2017年ドイツ紀行(6) ErfurtとEisenachへの旅
- 2017年 7月 25日
- カルチャー
- 合澤 清
Erfurt(エアフルト)
例年はJenaへ行く途中Erfurtで途中下車し、行きつけの喫茶店(Kafee Land)に寄るのが常だったが、今年はGothaで思わぬ時間を食ったため、逆にHalleからEisenachへ引っ返す途中で立ち寄ることになった。
ところが、行ってみたらgeschlossen(閉店)の貼り紙がしていて、何と日曜と月曜は休みになっていた。ここの美味しいコーヒーを飲むことを毎年の楽しみにしていたわれわれとしては、まことに残念至極である。
仕方なく、エアフルトの有名なドームを横目に、市庁舎の前を通りKrämer Brücke(石橋の両側にびっしりと隙間なく小売店=土産物店が立ち並び、橋桁の上を歩いているのではなく、一般的な路地を歩いているような場所。ここの名所の一つ)を抜けて、小さな公園の噴水の脇のベンチに腰掛けて涼を取る。すぐ近くで辻演奏家が巧みにフルートを吹いていた。
当然ながら辻演奏家によって腕前にかなりな差がある。聞くに堪えない演奏を聴かされる時もあるが、うっとりとして聞き惚れる時もある。音楽学校の学生やプロが、腕試しのためか、単なるアルバイトでか、演奏している姿も良く見かける。
このフルート奏者はかなりうまい方だと思う。周辺から大きな拍手が起こる。
テューリンゲン州の州都であるエアフルトはかなり大きな、古くて美しい町である。周辺をテューリンゲンの森で囲まれているというが、残念ながら森の方へ行ったことはない。
昔は青色の染料の産地として有名だったそうだ。あのフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が頭に巻いている青色のターバン、その青色を思い浮かべてほしい。かつては同量の金と同じ値段で、あるいはそれ以上の値段で取引されていたと聞く。
その取引でひと財産を築いた商人たちの寄進で立てられたのが、あの壮大なドーム(カトリック教会)であり、現在も残る市庁舎周辺の見事な彫刻を施された建築物などであろう。
ドームの遠景 市庁舎周辺の古い建物
Eisenach(アイゼナハ)に泊まる
今回の三泊四日の小旅行の最後に予約したのがアイゼナハのホテルである。アイゼナハはかの世界遺産として知られる古城Wartburg(ヴァルトブルク)で有名である。この城は11世紀に作られたといわれている岩山の上に立つ城で、なるほど一見の価値は十分にある。
日本語読みにすれば、「Wart」も「Wald」も同じ「ヴァルト」であるが、前者は「待つ(待て)」という意味であり、後者は「森林」の意味である。この城の名前がなぜ「待て」の方になったかについては、かつてこの城を建てさせた王が岩山を見て、「待てWart、汝わが城Burgとなれ」と言ったからと伝えられている。
中世伝説のタンホイザー中の「歌合戦」の舞台(ワグナー作曲のオペラ「タンホイザー」=正確には「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」で有名)でもあり、また、マルチン・ルターが幽閉中にここで『聖書』のドイツ語訳を仕上げたことでも知られる。
また、1817年にこのヴァルトブルクにドイツ各地の大学から学生が校旗(地方の旗)を先頭に集まり、ドイツの学生運動の始まりといわれるブルシェンシャフト(Burschenschaft学生同盟)を結成したこと、その際に各地の学生が掲げた旗の色から、現在のドイツ国旗の三色が決められたといわれている。
日本のツアー旅行は、たいてい南の「ノイシュヴァンシュタイン」城の見物に訪れるようであるが、あそこは外見は確かに素晴らしく見栄えが良いのだが、中は安っぽいがらくた美術(というのは言い過ぎかもしれないが)で飾り立てられていて、幻滅するばかりである。
なぜヴァルトブルクにしないのか、不思議に思う。
アイゼナハの市庁舎
アイゼナハを含むテューリンゲン州は、かつての旧東ドイツに属していた。そのため、今でもここらの街の通りの名前には、「カール・マルクス通り」だとか「ローザ・ルクセンブルク通り」という名前が残っているのも面白い。
またこの地は、かつての東ドイツ時代には、「アイゼナハ自動車製作所」の所在地として、ここで小型車の「ヴァルトブルク」が製作されていたことでも知られる。
帰途、ミュールハウゼンMühlhausenに立ち寄る
この日は「ジャーマン・レイル・パス」は使わず、しかも月曜日だったので「ボッヘンエンデ・チケット週末のサービス券」も使えない。さて、それでは例の州をまたぐ安売りチケットはどうだろうかと、駅員に聞いて見た。これもある意味で面白い話ではあるが、テューリンゲン州は隣のヘッセン州(旧西ドイツ)とも、われわれが帰ろうとしているニーダーザクセン州(主な都市は旧西ドイツ)とも、そういう取り決めはしていないとのことであった。
勝手な深読みかもしれないが、旧東の州の間での州をまたいでのサービスの交換は、必ずしも旧西ドイツの州には及んでいないのかもしれない。
仕方なく、それでは次に安い切符を買いたいと申し出た。「REGIO12GPLUS」という切符が二人共用で40ユーロであった。途中下車も可能である。これにした。
そのままゲッティンゲンに帰っても早すぎるので、途中、何度も降りた事のあるミュールハウゼンという駅で途中下車した。ミュールハウゼンという名前は、「粉ひき小屋(家屋)」という意味であり、ドイツには数多くあるようだ。しかし、前にも詳しく書いたことがあるが、ここはかつてトマス・ミュンツアーがドイツ農民戦争の最後の砦として立てこもり、諸侯の連合軍との徹底抗戦の末捕縛、斬首されたところとして有名である。
ここには既に何度か足を運んだことがあり、街の様子もかなり知っている。駅前の「F.エンゲルス通り」をゆっくり旧市街地の方へ向かう。この街のマルクト・プラッツ(市場=広場)は、なだらかな坂道を上がり、広場の向かい側にさして大きくないブラジウス教会(Divi-Blasii-Kirche)を見る辺りにある。この教会は、かつて1707-8年に縁あって、かのJ.S.バッハがここで演奏者として働いていたので有名である。今でもバッハの曲の演奏会がひんぱんに開かれているようである。
しばらく広場中央の、清流を流している側溝前のベンチに腰掛けて涼を取り、また教会横の木陰に移動して涼む。それから少し街を散策、郷土博物館(ドイツ農民戦争記念博物館)や市庁舎、またミュンツアーを祀る教会などを眺める。今回はこれらのどこにも入らなかった。以前にしっかりと見物したことがあるからだ。
私自身の興味は、もちろんトマス・ミュンツアーと彼が指導したドイツ農民戦争にある。
彼は16世紀の初め、最初はマルチン・ルターと一緒に宗教改革に努めたが、ルターが、諸国の領主に迎えられ、それに迎合して、権力者の一角に上り詰めるのに対して、ミュンツアーはあくまで農民との共同生活(一説では共産主義的な生活)を自分の宗教活動の中心に据える。
相互間の対立は年とともに激しさを増し、ルターは彼を「アルシュテットの悪魔」と罵る。
結局、権威となったルターの回状が各地の教会に回り、彼は説教を禁止された揚句、ザクセン、ヘッセン、ブラウンシュヴァイクの諸侯の連合軍に包囲される中で敗北するのである。
F.エンゲルスは『ドイツ農民戦争』の中で、この闘いを総括し、最大の敗因は、まだ時代が「共産主義」を実現できるだけ十分に成長していなかったことにあるとした。ミュンツアーの主張は、「貧困の平等」でしかなく、闘いに参加した農民たちは、略奪品を私物化するや自分たちの故郷へと逃亡し、ミュンツアー派の結束はばらばらになってしまう。これでは大砲などの火器を備えた連合軍に勝てるわけはなかったのである。こうして彼の「空想的共産主義社会の夢」とその英雄的な闘いは潰え去った。ミュンツアーの遺骸はルターの指令で、どの教会にも葬られることなく、それ故墓もなく、焼却されたようである。
このような妄想にふけっていたら、突然のGewitterに襲われた。慌てて近くの喫茶店に逃げ込む。ミュンツアーの怨念か。 <2017.07.19記>
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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