ようこそ、ゲストさん | 新規登録

ユーザ名:
パスワード:
パスワード紛失
<< 2010年 7月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
             

使い方
既発表の記事や論文の総目次は,各カテゴリーごとに収録してありますので,このページの上段の「内外知性の眼」「スタディルーム」「コメント」をクリックすればご覧になれます。(画面が止まって、下に「続き(1)2,3・・・」の表示が出たら,その数字をクリックすれば、続きの画面がでます)。読みたい記事や論文のタイトルをクリックすれば,本文をご覧になれます。

使い方
このページの上部右にあるスペースの中に著者名を書き込み、わきの「検索」をクリックしますと、その著者の論文・記事の一覧が表示されます

スタディルーム

ラジオで子どもたちに話しかけるベンヤミン <石塚正英>



<いしづか・まさひで:東京電機大学教授>

――子どもの世界へ(2)

2 ラジオで子どもたちに話しかけるベンヤミン

 「複製技術時代の芸術作品」(1939年)の著者ベンヤミンは、その中で写真や映画の複製技術に言及し、それらによって作られた作品にはもとのオリジナルに備わっていた「アウラ」が減少ないし消滅している、と主張した。ここにいう「アウラ」とは、ベンヤミンの言うところでは「どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象」(7)となる。これを私なりに解釈すると、先史の儀礼的世界に関連し、自然神の身体から発散される一種の「気」のようなもの。それは神と人とが互酬の原理に即して生活しているかぎりでもっとも強烈に発散される。発散は、そのような相互的・交互的な関係を前提にしている。また、発散は本物からしか生じない。神の代理や象徴、像からはでてこない。ベンヤミンは言う。「古代ギリシア人が知っていた芸術作品の複製技術の方法は、ふたつだけであった。鋳造と刻印である。ギリシア人によって大量生産された芸術作品は、ブロンズ像、テラコッタ、硬貨だけであった。その他はすべて一回かぎりのもので、技術的に複製することができなかった」(8)。

 ここでベンヤミンが引用するギリシア人は文明期の人々である。神の像を作るのは文明期に特徴的なことと言える。先史の人々――ギリシアではペラスゴイ人――は自然のままの神ないし自然から切り取った神としての像(かたち)は知っているが、神の代理、象徴、洗練としての人格的ないし幾何学的な像は知らない。神は常に自然に備わる具象的なかたちを備えていたので、代理や象徴、洗練は知らなかったのである。もし仮に先史人が人格的なブロンズ像を崇拝していたとしたら、それは一歩先に文明に入り込んだ人々から伝えられたものでしかなく、ブロンズ像に備わる神観念は文明からすぐさま先史にもどった。すなわち、ブロンズそのものが神なのであって、ブロンズが何か別の神の代理の像というわけではなかったのである。

 神との対話=儀礼においてアウラを感じるのは、眼前の相手が本物の神であるときだけである。神はけっして複製品ではない。これっきりといった、単数に限定された存在なのだ。そのような神を、先史の人々は自然の断片で自らの手でこしらえるか、自然の中から選定した。

 ところで、文明時代の人々、とくに超越神を信仰する大人の人々は、そのような自然神、庶物神を小バカにした。それは子どものもてあそびに相応しい代物であり、崇高なる神のたんなる代理品、護符か、あるいは崇高な地位から堕落した形態にすぎない、と決めつけたのである。でもベンヤミンはそのように解釈しはしなかった。

 彼の立場にたって議論を進めると、ある神像が鑑賞の対象でなく礼拝の対象である場合、たとえそれが複製品であってももはや複製とは観念されず、「いま」「ここに」しかない本物となったのであり、そうであるからアウラの発散源であると観念される。つまり、件の像は何かもっと崇高な神の代理であるよりはそれ自身が単独の神であり、かけがえなき一回性のものであると観念されることになるのである。いや、もっと本質的な言い方をすると、アウラを発する神がみは絶えず人々の儀礼によってその場で一つだけ造りだされるのである。そのとき、アウラを発するのは造り出された神のみならず、これをこしらえている人からも出ていると、私は考えるのである。

 先程引用したハリソンの説明によると、先史や未開の人々は、例えば雨が欲しいときは雨を降らす雷神に願をかけるのでなく、自ら雷鳴をならし、雷神になりきるという。その際人々は雷神を演じているのではない。そうではなくて、雷神そのものになりきっているのである。彼らの信仰はミミック(そのものの真似をすること)でなく、ミメーシス(そのものになりきること)を特徴としている。また、ヘーローイス(女祖神)を神体とするデルフォイの春祭りでは、本当の少女か、あるいは人形を使って儀礼を行なうのだが、そのとき少女または人形は一度地中に埋められ、そのあとで掘り出されることになる。いったん神を殺して、それから再生させるのだ。祭式におけるこうした行為を、ギリシア語ではドローメノンと称する。それに発声=レゴメノンが加われば、コロスということになる。ベンヤミンの言うアウラはこのドローメノンとレゴメノンすなわちコロスでこそ最大に発散されるのだと、私は思う。

 ドローメノンは、しかし、しだいにドラーマ化していく。本物の神を殺していればドローメノンであるが、代理をそうするようになると、少しずつドラーマ化が始まる。あるいはまた、神の本質が霊に上昇し、従来神と見なされていた生き物はその霊の犠牲に格下げされるに応じて、ドラーマの部分が増えるのである。ハリソンは言っている。ギリシアでは、かつて生きた牡牛が神として殺されていたが、やがて牡牛のスピリットないし牡牛のダイモーンというイメージにとって代えられ、そこからついに牡牛神、つまり姿は牡牛だが霊としてはいと高き神という観念が成立した。その過程で、牡牛に扮装した信徒による演技が発生するのだ。この扮装は、ドローメノン段階ではミメーシスだったのだが、ドラーマ段階に至るとミミックに変質していく。そしてさらに、その演技を外側から見物する人々が登場してくる。見物人は、演技を行なっている信徒集団の部外者である。あるいは、よそから移住してきた新住民である。ギリシア史に当てはめれば、農耕を生業とする先住のペラスゴイ人の祭式を外部から見つめたイオニア人、ドーリア人が部外者ということになるだろう。彼らは祭式を、それと自覚して見ているのでなく、況やそれを執り行なっているのでなく、ただ被征服民の奇妙な行為を演技と見なして鑑賞しているだけなのである。

 アイスキュロスやソフォクレース、エウリーピデースの劇は、オルケーストラ、つまり円状の広場で上演されていた。その中央には祭壇か神体が安置されていた。そのオルケーストラの周囲には、やがてテアートロンと称する観客席が同心円状に、あるいは扇形状に設けられるようになっていく。しかし、そのようなものは元来無かった。ドローメノンないしコロスに必要なのは、中央に石柱とか樹木とか、あるいは牡牛とかの神体を安置したオルケーストラだけであった。信徒はダイレクトに神を動かす歌舞に興じたのである。そのとき、テアートロンはない。観客はいなかった。ところが、そうした共同の祭式に直接関係しない部外者、とりわけ征服者が周囲でこれを観察するようになると、昔のドローメノンはいまやドラーマ化していく。あるいはまた、被征服民のペラスゴイ人はいつまでもドローメノンを続けているだろうが、征服民のイオニア人はそれを最初からドラーマと了
解することだろう。

 人が神を造るのでなく神が人を造る時代になると、ドラーマはまったく別の意味を付与されて生み直される。犠牲を捧げて神をよろこばせ、神に恭順を誓うため、人々は神前で歌い舞うのである。先史のオルケーストラは人間中心の信仰にふさわしく、文明のテアートロンは神中心の宗教を前提にした芸術にふさわしい。そしてこのギリシア芸術こそ、先住のペラスゴイ人に対して征服者のギリシア人が自らのアイデンティティを確立する基盤の一つとなったものだったのである。でも、ベンヤミンが力説したアウラは、滅びの方向に向かってもはや相当道のりを進んでしまっている。

 ところが、ベンヤミンは19世紀の同時代において、子どもたちの世界には未だアウラを発するような遊びが存在しているように考えるのである。そうであるから、1929年から32年にかけてベルリンとフランクフルトのラジオ局から、ドイツ中の子どもたちに向かって非キリスト教的な、異教的な雰囲気の伝承や風習、歴史的事件を熱っぽく語るのであった。その話題は、例えば魔女裁判、ドイツの強盗団、ファウスト博士などだった。以下において、ベンヤミンから子どもたちへのそうしたメッセージを引用してみよう。

 まずは魔女裁判について。「きみたちが初めて魔女ということばを聞いたのは、『ヘンゼルとグレーテル』でだったろう。そのとききみたちは、何を考えたろうか?」(9) ドイツの子どもたちにそのように問いかけつつ、ベンヤミンは、魔女信仰の拡大を促したのは自然科学者や法学者だったと言う。「嘘めいて聞こえるかもしれないが、その新しい自然科学が、魔女信仰を大きく育てる働きをした」(10)。この見解は、大人でなく子どもたちに向けて発せられたのである。そこに意味がある。大人の多くは科学の信奉者である。それに対して子どもたちは概ね摩訶不思議の世界、神秘の森を散策する旅人である。ほかでもない、その子だけに付き添う守護霊が旅のお供をしたりしてくれるケースもある。ベンヤミンは、そのような子どもたちととっても相性があっているのだった。

 ハインリヒ・ハイネは著作『精霊物語』(1835年)の中でこう述べている。「異教の時代に空中を飛ぶことができるといわれたのは、みな女王とか貴族の女たちであった。そして当時尊敬すべきものとみなされていたこの魔術は、のちのキリスト教の時代になると、魔女たちのいまわしい行為とされてしまった。魔女の飛行についての俗信は古代ゲルマンの伝承の変装したものである」(11)。歌唱曲「ローレライ」の歌詞で読者に馴染みの深いハイネは、ヨーロッパにキリスト教が伝わる以前のゲルマンないしケルト的な異教の世界をこよなく愛していた。ローレライにしても、そのような世界に関連する伝承をもとにした説話である。上に引用した箇所は、そのハイネが魔女や魔女信仰についてどんなふうに考えていたかを示す文章と言える。(12)

 ベンヤミンは子どもたちに対して、科学について画一的な考えをもたないようアドバイスしている。一面では現代人の物質的生活を潤してくれる科学技術は、他面では現代人の精神生活を貧しくしてしまった。ベンヤミンの議論はそこから出発している。ヨーロッパに初めてアラブ地域から自然科学が伝えられたとき、それはヨーロッパ人には魔術に映った。ただし、それは、一方では人々に役立つ魔術、すなわち白魔術として受け入れられ、他方では同時に人々に災いをもたらす魔術、すなわち黒魔術として受け入れられた。その際、白と黒の差異はどこにあったのだろうか。キリスト教を信じるか否かであった。信じる人が扱う科学技術は白、信じない人が扱うそれは黒、というわけである。キリスト教を信じない人は悪魔にとりつかれた存在であるから、どんな仕方で殺されてもいい。このようにして、魔女が、そしてその魔女を操る男たちが次々と裁判にかけられ殺されていったのだ。

 私に言わせれば、ベンヤミンは、魔女狩りに持ち出されるキリスト教の神が一種の複製であることを知っていたのだった。金太郎アメともステレオ・タイプともいってもいいこの神観念を、はたして中世・近世の民衆は信仰していたであろうか。中世以降、神はとりたてて複製の対象になっていく。それを嫌う農民たちは、これっきり、これ一体といった神像を選定して修道院などから盗みだしたものである。文明の神としてのキリスト、教会の祭壇における神人(人となった神)キリストは複製可能であった。複製品つまり十字架像を通して本物のキリストが霊となって介在するというのが文明の、カトリック公認の神観念なのだった。

 それに対して、先史の神としてのキリスト、ガリラヤ湖畔における人神(神となった人)キリストは複製不可能である。聖書の文字に忠実に従えば、最初のキリストは使徒たちが食べてしまった。その後は、あるものは聖なる泉として、またあるものは彫刻されたマリアやキリストの像として、単体で崇拝された。一方では絶えず複製されつつ、他方ではその複製品が絶えずこれっきりの神として信徒に崇拝される。魔女狩りに引き出される複製キリスト像からはアウラは発散されない。魔女と間違われるほどに自然や人工の個物を信仰するキリスト教徒からはアウラが発散され、その神体である自然・人工の個物からもむろんアウラが発散される。「複製技術時代の芸術作品」の著者ベンヤミンの議論から推論すれば、当然そのような結論がでてくるであろう。複製品キリストに対応する複製品魔女でなく、一回性をもつキリストに対応する一回性の魔女すなわち非キリストの神が存在するのだということを、ベンヤミンは摩訶不思議の世界、神秘の森を散策する旅人である子どもたちに訴えてみたかったのではないだろうか。

 次にドイツの強盗団。18世紀から19世紀初にかけてドイツとその周辺地域にはたくさんの盗賊団が出没した。有名なものを挙げてみると、ライン川沿いのライン盗賊団(1747〜70年)、ネッカー上流、ライン上流、ドナウ上流の南西ドイツ強盗団(1750〜85年)、そして最大のオランダから中部ライン、ルール、ヴェストファーレン、ザール、ヘッセン南部をまたにかける大ニーダーランド盗賊団(1785〜1805年)。これには下部組織としてブラバンド団、オランダ団、メルセン団、クレフェルト団、ノイス団、ノイヴィート団、ヴェストファーレン団などが連なっていた。シラーはこのような盗賊団の活動にヒントを得て処女戯曲『群盗』を書き上げ、それは1782年にマンハイムの劇場で上演された。シラー自身も観衆の一人になってそれに見入り聞き入ったそうである。
 ホブズボームの著作『匪賊の社会史』(1969年)によると、これらの盗賊団はけっして私的な盗みをするのではない。いわば社会的な盗みをするのである。「社会的匪賊(social Bandit)にとって自分自身のテリトリー内で、あるいはたぶ んどこかよそにおいてさえ、農民(peasants)の収穫物をひったくるということは(よし領主のそれはひったくったとしても)、およそ考えられない。したがって、それをやるような者たちは、盗賊行為をソーシャルたらしめている固有の関係を欠いているのである」(13)。

 1840年代のスイスで、一人のドイツ人仕立て職人がこの社会的匪賊の蹶起を計画する。もはや時代はそのような行為を成功させるほど宙ぶらりんな状態ではなかったのだが、脇目も振らず真剣に構想するのである。その人物とは、のちにドイツ労働運動の父と称されることになるヴィルヘルム・ヴァイトリングである。彼はなぜこの種の盗奪行為に注目したのだろうか。それは、19世紀前半当時いまだドイツや東ヨーロッパの各地に残存していた旧来の共同体的所有関係を否定して貧民大衆を搾取しだした新興資本主義を打倒するためであった。

 ヴァイトリングによると、社会の最下層に呻吟する労働大衆は自ら働いて産み出した共同の富を地主や工場主といった財力ある支配階層に日々奪いとられている。私有財産は不可侵である、というスローガンを掲げる金持ち階層は、そういった彼らに都合のいい法律を立てて、本来は労働者・農民に帰属する財産を彼らから「合法的に」収奪したというわけである。これは所有権を右から左へと移す私的な、プライベートな行為である。労働者や農民たちはそのような私的盗奪はしない。彼らはたんなる所有権の移動にすぎないプライベートな盗奪でなく、生産者が当然自己の社会に帰属すべき所有を、自然権としての所有を回復するという、ソーシャルな盗奪を行なうのだった。彼によれば、土地はそもそも神のものであり、私的に所有することはできない。使用する間だけ占有できるだけである。土地は共同体のものであり、その私有は盗奪となる。耕作者は私的に独占された土地を社会的に奪い返すことができる。その行為は神の意志=正義に適っている。(14)

 子どもたちに向かってベンヤミンは言う。「強盗団の歴史はドイツの、いやヨーロッパ総体の、文化史の一部分なのだ。しかもかれらには歴史があるだけでなく、いまはともかくもこれまで長期にわたって、じつに古い伝統を回顧できる一身分であるという、矜(ほこ)りと自覚までがあった。……名誉や身分にかんする独自の思想が、そなわっていた」(15)と。また、さらには反権力の伝統を維持してきた盗賊団という位置付けで、こう語りかける。なるほど、これまで強盗団についてはやれ恐ろしいだの悪魔にそそのかされているだの、やれ危険きわまりないだのと非難されてきたが、それでは強盗団についてまともな観念を得ることはできない。「これに反して、その種の強盗団がどのようにして成立したか、どのような内部の掟によって団結していたか、どのように皇帝や王侯や市民にたいする、のちには警察や司法にたいする闘争をおこなってきたか、を知ることには意味がある(16)」。

 のちのホブズボームがきちんと整理してくれるまで、私たちには何が何だかわからなかったのだが、どうも盗みには近代的な法を前提とするプライベートなものと、それを前提としないソーシャルなものがあるようだ。プライベートな盗みは近代法を犯す――前提にするから犯す――ものだが、ソーシャルな盗みは近代法を一種の暴力とみて拒否していく。ベンヤミンはさほど明確には定義していないのであるが、明らかにホブズボームの定義するソーシャル・バンディット(社会的匪賊)を歴史的に評価し、その意味をドイツの子どもたちに説いて聴かせるのであった。

 その際ベンヤミンは、けっして社会的匪賊を必要以上には称揚しない。彼らがいかに非合理な迷信に囚われていたか、いかに詐欺的な行為にでたか、ということを然るべく語っている。絶対主義政府の官憲やそれと利害を同じくする教会の支配・探索をうまくかわし逃げるためとはいえ、彼らにはそうしたマイナスのイメージはつきものであった。その側面をベンヤミンは隠し立てしない。だが、子どもたちには社会的匪賊をこんなふうに説いてかばうのだった。「強盗たちはそれまで、しばしばたんなる窃盗のかどで死刑に処せられたほどに、非人間的に迫害され処罰されていたればこそ、平和な市民にたちかえることが難しかった……。古い刑法の非人間性が、強盗団というものの成立にかかわっていたのとひとしく、より人間的な新しい刑法は、強盗団の消滅にかかわっている」(17)。

 けっきょくのところベンヤミンは、一度も聴いたことのない話ですら自白してしまうような無学で迷信に陥りやすい農民出身の盗賊たちを歴史的に評価して子どもたちに紹介するに止めている。だが本当は、どこまでも謎めいている盗賊団の実際を子どもたちに教えたかったのであろう。いまの日本の学校教科書にも言えることだが、きわどい話やヤバイ話はまず掲載されない。それが現行の法や政治に触れるものならば脚注にさえ載ることはない。だが、子どもたちが好奇心をもって知りたがる歴史とは、文部省検定済みの教科書には似合わないのである。こちらは複製技術によって大量・画一生産されたものなのだ。それに対してベンヤミンがベルリンとフランクフルトのラジオ局から発進した定時番組「子どもの時間(Stunde der Jugende)」は、生放送であった。すなわち、そこでベンヤミンはたとえ電波を介していたにせよリアルタイムで子どもたちに話しかけたのである。ドイツ中の子どもたちに向けて思索家ベンヤミンのもつ神秘的なアウラが発散したにちがいない。

 子どもには子どもなりのアウラがあり、それは質的に大人のそれとなんら違いはない、とベンヤミンは考えるのだが、そのアウラを「オルゴン」という呼称に替えたならば、ベンヤミンとおなじような生エネルギー論でもって子どもの世界に注目した哲学者がいる。それはヴィルヘルム・ライヒである。以下においては、そのライヒのオルゴン理論と子どもの関係を考えてみよう。 (つづく)


7.ベンヤミン、佐々木基一編集解説『複製技術時代の芸術』晶文社、1970年、16頁。
8.同上、10頁。
9.W・ベンヤミン、小寺昭次郎・野村修訳『子どものための文化史』晶文社、1988年、11頁。
10.同上、13頁。
11.H・ハイネ、小沢俊夫訳『精霊物語』、岩波文庫、1980年、53、54頁。
12.魔女信仰やプレ・キリスト教的異教に関するハイネの見解については、石塚正英   『「白雪姫」とフェティシュ信仰』理想社、1995年、参照。
13.E・ホブズボーム、斎藤三郎訳『匪賊の社会史』みすず書房、1972年、2〜3頁。
14.ヴァイトリングの社会的盗奪理論については石塚正英『ヴァイトリングのファナテ   ィシズム』長崎出版、1985年、参照。
15.ベンヤミン『子どものための文化史』、22頁。
16.同上、23頁。
17.同上、31頁。
<初出:石塚正英編『子どもの世界へ:メルヘンと遊びの文化誌』社会評論社、1999年>

<記事出典コード> サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
[study033:060830]

印刷用ページ このニュースを友達に送る