ムンク展 (2018年10月27日から2019年1月20日まで上野の東京都美術館で開催されていた)は沢山の人でいっぱいだった。何故これほど多くの人がここに集まっているのか。私には理解できなかった。ここに集まった人々の関心はムンクの代表作と言われている「叫び」に集中していた。確かにこの絵は一時代を築いた表現主義の先駆者に彼を押し上げたという意味で、注目すべき作品である。だが、不気味で、グロテスクとも言い得る絵を見たいと何故これほど多くの人々が思うのか。そこに宣伝効果に載せられた大衆心理以上のものを探し出すことができるのだろうか。私にはそれが理解できなかったのだ。
2018年12月12日の毎日新聞の文化欄に美術評論家の高階秀爾のムンク展への批評が掲載されていた。その中で高階は、「(…)「叫び」は「不安と絶望」の表現であると同時に「孤独と憂鬱」の表れ (…)」と書いている。そう述べることも可能かもしれないが、高階はムンクの絵の示す時代精神とノルウェーの持つヨーロッパにおける辺境的空間性という重要な問題については一言も語ってはいなかった。高階の言う「不安や絶望」や「孤独と憂鬱」は個人的な問題だけを示した言葉に過ぎないのではないだろうか。
19世紀後半から20世紀後半のノルウェーというヨーロッパの北の果ての国。そこに生きたムンク。その背景を知ることなくムンクの作品を語ることは可能であろうか。イギリスの美術史家スー・プリドーは『ムンク伝』の前書きで、「ムンクは作品全体を自身の影、終わりのない進行形の告白、生理的な成長に寄り添う芸術成果にしようと目論んだ」と語り、ムンクにおいては、「絵画は人生に導かれる」(木下哲夫訳:以後プリドーの発言はこの本に基づく) ものであると主張している。プリドーの主張にはムンクの人生 (そこには彼の生きた時代と国という問題が当然含まれる)が彼の描いた絵と深く関係していることが端的に表わされている。
それゆえ、このテクストにおいては、ムンクの生きた時代と彼の作品の持つ北欧性という側面について最初に分析し、次に、ムンクの作品の特異性について検討してく。さらに、ムンクがそのパイオニアの一人である表現主義と彼の絵画作品との関係について考察する。そして最後にこれらの探究を総合化していこうと思う。
19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパとムンク
エドヴァール・ムンクは1863年ノルウェーのリョーテンで軍医クリスチャン・ムンクの長男として生まれた。1864年にクリスチャニア (現在のオスロ) に転居し、幼少年期をそこで過ごす。ムンクは名目上ブルジョワ階級に属する医師の息子で、父は敬虔なクリスチャンである。だが、6人家族で、生活は苦しく、とてもブルジョワとは言えないにも拘らず、父は体裁にこだわり、公立ではなく私立の学校に子供たちを通わせた。そのため何度も授業料が払えなくなり、子供たちは入学と退学を繰り返した。幼少年期のムンクは病弱であったが、彼にとって最も衝撃的な出来事は5歳の時に起きた母ラウラの結核による死である。愛する母を失い、ムンク家の子供たちは母の妹カーレン・ビョルスタに育てられる。結核はムンク自身にも襲い掛かる。1876年、13歳の時に死の危機に瀕するが回復する。しかし、翌年兄弟の中で最も仲の良かった姉のソフィエが結核により15歳で死去する。肉親の死と死線をさまよったという経験はムンクの作品に色濃く反映している。ムンクは少年期から絵の才能に恵まれていたが、本格的に画家を目指すようになったのは1880年に工業技術専門学校を辞めようと決意した時である。1885年に初期の傑作「病める子」を制作し始め、翌年展覧会に出展するが酷評される。1893年代表作「叫び」を制作するが、この作品も酷評された。1895年に弟のアドレアスが肺炎で死亡し、ムンクが中心となって家族を支えなければならない状況に陥る。1896年から版画も制作し始め、以後多数の版画作品を制作した。1908年に精神病が悪化し、コペンハーゲンにある病院に半年間入院。1909年にクリスチャニア大学の装飾壁画制作を開始し、しかし、壁画受け入れに関して大論争が起き、1916年にやっと完成し、公開される。1912年ケルンで開催されたドイツ分離派展でムンクはセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホと並ぶ現代絵画の巨匠として紹介される。1931年に叔母のカーレンが死去。1937年にナチスによりムンクの作品は退廃芸術と見なされ、ドイツ国内にあった82点が押収された。1944年、ナチスドイツからの祖国解放を見ることなく、80歳で永眠する。
ムンクの少年時代はブルジョワジーとプロレタリアートとの貧富の差が大幅に拡大していた時代である。父親は医師という現代においては社会的に高い地位にあり、高収入であると思われている職業にあったが、プリドーによるとこの当時のノルウェーでは卑しい職業と見なされていたようだ。そのため一家は貧しい生活を強いられた。住居も長い間プロレタリアート居住地区にあったため、幼少年期のムンクは労働者の日常生活を眺めて育ったと言うことができる。さらに、長年の貧乏生活によって、彼は共産主義者になったことは一度もなかったが、労働者との連帯意識は生涯持ち続けていたようだ。また、ノルウェーという国に生まれたことも、彼に少なからぬ影響を与えた。ヨーロッパにありながらも北の辺境の地という意識。歴史的に見ても、デンマークやスウェーデンに帰属させられ、こうした国々よりも国家として低く見られたことは、この国の人々を寡黙で偏屈な性格にした。キリスト教に対する信仰心の高さも注目すべきである。特に、ムンク家の人々は信仰心が篤かった。ムンクの生真面目さと、保守主義に対する反抗心はこうした環境の下で育まれたのだ。近代が終わり、現代が始まろうとしていた時代。新しい秩序はまだ出現してはいなかった。理性中心主義への懐疑。世紀末の狂乱。退廃。世界はこのまま崩壊するのではないかという不安。体制の変革は不可能であり、多くの人々が生活に苦しむ現実。絶望感。そうした中でムンクは多くの作品を制作していった。
このような基盤を持って描かれたムンクの作品は極めて革新的なものであり、保守的な批評家の繰り返し行われた痛烈な批判にも拘わらず、現代美術の幕開けを告げるものとして新しい時代を待ち望む多くの芸術家、特に表現主義者と呼ばれる芸術家に熱狂的に歓迎された。だが、その革新性とはどのようなものであったか。この問題について次のセクションで考察していこうと思う。
ムンクの作品の特異性
ドイツの美術史家であるウルリヒ・ビショフは『エドヴァール・ムンク:1863-1944』の中で、「(…)ムンクの芸術が際だって優れているのは、子供時代の重要な体験を豊かに表現した点でもなければ、その鋭敏な心理感覚でもない。ムンクが卓越しているのは、構図の点で、またおそらくそれ以上に重視すべき絵画技法の点で、ラディカルな芸術的アプローチを敢行しているところにある」(磯部和子訳)と述べている。確かに頷ける主張であるが、「ラディカルな芸術的アプローチ」とは如何なるものであろうか。それは、画面上に引かれた太い線、荒いタッチによって歪んだように見える事物。描かれたオブジェは完全に抽象化をされてはいないが、遠近法は壊され、オブジェとオブジェとは重なり合いながら、抽象的な物になる手前で具象の姿をぎりぎりの状況で維持している形態。そういったものではないだろうか。だが、最も大きな問題はこのラディカルなアプローチが時代性と密着に係わっている点である。
19世紀後半、近代が終わろうとしていた。現代が始まろうとしている。しかしながら新しい時代は不気味な時代を予感させる。古い秩序は遠くに過ぎ去り、進歩と科学主義が高々に唱えられた一方で、ブルジョワジーによる支配は完全なものとなった。先進国内での貧富の差は拡大。後進国は帝国主義政策の下、欧米列強国に植民地化されていく。そして大戦争の足音が次第に大きくなっていった時代。早崎守俊は『ドイツ表現主義』の冒頭で、「「近代は終わった」という確信がいつの時点であったのかは明らかではない。しかし「近代の終焉」の予感は、少なくともエドワルト・ムンクのあの有名な絵、1893年作『叫び』の橋上の人物の不安にゆがんだ表情に読みとれる。自然をひき裂く鋭い叫びに耳をふさいで立ちすくむ人物、でも、もしかしたら自己の内からの絶叫におびえて思わず両耳を覆ったのかもしれない」と書いているが、早崎の指摘にあるようにムンクは近代の終焉を感じ、来るべき時代が明るい未来として開かれる可能性がないことを確かに感じ取っていた。
ムンクは作品のネーミングに無頓着であったとプリドーは書いている。だが、「病める子」、「メランコリー」、「灰」、「叫び」、「不安」、「吸血鬼」、「空っぽの十字架」、「マラーの死」、「夜の彷徨者」というように作品のタイトルを並べると意識的ではないにしろ、タイトルの選択にもやはりムンクの時代感覚が反映されているように思われる。今、時代性の反映と述べたが、注意しなければならないことは、ムンク以前にはっきりとした形で近代の終焉と新しい時代の到来への不安を形態化した画家はいなかったという点である。前期印象派は絵画技術の変革を行い、描かれるオブジェを確固とした線と面から構築しなければならないという呪縛から絵画作品を解放した。だが、その開放は明るく楽観主義的な光のダンスを尊ぶものであった。後期印象派のゴッホやゴーギャンの作品には近代の終焉という時代性の反映があると語ることは可能である。しかしながら、時代性以上にゴッホの絵には個人的な狂気の影が、ゴーギャンの絵にはエグゾティスムが色濃く投影されている。それに対して、ムンクの絵は近代ヨーロッパの終りそのものを明確に表現している。ムンクの絵は抽象画ではない。だが、具象画でもない。形態的に具象であろうとうする力と、オブジェが抽象に解体しようとする力とがせめぎ合っている姿を示している。それは近代と現代の狭間にあって悶え苦しむ生の様態であり、生の変遷でもある。それこそがまさにムンクの特異性ではないだろうか。そして、この特異性を受け継ぎ、作品を生み出していった画家たちが表現主義者である。
ムンクと表現主義
ムンクは自らを表現主義の画家であると断言したことはないが、多くの表現主義者がムンクの絵画に大きな影響を受けた。今回のムンク展の図録の中でオスロ市立ムンク美術館の展示会・コレクション部長のヨン=オーヴェ・スタイハイグは、「同時代の若きドイツ表現主義者、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エミール・ノルデたちにとって、ムンクは手本となった。そして1927年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展によって、美術史におけるムンクの位置づけはより確固たるものとなった」と書いている。ムンクが新しい時代の芸術の扉を開いたのは確かなことであり、多くの若き表現主義の画家達はムンクの力を全身に受け止めたていたのだ。しかし、表現主義とはどのようなものであったのだろうか。この問題に答える必要がある。
早崎は先ほど挙げた著書の中で、表現主義には未来派やダダイズムやシュールレアリズムのように、運動に対する宣言があった訳ではないゆえに、明確に言い切ることはできないと断りながらも、「「表現主義」(Expressionismus)というひとつの「主義」が、芸術史上今日の意味で通用するようになったのは、おそらく一九一八年以降のことではなかろうか」と語っている。そして、詩人で文芸・美術雑誌『デア・シュトルム』の創刊者であるヘルヴァルト・ヴァルデムが第一回ドイツ秋期展のカタログに記載した「画家は自分の内奥の感覚でみたものをかくのだ。すなわち自分の本質の表現である。画家にとってうつろうものはすべてたんなる比喩にすぎない。画家は生を演技する。外部からのあらゆる印象は内部から表現になる」という言葉が、まさに表現主義の特質を端的に表したものであると述べている。すなわち、表現主義にとって第一に問題となる事柄は自己の内面である。その内面とは自己の外部にある対象と向き合い、その対象を捉えることができる自己意識の持つ理性によって秩序化されている意識主体である我のみを指し示すものなのではなく、理性によってコントロールできないような無意識主体をも内包しているものである。外部にある事象を主体が捉え、それを我の内部で総合化していく。それは近代的な捉え方であり、それが絶対的であると近代思想は固く信じていた。しかし、それはわれわれのエゴの持つ一面にしか過ぎないのではないか。オブジェの絶対的で客観的な正しい像など存在するのか。オブジェは我の内部の眼差しを通して形が与えられるものではないのか。こうした考えに基づきムンクが絵画制作を行っていったことは疑い得ない事実である。
外部と内部とを一つにして表現すること。それはどのような方法によって可能となるだろうか。たとえば、モンタージュ絵画という描き方が存在する。一般的に言って、モンタージュ絵画という技法の創始者としては表現主義者の一人であり、後に新即物主義者となったジョージ・グロースの名前が挙げられることが多い。確かに彼はこの技法を多用して作品を制作した。だが、この方法は1890年代のムンクの絵の中にもすでに見られるものではないだろうか。「女性三相」(1894年)を例に取ろう。向かって左手には、白い服を着た若い女性の横向きの立像が描かれている。真ん中には裸の女性と黒衣の女性、右手にも黒衣の女性がいる。真ん中右手の女性と右端の女性との違いは真ん中の黒衣の女性が正面を向いているが、右側の女性は俯いている点である。この四人の女性は同じ一つの絵画空間上に配列されているが、それぞれの女性は同一空間に存在しながらあまりにも関係性が希薄なのではないだろうか。隣り合っている他者は他者として迫ってこず、まるで隣にいないようである。常識的視点に立てば、同一空間にあることは同時性をも含むとわれわれは考えてしまう。だが、ここに描かれた女性たちは独立した別々の時間と空間を占めていた存在が絵の中に切り取られてきて一つの絵画世界に統一されたものであると考え得る。別々のシーンが一つに組み合わされた作品。それゆえこの作品の構図は近代的絵画空間を基に考えれば違和感に満ち、歪なものに思われてしまう。モンタージュ的な手法がそこにある。しかしながら、グロースのモンタージュ絵画が二重、三重にネガを重ねて現像された写真のようなモンタージュであるのに対して、ムンクのモンタージュは病的とも形容できるイメージ空間の重層的なモンタージュであるという違いは存在している。ムンク的モンタージュ絵画は「病室の死」(1895年)、「死の床」(1895年)、「死んだ母とその子」(1897年)、「生命のダンス」(1899年)などにも見られる。こうしたモンタージュは存在の偏在性と存在の力強さを、さらには存在の陰鬱さや孤独さを表現主義者に教えたのではないだろうか。
このテクストを終える前に、ムンクの反近代性と前現代性という問題をもう少し詳しく考察する必要がある。何故なら、彼の絵画は冒頭で述べたように、絵画的に非常に特異でありながらも、時代性と地域性を強く投影しているものからである。そのためにここでは近代を体系化することによって近代を終わらせたヘーゲルの時代的思想的態度とムンクの時代的思想的態度とを比較検討してみたい。
ヘーゲルの哲学を一言でまとめることは極めて困難な作業であるが、少なくとも理性に基づく合理的な秩序が最優先された近代という時代の総括を行ったと語ることは可能であろう。この理性中心主義的な理念の基盤となるものが、自由な意志を持ち、客観的な対象を自己意識によって捉え、その対象を主観的に把握する主体である。それは対自存在であり、世界内の他の対自存在と向き合った時には対他存在ともなる。しかしながら、ここではこうした観念論的存在論に深入りする気はない。重要なことはヘーゲルが対象の様々な側面を弁証法的に止揚することによって対象を主体的に位置づけることを最も重視した点である。
ドイツの美術史家のウィルヘルム・ヴォリンガーは『抽象と感情移入』の中でギリシャ・ローマ的伝統を受け継ぎルネサンス期に確立し、近代に向かって展開していった西洋美術は感情移入に基づく美術観に支えられたものであるが、それが唯一の美術観ではなく抽象的美術観というものも存在すると主張している。西洋の近代的美術観、それは遠近法によって理性的秩序世界を作り上げるという意味で、近代的主体性を反映したものであり、それはまさにヘーゲルが体系化した近代的合理精神に完全に依拠した美術観であった。それに対して抽象的美術観は理性による拘束を受けずに、作り手の内面の無限の欲求を表明する美術観であり、それは西洋的合理の枠では捉えきれないものであり、それはたとえば東洋人的な美術観である。ヴォリンガーは「彼らの精神的恐怖、あらゆる存在の相対性に対する彼らの知覚は、原始民族における如く認識以前のものではなくて、むしろ認識を越えたものであった」と、さらに、「彼らの欲求は、いわば自然的関連のうちから、即ち存在の無限の変化流転のうちから、下界の対象を取り出すことである。対象において生命に依存せる一切のもの即ち恣意的な一切のものから対象を純化することであり、それを必然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対的価値へそれを近寄せることである」(草薙正夫訳:なお、旧字体は新字体に変えている)と書いている。感情移入的美術観において、対象を世界の中に位置づけることは、それを行う主体の内面的法則性に従う作業である。だが、抽象芸術観において、対象は主体の内面を映すだけのものではなく、主体の内面と外面が統一され、事象の根源に向けられ、純化されるのである。
以上の前提に立って、この二つの美術観をヘーゲルとムンクの対象認識という視点を通して比較してみよう。ヘーゲルは個別に存在する事象をまとめあげ、体系化することを望んだ。だが如何に体系化しようとも、それは抽象的概念化であり、具体的な個々の事象の顔は朦朧となり、個別性の輝きは消失し、ぼんやりとした輪郭だけを残してしまう。それに対してムンクは漠然とした不安や孤独あるいは絶望感というものに具体的な形を与えることを生涯求め続けた。あまりにも抽象的過ぎて表現することが不可能であると思われる対象に何とか形を与え、具体的でありながらも抽象的なものの影を宿している作品を創造していった。それゆえ、ヘーゲルが世界を認識するために時間的な動態性を如何に導入しようとしても、その作業は、結局、物事を秩序正しく並べ、階層化していくことによって世界の理性化を目指す作業になってしまう (哲学がそういったことしか求めることができないならば、まさに哲学的な行為のみを目指していると言い得るが)。それはフレームに嵌められ、平均化され、厳格化されたシンメトリーな世界の構築である。それに対してムンクが作り上げようとした世界は何とアンバランスで、歪んだ世界であろうか。そこには不気味な真理と言い表せるものが描かれてはいないだろうか。しかしながら、ムンクの世界はヘーゲルの目指した世界よりもはるかにわれわれに迫り、訴えかけてくる多くの情念が存在しているのではないだろうか。ムンクの絵においては、激しい色と色とが激突することによって捻じ曲げられた空間が現出する。それは具象的なものと抽象的なものとの中間としての形態である。物が現実世界において完全に解体されたものにならないように物の現実性を何とか残しながらも、現実からは遥かに遠い位置に追いやられた存在として表現されているのだ。
時代が近代から現代へと向かっていた。その動きをムンクは敏感に感じていた。ムンクは事象の連続性と変動性とを新しい眼差しによって見つめ、それを新しい形の物として創造しようとした。具象と抽象との間の彷徨。時代と時代との合間での苦悩。19世紀の終りから20世紀の初めにかけて、世界は崩れ去る時代の直前で不気味なおどろおどろしい色合いに染まっていた。そうした時代性の中、ヨーロッパの北の果てで、宿命的な狂気を内包しながらも、狂気を超え出て、新世界の混沌を混沌として引き受けようとした画家が生まれた。その名前はエドヴァール・ムンク。自らの外部の世界の叫びと自らの内部から発せられる叫びとを同時に聞こうとした男。彼の絵の中にポリフォニーはなかった。だが、時代を破壊し、時代を終わらせようとするカーニヴァルの喧騒がはっきりと聞こえていた。絶叫する声のエコー。だが、叫びによって一つの世界は終わり、叫びによって別な世界が始まる。時代を変えるためには強烈な力が必要だった。たとえそれが世界を震え上がらせる悪魔の叫びであったとしても。世界の終りこそが世界の始まりである。ムンクはそれをはっきりと感じていた。彼の眼差しが時代の叫びを見たゆえに。