リハビリ日記Ⅴ 55 56
- 2024年 9月 24日
- カルチャー
- 円地文子平林たい子日記阿部浪子
55 平林たい子の独立独歩
リハビリ教室の送迎車が小道を行く。この辺りは、幼少時代は一面田んぼだった。今は変貌して小ぢんまりした家、家が並んでいる。ある家の庭に咲いた、白いアオイの花。さわやかだ。子どもたちは田んぼに下りて学校の工作用のねんどを掘りあてたものだ。夢中だった。掘りあてたときの喜びは大きかった。監督の大人はいない。子どもたちだけ。ふり返ればとても大胆であったと思う。
線状降水帯の発生で連日の雨降り。気持ちはふさぎ疲れていた。週1回の「健康広場佐鳴台南」のトレーニングは待ちどおしい。
レッドコード運動はたのしい。力がこもる。指導する先生によって生徒の手応えは異なる。メリハリのない誘導では生徒は気乗りしない。先生の誘導にしたがって声とリズムに乗ると力がこもり、からだもほぐれてくる。手と脚がのびやかになる。天井から下がったコードを両手でにぎる。椅子にかけた上半身を左右に動かす。ふと気づく。マヒのある右脚を高く上げてみようと。歩行するときそれだけ脚が上がるはずだ。
発病する前、ヨガを13年も習っていた。下村友二先生の指導はメリハリがあった。
「健康広場」の先生の指導も効果的だ。1人の生徒がたずねた。〈先生、この体操はどんな効果があるの〉と。質問はだいじだ。漫然と運動するよりも意識を集中するほうが、向上につながるのではないか。
*
平林たい子に直接会ったことはない。たい子に会いたかった。大学1年のとき東京沼袋に住んでいた。近くにたい子の家はあった。家の前までは歩いた。のちに知ったことだが、門札の文字はたい子の甥が書いたものだという。田舎から上京したわたしは、都会に慣れることで精一杯だった。作家に会うなぞ思いもよらなかった。
たい子は、諏訪高女を卒業後すぐに単身で上京している。その翌々月、鷹野つぎの家に居候した。このことは拙著『平林たい子―花に実を』(武蔵野書房)のなかに書いた。つぎの娘の証言をえている。拙著刊行後、つぎの妹の夫の証言もえた。さらに、たい子自身が取材に応じてその事実を認めたと、大学教官から聞いた。たい子はどこにも書いてはいない。しかし忘れてはいなかった。たい子にとって辛くて哀しい思い出だったのかもしれない。
つぎも「青鞜」の影響をうけた1人だ。「女子文壇」への投稿詩や短歌を読むとわかる。おかたい校風の浜松高女を卒業したつぎの飛躍的な情熱が伝わってくる。
つぎの夫にとって、たい子は同県人にすぎない。
藤枝静男が鷹野家の間取りをわたしに訊いてきた。子どもたちもいる。ゆとりのある住宅事情ではなかったはず。15歳年長のつぎは、家出娘によりそう心のふかい人だったのだろう。
鷹野家を出てから、たい子は初めてのパートナーとともに満州に渡っている。その男性がわたしの取材に応えた。〈あんたもこっちばかりたよらず実家をたよりにしろよ〉かれの兄がたい子に説教したそうな。たい子は両親の援助をうけていない。独立独歩をめざした。いや、そう余儀なくされていたのかもしれない。前途は多難であった。
たい子は心中、作家デビュウの夢を秘めていた。
56 平林たい子と円地文子の友情
〈それじゃ、民生委員のしてくれることって。なんなの?〉わたしは大声で叫んでいた。彼女は〈買い物〉とこたえた。
〈いたましいことです〉彼女は帰っていった。情けないことだ。
2度目の訪問だった。わが脚の具合が悪い。郵便局についていってほしいと頼んだのだ。だめだという。〈困ったことはご相談ください〉と、民生委員は言った。わたしは脚の具合を1回目の訪問のさい、説明している。郵便局の口座に入金しなければいけないことも。
1人の人間をみすてていいのか。知人たちにたずねてみた。〈よろしくない〉誰も自分のこととして考えたようだ。
民生委員さま、あなたも人間です。ルール、制約から外れるのが怖いのですか。
最近ラジオで、民生委員の定員われを報じていた。厚労省はなり手の要件を緩和する方向だという。それも結構だ。その課題といっしょにわたしたち市民の要望も聴いてほしい。
*
わが取材ノートを読みかえしていたら、こんな一文が目に飛びこんできた。
〈他人とのかかわりについて、平林さんは充分に示唆しえていない。作品を可能にしたのは、たい子の才能。精進。なみなみならぬ、文学への愛情です〉
出版社の編集者と雑談していたときのかれのコメントだ。芸術にあっても実生活にあっても〈他人とのかかわり〉はだいじだ。これは重要な指摘である。
円地文子はたい子と同い年だ。文子は「たい子の才能に惚れこんだのだ」という。2人は23歳のころからの交際。「女人藝術」をとおして親しくなった。たい子は「文藝戦線」に「施療室にて」を発表していた。
さきの伊藤野枝・八木秋子よりは10歳年少だ。
たい子は自称「病気の問屋」という。文子はたい子の闘病を世話し、死なせたくない一念で金策にも走っている。
2人は49歳。2か月の海外旅行から帰てきた。
たい子はさっそく「旅は友情の墓場か―二人旅のわずらわしさ」と題するエッセイを「文藝春秋」に発表した。旅行中のささやかな感情のゆきちがいから、文子の金銭感覚にまでおよんだ。文子は腹にすえかねる。ふいに、後ろからばっさりけさがけにしてきたのだから。しかし女のけんかは、たい子の謝罪で落着した。絶交には至らなかった。たい子は文子を喫茶店に誘って、つまらないこと書いてごめんなさい、と詫びたそうな。
たい子の、ふいに他人をばっさり切る。このやりかたは、たい子の初の男性でアナーキストとよく似ている。かれは自分のことを悪く書かれたといって、わたしに怒った。自分の雑誌でわたしをぶんなぐってきた。見苦しい。甘えないでほしい。批判を書いて何がいけないのか。かれは女性蔑視の人なのであろう。
この1件は、たい子の文子へのコンプレックスであったかもしれない。たい子は自らを鍛えていない。文子が怒るのは当然である。文子は言う。「個性の強さではあの人が抜群。女傑よ。ふだんは親切でやさしいのに」と。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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