ミャンマー、ある元大尉の死
- 2021年 7月 28日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー論考野上俊明
先日、ひとりの退役の元大尉がコロナに感染し亡くなった。この大尉の死をめぐって、ミャンマーの有力な反体制新聞「イラワジ」(7/26)は、地味ながら含蓄のある記事を掲載している。
アウンサンスーチー女史は、1988年ミャンマー政治の表舞台に立ってから今日までの32年間で、死に瀕した絶体絶命のときが二度あったといわれる。この二度の事件についてはミャンマー人なら知らない人はいないのであるが、国軍や秘密警察をはばかって私的な会話ですら話題になることはまずないといってよい。
その第一回目は「ダヌビウ事件」といわれるものであるが、「イラワジ」の記事そのままに紹介しよう。
1989年4月4日、スーチー女史はNLDの選挙運動のためイラワジ・デルタの町ダヌビウを訪れていた。このとき地元の大勢の支持者とともにNLDのキャラバン隊は町なかへ行進しつつあったが、そこで国軍は阻止線を張って隊列を解散させようとした。しかしその命令に従わずなおも行進しようとしたので、ミンウー大尉率いる弾圧部隊は、ライフル銃を一団に向け大尉の発砲命令を待った。命令が下されれば、最前列にいたスーチー女史も含め、躊躇なく発砲し隊列をなぎ倒したであろうことは、前年の大衆行動の際に証明済みであった。緊迫し凍り付いたような瞬間であった。ところがこのとき、ある少佐が突如割って入り、「ここは前線ではない、これは政治だ」(太字筆者)と言って、撃つなと命令したことで一気に事態は収束した。しかし少佐の介入にミンウー大尉は激怒し、その場で自分の肩章を引きちぎって地団太踏んだという。
数年後、この大尉は「アウンサンスーチーとその支持者に発砲するよう上層部から書面で命令されていたので、間違いなく発砲していただろう」と振り返った。ミンウー大尉は、肩章を引きちぎっても1992年まで軍隊に残り、灌漑省に転属して局次長として官職を終えた。その後も反NLD、国軍へ忠誠の態度変わらずにいたという。
しかしこの7月18日、老ミンウ―氏はCOVID-19の症状の一つである熱を出してヤンゴンの1000床ある国軍病院に駆け込んだとき、彼は再び裏切られたと感じた。なぜなら、かれはそこで歓迎されず、当直の警官に怒鳴られたのだ。入院を希望して2日後に陽性反応が出たため、適切な紹介文書なしにCOVID-19センターに送られ、そこでも追い返されたという。これに腹を立てた彼は、自分のフェイスブックに警告文を書き、「今まで緑(国軍)だったのに、赤(NLD)になりたくない」と書いた。つまり、軍に裏切られたという思いと今までの軍への忠誠心との相克に苦しんだのだ。投稿後、ミンウ―氏はヤンゴン近郊のフモウビーにある軍病院に入院したが、24日にその病院で亡くなった。今はのきわに「自分が生涯忠誠を誓ってきた軍の本当の姿を考えざるを得なくなったのである」と記事は結んでいる。
私はダヌビウ事件の際、「ここは前線ではない、これは政治だ」と言って介入し、スーチー女史らの命を救った少佐のことばを重く見たい。国軍にも道理の分かっている人間がいたのである。戦場の論理と政治の論理をあえて一緒くたにして暴力の行使を正当化する国軍のおぞましさ、これは近代世界においては絶対的に破綻を免れないのであろう。
現在ミャンマー国内は医療崩壊のなか、連日コロナ感染者が4500人を超え、死者も400人を超えているという。軍事政権は感染状況や死者を低く見積もり発表しているが、ヤンゴンに一か所しかない焼き場は処理が追い付かず、中庭は待機する棺であふれているという。熱帯の雨季のもとでのこうした状況は、不衛生であり感染爆発の引き金にもなる。また7月に入ってからは、政治犯が収容されているインセイン刑務所では、収容者が当局のコロナ対応に抗議して決起し、一部刑務官も同調して大騒ぎになった。当局は直ちに軍隊を導入して、20人を射殺して鎮圧したという―2月以来民衆側犠牲者は、900名を超えた。ワクチンの国際的支援が急がれるが、日本は自分のところさえ不足を来している状況で、無様なことになすすべがないのが菅政権である。
ついでながら、スーチー女史が遭遇した第二の生命の危機についても触れておこう。
2003年5月30日、ミャンマー北部のサガイン管区ディペイン町で地方遊説に出ていたスーチー女史を含む NLDの車列が、国軍の組織した多数の暴徒に襲われ、70名以上と言われる死傷者を出した。未確認情報であるが、犠牲となったNLDの隊員らは、みな身元が分からないように(ここでは書き表せないような)残忍な方法で頭部を損壊されたともいわれる。スーチー女史は、運転手の機転で危機一髪難を逃れたという。しかしその後当局に拘束され、再び長く自宅軟禁の状態の置かれることになる。同じく未確認情報であるが、暴徒による襲撃を組織した国軍の最上級幹部ソーウイン氏は、その後論功行賞で独裁者タンシュエによって首相に抜擢された。この「ディペイン事件」については、スーチー女史もけっして触れることはなく、スーチー女史の強力な秘書であったコーニー氏が、ヤンゴン空港で衆人環視のなか射殺された事件(葬儀にすらスーチー女史は臨席しなかった)などとともに、ミャンマー政治の数あるタブーのなかへしまい込まれている。ミャンマーを覆う「真昼の暗黒」は、薄氷のような民主化の脆さを表している。
しかし「ディペイン」の悲劇は、これだけでは終わらなかった。この7月2日、ディペインとしても知られるタバイン郡区の村を数百の国軍が襲撃して、6人の子供と5人の大学生を含む約41人の民間人が国軍によって殺害された。この地域の防衛隊は脆弱だったので、抵抗は弱く一方的な村人に対する殺戮であったという。退却する防衛隊によって置き去りにされた6人の負傷したレジスタンス戦闘員は、国軍兵士によって頭を撃たれた。7/3土曜日には、他のレジスタンス活動家や村人が、死傷者の捜索に戻った際にも、国軍によって射殺された。ディペイン地区6000人の村人が緊急避難したが、国軍は村を略奪したうえに、避難民も追跡して発砲してきたという。
クーデタとコロナの二重苦でかつてない危機にあるミャンマーであるが、ひとつだけ明確なのは、ミャンマー国民は国軍に決して屈服しないということである。国民の不倶戴天の敵となった国軍に未来はない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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