南北朝鮮の「和解と協力」は北朝鮮を変えるか? -平壌の「戦勝60周年記念事業」と開城工業団地入住企業の取材で分かったこと-
- 2013年 8月 28日
- 時代をみる
- 北朝鮮森 善宣
はじめに
真っ青な空に6色の煙を棚引かせて飛ぶ6機の航空機の勇壮な編隊飛行。その下を巨大なミサイルを載せて行進する移動式発射台の列。見守る人々の歓声と合わさり、パレードの雰囲気を否が応にも盛り上げる軍楽隊の奏でる「パルコルム(足取り)」のマーチ。そして、雛壇から身を乗り出して観衆の万歳の声に応える若き最高指導者の凛々しい姿・・・・・。
ここは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌にある金日成広場である。韓国・北朝鮮を研究対象とする筆者は、例年おこなう北朝鮮踏査の一環として去る7月25~30日に、福岡県日朝友好協会訪朝団の顧問格で「戦勝60周年記念事業」に世界中から招待された数千人の人々と共に参席し、事業のメイン・イベントとなる軍事パレードに臨んだのであった。
日本でも報道されたとおり、本年は朝鮮戦争停戦協定締結から60周年に当たり、北朝鮮では停戦協定を締結した7月27日を前後して、大々的な記念行事を相次いで挙行した。また、この記念行事に先立ち、東アジア学会では筆者を総括責任者として、科学研究費補助金助成事業として「朝鮮戦争停戦60周年記念事業:福岡~佐賀~長崎 三都連続北朝鮮問題講演会」を7月19~21日に開催した。そして、北朝鮮から帰国後の8月9日に筆者はソウルへ飛び、同月10日と12日に開城工業団地(以下、開城工団)入住企業2社の担当者にインタヴュー取材を行い、いくつかの驚くべき証言を聴くことができたのである。
本稿では、7月から8月まで南北朝鮮で見聞きした実体験を紹介ながら、朝鮮半島情勢の持つ本質的に統制不可能な性格を示すと共に、それを解消して半島に平和と安定をもたらすには、何よりも日朝国交正常化こそ急務である点を解く。以下、本稿では敬称を全て省略すると共に、諸事情から発言元が明かせない方々を匿名とすることを予めお断りしておく。
1. 北朝鮮で「個人崇拝」を行うカラクリを実体験する
まず、本年の平壌訪問で実体験できた貴重な心理劇を紹介しよう。それは、数ある記念事業のイベントが、みな一様に独裁者に対する「個人崇拝」を作り出し、それを継続させるよう仕立てるカラクリである。このカラクリを実体験しながら筆者は、金日成に始まる個人独裁が「三大世襲」へと繋がる情緒的な連続性を理解できた。
北朝鮮で現在の最高指導者とされる金正恩の祖父である金日成は、そもそも朝鮮植民地統治中に満州で抗日ゲリラ闘争を展開後、日本軍のゲリラ討伐を避けるために旧ソ連領へ入り、日本の敗戦後に旧ソ連赤軍の中尉として北朝鮮へ戻った人物であった。当然ながら彼には政治指導者としての能力も資質もなかったが、進駐したソ連軍の支援を受けて平壌で政治舞台に登場、台頭した経緯から分かるように、当時の北朝鮮でソ連の現地政策執行者として民衆の統合と動員を図るよう政治宣伝を通じて作り出された「民族の英雄」なのだった。
金日成を称賛するプロパガンダは、このように彼の内実とは無関係に進められたにも関わらず、その当人が最高指導者とされた時、自分に朝鮮統一の責任があると感じたところから朝鮮半島の新たな悲劇は始まったと言える。つまり、スターリンと毛沢東の同意の下、金日成は政府首班として自らの統制の及ぶ朝鮮人民軍をして1950年6月25日に韓国(大韓民国)へ全面侵攻させて、自分が名実ともに統一朝鮮の最高指導者とならんとした。
しかし、金日成の楽観的な展望とは異なり、米軍が即座に戦争へ介入、同年9月15日に仁川上陸作戦を成功させると朝鮮人民軍は総崩れとなって退却、同年10月の中国人民志願軍の参戦によって辛うじて北朝鮮指導部は命脈を繋いだのであった。戦争が米中対決へと移行し、中朝連合司令部の下にスターリン~毛沢東~彭徳懐と戦争指導が行われるようになると事実上、金日成は朝鮮人民軍最高司令官たる軍事指導権も喪失してしまった。
そこで彼が始めたのが、朝鮮労働党(以下、党)内の同僚幹部たちに対する血の粛清であった。戦局が北緯38度線を境に一進一退の状況に陥るや、1951年7月から開城で停戦談判が開始されるに至ると、金日成は自己の敗戦責任を問われる立場を自覚せざるを得なかったであろう。彼が最初に粛清の対象としたのは当時、副首相兼外相だった朴憲永であった。
だが、金日成その人が毛沢東に「朴憲永に反逆罪の証拠があるものの充分ではない」と述べたように(「毛主席とソ連共産党中央委員会代表団との間の対話記録」1956年9月18日、中国共産党中央委員会档案館、未公開記録)、処罰する確定的な罪状はなかった。この冤罪と言うべき政治裁判を通じた処刑を正当化するために、金日成とその取り巻きたちの進めたのが金日成その人に対する個人崇拝であり、神格化の作業なのであった。
北朝鮮内での個人崇拝の拡散と深化を通じ、党内の政敵に対する証拠不十分な処刑を正当化するだけでなく、自らの執権継続にも異議を差し挟めないようにすること、これこそが個人独裁の樹立と合わせて進められた北朝鮮の政治システム構築過程であると同時に、その動態なのであった。このシステムは、ひとたび確立されると金日成から実子の金正日を経て孫の金正恩へも継承されて、いわば「家族独裁」とも言うべき北朝鮮に独特な形態へ変容したが、筆者は北朝鮮住民がなぜ「家族独裁」を受け入れたのか、今ひとつ疑問であった。
周知のように金日成から権力を世襲した金正日の時代、核・ミサイル開発に熱を入れる余り、多数の北朝鮮住民が餓死したと後述する春田周香など少なからぬ脱北者が証言したように、体制に対する不平不満は高かったであろう。また、確かに北朝鮮では「主体思想」という奇天烈な国家イデオロギーを幼児期から住民に刷り込んではいるものの、背に腹は代えられぬはずで、どうして無能な政治指導者が世襲を繰り返せたのであろうか?
今回の訪朝では、この疑問に回答が与えられた。筆者をはじめ多数の外国人参加者は、7月27日午前中の早い時間帯に金日成広場に集められ、厳重な身体チェックを通過した後、広場に設けられた観客席に誘導された。そこは、ちょうど北朝鮮の最高指導部が陣取る雛壇のほぼ真下に当たる位置で、我々は炎天下の下に軍事パレード開始まで1時間以上そこで待った。そして、2時間も続いた勇壮な心躍るパレードの最後に、我々は雛壇に現れた金正恩の姿を肉眼で直接かつ明瞭に見て取ったのである。
全く以て恥ずかしい話であるが、高揚した雰囲気の中で拍手の渦と歓呼の声を受けて、筆者は我知らず、手を振る金正恩に手を振り返していた。周りにいた多くの外国人たちも、同様に拍手したり手を振ったり、なかには「ブラボー!」とか「ハラショー!」とか叫んでいる者もいた。このように群集心理を利用した情緒的な誘導は、たとえ個人崇拝の第一歩だとしても、それが間違いなく個人の心情的な同調や共感を呼び起こしたのである。
これまで北朝鮮は、通常いう「警察国家」として住民をスターリン式の恐怖政治の中に支配し、政治的な反体制勢力を厳しく取り締まることで延命してきたと思われてきた。部分的にこの観察が正しいのは事実だが、それだけでは決してなかったのである。平壌から北京へ戻った7月30日、北京大学にいる共同研究者の金東吉にこの話を電話で伝えると、彼は笑いながら「そりゃダメだよ。そんなことでは、何度か群衆集会に出れば、しまいには『金正恩大元帥万歳!』と叫ぶだろうよ」と指摘してくれた。
2. 南北朝鮮が「和解と協力」を行うしかないカラクリを理解する
このような体験をしていた同時期に、南北朝鮮では経済協力の象徴と言える開城工団の再開をめぐり、微妙な駆け引きを繰り広げていた。既に筆者が訪朝する前、前述の東アジア学会が主催した「福岡~佐賀~長崎 北朝鮮問題連続講演会」では、この問題に関して次のような主張が講演者たちからなされていた。講演会に招聘したのは、元韓国政府統一部長官の李鍾奭、北京大学の金東吉、そして在日脱北者の春田周香であった。
まず李鍾奭は、韓国政府として取るべき措置が開城工団の閉鎖を二度と起こさないよう北朝鮮に確約させることだと述べながら、そのような措置は万一とられたとしても保障できないものだという点を認めた。なぜならば、どのような北朝鮮の確約も、それを守る彼らの姿勢が信頼できない以上、机上の保障に過ぎないからである。韓国政府の高官として北朝鮮と困難な交渉に当たった当事者ならではの極めて含蓄に富んだ主張であった。
次に講演会で金東吉は、中国政府の朝鮮政策を論じ、中国が米国との「新しい超大国関係」を宣言することにより北朝鮮に応分の責任を負う一方、北朝鮮の崩壊を望まないところから6者会談を通じて核・ミサイル開発問題に曖昧な解決を求めるだけだと主張した。つまり、中国は朝鮮分断の状態に現状維持政策で臨み、6者協議の再開により北朝鮮のみならず日本・韓国・台湾における核・ミサイル開発の拡散を抑制しながら、協議参加国の日米露と南北朝鮮を自らが議長国として一定の統制下に置けるのだという。
この点については訪朝時、党国際部長の金永日が訪朝した参議院議員アントニオ・猪木や我が訪朝団長はじめ4名と7月28日に会見した席で、軍事と経済を同時に進展させる「並進路線」と呼ばれる現在の党路線に強い自信を示したという。今回の訪朝時、我々を世話してくれた党傘下の外郭団体たる朝日友好親善協会の「案内員同志」の説明によれば、この路線は本年3月に党中央委員会全員会議で採択されたもので、一方では核・ミサイル開発を続け、他方でその開発で培われた科学技術を経済分野に転用しつつ、核武装で無用となった通常兵器に費やす軍事費を経済分野へ充当、軍事と経済の同時発展を図るのだという。
したがって、米国が6者協議の再開に先立ち、北朝鮮による「非核化」の具体的な証拠提示を求めているにも関わらず、北朝鮮としては「並進路線」を堅持して、米国との政治対話を目指す外交政策を展開していくであろう。そして、この路線を中国が支持し、北朝鮮と6者協議の再開推進で歩調を揃えたからこそ、あの「戦勝60周年記念事業」に際して中国副主席の李源潮が訪朝し、金正恩と一緒に軍事パレードの雛壇から観客に手を振ったのだ。
以上の事実から明確なように、米中が北朝鮮を間に置いて綱引きをする限り、南北朝鮮がどれほど「民族同士」で統一を図ろうと努力しても、到底それが叶わないことは明確である。米国にしても中国にしても、そして日本もロシアも、表立っては朝鮮統一に反対したことは一度もないし、むしろ「民族同士」で統一を図るよう繰り返して主張してきた。しかも米国と中国にあっては先のオバマと習近平の首脳会談で北朝鮮問題を詳細に協議し、また中国と韓国の間では習近平と朴槿惠が北朝鮮政策で合意したことから分かるとおり、この現状維持を前提とした朝鮮政策は、南北朝鮮と両国を支える米中の間で確認され合っている。
確かに習近平体制は、重慶市共産党委員長だった薄熙来とその妻の裁判で指摘されたように、出帆後1年間は様子見の政権運営を行っており、経済成長の鈍化やシャドウ・マーケットの処遇などで国内問題に主要な重点を置いている。革命か開放か、あるいは革命も開放も、と言われる路線の選択からして、依然として中国が内政で決然たる方針を示したとは言い難いが、こと外交になると問題の取り扱いは明白である。
特に朝鮮政策にあって中国は、北朝鮮を生かさず殺さずの現状維持で止め置き、可能ならば北朝鮮と韓国および米日との関係改善を進めて、半島をめぐる緊張を緩和していくことにより、北朝鮮に中国式の開放と改革を導く環境を作っていこうとしている。それは、日本では余り報道されないが、北朝鮮の東北部にある羅津・先鋒の経済特区で既に実践中である。
こうして見ると、南北朝鮮が統一することは当面ないし、両体制は争い合いながらも仲良く朝鮮半島を南北半分ずつ統治し続ける分断状態のままでいることになる。これが故金大中・韓国大統領時代に始まった「和解と協力」が復活する外ない国際環境的なカラクリであり、もしも半島が冷戦時代の対決状態へ逆戻りしかければ、それを周辺諸国が阻止する理由である。換言すれば、60年も経った現在、周辺諸国のどの一国も朝鮮戦争の再発を望んでいないと同時に、表面的な言辞とは裏腹に現状の変更、すなわち朝鮮統一も願っていない。南北朝鮮に残された道は、自ずと「和解と協力」しかないし、この先どれほど遠く長いとしても、北朝鮮が崩壊でもしない限り、民族分断のまま各体制が自国を経営していくしかない。
3. 開城工業団地が再開される展望を得る
この確信を得て筆者は、平壌から帰国後ほどなくソウルへ飛び、開城工団入住企業2社にインタヴュー取材を試みた。取材に応じてくれたのは、電気機械工業の中堅であるSJ-Tech、およびアパレル中堅会社の信元であった。この取材が可能となったのは、ひとえに現代峨山本社にいる知人のお蔭であり、この場を借りて彼に深い感謝の意を表したい。
開城工団が閉鎖される経緯に関しては日本でも広く報道されたので、ここでは省略するが、韓国のマスコミが一様に是認したとおり、再開に向かう南北実務会談が難航したのは、ひとえに彼ら両方の「自尊心」ゆえであった。実務会談代表の「格」をめぐる綱引きに始まった7次にも及ぶ会談において、誰が閉鎖の責任を負うかで最後は争ったのである。結果として、南北朝鮮双方が「開城工団中断状態が再発しないように」することで問題をウヤムヤにして合意した(電子版『ハンギョレ』2013年8月17日付)。
この第7次南北実務会談を数日後に控えた8月10日、筆者はSJ-Tech会長で「開城工業団地入住企業協議会副会長」の劉昌根に、その本社でインタヴュー取材を行った。彼は、現代峨山本社の知人を通じて本人が提出した質問書に丁寧な回答を準備していて、取材にも証拠資料を示しながら極めて明確かつ詳細に回答してくれた。
ここでは、彼の回答の中で筆者が特記したい点を簡単に紹介しよう。それは、前述の講演会での李鍾奭の主張、すなわち開城工団閉鎖の再発防止措置に対する保障問題についてである。劉会長は、筆者が北朝鮮に再発防止措置を取らせるにしろ、それをどのように保障するのか、という質問に次のように答えた。「再発防止措置といって、それは信頼です。我々は相手を信頼することで、このような事態が再び起こることを防ぐことも出来ます。」
彼は「政治が作り出した開城工団に経済の論理で臨むのには限界がある」ことを認めつつ、一方で政治と経済を分離する必要と、他方では政治が経済を先導する必要という、ちょっと聞くと相矛盾するかにも思える二つの場合を適切に案配して、開城工団の運営に臨まなければならない旨を主張した。それは実際、韓国が北朝鮮を統制することは不可能であることが判明した今、開城工団入住企業として提起できる最大限の主張であろう。
もう一つのインタヴュー取材の対象である信元社長の黄優勝とは、ソウル中心部にあるコリアナ・ホテルで8月12日午後に面談した。彼は開城工団の現地に10年以上も留まって勤務した経歴の持ち主で、筆者の質問事項を事前に知らされてはいなかったが、現地の状況を詳細に説明してくれた。彼の回答の中で特筆すべき点は、次のようである。
すなわち、信元では開城工団の北朝鮮労働者たちに他社よりも充分な物質的な報酬を与えてきた。例えば、報道されたとおり、チョコパイやラーメン等といった、ちょっとした間食の配分は、労働者たちに働く刺激を与えただけでなく南が北よりも豊かで進んでいることを知らしめた。そして、自分が春夏秋冬を通じて10年来おこなった朝の挨拶運動は、労働者たちとの情緒的な紐帯を生み出した。また、労働者の姓名、職場責任者の生年月日などを記憶して、その時々に声掛けを行うと、彼らとの精神的な結び付きがより強化された。資本主義とは異なり、北朝鮮の労働者たちは労賃のためと言うよりは民族の「和解と協力」のために仕事をしているのだから、彼らを上手に働かせるのは、このような韓国側の企業が行う労働管理、生産管理に責任がある。これが出来ずに失敗した入住企業は少なくないという。
この黄社長の談話から明瞭なように、北朝鮮は経済的な目的ではなく「民族大団結」といったスローガンを強調して、開城工団に労働者を送り出している。顧みれば、北朝鮮が開城工団を閉鎖した直接的な理由も、米紙が北朝鮮の瀬戸際政策も収益を上げている開城工団にまでは及ぶまいとする報道を掲載したのに対して北朝鮮が反発したところに由来する。
そして、その再開の経緯も、現代グループ会長の玄貞恩が亡夫の鄭夢憲死去10周年に際して訪朝した時、金正恩が「口頭親書」として「鄭夢憲元会長の冥福を祈り、同時に玄貞恩会長をはじめとする鄭夢憲先生の家族と現代グループが行う全てのことがうまくいくよう願う」と伝えたところからだ。見栄を張って中断したのだから、格好つけて再開したい。
金正恩の言明は北朝鮮では絶対であるから、玄会長がソウルに戻った後、開城工団だけでなく金剛山観光の再開にも強い意欲を示したことを受けて(電子版『朝鮮日報』2013年8月5日付)、北朝鮮から両方の再開を韓国に打診するに至った。独裁体制の統制不可能な性格をよく示していて興味深いが、金東吉の指摘どおり、北朝鮮は米日との関係改善の前提として開城工団の再開を求める中韓の要求を適切に処理する機会を見計らっていたのである。
4. 日朝国交正常化なしに朝鮮半島に平和と安定なしと確信する
今や米朝、そして日朝の関係改善は、中朝の既定路線となっている。北朝鮮が再三これまで主張してきたとおり、彼らにとって問題の核心は「米帝国主義の朝鮮敵対視政策」にあり、そのために自国の防衛のため核・ミサイル開発を継続してきたのである。もちろん、前述のように朝鮮統一を果たせないまま敗戦に終わった金日成の朝鮮戦争は、米国に韓国防衛を必要なものとさせた原因だったし、韓国も長きにわたり米国の保護を必要としてきた。
この意味で北朝鮮の主張は独り勝手な内容に過ぎないけれども、それでも今後とも分断状態が続く朝鮮半島に平和と安定をもたらすには、実際この道しかないと考えて良い。けだし、平和と安定の反対が戦争と混乱であるとすれば、戦争を引き起こして問題行動を続けるのが北朝鮮だとしても、敵対関係を解消することなしに平和は訪れないし、混乱の元凶である北朝鮮を変えることなしに安定は決してもたらされないからである。
そうだとすれば、半島の現状維持のため北朝鮮の崩壊を中国が安易に許さない現状において、我々は果敢に北朝鮮と関係改善を通じた国交正常化の道に入るのが外交の上策と言うべきである。既に内閣官房参与で小泉訪朝に随行した秘書官だった飯島勲が訪朝、北朝鮮の最高指導者たちに日朝交渉の再開を打診している。これは一昨年来、日本の民主党政府で外務省が立案した朝鮮政策を伝達し、これに北朝鮮が応じるように求めたものと考えられるが、日本外務省は米国の承認なしに北朝鮮と交渉を進め、さらに国交正常化を果たすことは出来ない以上、まず北朝鮮が米国との関係改善を目指すことは必定である。とは言え、米国と日本、どちらが先に北朝鮮と修好を果たすかは、中国との国交正常化の順番が日米となったことから推測できるように、むしろ大局の促すところに従い、自然に決まってこよう。
そこで日本とすれば、北朝鮮との外交関係の樹立に当たり、やはり拉致問題の解決を主要問題としつつも、それに拘泥せずに植民地統治の清算はじめ包括的な正常化方案を策定し、一定の内容がクリアされる場合、残余の問題は正常化後に協議を継続するといった姿勢で臨むべきであろう。具体的に述べると、拉致被害者の救出は国交正常化で自由に日朝を往来できる環境の方がより実現可能性が高いだろうし、北朝鮮に生存する被曝者も正常化後に来日する方が適切な医療や処遇を受けられるであろう。
そして北朝鮮にすれば、これまで「回転ドア」と揶揄された日本の政権交代が国交正常化交渉を妨げる最大の要因であった。ところが、ここに来て2002年9月の小泉訪朝に官房副長官として同行し、拉致問題を持って総理に就いたとさえ言える安倍晋三が、衆参両院で圧倒的な勢力を持つ第二次内閣を組織、登場したのである。正に好機到来の感があるだろう。
おわりに
先の参議院選挙で圧勝した安倍政権が打ち出すアベノミクスは、今やTPPと消費増税の問題を境に失速、失敗に終わるのではないかという観測が広まっている。そこで新たに打ち出されるのが北朝鮮との国交正常化問題ではないか、と言われる所以である。一方、情報筋によると北朝鮮は、安定政権が続くうちに日本との修好を果たすという方針を固めたようである。つまり、ここ2~3年で北朝鮮は、日本との国交正常化問題に目途をつけるという。
言うまでもなく、日本にとって北朝鮮は、かつて植民地統治を行った土地であっても、現在の外交上の優先順位は低いと言って間違いない。日本国内の世論も北朝鮮に好意的とは言えず、むしろ得体の知れない怪しい国だという印象が強い。しかし、それだからこそ尚更、日本が北朝鮮と過去の清算を果たす中で国交を結び、この「ならず者国家(rouge state)」を国際秩序の中へ取り込むことが出来れば、日本の東アジア地域における威信は高まり、米中両極の世界秩序に一定の役割を果たすことが期待されるようになるであろう。
前述した劉昌根会長が強調したのは、正に「枠組みとしての東アジア」という点であった。言い換えれば、東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国という2大勢力圏に日本・韓国・台湾・モンゴルを加えた東アジアで、北朝鮮と友好親善関係を結ぶ中で地域へ包摂できるならば、他の諸国から軍事大国化を警戒される中国に代わり、日本が「平和国家」として地域の指導的な立場を占めることも可能なのである。日本は、歴史を逆手に取らなければならない。
この点について最後に、この7~8月にソウルと長崎で2回も会った延世大学校教授の文正仁が述べた言葉を紹介しておこう。彼は長崎大学核兵器廃絶研究センター主催のセミナーで、取材記者たちの質問に答える形で次のように述べた。「これまで日本は、植民地支配とアジア侵略の代価として日本国憲法、特に第9条を戴いてきた。それがあったからこそ日本は、靖国参拝や慰安婦問題が起きても、韓国や中国などアジア諸国からは『平和国家』として高く評価されてきたし、今後もされるだろう。しかし、もしも日本がそれさえも放棄するというのならば、一体なにを以て我々は日本を評価できるだろうか。」
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