ウクライナ問題 ナショナリズムのバカバカしさ(前編)
- 2022年 3月 28日
- 評論・紹介・意見
- ウクライナナショナリズム柏木 勉
■ 日本社会のボロボロ劣化が露呈した
現在、日本のほとんどのマスコミ、政府・自治体、政党、国民の大多数が「ウクライナがんばれ、ウクライナかわいそう、ロシア憎し」で一色に染まっている。何か大きなことがおこると思考停止。一億総ざんげならぬ一億脳機能停止だ。みんな一緒に流されて声をそろえて大合唱という日本独特の集団主義。マスコミは戦前の日本の大本営発表よろしく、ウクライナ当局や軍部、西側のニュースや動画を大々的に流し、ほとんどヒステリー状態に。
TVの画面には「ウクライナ最新情報」とテロップをいれている。オリ・パラでの日本選手の活躍最新情報のごとく「さあ、おまちかね、刻一刻戦況をお伝えします」といった調子だ。「ウクライナ=一方的に善」、「ロシア=一方的に悪」という短絡的構図を国民に浸透させる。「情報戦に注意」といいながら自らがプロパガンダを行い、戦争を煽っている。いわく「市民が火炎瓶をつくり、銃を持って立ち上がる。素晴らしい」。「もっとやれ、もっとやれ」といわんばかりの無責任な空気を煽る。死んでいく人間がさらに増えることなど意にかいさないのか。兵士はもちろん市民、子供がもっと死ぬのだ。
マスコミが流すニュースのアナウンスは、急激に感情的、扇情的な言い回しになっている。
物事を短絡させ単純化すると頭の中は楽になる。楽になるからドンドン単純化がすすむ。皆に同調すれば楽になり「みんなそう言ってるよ、他局も同じ報道だよ」といえばいい。まさに日本的無責任体制へ。
一般に、ある事柄とある事柄の間にはいくつかの要素や時間的な経緯(媒介)が存在する。それを無視して飛躍・短絡させて結合すると、一見もっともらしいわかりやすい疑似的倫理を生み出せる。今の日本はまさにその状態だ。なんでもかんでも何か公的ともいえるイベント・催しをおこなうと、冒頭挨拶でウクライナの件を枕詞にしないとおさまらない。そんな空気になっている。そうなると、本心とは関係のないただの儀式、強いられた虚偽の倫理に堕していく。
■ナショナリズムによる「ウクライナ」対「ロシア」の構図を打破せよ
ロシア軍のこれほどの大規模侵攻は許されない。それが大前提だ。しかし、ウクライナ政府とそれを支えるウクライナの腐敗・堕落したオリガルヒ、そしてネオナチのことなど一切無視され、ウクライナが抱えた大きな問題など存在しないかのごとく、「ウクライナ」対「ロシア」の構図に単純化される。だが、それが各国支配層の狙いであり、ナショナリズムの機能なのだ。事実は、同じ国でも同じ民族でも、その中に支配層と被支配層が存在する。それを観念的に隠蔽するのがナショナリズムだ。いわゆる「友愛=同胞」の機能だ。戦争が始まるとこの機能が極大化される。極大化してどうなるか? 現在の支配層にとっては、その支配が隠蔽されるからきわめて都合がいい。民族独立闘争を例にすれば、独立戦争に勝利し、めでたく独立国が生まれても、その中に支配層と被支配層が生まれるのだ。だが、ナショナリズムのもとで新たな支配層の支配は隠蔽される。世界各国ずーっと見回しても例外はない。
■マスコミの無知と視野狭窄
ウクライナの政権は、親ロシア派であろうが親米派であろうが、いずれも腐敗した支配層オリガルヒの代表かあるいは癒着した存在だった。これが大問題だったのだ。ところで、そのオリガルヒに関して情けないものをみてしまった。TVは毎日毎日ウクライナをとりあげている。にもかかわらず、それら番組キャスターは、ウクライナのオリガルヒの存在すら知らないようだ。元駐ウクライナ日本大使がオリガルヒに触れたとき、「え?ウクライナにもオリガルヒがいるんですか?」と声をあげた。情けない。ゼレンスキーは腐敗堕落したオリガルヒの一掃と東部ドンバス問題の解決をかかげ選挙で勝ったのだ(だが、東部ドンバス地方は選挙から排除。だからその正当性には大きな疑問符がついている)。
毎日毎日ウクライナをとりあげているならば、そんなことは常識になっているはず。だが、「ロシア憎し」で頭が硬直化し、視野狭窄でロシアのオリガルヒしか頭にない(当選後のゼレンスキーについて云えば、何の成果もあげられず、むしろ東部親ロシア派への攻勢を強めただけ。支持率は20%に低下していたのだが)。
■大嘘とショックドクトリンに警戒せよ、また人間の世界を政治のみで切るな
かって、湾岸戦争開始時の少女の涙による猿芝居、イラクの大量破壊兵器保有という大嘘で、米国政府にまんまとだまされ、戦争支持にまわってしまった。その経験はどこへいったのか。そんなことなど、どこかへふっとんでしまっている。正義の味方のような大騒ぎはやめよ。
また、この大騒ぎの思考停止状態を利用して、ショックドクトリンにより、憲法改悪勢力が一挙に平和憲法廃棄、自衛隊を日本国軍へ、軍備大幅増強、核共有へと動き出した。
くわえてエネルギー安全保障を声高にとなえ、原発再稼働を大声であおっている。ロシアの原発制圧で「原発の存在自体が危険」ということが明瞭になった。だがそれに対しては沈黙し、エネルギー確保、電力供給確保のみを強調して再稼働拡大を狙っている。これらの危険な動きを抑止しなければならない。
もう少し言っておきたいことがある。
スポーツ界(アスリートも)は政治的発言をやめよ。また発言を強要するな(強要の圧力は強い)。発言したければ、ただの一個人・一市民として発言せよ。政治とスポーツは明確に分離せよ。オリ・パラ等々での国旗の掲揚や国歌をながすのは廃止せよ(国威発揚?政治そのもの。やめてしまうべき)
芸術家、芸能人は政治的発言をやめよ。また発言を強要するな(強要の圧力は強い)。強要して芸術家、芸能人としての仕事を奪うなどとんでもない。発言したければ、芸術家、芸能人としてではなく、ただの一個人・一市民として発言せよ。芸術・芸能の本質は虚構の世界を表現することにある。現実に働きかけたいなら、政治家や政治的・社会的活動家になればいい。
学者・研究者と称する者も劣化している。政治学者が自らの専門分野と関係なく、何の知識もないのに軍事行動・軍事作戦、兵器を解説したつもりで得々としゃべっている。当然素人でもわかることをしゃべっているだけ。学者としての良識を失っている。
大騒ぎの底流にある差別意識―――命の重さに違いがある
しかし、なぜウクライナ問題でこれだけ大騒ぎするのだろうか?
人種差別意識が働いていることは確かだろう。そこからダブルスタンダードが生じてくる。
シリア内戦で無差別爆撃が行われ大量の死者が出ていたとき(死者累計50万人)、大量難民が大問題になったとき、日本政府・日本国民は今回ほどの大騒ぎをしたのか?米国の攻撃ではじまったイラク内戦では?アフガニスタンでは?イエメンその他等々では?ミャンマーでの市民虐殺は? 時々報道されるがそれだけだった。命の重さに違いがあるのだ。
その理由は何か?明らかにヨーロッパ人(ウクライナがヨーロッパなのか問題だが)と中近東やアジアの人々に対する差別意識にある。欧米コンプレックスだ。この差別意識とコンプレックスがあるから一方では大騒ぎするが、他方はほとんど無視するのだ。
そして、この人種差別意識は当事者のウクライナ人にも欧州人にも存在する。
CBSニュースの外国特派員は、ウクライナからのリポートにおいて「失礼ながら、ここウクライナは、イラクやアフガニスタンのように何十年も紛争が続いている場所とは違います。比較的文明化し、ヨーロッパ的な都市で、今回のようなことが起こるとは予想もできないような場所です」と述べた。その後、謝罪した。またBBCのインタビューで、ウクライナの元次長検事であるデヴィッド・サクヴァレリゼ氏は、ロシアの攻撃によって「青い目とブロンドヘアーのヨーロッパ人が殺されているのを見ると、非常に感情的になる」と発言した。 インタビューしたBBCの司会者は、この発言に異議を唱えなかった。
(以上はYahooNews 3/3(木) 16:11配信より
https://news.yahoo.co.jp/articles/2714d33f865f63f5e6a334fc113ceb6c4ff229b7
米紙「ワシントン・ポスト」も書いている。「ヨーロッパは避難してくるウクライナ人に門戸を開いた」だが、EUの数か国ではシリア難民の入国拒否と大きな反難民・移民運動がおこった。
この急変を臆面もなく語るEU首脳たちもいる。『「ブルガリアのキリル・ペトコフ首相は今週、ウクライナ人についてこう語った。「これらの人々は、私たちが見てきた難民とは違います。彼らはヨーロッパ人なのです。知的で教養のある人々です。これは私たちが直面してきた難民の波とは違う。素性も過去もわからない、テロリストかもしれない人たちとは違うのです」』
日本でも同じだ。3月13日にウクライナ問題についてのあるシンポジウムがあった。そこで元日本共産党の幹部だった人物が「文明の中心であるヨーロッパでこんな事がおこるとは」とレジュメに書き、発言もした。さっそく人種差別との批判が出た。
■即時停戦せよ、日本政府は仲介にのりだせ
ここで小生の考えをとりあえず述べれば、ロシア軍の侵攻はけしからん。それがまず大前提だ。だが、戦争というものは、各国の政治的・経済的支配層が、支配下にある一般民衆を動員し互いに闘わせるものだ。従って、ウクライナ対ロシアではなく、(日本対中国等々でもなく)ウクライナの民衆とロシアの民衆が一体となって、腐敗堕落したウクライナの支配層と殺し屋・強権政治のプーチン支配を双方とも打倒する。それがまともな基本スタンスになる。
しかし、それができれば苦労はない。世界革命も可能ということになる。現状においては遺憾ながら将来の夢・願望にとどまっている。一国単位のナショナリズムで国民国家として形成されている枠組みは、容易には崩れない。だからナショナリズムをいかに無化するか、それが依然として最も重要な課題であり、徹底して追及していくことが求められる。だが同時に、現に国民国家が世界を形成している現状を前提にして、それに即した行動が不可欠である。
この観点からは、ともかく人の命が最優先だ。したがってロシア、ウクライナ双方が即時停戦すべきだ。そのため、日本政府が即時停戦に向け仲介にのりだすことを要求する。これ以上の甚大な命が失われることを防ぐこと、それが最も優先されるべきだ。日本政府は米国をはじめとしたNATOのウクライナへの軍事支援拡大に反対し、西側との協調のみに偏向することなく、平和憲法を前面に出した独自の主張をおこなうべきだ。即時停戦を支持する国はおおいはずだ。それら国々との連帯と協調を追及し、それをバックに仲介にのりだすべきだ。「他人事ではない」というのなら、なおのこと仲介が求められる。
■国民国家など命をかけて守るに値しない
また、同じウクライナの中でも同じロシアのなかでも、諸々の人間がおり異なった考えがある。それを無視した「ウクライナ対ロシア」、「ウクライナ人対ロシア人」という構図を打破しなくてはならない。そのためにロシア、ウクライナ双方はもちろん日本を含めた各国民衆の大きな反戦の声をつくらねばならない。ゼレンスキーは世界中でウクライナ支持=自らの政権支持の世界的集会を呼びかけているが、全く逆だ。プーチン政権とゼレンスキー政権の戦争継続、NATOが狙う長期戦に反対し、即時停戦の世界的反戦の声をあげるべきだ。「国を守る崇高な使命をはたそう」、「命をかけてウクライナをまもろう」「ロシア、聖なる我らの国」 といった昔ながらのナショナリズムに踊らされるべきではない。日本の防衛論議も同じだ。国民国家などはたかだか200年ちょっとの歴史しかない。ごく最近できたものでしかないのだ。命をかけるに値するものではない。それは将来的に消滅していくものでしかないのだ。
(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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