柴垣経済学の射程――会社主義と自主管理社会主義との距離は?
- 2016年 1月 24日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
柴垣和夫(東大名誉教授)氏の現代資本主義論を現代史研(合澤清氏主宰)第292回研究集会ではじめて拝聴した。
私にとって着目に値する二論点がある。第一は、日本的経営・生産システム(会社主義)に関する氏の評価である。第二は、党社会主義体制の崩壊以来社会主義について語らなくなった知識人が圧倒的に多い中で、講演の最後で社会主義への展望を述べている事である。
第一の点についてここで紹介したい一冊の本がある。鍵山整充著『企業および企業人』(白桃書房 昭和52年・1977年)である。本書は日本の企業エリートのために、特に「将来の幹部候補たる若手エリート」の錬成コースの教科書として書かれた、百パーセント反左翼の書である。鍵山整充によれば、企業の社会的意義・役割は、「誰の目にも明瞭になる。・・・それは、一 人々に『働く場所』を提供し、二 人々に『収入をうる機会』を提供し、三 人々に『社会的に有用な物資・サーヴィス』を提供する、ことなのである。」(p.91) それ故に、20世紀の企業は、19世紀の個人資本家企業とは異なって、「利益第一主義」を克服し、「利益・人件費・納税額を、同時に最大にすることこそ、現代企業の目的の遂行度を示すことになるであろう。このような指標として有効であり、またしばしば使われるのが『付加価値』の概念にほかならない。」(p.101) 要するに、資本の提供者への報酬、労働の提供者への報酬、そして社会総体への義務支払を同時に遂行する原資=付加価値こそ企業経営の最高目的とする。
(以下、引用は■~■まで)
■「純利益指向の経営」の基本的考え方は、売上高-費用=利益、なのであるから、売上高を伸ばし、費用を最大限切りつめて、利益を極大化しようということにほかならない。この費用のなかには、付加価値計算にいう「外部費用」はもちろん、減価償却費も、さらに重要なことには、人件費も含まれているのである。ということは、極論すれば、ここでは、人件費は材料費と同じ平面におかれ、人間がモノとみなされ、人間は、純利益をあげるための「手段」とされることになる。「純利益指向の経営」では、従業員を酷使し、正当な賃金をも支払わず搾取し、人件費を節減すればするほど、利益は増大するという考え方にならざるをえない。かくて、純利益を極大にせんとする経営者・使用者の指向と、高賃金を求める従業員・労働者の指向は基本的に対立せざるをえなくなる。すなわち、労使の対立関係は、必至となるのである。これは、従業員をモノとしてみる考え方からしても必然的な成行きであるといってよい。(pp.112-113)
「付加価値指向の経営」、付加価値を業績指標とし、付加価値の極大化をめざす経営では、従業員はなんらかの目的のための手段ではありえない。従業員が、原材料と同じ次元のモノとして、費用としてあつかわれるということはない。純利益と同じく、従業員の高い処遇が、企業の目的であり、業績の指標なのである。従業員の高い処遇と利益が、現在および将来にわたる高い物質的生活水準を可能にするものとして同時に追求されるのである。「付加価値指向の経営」とは、企業業績の向上に参加している経営者・従業員に高い生存条件・生活条件を将来にわたっても可能とする原資(付加価値)を生みだすための経営活動、ということである。
これが、「利益指向の経営」と「付加価値指向の経営」との根本的な差異なのである。この点が、明確にとらえられなければならない。(p.114)■
一読明瞭、かかる経営指向は、旧ユーゴスラヴィアの社会主義思想に酷似している。労働者評議会なき、かつ労働集団による企業長選挙なき旧ユーゴスラヴィア企業の姿が出現している。労働者自主管理の理念型からはずれている。同時に資本主義企業の理念型からもはずれている。とはいえ、かかる思想が日本の大会社の若手エリート教育で教えられていたとは!
1997年から1998年の1年間で日本社会の自殺者数が2万余のオーダーから3万余のオーダーにジャンプし、その後10余年3万人の水準をつい最近まで続けた。同じ頃、正規職員・従業員の絶対数が下降に転じている。これは日本経済社会が深部において体質変容した事の数値的指標ではないだろうか。そんな質問をある経済政策研究会で投げかけた所、1997年から1998年にかけての山一証券や北海道拓殖銀行の消滅が指摘されると共に、当時ある財界巨頭が行ったまことに興味深い発言が紹介された。「最近株式市場が変質したのではないか。これまでは企業がリストラ策を打ち出すと株価が下落した。聖域の従業員にまで手をつけざるを得ないほど経営が悪化しているとは、と株を手放す。最近は、企業経営が悪化する前に手を打って従業員をリストラする。そんな経営者は信頼できる。株価が上昇する。」 かかる年の1998年は、鍵山整充流日本経済論の終焉の年であろう。
このような経済状況をマルクス主義的資本主義本質論の理論的実証と見るマルクス主義者も亦いるかも知れない。労働力商品化の完全復活であるからだ。柴垣氏はちがうと思われる。
第二の点、社会主義的変革の観点から柴垣氏は、日本的会社主義の到達点と限界を究明する事に大きな意味を見出している。会社主義における株式の相互持合による所有絶対主義の制限、あるいは、岩田流に言えば、一種の「歪曲された」、あるいは「不完全な」、あるいは「萌芽的な」社会的所有の生成を見ていたのかも知れない。時間がなく、質問できず残念で、あった。更に、いわゆる会社人間を労働力商品カテゴリーにくくりきれない勤労人と見ており、労働力商品化の止揚論視角からのリアルな社会主義論生成にとって、会社人間の正負の理論的分析は大いに意味ありとされるようである。
私=岩田の処女作『比較社会主義経済論』(昭和46年・1971年、日本評論社)は、1968年に執筆された。旧ユーゴスラヴィアの労働者自主管理社会主義を「労働力商品化の止揚視角」から分析した書である。1993年・平成5年にその無改訂・増補版が『現代社会主義 形成と崩壊の論理』(日本評論社)と改名されて出版されている。私は、その増補章「第3章 党社会主義の終焉」において、「人類経済という流れは、長い間、右岸と左岸を必要としつつ、全体として右流、あるいは左流していた。・・・の湖のごとく、やがて右岸よりで両岸の原理的対抗の止揚がみられるのかも知れない。」(p.251)と結んでおいた。私の結びは甘かった。
ソ連東欧型社会主義社会の自崩と日本的経営論の白旗降参の後、原型復帰した資本主義は市場原理だけで現代社会の経済生活総体を包みきれると自信過剰になった。その結果、「右岸よりで両岸の原理的対抗の止揚」ではなく、左岸の破壊に突進した。左岸は全面決潰し、人類経済は大洪水におそわれる直前にある。かくして、やがて右岸も亦決潰するだろう。余談に走ってしまったが、ここで柴垣先生に質問。日本的会社主義とユーゴスラヴィア自主管理社会主義とが時期を同じうして出現した意味は?、偶然か必然か。
平成28年1月24日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5869:160124〕
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