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スラッファ『商品による商品の生産』から何を学ぶか──塩沢由典教授との往復書簡(その2)〈片桐幸雄〉



〈かたぎりさちお〉

[塩沢教授へ(2)]

塩沢由典 先生

早速のご返事、恐縮です。

実は昨日、関根先生のご自宅に伺い、3時間近く、色々な話をしてまいりました。

私は学部を出てすぐに経済学とは何の関係もない組織で働いていた「サラリーマン」ですが、拙著の「あとがき」にも書いたように、20年近く前、仙台で暇をもてあましていた頃、当時東北大におられた故・渡辺寛教授のところに聴講生にしてもらおうと思って出かけ、そこで渡辺教授の研究室に強引に引っ張り込まれたものです。私は経済学の「生産者」としての専門的訓練を受けた人間ではありませんが、渡辺教授の強引な「指導」の結果、数編の論文と本を書くことになりました。

渡辺教授との出会いはまたその後の私の交流関係にも変化をもたらし、宇野派として括られる多くの研究者と知り合うことになりました。高松時代の私を「遠方」から様々な形で支援してくださったのは、こうした研究者やそれに連なる研究者でした。

私にとっては関根先生も、ある意味では渡辺教授に連なる方です。渡辺教授が一橋大で宇野弘蔵氏の講義を聞いていた頃、関根先生や故・高須賀教授も一緒だったと聞きました。関根先生は「渡辺も高須賀も早く死にすぎた」と怒り交じりに語っておられました。自分を置いてサッサと世を去った古い友人たちに対する関根先生の寂しさから来る怒りはよく理解できます。

『スラッファの謎を楽しむ』という拙著の題名のことで、先生からのメールに、これは片桐さんのアイデアですか、社会評論社の編集者ですか。いずれにしてもすばらしい考えです。こういうプリゼンテーションは、わたしには思いもよりませんでした。とありますが、これは『商品による商品の生産』を一向に理解できないことに対する「開き直り」をそのまま題名にしたものです。古い記録を見ると、新幹線の車中で思いついたとあります。いわば「馬上」ならぬ「車上の思いつき」のようなものです。

さて、賃金の2分割に関して、先生は次のように指摘されます。

賃金を2分割としても、必要賃金をどうみ、そこから何を購入していると見るかによって、標準商品の構成は当然変わります。しかし、これは比率だけの問題です。標準商品は定義できて、賃金財バスケット(必要賃金からの購入財のバスケット)が確定すれば、標準商品も一義的に定義されます。こうした点をすべて抜かして、あとで標準商品などの議論をするのは「ミス・リーディングである」といわざるを得ません。

私が疑問をもっているのは、この「賃金財バスケットが確定すれば」という前提です。スラッファ体系のような静態モデルにおいて賃金財バスケットは本当に確定できるのだろうかという疑問があります。これについてはまだ自分の考えをまとめきれていません(参考までに簡単な備忘録のようなものを、末尾に添付しておきました)。もう少し考えてみたいと存じます。

また、『商品による商品の生産』をどう読むかについて先生は次のように指摘されます。

菱山泉先生は、スラッファに対する思いれがつよすぎて、標準商品で不変の価値尺度が見つかったとか、分配問題が解決されたとなどというときがありますが、わたしはきわめて疑問に思っています。スラッファの本の意義は、やはり、その固有の内容よりも、ああいう体系を提示したことによって、当時の限界理論とは異なる経済の見方を提示したことにあると思っています。その意義は一般均衡理論が出てきても変わらないし、一般均衡理論に対する批判の基礎にもなると考えます。ただ、そこまでつなげて考える人が少ないのは事実です。

この点は先生に全面的に賛同します。ただ、なぜ『商品による商品の生産』が「一般均衡理論に対する批判の基礎にもなる」のかが極めて分かりにくいのが実態です。そのことをどなたかが明確に示される必要があるように思います。

そして、次のように続けられます。

むかしスラッファを研究した人の多くが現在は、ほとんど沈黙しているのは残念ですが、スラッファから考え始めるということが重要であって、あとはやはりスラッファを超えて、展開を図らなければならないとおもいます。『商品による商品の生産』の中に閉じこもっては、限界が大きすぎます。スラッファ自身を教科書化しても仕方ないわけで、片桐さんが最初に強調していられるように、スラッファを読みながらいろいろ考えるなかで、「自分の考えを獲得する」することが必要でしょう。マルクスもケインズも、そういうものではなく、なにか聖典をよむかのように読む癖ができてしまいましたが、そろそろそこから脱却しなければならないと思われます。

その通りだと思います。「スラッフィアンは教条主義者」だと罵ったのは森嶋教授ですが、かつてスラッファの謦咳に接したことのある、インド出身の元スラッファイアンから聞いた話では、その教条主義は聞きしに勝るものがあるそうです。『商品による商品の生産』は『資本論』以上に教典化し、石女化している感じを受けます。

なお、リカードの貿易論に関して次のようなコメントを頂戴しました。

多数国・多数財で考えようとすると、少なくとも行列は使わなければなりませんし、実線形代数にかなりの程度依存せざるをえないので、あまり読みやすいとはいえません。わたしの言いたかったのは、ただ、スラッファのなにも書かなかったところにも、リカード・スラッファの考えは生かせるし、そこまでいかないと一般均衡論の批判も本当の力は持ち得ないのではと思っています。『謎を楽しむ』から始めて、読者には現在の経済学にまでおもいをはせてほしいと願っています。

私は、線形代数という便利なトゥールを易しく解説する努力を日本の経済学者は回避しているのではないかという疑問を持っています。昔、先生の『数理経済学の基礎』を品切れ寸前に入手し、読みかけたことがありますが、このときは先生が多用される線形代数が容易に理解できず、途中で挫折した記憶があります。線形代数を含む経済数学の基礎的訓練を受けていない読者に、「実線形代数にかなりの程度依存せざるをえない」ものを理解してもらうことは容易でないというよりは、ほとんど絶望的ではないかと思っています。新古典派に与しない経済学者の集団には数学のトゥールを使うことを生理的に嫌悪する傾向がありますが、これもトゥールとしての数学の敷居を高いままにしてあることが影響しているように思えてなりません。できたら、先生かその関係の方に『数理経済学の基礎の基礎』あるいは『ゼロからはじめる数理経済学』といったようなものを書いていただけないかとさえ思います。
片桐幸雄

片桐からの第2伸に添付した「備忘録」

[労働力の価値はいかにして規定されるか──宇野とスラッファ]

山下博は『商品による商品の生産』が公刊されてまもないころ(1962年)、次のように論じた。

…スラッファの体系では賃金と利潤率とがともに変数としてあらわれて独自の決定原理を持たないもたないために、体系は一次の自由度を持って動きうることとなり、一義的な確定性をもたない。……ボルトキヴィッツもまたスラッファに類似の生産方程式体系によって価格の決定を導き出しているのだが、かれの扱い方はこの点でも[賃金をいかにして決定するかということか──ZW]スラッファと異なる。すなわち、その際[生産方程式体系から商品の価格を導く際に──ZW]かれはマルクスに依拠して賃金を決定する方程式を追加することによって、方程式の数を未知数の数と一致せしめて体系に自己完結性をもたせているのである。もとよりこれは、マルクスにおいては賃金(労働力商品の価値)もまた労働価値法則にしたがうものとして、体系内的に決定されると考えられたからである。そしてこのことは、マルクスにおける剰余価値率の概念がたんに価値生産物の資本と労働への分配関係をしめすものではなく、資本制生産における資本と賃労働との基本的な生産関係をあらわすものとされていることと関連しているのである。
(山下「スラッファの新著とリカァドゥ解釈」55頁:下線は引用者)

しかし山下はスラッファの方法とボルトキヴィッツ=マルクスの方法との違いを指摘するだけで、ボルトキヴィッツ=マルクスの方法そのものを問題にしているわけではない。「賃金(労働力商品の価値)もまた労働価値法則にしたがうものとして、体系内的に決定される」というマルクスの考えに最初に疑問を呈したのは宇野弘蔵であろう。しかしそれは宇野の長期の検討の中で、であった。宇野は『資本論五十年』においてこういう。「労働力商品の価値の規定はどうして決まるかというのはズット後に明らかになったことです」(662頁)。実際、宇野が労働力商品の価値規定を明らかにしたのはマルクスが明らかにしなかった(出来なかった)恐慌論を解くことによってである。逆にいえば、マルクスの『資本論』では労働力商品の価値規定は解けないということになる。宇野はこの問題を次のように提起する。

労働力の価値が、その生産に要する労働時間によって規定されるということの内には、「彼の維持のために、生ける個人は一定量の生活手段を必要とする」という関係が含まれている。ここでは他の一般商品と異なって、直接この商品の生産に必要な労働時間によってその価値が規定されるのでなく、労働者の生活資料に対する一定量の需要があって、その生活資料自信の価値によって労働力の価値が規定されるという間接的な関係があるのである。「したがって他の商品と反対に、労働力の価値規定は、一の歴史的の、また道徳的の要素を含んでいる」(『資本論』向坂訳、第1巻222頁)ということにもなるのである。その価値は「生活手段の生産に必要なる労働時間に解消される」といってはすまされないものがある。
(宇野「労働力の価値と価格」131頁:下線は引用者)

この論文が書かれたのは、1958年であるが、その約10年後、宇野はまたこの問題を論じる。そこでは宇野は、労働力の価値は人口法則によって解くしかないと改めて確認する。

[労働価値説は]労働力の商品化を基軸とする資本の生産過程において始めて論証しうるものとするわれわれの方法であると、労働者の生活資料の価値も、労働者が資本の生産過程において自ら生産した物を、その賃金によって買戻すという関係で、その生産に要する労働時間によって決定されることを明らかにされるのであるが、それと同時に、労働者の生活資料の「一定の総額」自身をも考慮せざるをえない。しかしこの資本の生産過程においては、その「一定の総額の生活資料」の生産に要する労働時間は問題にしうるとしても、その「一定の総額」自身は、問題とするわけにはゆかない。その点は、労働価値説を資本と労働との関係を基礎にして論証しようとするだけに明確にせざるをえないのである。
(宇野「恐慌論の課題」415頁)

現実には「一定の総額」は、景気循環による相対的過剰人口の形成と縮小(吸収)の過程で決定されることになる。

かくて労働力商品の価値規定は、その再生産に要する生活資料の生産に要する労働時間によって決定されるにしても、その生活資料の「総額」自身は資本の価値増殖によって制限せられる賃金によって決定されるのであって、価値法則によって直接決定されるものではない。すなわち資本主義社会は、価値法則を原理としながら、この法則をもってその価値を直接には規定しえない労働力商品を基軸としているのである。

恐慌論はこの点で経済学の原理論で特殊の課題をはたすものといってよいことになる。それは…[資本主義社会の]矛盾の根源をなる労働力商品自身における価値法則の特殊の展開を明らかにする。
(同前416-7頁:下線は引用者)

こうした理解から、宇野は恐慌論を次のように位置づける。

…[資本主義に特有の]人口法則の展開を明らかにする恐慌論は、かくして価値法則を明らかにする価値論を、いわば内部から支えているものといってもよい。恐慌論を欠く限り経済学の原理論は、その体系を完成するものとはいえないのである。/資本主義に特有なる人口法則を展開する道を開きながら、しかも恐慌現象の根本原因としての資本の過剰を説きながら、これを恐慌論として原理的に展開しえなかった『資本論』の体系は、何としてもなお未完成なるものといわざるをえない。
(同前417-8ページ)

スラッファは、賃金はすべて剰余から支払われるものとした。つまり、必要労働力に対する賃金(労働力の価値)は生産体系の内部で決定されるものとしたマルクスの方法をスラッファは斥けた。スラッファはその理由をほとんど語っていないに等しいが、必要労働といえどもその価値を生産体系の内部では決定できないという考えがスラッファにはあったのではないか。もしそうであれば、宇野とスラッファは奇妙な一致点を持っているということになる。

ただそうなると、スラッファはなぜ、賃金は外部から与えられるとするだけで、理論的に賃金が規定される過程としての景気循環論(恐慌論)をどうして展開しなかったのかという新たな疑問が湧いてくる。

《参考文献》
山下博「スラッファの新著とリカァドゥ解釈」『経済学論叢』(同志社大)11巻6号、1962年
宇野弘蔵「労働力の価値と価格」『宇野弘蔵著作集第4巻』(初出『社会労働研究』1958)
宇野弘蔵「恐慌論の課題」『宇野弘蔵著作集第4巻』(初出『社会労働研究』1967)


[塩沢教授から(3)]

片桐さま
関根先生とは、2度ほど長い間、話したことがあります。一度は1988年、トロントでアメリカ学説史学会があったとき、一日、ヨーク大学をお尋ねして、いろいろお話を聞きました。関根先生は、現天皇のご学友だったのですね。一番印象的だったのは昭和天皇に関する関根先生の薀蓄でした。昭和天皇について書かれたものはほとんど読んでいられるということで、とても印象ふかい昭和天皇論でした。

もうひとつは、関根先生に大阪市立大学に来ていただいたときの話です。こちらは宇野原理論は、座標のようなものだから時代が変わっても変える必要がないという関根先生の自論に対して、わたしが反論したというものです。

わたしの説は、19世紀の経済だけが資本主義の本質を示しているとは限らない、20世紀になって明らかになったことも多く、そのある部分は原理的なもので、それは理論の発展として取り入れなければならないというものです。そのように発展した理論/原理論からみれば、なにも19世紀だけが純粋資本主義化傾向を示したとはいえない。宇野派の考え方は19世紀を特権化している。

まあ、大枠をいえば、そんな話です。これはたぶん4時間ぐらいは議論したとおもいますが、ほとんど平行線でした。このあたりの私の主張は「マルクス経済学の作風」という論文にまとめています。最初は、岩波の『思想』に書いたものですが、『マルクスの遺産』に入っています。

高須賀先生には、なんども一橋に呼んでもらい、いろいろ話をしました。高須賀先生は、マルクス・ルネサンスに期待を掛けていたのですが、わたしは結構そのあたりは冷めていて、新古典派批判を徹底すること、真の批判にあたる新しい経済学を提出すべきだというものでしたが、批判の方はともかく、新しい経済学を再構築するという方はほとんどすすんでおらず、内心忸怩たるものがあります。

以下は、先にいただいたメールについて。

私が疑問をもっているのは、この「賃金財バスケットが確定すれば」という前提です。スラッファ体系のような静態モデルにおいて賃金財バスケットは本当に確定できるのだろうかという疑問があります。

これは正当な疑問とおもいます。「賃金財バスケットが確定すれば」というのは、仮にそう仮定すれば、基礎財や標準商品といった話が可能になるというもので、「確定する」ことがあやしげならば、それだけ標準商品による分配の分析が「不変の価値尺度」といったものの代用となるかという問題が起こるということです。ですから、標準商品云々の議論は、到底、金科玉条とすることはでません。

ちなみにわたしは、スラッファの延長線上に、いまは次のように考えています。まず、基礎におくのは利潤率です。スラッファの本では賃金水準と利潤とは、互いに相互規定的な変数となっています。価格(生産価格)をめぐる議論ではそれでよいのですが、経済のいろいろのことを考えるには、それだけでは不十分です。

たとえば、経済発展に伴って実質賃金率が上昇することが一般に観察されますが、これをどう解釈したらよいでしょうか。技術進歩があり、かつ利潤率が一定ならば、価格低下か賃金上昇というルートを経て、実質賃金は上昇します。では、技術進歩のあるような長期の経済過程において、なぜ利潤率はあまり大きく変動できないのか。これには、市場の競争状態が関係しているとわたしは解釈しています。もちろん、産業間の利潤率格差、新商品・新技術に対して先行者利潤が付くといったことも考えられますし、賃金率の上昇を抑えるような状況(A. Lewisが指摘した無制限労働供給状態)では、賃金が上がらず、利潤率は上昇し、資本蓄積が加速するといった過程も見られるでしょうが、それ自体が市場競争を激化させて、利潤率は低下する。それで利潤率が一定の値をとるとはいえないとおもいますが、利潤率の方がある程度安定的になるのではないかと考えています。

こういう考えからいうと、「賃金財バスケット」が決まって賃金率が決まってくるのではなく、賃金の上昇により、賃金財バスケットは、とうぜん、変化していく(労働者に選択される)ものとなります。実質賃金水準が変われば、エンゲル係数に代表されるように、とうぜん、バスケットの構成も変化してくいはずです。そういうことも考えると、一定の賃金財バスケットを前提として、あらゆる分配状態を測定しようとするのは、「仮に一定の賃金財バスケットを前提すれば」いえることでしかありません。

片桐さんの「備忘録」といわれるものの中で、宇野先生が『資本論五十年』において
「労働力商品の価値の規定はどうして決まるかというのはズット後に明らかになったことです」(662頁)。

といわれているという話は、非常に参考になりました。『資本論五十年』は、わたしも大好きで、熱心に読んだのですが、このあたりはまったく読み飛ばしていました。恐慌論が展開されなければ、労働力の価値すなわち実質賃金の高さは解けないというのと、上のわたしの考えとは、方向が似ていますね。よいヒントを与えられたと思っています。

スラッファの謦咳に接したことのある、インド出身の元スラッファイアンから聞いた話では、その教条主義は聞きしに勝るものがあるそうです。

わたしは1986-87年にケンブリッジに出張していますので、会おうとおもえば会えたはずですが、実際には会いに行きませんでした。まあ、写真でもとって終わりでは仕方なかろうとおもっていたのです。ただ、スラッファに経済学への最初のきっかけを作ってもらった関係上、スラッファの弟子たちでなく、スラッファ自身が教条的だったといわれると辛いですが、たぶんスラッファも晩年はなぜ生産規模を変えてはいけないのか、うまく説明できず、理由もなく頑固と思われたのではないかと推測しています。

ここが一般均衡理論、限界理論批判に関係するところですが、片桐さんが

なぜ『商品による商品の生産』が「一般均衡理論に対する批判の基礎にもなる」のかが極めて分かりにくいのが実態です。

といわれるような実態があることはたしかです。
私は、線形代数という便利なトゥールを易しく解説する努力を日本の経済学者は回避しているのではないかという疑問を持っています。昔、先生の『数理経済学の基礎』を品切れ寸前に入手し、読みかけたことがありますが、このときは先生が多用される線形代数が容易に理解できず、途中で挫折した記憶があります。線形代数を含む経済数学の基礎的訓練を受けていない読者に、「実線形代数にかなりの程度依存せざるをえない」ものを理解してもらうことは容易でないというよりは、ほとんど絶望的ではないか思ってしまいます。新古典派に与しない経済学者の集団には数学のトゥールを使うことを生理的に嫌悪する傾向がありますが、これもトゥールとしての数学の敷居を高いままにしてあることが影響しているように思えてなりません。

こういわれると、「そのとおりです」という以外に言い訳の言葉もありません。わたしの『数理経済学の基礎』まで買って読んでくださったということ、感謝します。

『数理経済学の基礎の基礎』あるいは『ゼロからはじめる数理経済学』といったようなものを書いていただけないかとさえ思います。

これもひとつの義務だとはおもいますが、批判はすでにいろいろやってきたので(それに「塩沢は批判しかできない」という声もかなり強くありますので)、当面は、新古典派のヘクシャー・オリーンの理論を凌ぐようなリカード流の貿易理論を展開しようと思っています。論文では、数学の準備などは、前提せざるを得ないのですが、いま書こうとしている国際貿易論の本は、なるべく片桐さんの批判=期待にこたえるようなものにしたいと思っています。
塩沢由典

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study081:071226〕

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