「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」を報告しました
- 2016年 6月 28日
- カルチャー
- 内野光子
偶然にも、沖縄に出かける日の前日、6月19日、上記の表題で、「思想史の会」にて報告する機会をいただいた。大学同期の政治思想史専攻の友人和田守さんたちにより丸山真男が亡くなった年に立ち上げられた研究会の由、今年で20年になり、この日は第70回目の研究会だという。和田さんの紹介なので、やや緊張するが、会員の大半は研究者で、企業のOBでその後大学に関係している方もいらっしゃるようだ。少々心細かったのだが、短歌という切り口で、天皇制を見てもらえればと思い、お引き受けすることにした。会場は、法政大学のボアソナードタワーの一室、参加者20人ほどであった。コメンテイターとして原武史さんが参加される由、聞いていたので、久しぶりにお目にかかれるのも楽しみだった。原さんとは、かつて立教大学の五十嵐暁郎さんたちの象徴天皇制研究会で、短期間ながらご一緒した時期があった。
私の報告では、皇太子時代に5回、即位後5回、沖縄を訪問している。こうした天皇・皇后の沖縄への思い入れは、何に拠っているのか、そこで詠まれた短歌・琉歌(合わせると30首前後になろうか)、そして、沖縄に関する「おことば」を通して検証することにした。天皇(夫妻)はどういう時期に何を目的に沖縄を訪問し、そこで詠まれた短歌や「おことば」という形でのメッセージは、現実にはどういう役割を担ったのか、についても触れた。一方、保守派に限らず、いわゆるリベラル派と称される人々からも、天皇夫妻の短歌をはじめとする様々な発言や振る舞いに、敬意と称賛の声が上がっている事実とその危うさについても指摘した。
さらに、天皇のこれらのメッセージに沖縄の歌人たちはどう応えたか、については、沖縄からの歌会始への応募・入選の状況と沖縄の歌人たちが天皇(夫妻)を詠んだ短歌を収集、その意味を探った。
次に本土の歌人たちが、沖縄を、沖縄の歌人たちの短歌をどのように受け止めたかを、渡英子、小高賢、松村正直の批判から探ってみた。また、沖縄の歌人たちは、それらをどのように受容したのか、しなかったのか、屋良健一郎、名嘉真恵美子、玉城洋子らの発言から検証してみた。
原さんからは、貞明皇后の御歌集には何種類かあって、その作歌経過がわかるものがあり、いまの天皇・皇后の短歌も、公表される前の作歌過程があるに違いないので、そのあたりが解明される必要があるのではないか、とのコメントをいただいた。
なお、もう一人の報告者、飯沼良祐さんの「明仁天皇と昭和天皇」は、元東洋経済新報社のジャーナリストらしい視点からのお話だった。『昭和天皇実録』の読み方や昭和天皇とキリスト教との関係など興味深いものがあった。質疑にあっては、天皇家の行く末について盛り上がっていた。
この日、6月19日は、那覇市では米軍属による女性暴行殺害事件抗議のための県民集会が開かれていた。翌日、沖縄へ発つことになっていたので、市ヶ谷での二次会も、早々に失礼したのだった。
詳細は、近く、発行予定の『社会文学』44号に寄稿しているので、機会があればご覧いただきたい。
初出:「内野光子のブログ」2016.06.27より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0271:160628〕
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