に考えれば、「近代の超克」が技術に偏し強制的に上から近代化した日本の在り方の自己反省と自己超克という方向づけであれば、実り多い議論になったのでしょう。しかし実際は太平洋戦争緒戦の破竹の勢いに便乗した、日本軍国主義の膨張政策、戦争政策の片棒担ぎにしかならなかったのです。そのためでしょう、若かった私は、誰から教わったわけでもないのに「近代の超克」と聞くだけで嫌悪感を禁じえなかったのです。
「近代の超克」はそうした戦争の過去のしがらみを背負った術語なので、論者の意図に関係なくポスト・モダンや反近代、前近代といった立場への志向性を示唆します。したがって我々の思想的課題を提起するものとしては基本的には他の言葉で置き換える方が賢明だと思っています。いずれにせよ本論考が「近代の超克」論を扱う以上、最初に暫定的にせよ分析の視座設定が必要だと思います。そこで思い出すのが、フランクフルト学派最後の巨匠ハーバマスの論座です。ハーバマスは、1980年代の過去の克服をめぐる論争において、「近代化と啓蒙のプロジェクトはいまだ完了していない」として公共性と合理性の理念の実現を掲げて、西独版「近代の超克派」といえるプレモダン派(新保守主義者)やポスト・モダン派とは明確な一線を画する態度を明らかにしました。
「問題はいぜんとして変わってはいない。つまり、今なお基本的見解の岐れ目はどこにあるかといえば、こうした啓蒙主義の志向―それがいかに挫けようとーを守っていくかいかないかということにある。すなわちモデルネ(近現代―N)のプロジェクトを失敗としてあきらめるのか、あきらめないのかという問題なのである」(「近代 未完のプロジェクト」1980年、岩波現代文庫 2000年)
この考え方でいけば、自由、平等、理性、人権や民主主義は今後も守り発展させるべき基軸概念ということになります。顧みれば、68年の学生反乱の際にもハーバマスは「左翼ファシズム」的傾向を批判して、R・ドゥチュケら学生たちの暴力的な急進主義に同調しませんでした。60年代後半、学生運動家たちはパレスチナ、ラテン・アメリカのゲリラ闘争やベトナム解放戦争における「正義としての暴力」をモデル化して先進国に持ち込み、「都市ゲリラ闘争」などの極左方針を立てました。しかし当然ながら、この方針はドイツのような先進国では福祉国家の枠組みを土台とする市民社会を敵に回すことになり、啓蒙と近代の遺産―福祉国家(社会国家)の多くの要素は1930年代・40年代の反ファシズムと対独レジスタンスの血であがなわれた遺産でもありますーすら攻撃対象にして孤立化し、自己破産の道に進みました。社会システムの官僚主義化や間接民主主義の機能不全への告発が過ぎて、普遍的な価値としての民主主義までも一緒くたに押し流すことへの警戒と反発が、広汎な市民層に広がりました。
ドゥチュケ自身が70年代に入って運動のテロリズムへの傾斜を批判し、体制内変革へと運動の転換を図り、環境保護運動に乗り出していきます。西独においては、この流れの引き継いだのは「緑の党(グリューネ)」Die Grünen(1980年結党)であり、 その幹部として1985年にへッセン州で環境・エネルギー大臣を、のちにシュレーダー連立政権で副首相・外相を務めたヨシュカ・フィッシャーの政治的歩みは、68世代の生き残り戦略の代表例といえるものでした。
躍進の立役者 ドイツ「緑の党」のベアボックとハベック両党首
単純に比較はできませんが、日本では残念ながら68世代の闘争を70年代以降に引き継いでいけるような政治勢力もイデオロギー的潮流もつくることができませんでした。当時全国的に広がりを見せていた反公害を筆頭とする各種住民運動や革新自治体運動の流れとも合流することなく、あさま山荘事件やよど号乗っ取り事件、三菱重工爆破事件など、見境のないテロリズムへと自己を純化し自滅していったのです。その後十分な政治総括もなしえず、高度経済成長の最後のダイナミズムのうちに多くの学生は飲み込まれ、なし崩し的に転向していって繁栄の果実に与ることになったのではないでしょうか。そのシンボルともいえるのは、1984年、女性誌にコムデギャルソン姿で登場した吉本隆明です。埴谷雄高は「資本主義のぼったくり商品を着ていると」批判したといいます。このことを伝え聞いた私は、正直あまり意外ではありませんでした。敗戦によって裏切られた軍国少年の憤怒や怨念をバネにした吉本の思想的営為には、ついていけない感想をもともと持っていたからです。その後オーム真理教や原発へ肩入れして、晩年は(私の眼には)無残な姿をさらけ出しました。70年前後、転向の告発者として、そして何よりも「共同幻想論」なる国家論をうちだした吉本に心酔して新左翼運動に飛び込んだ学生たちが私の周りにもおりました。しかし彼らはのちに「思想家」として功成り名を遂げて、公然と商業主義・消費主義の神輿(みこし)にのる吉本の姿を見てどう思ったでしょうか。今にして思えば、問題は吉本個人だけに限らず、思想的・理論的教祖のまわりに蝟集してセクトを形成するという日本の学生運動特有の思想的非自立性・閉鎖性・排他性にあり、これこそ克服すべき内なるスターリン主義だったのではないでしょうか。それから50年、カルト集団オーム真理教の死刑囚・新実智光は死刑執行の直前、その日記に「自分を信じる人生もあったはずだ。誰かに委ねる生き方は誤りだった」と記しています。繰り返される日本青年の悲劇です。右であろうと左であろうと、自立した自我という近代的地平に依然として届かぬ体のわが国青年の精神状況です。谷川雁由来の「連帯を求めて、孤立を怖れず」とはいい標語でした。ますます劣化し構造的病理をさらけ出す政治と社会の状況に対し立ち向かうには、自立と社会連帯というわれわれの初心を呼び覚ます必要があるでしょう。
ハーバマスにもどりましょう。21世紀の現時点では彼に対しこういう批判があり得るでしょう。ハーバマスの見解は冷戦時代のもので1990年代以降、世界政治の構図は大きく変わった。そうした変化に対応していないハーバマスのかつての見解を基準にするのは時代遅れだ、と。
なるほど一国内においても旧来の保守対革新という政治的イデオロギー的対抗軸が政治的有効性を失い、この構図に収まらない無党派層が過半数に迫る勢いであり、この層を基盤とする左右のポピュリズム政党が抬頭してきています。ドイツでも伝統的な黒・黒(保保)連立、ないし黒・赤(保革)連立といった政治構図がくずれつつあります。「緑の党」―ポピュリズム政党ではないにしろ、第三極を構成します―が躍進して、来年には政権を取るだろうといわれています。また欧州を代表する政治国民であったフランスでは、共産党が消滅寸前であり、労働者階級の牙城であったCGT(フランス労働総同盟)が激減して特に民間企業では影響力を後退させてきており―にもかかわらず、大規模な交通労働者のストは決行中です―、その間隙を縫って既成政党の枠に収まらない「黄色いベスト」運動が噴出。さらにかつて欧州第一の勢力を誇ったグラムシ、トリアッティの党であるイタリア共産党は早くも1980代半ばに消滅、それのみか2008年には国会から左翼勢力が一掃される事態になりました。左派政党は分裂が深刻化する一方、かつて共産党の牙城だった「赤い」ボローニア、フィレンツェなど北部の旧革新自治体地域は、北部同盟(のちの同盟)というポピュリスト右派政党が抬頭、「五つ星運動」などと並んで政治勢力地図を塗り替えています。いずれもネオリベラリズム・グロバリゼーションにともなう極端な富の偏在と社会的格差の拡大、資本主義的成長の行き詰まり、福祉国家的政策の財政的基盤が脆弱化、移民労働者の増大と右翼ポピュリズムの抬頭などの問題が、パクス・アメリカーナの動揺と衰退に増幅されながら深刻化しています。
ハーバマスはこうした時代変化をもちろん踏まえながら、一国主義的な後退を断固批判し、EU(欧州連合)を民主主義的に強化する方向で進むべきとして譲りません。つまり先年の「近代というプロジェクト」は、「ヨーロッパというプロジェクト」、つまり超国家的民主主義の確立のために事業に変わったとする(「デモクラシーか、資本主義か」岩波現代文庫 2019年)立場は不動です。EUの経済的な統合に見合う権限ある民主的政治システムをつくり上げ、金融と経済へのコントロールを手にすべきだというのです。ただEU内の遠心化・各国の自国中心への傾斜は、EU内での南北格差・経済的不均衡に主たる原因があり、EUにいることの受益感が得られない限りこの流れは変わらないとして、格差是正に強力な政治的対策を求めています。イギリスのEU離脱という新たな難問にどう対処すべきなのか、さすがのハーバマスにも多少ペシミズムの気配が漂い始めていますが、しかしヨーロッパの良心は揺らぐことはないでしょう。
今日のアジア―とくにアセアンの貿易経済圏―は、経済成長の新興の地域として注目されていても、統合のレベルがEUとは全く比較になりませんし、ある意味で国民国家の形成途上にあるといっていい国も少なくないのです。政治的にはアセアンは内政不干渉主義をとっており、政治的経済的連携が各国の国内の民主化につながる回路は塞がれています。市民社会は依然未熟なままであり、それどころか近年は民主化に逆行する動きがますます強まっています――中国の新疆ウイグル族、チベット族への民族抑圧や総監視社会化、タイの軍政強化、カンボジア・ラオスの中国への過度の依存と人権抑圧、ベトナムの一党開発独裁、ミャンマー軍部の権力維持等々。アセアン諸国には共通して児童労働や人身売買といった前時代的な人権侵害がみられます。外資への過度の依存とネオリベラリズム的経済運営によって、資本の論理が大手を振い個人の自立、市民社会の形成を押しつぶす力学が強まっているのです――「債務の罠」を別にしても、中国の「一帯一路」事業では、国家権力と資本の力任せにプロジェクトが推進されて地元住民が開発の利益どころか不利益を一方的に被る危険性が垣間見えています。ミャンマーの場合、事業の線引き内に当たるカチン州では囲い込み運動と本源的蓄積を思わせる中国国家資本とミャンマー政商資本の動きが目立っています。これに対し農民とNGO活動家は困難ながら闘いを組織し抵抗を続けています。中国資本とミャンマーの政商資本(産軍複合体)との癒着という新しい事態に対しても、国際的な監視が必要になってきています。本格的な近代化、民主化は軍部を抑えなければできないにもかかわらず、漸進的な改革を遁辞として、軍を包囲する国民的統一戦線(農民・学生・労働者市民・少数民族)の形成をネグレクトして、軍との妥協にずるずると引きずられていっているのがスーチー政権です。先般の習近平の訪緬に際し、約40のミャンマー市民社会グループが、ミッソン・ダムプロジェクトの廃止―「一帯一路」に不可欠の電源開発です―を求める公開状を送りました。中国からの違法な入国・移民、中国の嫁不足を補うための大勢のミャンマー人女子の人買いなどにも声明を出し抗議行動も行っています。またロヒンギャ訴訟での国際司法裁判所の裁定を、排外主義の荒れ狂う嵐を突いて支持する市民社会団体が少なからずあったことも勇気づけられる出来事になっています。
※本稿で京都学派という場合、基本的には「四天王』とされた高坂正顕,高山岩男、鈴木成高、西谷啓治ら戦争協力の右派を指すものとします。
「『近代の超克』は事件としては過ぎ去っている。しかし思想としては過ぎ去っていない」として、近代の超克で問われた真の問題性がまだ解かれていないとしたのは竹内好でした。(竹内好「近代の超克」筑摩叢書、1959年)つまり戦後14年ほど経過して時点でなお、「近代の超克」という問題設定の有効性を認めていたのです。「近代の超克」という概念から戦争とファシズムにまつわるイデオロギー要素を除き去り、そのうえでそれを日本の近代化の在り方の自己反省と乗り越えという方向での課題として理解すべきだというのでしょう。竹内氏は別なところで、「近代の超克」とは日本の近代化80年のどこをどう間違えたのかを明らかにする作業だと言っています(「方法としてのアジア」1961年)。
私は竹内氏の問題提起を是としながらも、京都学派が主導したという歴史的コンテクストと今日の言論界の右傾化状況を考えるとき、たとえ近代批判という含意であれ、基本的に「近代の超克」の標題は避けたいところです。したがって本論考では、「近代の超克」はあくまで批判的に取り扱われるべきものとして論じていきたいと思います。
それで「近代の超克」論がカバーする問題圏を図式化すると、以下のようになります。ただしこれには純正ファシストといえる鹿子木員信や蓑田胸喜ら超国家主義者と日本浪漫派、文学界同人は除きます。
(1)にかんして
♦侵略戦争と帝国主義間戦争の地政学的理由づけとしての「(大東亜戦争の)世界史的意義」
「支那事変」および「大東亜戦争」は、欧米帝国主義による世界秩序に代わって、中国の民族的自立をも包摂する東亜の新秩序を建設するという世界史的意義をもつとします。しかし東亜の新秩序において日本がその盟主たることは自明の前提とされています。「日支両国の和衷」の下での大東亜秩序をいう大川周明にしても、中国における日本の既得権益を放棄するつもりは全くありません。中国五・四運動の発端である1915年の21か条要求の線(満蒙権益とドイツ利権の確保)の死守は、当然視されているのです。
大東亜共栄圏のひとつの事例:アウンサン将軍とビルマ方面軍――アジアの欧米植民地支配からの解放という「大東亜戦争」の似非理念に最も近いと見えたビルマ占領。しかしビルマ攻略の原戦略・主目的はビルマ援蒋ルートの遮断にあったのであり、特務機関である南機関による独立闘争支援は反英独立運動勢力を取り込むための詐術にすぎませんでした。やがてアウンサン将軍らは、傀儡政権の地位しか与えない日本軍のこの欺瞞を見抜くことになります。その結果としてビルマ軍は1945年3月に反日一斉蜂起をして、ビルマにおける日本軍の敗北を決定的なものとしました。
♦大東亜共栄圏の哲学的根拠づけとしての「近代の超克」論
(3)と重複しますが、西欧(物質)文明のいきづまり、反近代、反技術、ポスト・モダンという議論は、は京都学派やハイデガーの復活と通底しています。エコロジカルなパラダイムへの転換という世界的な喫緊の要請をある種隠れ蓑にして、近代文明批判という装いのもと、言論界の右傾化のながれに掉さすかたちで影響力を強めようとしています。
♦京都学派の偽の問題設定―東洋精神・東洋文明Vs西洋精神・西洋文明として、大東亜戦争を意義付ける―に対して津田左右吉は、総動員体制の恐怖政治下にありながらも厳しく批判します。
「今日では西洋に源を発した現代の世界文化のなかにわれわれは生活してゐるのである。……今日の日本の文化はこの現代文化世界文化の日本に於ける現はれである。 ……いはゆる西洋文化は日本の文化に対立するものではなく、それに内在するものであり日本の文化そのものであることに疑は無い」としており、また「西洋の文化、西洋の思想に対し、それと同じ意義での東洋の文化、東洋の思想といふものが存在しないことは明かであるといはねばならぬ」(津田左右吉「支那思想と日本」1938)
それは同時に日本文化と中国文化が東洋文化といった上位範疇で安易に括られてはならないことを意味します。津田は安易な概念操作が横行するのは、じつは相手方の文化の実態について無知であることによるとしています。中国のことも(東南アジアのことも―N)よく知らないからこそ、国柄、文化的差異を無視した机上の構想が大手をふるうとしているのです。
♦「四天王」の一人鈴木成高は、「近代の超克」論のファシズム的本音をあからさまに披歴します。「総じて近代が行き詰ったところに総力戦がある。つまり総力戦は近代の超克だ」(「総力戦の哲学」昭和18年1月)というのです。さらにその「近代の超克」論を突きつめると、「民主主義、資本主義、自由主義」を政治・経済・社会の構成要素とするモダ二ティの行きづまりの打開をめざすというところに眼目がある。つまり「近代の超克」の政治目標は、端的には「民主主義・資本主義・自由主義」の超克だというのです。しかし資本主義の超克の本音は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコト」(治安維持法第1条第1項)は大罪である以上、せいぜい財閥の横暴への牽制を意味するに過ぎず、体制概念としての資本主義は実際は天皇制とともに不可侵であるのです。実質言いたいのは、反民主主義・反自由主義ということであり、欧米型自由主義経済と立憲主義、法治主義を否定し、天皇制下における統制経済と総動員体制による戦争遂行を扇動強化するものにほかなりません。自由主義も共産主義も等しく文明の毒とする立場は、哲学的に高度に洗練されてはいるもののハイデガーの反ユダヤ主義的言明にも通じています。要するに「近代の超克」とは、個人主義を超える共同体主義(実質は家父長的一君万民体制)を掲げ、反軍閥、反財閥、反軍国主義的な気分の強い知識人をファッショ的な戦争体制に巻き込んでいくための概念装置にすぎないとみていいでしょう。
一言付言しておけば、京都学派の理論を日本型ファシズムや戦争政策という現実から切り離し、純理的に反近代ないし近代批判の内容証明を行なって救い出すやり方は、おのずと京都学派の過大評価につながります。それは教育勅語には道徳の普遍的な項目が含まれているので一概に却下できるものではないとして、天皇絶対主義を救い出そうとする動きに似ていなくもありません。両方に共通するのは思想というものを、それが置かれた歴史的コンテクストから切り離し、時代に迎合して再構成するもので、行き過ぎれば歴史の改竄ともなります。
ちなみに東大出ではありますが、田辺元の弟子といっていい家永三郎は、京都学派の戦争責任を重く見ていました。高山岩男は戦後公職追放になりましたが、のちに教科書検定強化に文部省審議会の委員として活躍。彼は、32年に及ぶ家永教科書裁判で国被告側証人に立ち、家永と因縁の対決をすることになりました。検定制度こそ戦前の検閲制度につながっており、ファシズムの根がこの国では死に絶えていないことが明らかになりました。一般に思想の、戦争へのコミットメントをたんなるエピソード扱いするのは間違っています。総力戦では一国家一国民の有するハードパワーとソフトパワーが総動員されます。だからこそそこでは戦争当事者の強さと弱点とが凝縮して典型のかたちで露わになります。一国家一国民の何たるか―とりわけその失敗の本質―を分析するに、戦争ほど相応しいものはありません。
(2)にかんして
それがヘーゲル解釈として妥当なのか否かはいま問わないとして、人倫共同態の頂点をなす国家を至上のものとするヘーゲル的国家観に強い親近性を示すのが京都学派です。民族共同態とか人倫的有機体とか言われたりするプレモダンなゲマインシャフト的なものへの強いあこがれと傾斜がみてとれます。家族・郷土・国家への自己犠牲をいとわぬ同胞倫理は、ファシズムと共鳴し合うところでしょう。戦時体制の進展にともなって、人倫共同態はやがて将兵たちの死を聖化し死に意味づけをあたえる「死の共同態」の象徴である靖国神社へと昇華されるのです。後発資本主義国における知識人に特有な発想といえるのですが、日本の場合特に半封建的な土地所有形態にねざす家父長的な支配原理に引きずられ、家族主義的国家観にまで昇華された倫理思想を強化すること、そこに和辻哲郎の「倫理学」は何らかの役割を果たしたにちがいありません。
(3)にかんして
♦竹内好「方法としてのアジア」――その意義と今日的課題
西欧近代を超えるための方法としてアジアを立てるー「西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す。逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値上の巻き返しによって普遍性をつくり出す」(昭和36年)
文学的な微妙な言い回しを、より厳密な社会科学的言明に変える必要がありそうです。かつての「方法としてのアジア」は、反帝反植民地主義の視点から西欧流の普遍主義(自由や平等)の欺瞞を衝くという観点でした。民族自決権や民族独立の権利は、もともとは西欧由来の普遍的な民主主義的原理に淵源するものであり、被抑圧民族は宗主国側の理念を奪い返しそれを具体化して自らの政治的精神的武器として活用したのです。西欧的理念とは別個にアジア的理念なるものが生まれたのではないことに注意が必要です。
しかし今日、アジア諸国が開発立国にかなりの程度成功し、西欧型社会に近似した社会を作り上げつつあるなかでは、かつての「方法としてのアジア」の有効性は薄れつつあります。逆にアジア的近代化の大きな隘路が露呈しつつあるのです。かつては中国革命の成功を基準に西欧的近代化の相対化を図ることには意味がありました。しかし大躍進や文化大革命、天安門事件といった一連の悲劇は、もはや中国が先進文明批判の参照基準としては役立たないことを明らかにしました。今日の市場社会主義の成功すら、「より包括的な価値体系」とか、「普遍的な文明論的な基準」(竹内好)とかいったものには到底届かないことがはっきりしてきました。
別な例ですが、ベトナムはその民族解放独立戦争をアメリカの独立宣言を逆手にとって戦い抜き勝利しました。アメリカの建国の理念を引き継ぐものは、自分たちアジアの小国の解放戦争であるとし、アメリカの介入に道理がないことを世界世論に訴えました。ところがいったん勝利して国内建設の段になると、その国家は民主主義的な諸権利のあらわな抑圧者として振舞うことになりました。
つまり東南アジア諸国は「抵抗するアジア」の歴史段階から、「近代化のアジア」へと変貌を遂げつつあるのです。したがって東アジア、東南アジア、南アジア諸国のキャッチアップ型近代化の進展は、資本主義的な生産と市場の諸条件を成熟させるだけに、それに見合った市民社会の構築を不可避とします。「方法としてのアジア」ならぬ「方法としての市民社会」を参照基準とする近代化過程の検証など自覚的な取り組みが必要なのです。中国政府付属のシンクタンク自身が、中国が欧米社会に比べ政治的価値やシビルソサイエティの点で見劣りしていることを認めているのです(「日本の転機」ドナルド・ドーア 2012年)。
ただ、その場合でも「抵抗するアジア」的規準が完全に消えてしまうわけではないでしょう。経済成長主義的開発経済で、農業の衰退が加速し、伝来の地域社会の生活基盤が崩壊しつつあるアジア地域では、「抵抗するアジア」は比重を低めたとはいえ、対外的対内的な闘いの規準として手放してはならず継承されるべきものであります。対外的というのは、外資への従属関係や中国などの覇権主義との闘いが問題になるからです。
♦科学論・認識論的視座からの近代の超克論
京都学派にあって異色の数理哲学を専門とする下村寅太郎は、まったく少数派ながら竹内好とともに欧州近代を自分とは別個の批判対象として扱う「近代の超克」論とはやや異なる見解をとりました。
――我々にとっての近代とは、ヨーロッパ近代であるとともに、その近代を身に着けてきた我々の近代でもあるとして、「近代とは我々自身であり、近代の超克とは我々自身の超克である」とする(「近代の超克の方向」1943年)。
欧州近代を積極的に承認したうえで、日本における近代の受容の限界を見極めようとしているのでしょう。下村は一方で近現代の科学史の検証を通じて近代の特質を突きつめていこうとしており、その限りでは通常の欧州的な科学観と違っているようはみえません。「近代の超克」派が、とかくハイデガーと同様技術文明そのものを呪詛する傾向が強いのに対し、下村は人間の機械への奴隷化は機械そのものに責任はなく、それを運用する組織制度、ひいては精神に帰するべきであると至極まっとうなことを述べています。
下村が「近代の超克」という場合は、日本的知性の在り方への(自己)批判に絞られています。つまり伝統的に日本的な知性は、植物に似て随順的(つまり受動的)であり、芸術的な感受性と表現に優れているものの論理的な能力において見劣りがする。こうした知性の在り方をより近代的合理的に改善することによって、近代のアポリアを解決できるようにすべきだというのです。
戦後初期にもこの考え方は貫かれていて,ニ十世紀社会のボーダレスの動きは、「やがて新しき人間意識の成立を含蓄している。人間の単位は『国民』でなくなりつつある。それは近代的人間の一つの究極への徹底に接近したことである。真の『個人』の形成への接近である」としている(「二十世紀について」1949年)。ただし歴史過程は個人の析出が終点ではなく、「人間が真に個人になることによって真に自発的に再形成せられるべき社会」(同上)が目標なのである。
京都学派にあっては、次のような一定程度合理的な科学史観を持つ研究者であっても、17、18世紀的な機械論的世界像と自由主義や個人主義とを同一視して一緒くたに排斥するような見解が大勢を占めました。
「現在我々が経験しつつある『世界の動乱』を物質をもって人間を律し去らうとして来た機械的科学観(これが実に唯物思想、自由主義、個人主義、・・・の温床なのである)の行き詰まりであり、破綻なのである。物質的・機械的なものから人間的なものへ、生命なきものから生命あるものへ、そして西洋的なものから東洋的なもの・日本的なるものへと、『科学観』、『世界観』は大きく転回してゐるのである」(杉靖三郎「科学と伝統」、「転向」鶴見俊輔集4 所収 p247)
西洋から東洋への歴史的転換というのは我田引水といわざるを得ませんが、「機械的なものから人間的なものへ」という歴史と科学の流れの指摘は至当です。F・ベーコンが「自然に服従することによって支配する」と述べたように、人類は実験的な操作によって発見され普遍的な因果法則を利用し技術的手段を介して、自然への支配力を拡大してきました。その挙句の果てに、我々は地球環境の破滅的危機に際会しています。もはや単純に近代的な合理性の延長上に地球の未来を展望することはできないのは確かです。しかしだからといって、ハイデガー流に「存在の忘却」を誹り、ソクラテス以来の西洋の形而上学とその上に立つ科学技術文明を全否定するのは決定的な誤りです。歴史への絶望から、人々が救いを求めてふたたびファシズムの劇薬に手を伸ばす危険性に手を貸すことがあってはなりません。
Ⅱ、広松渉「近代の超克」論=近代知乗り越えの圏域
① について
京都学派と広松哲学の親近性について。西田哲学の出発点である「主客合一の純粋経験」から後期の「絶対矛盾の自己同一」にいたる流れと、広松氏の近代的な主客二元論を超えるものとしての共同主観性論との親近性を見るのは容易いでしょう。京都学派の宗教哲学的本質を表す「絶対無」の立場に広松氏が関心を持っていたらしく、柄谷氏によれば、広松氏は晩年大乗仏教やナーガールジュナ(龍樹)の空の思想に関心を示していたといいます。
氏の強調する近代知の地平の対自化ですが、それは理論的な体系的図式―それがどれほど精緻であろうとも―が提示されたことだけで尽きるのではありません。戦後の「思想の科学」などによる学術日本語改革の試みなど、近代化の努力にも目配りが必要です。翻訳術語(漢語)に付きまとう日常日本語との乖離や断絶(ジャーゴン化)―それは知識人と大衆との乖離でもある―という日本的近代の負の遺産を清算することも、近代の地平の超克なのではないでしょうか。四天王に対する態度が、その理論的な結構に集中していて、彼らの理論の戦争責任にかかわる実際機能を軽視するかにみえるのも気になります。
② について
それは「人間の意識あるいは『世界』というものが、個体あるいは個人によって独立に成り立つものではなく、他者との相互作用を基盤としてはじめて生成する、本来的に『共同』的なものであるという理解」(広井)に立つものです。
広井氏の未来志向的コミュニティ論は、「定常型社会=持続可能な成熟した福祉社会」の構想というもので、従来の成長・拡大モデルを前提とせず、環境的資源的な制約にぶつかった個人原理の社会から、「地球倫理」社会へと向かう時代要請に対応しているといいます。これはいま世界で、とくに欧州で新しい哲学的な思潮となりつつあるエコロジカルなパラダイム・シフトとも呼応しているように見えます。高度成長期の一極集中型社会から地域分散型社会への移行と言い換えてもいいものです。ただエコロジカルなパラダイムは、そもそもの初めから放射能汚染や地球温暖化というボータレスの問題を扱うという意味で、狭いナショナリズムの域を超えていますが、広井氏のコミュニティ論はいまのところ一国内に限定されているようです。
広井氏らの学問的業績の特色は、研究が単なる象牙の塔内での成果ではなく、日本の地域社会での様々な試行やプロジェクトとしっかり結びついて生み出されていることです。その点では、広松認識論がとかく批判を受ける主体性の契機の欠如とか否定の論理の不在とかを社会科学的実践的に補っているようにもみえます。いずれにせよ、日本では哲学が科学的実践に影響を及ぼす例はあまり多くはないと思いますが、この点では広松氏は誇っていいのでしょう。
<広松超克論の印象>
1.氏は近代知および脱近代知について、思考の認識論的枠組みを主に問題とします。その場合、近代的世界観を構成する価値論的側面はほとんど顧慮されません。
2.したがって最も重要な人物でありながら、そういう論じ方をしない竹内好をほとんど無視しています。日中のはざまでもがき格闘をする一人の知識人の実存には無関心にみえます。また近代知との格闘で竹内が重要な契機とする「ナショナルなもの」への配慮が、広松氏には薄いのです。
3.広松氏が戦無派世代へのメッセージ的意味をもたせている著書ですが、超克論議の裏側にある戦争の実相はほとんど表象されていません。戦争体験を持たない世代に理論的な結構の話ばかりする―これでは京都学派の美化におのずと通じるのは避けがたいことです。彼らは若者、わけても学徒兵を戦場に送り出すにあたって死の意味を説いて背中を押したという点で、大きな戦争責任を負っています。氏の強調する近代知の地平の対自化ですが、それは理論的な体系的図式―それがどれほど精緻であろうとも―が提示されたことだけで尽きるのではないのです。広松氏の論じ方は、大学知識人の狭い職能的関心の範囲にとどまっているのではないかでしょうか。著書の第十章には「哲理と現実態との媒介の蹉跌」という見出しがつけられていますが、広松氏自身が幾分かはそうではないのかとの疑念が払拭できません。家永三郎が田辺哲学を微に入り細を穿つように分析し批判した内容は、ある点で広松氏にも当てはまるように思われます。つまりハイレベルの緻密で堅牢な理論体系の構築の一方で、ある種リアルとはいえない現実感覚が併存しているのです。
Ⅲ.広松渉氏の最終論考「日中を軸とするアジア共同体建設構想」を批評する
2020年に位置する我々の立場から、1994年に書かれた時局的論考を後知恵的に批判する愚は極力避ける努力をしたうえで、広松氏の哲学者としての論考が、近い将来の歴史構想としてどの程度現実性をもつのかどうか、はたまたどの程度知的道徳的な説得力もつのかどうか、浅学を怖れず吟味してみましょう。
広松氏の立論の仕方は、京都学派の「近代の超克」や「世界史的な立場」のそれと驚くほど似ています。そこには気宇壮大なふたつの論点が含まれています。
1.世界史的規模と意義を有する覇権の西方から東方への中心移動
2.地政学的な覇権の中心移動は、近代の超克、即ち近代からの世界観的変革(パラダイム転換)を伴う
京都学派との含意の違いを確認しておけば、1については京都学派は対英米戦争による覇権移動を唱えましたが、当然ながら広松氏は平和的な移動を考えているのでしょう。しかしそのためにどういう主体的客観的条件が必要なのかは詰めきれていません。アジア共同体成立の根拠としているのは、中国の経済力の驚異的な増大によって中国の経済的軍事的支配力が拡大し、日中を中心とするアジアが地政学的な構造変化の策源地になるだろうという程度のことです。しかし単なる経済相互依存関係の深化だけでは、平和裡のアジア共同体の成立の必然性を説くには不十分です。そのことは、こんにち日本の輸出相手国第一位と第三位が中国と韓国であるにも関わらず、両国との外交関係が揺らいでいることからも分るでしょう。しかも日本は事実上中国を潜在敵国とする日米安保条約という軍事同盟を結んでいるのです。他のアジア諸国にも言えることですが、米中の覇権争いが激化するなかで、一方でアメリカの核の傘に収まりつつ、同時に中国と共同体形成へ向けて関係を親密化させるというのは、「絶対矛盾の自己同一」めいた難事であります。
それにしてもアメリカに政治経済軍事のあらゆる面で従属的依存関係にある日本、市場経済社会主義の下で一党独裁体制をとる中国、もし万が一こういう二つの国が共同体を形作ったとしたどういうものになるでしょうか。共同体の共通理念といったものはどのようなものになるのでしょうか。戦前の「昭和研究会」による「東亜協同体」構想では、その実現の必須条件として関係国における国内改革―三木らは資本主義体制の構造改革を想定―を挙げていました。これは現在にも通じる卓見です。断定めいて恐縮ですが、一方で日本が「道徳的エネルギー」を発揮して対米従属関係を脱皮して自立的な国となり、他方で中国が複数主義を構成原理とする市民社会の充実した法治国家になる、この二つの条件が同時に満たされたとき、両国はアジア共同体(AŪ)の形成にむけて本格的なスタートを切ることになるのではないでしょうか。
EUの核となったのは、かつて宿敵同士であったドイツとフランスの篤い信頼関係でした。そのような太い絆を日韓中の間で結び合うには、当然ながら日本の植民地支配や侵略戦争についての過去を清算し、関係国が真に和解することなくしては不可能です。さらに国際的な共同体という以上、それを構成する諸国家は自らの主権の一部でも譲渡する覚悟がなくてはなりません。ちなみにカントは永遠平和を達成する条件として、①関係各国の政治体制が、統治権と立法権の分立、国家成員の自由が保障されている共和制であること、②自由な国家からなる国家連合に基礎を置いた国際法が必要であること、と説きました。こうした基準に照らしてみれば、アジアにおける共同体実現の可能性が、現在どの程度なのか分ろうというものです。いずれにせよ、永遠平和の条件たる世界政府に向かう一里塚として位置づけられて、はじめて地域共同体は進歩的意義をもちます。広松氏が論じる限りでは、アジア共同体が帝国主義的なブロック化でないことの保証はみえてきません。また巨大な共同体化は、民主主義に親和的な分権化とベクトルが逆になる強い傾向がありますが、「人民主義」というあいまいな概念ではこの問題は捉え切れないでしょう。
2についてですが、京都学派は宗教哲学(絶対無の立場)へ収斂するとみていいでしょうが、広松氏は実体論的世界像から関係論的世界像への転換を唱えます。ただこれだけでは一般の方は謎めいたご託宣としか聞こえないでしょう――新聞の一般的読者を対象にする論説である以上、専門語によらない説明が最低限必要です。要するに地政学的な大転換には、世界観・世界像の一大変革を伴う(伴うべき)とするのです。それを指して「近代の超克」と名付ける点で、京都学派も広松氏も一致しています。京都学派は東亜の地政学的な勃興には、ランケから借用した概念ですが、民族の「モラーリッシュ・エネルギー(道義的力)」を必要とするとする一方、広松氏の方はエコロジカルな価値観への転換を言いますが、いかにも迫力不足は否めません。
ではこの「モラーリッシュ・エネルギー」ということで京都学派はなにをイメージしているのでしょうか。これには竹内好の「方法としてのアジア」の所論が大いに参考になります。それをもとに「モラーリッシュ・エネルギー」の実体を読み解くと以下のようになります。
1916年インドのノーベル文学賞詩人タゴールは日本を訪問しました。彼の目的は、日露戦争に勝利し近代化の道を成功裡にひた走る日本人の活力の源泉がどこにあるのかを探ることだったそうです。しかしそこで彼が目にしたのは、「組織された利己主義」としてのナショナリズム(国家主義)の跋扈であり、独立をめざすインド人が模範とすべきものでは到底なかったのです。タゴールは、神がかり的なそのナショナリズムの先行きを懸念し警告を発したのです。のちに京都学派が、大東亜共栄圏を支える道義的な力として析出してみせたのは、何あろう超のつく狂信的なナショナリズム以外のなにものでもありませんでした。この狂信的ヴァイタリティこそ、アジア太平洋地域で猛威を振るい、何億もの人々に塗炭の苦しみをあたえたものでした。京都学派の戦争責任の重大な一班をなすのは、この点であります。教育ある若者に対し戦争に文明論的意味を与え喜んで死地に赴くように後押ししたのですが、こうした役割は京都学派にしかできないことでした。
最後に広松氏に倣い、「近代の超克」を他山の石として構想すべきは、次の二点であると思います。
1.現代の思想的閉塞状況を打破するために、近代知の在り方―近代一般の知の在り方および日本の近代化の在り方―を再検討する
2.米中の覇権の争奪戦のなかで、アジアにおける日本の独自の地位と役割を戦略的に考える。換言すると、新しい国際秩序の創出に日本はどういう形でコミットし貢献していくのか。
特に2については、これを達成するためには日本のアメリカからの自立が必要です。しかもそのためには、グローバリズムにもナショナリズムにも安易に依りかからない、国民に根を下ろした道徳的な再生エネルギーが不可欠です。広松氏の論考にポジティブな意味があるとすれば、左翼やリベラルからの「大アジア主義」の誹りを怖れることなく、アジア全体の地政学的動態の見通しと日本の責任を提起したことでしょう。
(資料) 廣松渉 東北アジアが歴史の主役に 日中を軸に「東亜」の新体制を
朝日新聞 1994年3月16日
世紀末について語るにはまだ早過ぎるような気もする。ましてや、東北アジアが歴史の主役になるとの予想は、大胆すぎるかもしれない。しかし、二十世紀がもうすぐ終わろうとしていることを考え、また、筆者が哲学屋であることを免じて、書生談義をお許し願いたい。
つい数年前までは、欧米の落日は言われていたが、ソ連や東欧が大崩壊するなどとは誰も予測していなかった。ソ連や東欧の「社会主義体制」は内部に矛盾をはらみながらも、もう暫くは存続するものと思われていた。
日本では好景気と五五年体制が続くと思われており、細川連立内閣の登場など考えもおよばなかった。アメリカに対して「ノー」と言える日がやがて訪れるとは思われていても、大統領の口から公然と「日米経済戦争」という言葉がこんなに早く聞かれるとは予期されていなかった。
米ソ日が構造的に変動したばかりではない。ECヨーロッパも様子が変わってきている。このさなかにあって、東南アジアはたしかに様相が別になっている。が、これとて、今のところは、アメリカやヨーロッパあっての経済成長であり、東亜の隆昇ではある。将来にあっては、だがしかし、どうであろうか? コロンブスから五百年間つづいたヨーロッパ中心の産業主義の時代がもはや終焉しつつあるのではないか? もちろん一体化した世界の分断はありえない。しかし、欧米中心の時代は永久に去りつつある。
新しい世界観、新しい価値観が求められている。この動きも、欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。だが、所詮彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。混乱はもう暫く続くことであろうが、新しい世界観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう。日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。
では、どのような世界観が基調になるか? これはまだ予測の段階だが、次のことまでは確実に言えるであろう。それはヨーロッパの、否、大乗仏教の一部など極く少数を除いて、これまで主流であった「実体主義」に代わって「関係主義」が基調になることである。 ――実体主義と言っても、質料実体主義もあれば形相実体主義もあり、アトム(原子)実体主義もあるし、社会とは名目のみで実体は諸個人だけとする社会唯名論もあれば、社会こそが実体で諸個人は肢節にすぎないという社会有機体論もある。が、実体こそが真に存在するもので、関係はたかだか第二次的な存在にすぎないと見做す点で共通している。
――これに対して、現代数学や現代物理学によって準備され、構造論的発想で主流になってきた関係主義では、関係こそを第一次的存在と見做すようになってきている。しかしながら、主観的なものと客観的なものとを分断したうえで、客観の側における関係の第一次性を主張する域をいくばくも出ていない。更に一歩を進めて、主観と客観との分断を止揚しなければなるまい。
私としては、そのことを「意識対象−意識内容−意識作用」の三項図式の克服と「事的世界観」と呼んでいるのだが、私の言い方の当否は別として、物的世界像から事的世界観への推転が世紀末の大きな流れであることは確かだと思われる。(これがマルクスの物象化論を私なりに拡充したものとどう関係するかは措くことにしよう)。
価値観についても同じようなことが言える。もっとも、こちらは屈折しており、一口には言いにくいのであるが、物質的福祉中心主義からエコロジカルな価値観への転換と言えば、当座のコミュニケーションはつくであろうか。 もちろん、世界観や価値観が、社会体制の変革をぬきにして、独り歩きをするわけではない。世界観や価値観が一新されるためにはそれに応ずる社会体制の一新を必要条件とする。
この点に思いを致すとき、ここ五百年つづいたヨーロッパ中心の産業資本が根本から問い直されていることに考えがおよぶ。単純にアジアの時代だと言うのではない。全世界が一体化している。しかし、歴史には主役もいれば脇役もいる。将来はいざ知らず、近い未来には、東北アジアが主役をつとめざるをえないのではないか。
アメリカが、ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要吸収者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない。
東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして、欧米との対立のみが強調された。だが、今では歴史の舞台が大きく回転している。
日中を軸とした東亜の新体制を! それを前梯にした世界の新秩序を! これが今では、日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。
商品経済の自由奔放な発達には歯止めをかけねばならず、そのためには、社会主義的な、少なくとも修正資本主義的な統御が必要である。がしかし、官僚主義的な圧政と腐敗と硬直化をも防がねばならない。だが、ポスト資本主義の二十一世紀の世界は、人民主義のもとにこの呪縛の輪から脱出せねばならない。
それは決して容易な途ではあるまい。が、南北格差をはらんだまま、エコロジカルな危機がこれだけ深刻化している今日、これは喫緊な課題であると言わねばなるまい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://chikyuza.net/
〔opinion9499:200301〕
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