アジサイの季節になって―長めの論評(十七)
- 2010年 6月 29日
- 評論・紹介・意見
- ナショナリズム三上治安保日米同盟
僕は最初の方で安保改定のころには日米同盟という言葉はなかったと述べた。
安保条約は1951年の旧条約も新条約も国際的に、また日米関係的に明瞭な根拠のないものであり、政治情勢的判断でアメリカ軍の駐留を認めてものに過ぎない。伊達判決が明快に示したように、現在の憲法が自衛権を認めるものであれ米軍の駐留は憲法違反である。国家法的な根拠はない。この米軍の軍事行動に自衛隊を参加させ、安保条約を軍事同盟として機能させることへの警戒が日米同盟という言葉への警戒にもなっていた。現在では事態は変わらないのに日米同盟という言葉が流通するようになっている。日米の友好関係から軍事同盟まで含むこの言葉がひとり歩きするように使われることを疑った方がよい。
最近の日米同盟論はかつて岸が安保改定でやろうとした米軍の軍事行動への自衛隊の参加になりつつある。岸派の流れにある小泉―安倍あたりから強まってきたものといえる。戦後の保守派の中での吉田茂のラインは岸の考えに距離を取り、アメリカとの軍事同盟的関係を警戒していたが、こちらの基盤は民主党も含めて弱まっている。これは政治家だけでなく国民に戦争体験世代が少なくなり、戦後の日本国民のナショナルな戦争についての意識と感情の表出が拡散しているからだと思う。沖縄は違うといえるのだが、そうした状況があるのだ。日米同盟は結局のところ日本がアメリカの戦争(外交―軍事)を世界の安全保障として追随し、海外派兵を常態化して共同行動を深めるだけだ。これを支えているのは政治情勢論的判断であるが、これはより曖昧で空虚になっている。鳩山首相の「日米関係見直し構想」の一環としての普天間基地移設問題の処理の顛末はそれを物語る。戦争の歴史と現在についての深い見識が政治家から消えているのではないか。民主党の外交―安全保障政策の曖昧さここに由来する。
1960年の安保闘争で表現された戦後の日本のナショナルな戦争についての意識と感情は拡散されながら続いている。これは世界的に孤立しつつ存在するほかない現状があり、国家(ナショナリズム)がそれに覆いかぶさっているからだ。日米同盟は現在の日本のナショナリズムである。これがナショナルな意識や感情と乖離した空疎なものであることはっきりしている。1960年安保闘争はそれを1970年代前まで引き延ばして見ても時間的な記憶にあるものに過ぎないが、今、沖縄で現れている空間的なものと関連づけられると思えた。結果はともかく、相渡らせる試みをしてみたかった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion044:100629〕
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