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	<title>ちきゅう座 &#187; 評論・紹介・意見</title>
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		<title>東栄蔵著『信州の教育・文化を問う』を読む</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 13:05:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[宇井　宙]]></category>
		<category><![CDATA[東栄蔵]]></category>

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		<description><![CDATA[　本書は、教育者で文学研究者である東栄蔵（ひがし えいぞう）の最新著（2012年5月発行）であり、信州の教育や文化・文学に関わる30編の評論・随筆・講演録などが収録されている。全体は3部構成となっており、第1部は高校生への指導や講演、長野県国語国文学会での講演や紀要論文など8編から、第2部は著者が直接・間接に邂逅した9人の文化人に関する追想記から成り、第3部は信州の文学に関わる13編の文章から構成されており、2007年の著書『信州の近代文学を探る』のいわば続編となっている。以下に目次を掲げる。
　　　Ⅰ
ほんとうの優しさとは何か
学園断想
高校生へ――精神の糧を培うために
長野ろう学校校歌をめぐって
教材としての新聞
女子高校生は戦争文学をどう読んだか
信州のある国語教師のつぶやき
ケリー旋風――占領下の信州教育
　　　Ⅱ
『太郎山より愛をこめて』を編んで
『この道を往く――漂泊の教師赤羽王郎』を読む
美馬敏男との邂逅
息づかいがきこえる昭和史の証言
『忘れられた学校』と清野房太
百瀬慎太郎の短歌
坂口安吾と松代大本営
清水栄一――信州のメセナの先駆
木村熊二をめぐって
　　　Ⅲ
一茶俳句の英訳をめぐって
相馬黒光著『黙移』を読む
水上　勉『有明物語』を読む
信州に疎開した林芙美子
愛と平和の詩人　大島博光
戦時下の信州の文学
文学に描かれたアジア太平洋戦争と信州
　井出孫六『一九四五、ぼくは中学生だった』
　加藤周一『ある晴れた日に』
　久保田正文『冬のランプ』『少女』
　吉行淳之介『湖への旅』
　石川達三『暗い歎きの谷』
　林　郁『満州・その幻の国ゆえに』
　和田　登『悲しみの砦』
　このような広範多岐にわたる内容を持つ本書を満遍なく紹介することは到底不可能なので、本稿では、評者が特に興味を惹かれた数編を中心に紹介したい。最初に、「信州のある国語教師のつぶやき」に依りながら、著者の略歴を紹介する。
　東栄蔵は敗戦間もない1947年2月、反骨のジャーナリスト桐生悠々が主筆を務めた伝統に心惹かれて信濃毎日新聞社に入社、社会部や県政記者を経て文化部記者となり、作家や文化人の講演会などにしばしば同行取材した。1953年には坂口安吾・壇一雄を松代大本営地下壕に案内し、「これは太平洋戦争の巨大な負のモニュメントだ！」という安吾の感慨を引き出している。10年間の記者生活を送った後、自分が本当にやりたいことは教師の道だと考え、1957年に信濃毎日新聞社を退社し、高校の国語教員に転身する。定時制の分校を皮切りに、各地の高校で国語と同和教育を担当し、県教委の指導主事や高校長なども歴任した後、1982年には定年まで2年を残して高校長を退職し、その後は長野女子短期大学をはじめとする多くの大学で教鞭を執る一方、長野市民教養講座の運営委員会代表兼講師、長野県カルチャーセンター、松本中日文化センター等で講師として生涯教育にも携わり、一切の教職を退いた今日もなお信州の近代文学や人権教育の研究を続けている。
　東が高校の国語教師として実際に行った教育実践の一端は、「女子高校生は戦争文学をどう読んだか」を読めば明らかになる。これは、1972年度からの３年間、小諸高校３年生の現代国語の担当教師として行った戦争文学教育に関する授業実践の記録である。教科書に収録されていた吉田満の「戦艦大和の最期」の学習を終えたあと、さらに著者が作成した戦争文学作品リストのなかから、生徒各自が読みたい作品を自由に１～２点選ばせ、感想文を提出させたうえで、それを元に討論を行うという方法が採られている。学習が進むにつれて、生徒一人ひとりが、戦争の持つ悲惨さに衝撃を受けつつも、その意味や原因を自らの頭で考え、それを自らの問題として捉え返していく様子が描かれている。「戦艦大和の最期」を読んだ生徒のなかには、天皇のために死ぬことが立派だという価値を信じこまされて死んでいった将兵に罪はなく、彼らは犠牲者であるとしながらも、「その死を賛美することは戦争の美化につながっていく」と批判した者もいた。また、大岡昇平の「野火」を読んだ生徒の一人は、「戦争の犠牲者である無名の兵士たちが、また比島人に対しては加害者でもあるという戦争のもつ複雑な意味が実感された。もう一度読んでもっとよく考えてみたいし、またもっといろいろな戦争文学もよんで戦争体験を継承することの意味を私なりに考えてみたい」と記している。ここに登場する高校生たちの生の声は、たとえ事実がどれほど悲惨で残酷なものであろうとも戦争の真実の姿を知りたいという希求に溢れている。ここには、本物の教育とはどういうものかが具体的に示されていると思う。このような教育実践が各地で続けられている限り、この国の未来にも希望は残されていよう。
　東の教育観が最も端的に表れているのは、長野西高校2年生のホームルームでの講演記録である「高校生へ――精神の糧を培うために」であろう。東はまず、最近の若者の間で、権威に反発したり、批判したり、疑問を感じたり、不安になったり、正義感に燃えたり、涙を流したり、といった青春期特有の精神の振幅が少なくなっているのは、氾濫する情報の中で、主体的に考える力が衰え、思考が画一化し、個性や感性が希薄になっているからだ、と指摘する。ではどうすればいいのか、という問いに対して、東は２つの三角形という比喩で答える。ひとつは底辺は狭いが頂点が鋭角的に伸びている三角形で、もうひとつは底辺は広いけれど、頂点が低い三角形である。底辺の狭い三角形は上に向かって尖鋭的に伸びているが、強い風に当たる、つまり問題にぶつかると、ぐらぐらして傾き、成長が止まってしまう。底辺の広い三角形はなかなか頂点が伸びないように見えるが、難しい問題に出遭っても、それを跳ね返して個性的な生き方を伸ばしていくことができるという。そして、本当の力、生きた力を養うためには、底辺を広くすることが大事である、と東は主張する。そのためには、教科書以外の読書をしたり、いい出会いをすることが大事であると東は説く。そうすることで、自分の経験の中にない異質の経験を追体験したり、他の人からの影響を受けて、自分のものの見方が広がり、自分の問題をもっと多面的・弾力的に考えられるようになる。このような「精神の肥料」は、すぐに効き目が出るわけではないが、長い年月の間には必ず効果が表れる。ところが、そういうことをしないで、受験勉強にだけ没頭していると、鋭角的になるから試験の点数は上がるが、自己中心的で他人の気持ちのわからない人間になりやすく、挫折に弱い「脆弱な秀才」にしかなれない、と東は言うのである。
　このような教育観を持つ東は、「いい出会いを探してもらいたい。いい出会いをしたり、いい本を読んだりして、個性を軸にして自分の底辺を広げていく。そういう試行のなかで自分の人生は自律的になり豊かになる。引け目を感じたりすることもないし、傲慢になることもないのです。それがまた、相手の立場に立ってものを考える感覚にもつながっていくのだと思います」というメッセージを送っている。
　高校生に対する東のメッセージは、高校の生徒会誌に寄せた２つの随想「ほんとうの優しさとは何か」や「学園断想」の中にも窺える。前者では、津村信夫の散文詩「飯山」と杉きみ子の物語「ゆず」の解釈を通して、「ほんとうの優しさ」とは、「芯に強さをつつんで謙虚な実践をつづける」勇気と、「するどい想像力と知性」に裏付けられたものである、という結論を引き出し、「真実を発見できるような知性・・・そういう知性と想像力は津村信夫の詩「飯山」と杉きみ子の作品「ゆず」の解説を通してすでに述べてきた「ほんとうの優しさ」の基底において深くかかわっているものだ」と述べている。後者においては、輝かしい伝統を持つ同校のスケートクラブのたたかいに触れつつ、「人間のほんとうの価値は、肩書や金ではなくて、それぞれに自己のなかに潜んでいるものを自らの意志で、すなわちスケートクラブ員のように自己とのたたかいできり拓くところにこそあるのだ」という励ましの言葉を贈っている。
　このようなリベラルな教育思想を持つ東が、大きな共感と深い尊敬の念を持ってその生涯を描きだした異色の教師が2人、本書に登場する。赤羽王郎と木村熊二である。
　赤羽王郎は1911年、25歳のとき、信州の中津小学校に赴任して以後、1981年に95歳で没するまで70年近くにわたって様々な形で教育に関わり続けてきた人である。1919年、33歳のときに信州の教育界を追放されてからは朝鮮（京城）や鹿児島の離島、北京、岩手県花巻など各地を遍歴し、その間、勤務した学校は23校に及んだが、師範学校卒ではなく美術学校中退の学歴であったため、そのほとんどの学校で、代用教員・嘱託・教諭心得などとして勤務したが、王郎自身はそうした資格には少しも拘らず、常に堂々と所信を述べ、「名利得失を意に介さず」独創的な教育実践を行ったという。ひとつの学校での勤務期間は長くて2年、短くて1カ月という短期間であったが、どこでも子どもたちとすぐに親しくなり、児童生徒からは慕われたという。王郎の生涯を描いた今井信雄の『この道を往く――漂泊の教師赤羽王郎』を東は、「最近読んだ教育関係の著書のなかで、本書ほど私の心を深くとらえたものはなかった」と評している。
　少年の日に天竜川の自然に親しみ、飯田中学時代には高山樗牛の『美学及び美術史』を読んで深く啓発されて東京美術学校に進学したものの、俗悪な気風と教師たちの陰湿な勢力争いに嫌気がさして中退した後、理想主義・人道主義の雑誌『白樺』に出会い、「自分を生かし他人を生かし、なお、そこに生き甲斐と歓びを持てるような仕事」を考えた末、「計り知れない創造の源泉ともいうべき子どものくにの人になる」ことを決意して教師の道を歩むことになる。最初に赴任した中津小学校では、被差別部落の子どもたちに対する差別の撤廃に奮闘する。1918年、32歳のときに赴任した埴科郡戸倉小学校では、仲間とともに形式的教案不要論・朝会廃止論などを職員会のたびに論議し、成績評価を甲乙から文章評価に切り替えさせ、授業においては修身教科書は徳目の羅列で生きた人間の息吹が感じられないとして取り扱わず、ユーゴーの『噫無情』を読み続けるなどした。また、歴史では神代は神話と事実の混同であると批判し、地理の教材に朝鮮が出てくると、虐げられた朝鮮民族に同情し、統治政治の非道と在朝邦人の悪虐ぶりを数え上げ、軍隊がいかに非人間的な集団であるかを説き、教室からは乃木大将の額を下ろしてトルストイやミレーの絵に掛け替えるなどの行為を行った。しかし、このようなラディカルで平等主義的で反権威主義的な教育は異端とされ、王郎は懲戒処分を受けて信州の教育界から追放されるに至る。東は、「これらの教育実践は、生徒たちの自主性や創意を培い、人道主義に立って真実とは何かを教えようとするものであり、形骸化と管理を学校から追放し学びの場を新鮮にする試み」であり、「名利得失を意に介さないヒューマンなものであったがゆえに、追放される王郎を教え子たちは心から慕ったのである」と述べている。
　信州の教育界を追放されて朝鮮に渡った王郎は、京城（現ソウル）の学校では、朝鮮人生徒の立場に立つため、朝鮮人と同じ生活を続けることによって生徒の心を捉え、敗戦前後を過ごした花巻の看護学校では、生徒の生活環境を改善するため、公私のけじめをつけ、余暇の時間を確保し、図書室を設け、休日には読書会を開き、平日の夜は看護婦の社会的なあり方や生き方について話し合ったり、演劇やコーラスの指導を行ったりした。
　しかし、王郎が最も長い年月を過ごしたのは鹿児島であり、しかもそこでの教育の大半は「奄美大島や甑島などの離島・僻地の教育」であり、「そこでの教育に後半生を賭け、その教育を実りあるものにし、そこにみずからの生きる証しとよろこびを見出したことを見落とすことはできない。これは、信州の中津小学校で被差別部落児童の側に立ち、さらに植民地時代の朝鮮人生徒の側に立って教育した王郎のヒューマニズムに、深くつながるものである」と東は述べている。これは、教育の原点は定時制にあると考えて定時制分校から教員生活をスタートし、校長としても、困難な課題のある地域高校の教育と生徒こそを大事にした東自身の姿勢と繋がっている。
　しかし、王郎の生き方と教育理念は信州においては異端視されて追放されたのに対し、それが尊重され、自由な実践の場を与えられて花開いたのが鹿児島であったのはなぜなのか、と東は問い、「薩摩人は大きな提灯を皆して盛り立てるが、各人は自分の提灯を手にしていない。一方、信州人は、各自が小さな提灯をささげてはいるが、大きな提灯を作ることを知らない」という王郎自身の談話を紹介している。これはまた、信濃の風土と人間を愛するがゆえに、その閉鎖性を指摘する東の批評精神の現れでもあろう。
　書き下ろしの論考「木村熊二をめぐって」では、島崎藤村の師であると同時に、小諸義塾の塾長として信州の教育史にユニークな一頁を刻んだ木村熊二の生涯を描き出している。
　明治維新直後の1868年、友人の戸山正一からアメリカ留学の勧誘を受けた熊二は留学を決意し、1870年、25歳のとき渡米する。1882年までの足掛け13年に及ぶ滞米生活の中で、神学や哲学、生理学から病理学まで研究し、マスター・オブ・アーツの学位と牧師の資格を得て、82年に帰国する。帰国後、明治政府からの招聘を断り、東京市下谷教会牧師として布教する一方、高等商業学校・学習院・共立学校などで英語講師を務めている。男尊女卑の日本の現状を憂え、自由な女子教育の必要性を痛感していた熊二は1885年、40歳のとき私財を投げ打って修業年限5年の明治女学校を麹町に創立した。1889年には日本で最初の女子高等科も設立し、内村鑑三、巌本善治、北村透谷、島崎藤村といった錚々たる講師陣が教鞭をとり、羽仁もと子、野上弥生子、相馬黒光、山室機恵子など個性豊かな人材を輩出したが、高等科の火災などが原因となり、1908年に閉校となり、23年の歴史に幕を閉じた。
　その一方で、熊二は1892年、明治女学校は巌本に託し、日本キリスト教会伝道委員会からの派遣によって、信州南佐久郡野沢に移住し、キリスト教の伝道に努めた。翌93年、小諸町町会議員で青少年運動の指導をしていた小山太郎の懇請により、小諸義塾を開設した。熊二は共立学校の教え子である島崎藤村を国語と英語の教師として招聘したほか、井出静（塾頭：漢文・書道）、鮫島晋（数学・理科）、渡辺寿（国史・地理）、丸山晩霞（美術）といった錚々たる講師陣を招聘し、特色ある自由教育・英才教育を行った。1903年には信州初の女学校である女子学習舎を設立したほか、農具の改良、桜桃や苺の栽培、缶詰製造などを奨励し、地域の産業開発にも貢献した。しかし、小諸町が小諸義塾を廃して乙種小諸商工学校を設置する方針を決定したことや、井出静塾頭の死去などが重なり、1906年に小諸義塾は閉塾に追い込まれ、13年間の歴史に幕を閉じ、熊二も長野を去った。晩年はおおむね不遇のうちに過ごしたというが、明治政府の招聘をすべて断り、出世には目もくれず信州への道を選んだ熊二の小諸義塾について、その「先進的教育が、明治期の佐久地方に果たした教育的意義は、信州教育史のなかに特筆すべきものであると思う」と東は記している。
　以上、本書『信州の教育・文化を問う』の中から、主に教育論を中心に評者がとりわけ感銘を受けた論考をいくつか紹介した。これらの論考に見られるようなリベラルで子どもの個性と自主性・自律性を尊重する著者の教育思想に私は心から共鳴し、その教育実践に深い敬意を覚える。他方で私は本稿では、著者・東の信州の近代文学研究者としての側面をほとんど紹介することができなかった。その点は読者にお詫びするとともに、是非本書を（できれば『信州の近代文学を探る』とともに）手に取って頂ければと念願する次第である。
◆書誌情報：東　栄蔵『信州の教育・文化を問う』（文藝出版、2012年5月4日発行）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0891:120515〕
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		<title>政治的排除を狙っただけの控訴に反撃を！</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 09:49:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[三上 治]]></category>

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		<description><![CDATA[小沢一郎の「政治資金規正法」事件の一審での無罪判決に対する控訴が行われた。正直いってどこまでやれば気が済むのか、という思いがするが、冷静に考えてみればこれが権力の側の所業といえる。何故なら、この裁判の意図が小沢一郎の政治力の排除にあったのだからである。一連の国策裁判と言われたものの総集約的位置にあった小沢裁判は、権力側の訴追内容のお粗末さと共に権力側の政治的意図も露呈させてといえる。それがまたこの控訴で露骨に出た。
体制や権力にとつては裁判の問題は手段なのであって目的は政治的排除であり、政治的影響力の逓減である。このことは明瞭である。だが、ここで僕らが注意すべきはこの問題にどう対応するかである。手続きの問題としてあらわれた領域の事柄を単なる手段の問題としてではなく、現在の日本の権力問題として認識し、現在的な政治の課題に広げて対応していくことだ。これが一つである。民主主義は手続きの問題であると言われるがこれは日本の民主主義の問題である。日米同盟の根幹である価値観の部分、法治国家と称されるものの実態をこの裁判は露骨なまで示す。戦後にアメリカが日本の統治の理念として提示した民主政治（法治政治）の実際で官僚制的民主主義の姿である。かつて、小室直樹が田中角栄の「ロッキード裁判」を評して「日本は未だ近代国家に非ず」と述べたことが想起される。だから、この裁判を検察審や検察、裁判所、またメディア、政党や政治家にまで広げて検証し、日本の権力の変革として闘うべきだ。控訴の如何に関係なく裁判は終わっていないし、闘いも継続している。この裁判は日本における政治権力をめぐる一線級の課題なのだ。もう一つは小沢一郎の政治的排除とどう対応するかだ。政治的排除という政治目的に対する政治的対応である。民主党の主脳が控訴に関係なく小沢一郎への「党員資格の停止の解除」を決めたことは正しい。当たり前のことだが、主脳陣にしては珍しくよい判断であった。小沢一郎は民主党の政治的信頼の回復にかけて闘うであろうが、僕らは小沢を政治的に排除してきた動きとは逆の動きをやるべきである。一連の国策裁判が日米同盟の新たな展開に踏み込んだ小泉―安倍政権時代から始まり現在にまで至ってきた過程を見るならば、そこから排除されようとしてきた政治的力の復権がめざさなければならない。日本の自立を考える政治的部分だ。小沢一郎はその中心にいる。日米関係の見直しを根底にした日本の社会のビジョンと構想を持つ政治的力を僕らは必要としている。国民の生活と存在が必要とする政治力の構築に政治的対応の根本はある。（5月10日）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0890:120515〕
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		<title>青山森人の東チモールだより　第２１２号（２０１２年５月１４日）</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 02:50:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<category><![CDATA[東チモール]]></category>
		<category><![CDATA[青山森人]]></category>

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		<description><![CDATA[東チモールのねじれ国会
青山森人　e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
まだあった異常気象による災難
　今月５日の土曜日から「雨のち曇り」または「曇りのち雨」のどんよりとした天気が始まり、シトシト……ジトジト……と雨が降り続き、日照時間が極端に少ない天候がその翌週の半ばまで続きました。まるで日本の梅雨のようなグズグズとした天気がこの南国の空にふさわしくないのはもう過去のことかもしれません。東チモールに定着した感があります。
　ぐずついた天気は５月１０日の夕方になると、本格的な雨天になり、深夜になっても雨は断続的ながらも降りしきり、翌１１日の明け方から強い雨に変わりました。１１日はこの雨のため、子どもたちは登校しないで自宅待機……つまり堂々と家で遊ぶことができました。雨が強く降るから学校へ行けない、行かない、大人は通勤できない、仕事に遅れる、このようなことは東チモールでは普通のことです。なお学校にかんしては、校舎が水浸しになってしまうので授業にならないという現実があります。
　翌１２日、デリ国際マラソン大会が開催されました。日本からも有森裕子がゲスト参加しました。もし１１日のような強い雨が降ったらたいへんなマラソン大会になったことでしょう。しかしうまい具合に雨は大会を避けてくれました。大統領主催の国際マラソン大会が水を差されなくて何よりです。
　ともかく１１日午前中の雨は首都住民の活動を停止させるほど強い雨でした。例によって例のごとし、川に濁流が流れ出し、海は茶色に濁りました。首都の一部は水浸しになる被害が出たので、山の農村部の被害も心配です。
　ところで、東チモールは異常気象による被害を受けるだけでなく、オーストラリアの炭素税によって歳入減にみまわれるかもしれないことについて前号の『東チモールだより』で書きましたが、災難はまだありました。「京都議定書」の調印国として東チモールも年１００万ドルを国際機関に支払わなくてはならないことを、今になって与党ＣＮＲＴは悔いている記事が新聞に載りました。それによれば、政府は調印する前によく内容を確認しなかったとのことです。異常気象は貧しい国から惜しみなく大金をふんだくるのです。いっそのこと東チモールは「京都議定書」から撤退した方がよいのでは……。
　きょう５月１４日、久しぶりに晴れた朝を迎えました。なんとなく重かった身体が軽く感じるから不思議です。東チモールでこんなにお天道様が恋しく想ったのは初めてです。
写真１
１１日の午前中に強い雨が降りしきり、首都の住民は外出を控えた。午後にようや雨足は弱まったが、この日は一日中、休日のように人通りは少なかった。写真のこの一帯は水に浸った。浸水の被害をうけた家もある。いくら道路工事をしても首都の水はけ機能は改善されない。道路工事の質が問われる。
２０１２年５月１１日、コルメラ地区にて。ⒸAoyama Morito
連立政権、事実上の分裂
　来る総選挙の投票日は７月７日、選挙運動の期間は６月５日～７月４日と一ヶ月間の長丁場です。そして現在、５月２日～１８日のあいだ、選挙技術管理事務局はこの総選挙のための有権者登録を行っている最中です。
　選挙登録をした場所でしか投票できない現行規則によって、大統領選挙では首都から地方への帰省ラッシュが生じてしまい、田舎に帰れなかった有権者は投票できず投票率が低下したといわれています。ラモス=オルタ大統領は早急にこの規則を見直すべきだといい、国会議員の間にも同様の意見が広がりました。
　一方、総選挙のための有権者登録を改めて行うのですから、大勢の有権者は田舎に帰省しなくても首都で投票できるように登録をし直しています。これは現行規則に則った手順です。こうしてみれば現行規則で間に合うのではないかという気がします。
　国会では大統領選が終了すると選挙規則の見直しの審議を始めようとしたところ、なんと連立政権の最大与党ＣＮＲＴは弱小政党のごとく国会の本会議を欠席して、審議を拒否する行動に出ました。国会議長は与党第二党の民主党のラサマ党首です。ラサマ国会議長の困った様子が毎日のように新聞に載り、ＣＮＲＴは審議に応じて、与党の責任を果たしてほしいと訴えます。この状態はもう３週間以上続いているのです。
　本会議を欠席するＣＮＲＴの論理は、選挙規則変更には控訴裁判所が憲法違反と考える可能性があり、審議の時期が適切でないし、国会予算の問題もあるというものです。選挙登録を改めてしているので、たしかに現行の規則で間に合うかもしれないし、ＣＮＲＴの言い分も一理あるとしても、審議拒否という強硬手段に出る理由がよくわかりません。一つだけハッキリしているのは、ＣＮＲＴはもはや連立政権を束ねることがでず、総選挙を前にしてＣＮＲＴと民主党が主要政党であった連立政権は、事実上、崩れたということです。
　ＣＮＲＴが民主党と共闘できず本会議を欠席したのは、もうすぐ任期満了を迎えるラモス=オルタ大統領と組んで総選挙に臨むことを発表しＣＮＲＴに見切りをつけた民主党のラサマ国会議長への嫌がらせのように映らなくもありません。総選挙を前にして連立の新たな枠組みを模索する各政党による攻防がすでに始まっているようです。
　さてＣＮＲＴによる本会議欠席という手段にたいし、当然のごとく野党フレテリンはＣＮＲＴを強く非難します。ところがそのフレテリンが土地法の審議において本会議を欠席する手段に出ました。この土地法は、一度は国会を通過したものの大統領が拒否権を行使し公布できなかったことから、審議のやり直しとなった法律です。フレテリンの本会議欠席の理由はＣＮＲＴよりも訳がわかりません。ポルトガル植民地支配からインドネシア軍による占領を経て１９９９年の騒乱時に至るまで、大勢の人びとが移住を余儀なくされた東チモール独特の悲劇から発生した土地所有権の問題をめぐって、現在も市民の間に紛争が絶えないことは誰もが実感しています。土地法の審議に参加しないことでフレテリンは何を得られるというのでしょうか。ＣＮＲＴとフレテリンの本会議欠席の動機について、わたしは新聞を読んでもよくわからないというのが正直なところです。
　別々の審議とはいえ最大与党と最大野党が本会議を欠席するという事態に、ラサマ国会議長は、欠席する国会議員は国民の問題を弄んでいると批判し、ますます困り果てています。一院制でも国会はねじれるものなのだとわたしは知りました。
　それにしても任期満了まで国会議員は職務をまっとうしてほしいものです。東チモールの国会議員は選挙戦のフライングをしているように見えます。責任政党による審議拒否や国会空転が珍しくない日本人の老婆心から言わせもらえば、国会議員はちゃんとすべての審議の席についた方がよいのではないか。
二項対立から三つ巴の戦いへ
　２６もの政党が乱立する今度の総選挙では（連合を組む少数政党もあるので、有権者が選ぶのは２１の政党または政党連合）、一つの政党が議席の過半数を占めることはできず連立政権になることは明らかです。連立の組み方次第でその政党が与党になるか野党になるかが決まります。したがって選挙結果後の手練手管が政党の明暗を分けることになり、選挙運動期間中よりもむしろ選挙後の方が、政情はドロドロと紛糾することが予想されます。
　５年前はフレテリンと反フレテリンという二項対立のなかでシャナナ=グズマンによる連立勢力の議席が過半数に達し、ラモス=ホルタ大統領はシャナナ=グズマンを首相に任命しました。来る５月２０日に就任するタウル=マタン=ルアク新大統領の場合は、フレテリン、ラモス=オルタと民主党の連合、シャナナのＣＮＲＴ、これら三つ巴の対立構図となる分だけ、より複雑な局面を迎えることでしょう。
写真２
総選挙の日程は、６月５日～７月４日が選挙運動、７月７日に投票日である。日本式にいうと七夕選挙だ。そして現在、５月２日～１８日のあいだ、選挙登録が行われている。地方から首都に出て勉強や仕事をしている人が現在滞在中の首都で選挙登録をすれば、この前の大統領選挙のようにわざわざ帰省しなくても投票できる。
２０１２年５月９日、ベコラ地区の役所に張られていたポスター。ⒸAoyama Morito
～次号へ続く～
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0889:120515〕
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		<title>東電の社外取締役の兼任の撤回を～數土・NHK経営委員長に申し入れ～</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 23:43:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[東電]]></category>
		<category><![CDATA[醍醐聡]]></category>
		<category><![CDATA[ＮＨＫ]]></category>

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		<description><![CDATA[先週末、政府はNHK経営委員会の委員長・數土文夫氏を東京電力の社外取締役に起用する方針を固めたというニュースが流れ、唖然とした。私も共同代表を務める「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」の運営委員はすぐに、この件について協議をし、數土氏宛てに兼任受諾の撤回を求める申し入れをすることになった。また、直接の当事者でないとはいえ、NHK経営委員会、監査委員会も静観して済む問題ではないと考え、昨日（2012年5月14日）、両委員会の各委員宛てにも質問を提出した。
　社外取締役は業務執行役員とは違って、東電の業務に関わるわけではなく、取締役の業務執行を監視・監督するのが職責だから、とりたてて問題にすることではないという議論も予想される。そうした異論も見越して、私たちは次の２点から、數土氏の兼任を批判し、撤回を求めることにした。詳しくは、以下、掲載する申し入れ書の全文を参照いただきたい。
　一つは、NHKの最高意思決定機関である経営委員会の長の職と、目下、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった、どれひとつをとってみても、一国規模での重要課題を抱えた東京電力の社外取締役の職は、職務の質と量のどちらから見ても、両立は不可能なこと。
　もう一つは、NHKの経営委員会の長の職と東電の社外取締役の職を兼任することは相互に相反関係を生むこと。そして、ここでいう相反関係には２つの面があること。①東電は目下、NHKの最重要の取材・報道対象である。取材する側のNHKを監督する機関の長を務める人物が取材される側の経営に参画することは、メディアの非当事者原則に反する。②東電は政府の支配下に置かれる実質国有化企業になる。NHKを監督する機関の長を務める人物がそうした企業の経営に関与することは、政府との距離を保ち、自主自立の放送を行うことを使命とするNHKへの視聴者の信頼を揺るがすことになる。
 その上で、申し入れは最後に、數土氏に対し、
　＊NHKの経営委員会の長にとどまって、その職責を全うする意思があるなら、東電の社外取締役に就任する意思を撤回すること、
　＊東電の社外取締役に就任して、その職責を担う意思が固いのなら、NHK経営委員長の職を自ら辞すこと、
　を求めた。
　*****************************************************
2012年5月14日
NHK経営委員会
委員長　數土文夫　様
　　  東京電力の社外取締役への貴殿の就任の撤回を求める質問・要望書
　　　　　　　　　　　  ＮＨＫを監視・激励する視聴者コミュニティ
　　　　　　　　　　　　　　　　　     共同代表　湯山哲守・醍醐 聰
　拝啓　貴殿におかれましては日頃よりNHK経営委員長としての重責を担ってご尽力を下さり、厚くお礼申しあげます。
　新聞報道によれば、政府は5月11日、実質国有化される東京電力の社外取締役の一人として、貴殿を起用する方針を固め、東京電力は本日、２０１２年３月期決算と併せて、本件人事を発表すると伝えられています。そして、来る6月下旬に開かれる同社の株主総会後の取締役会で貴殿は現在のNHK経営委員長の職にとどまったまま、正式に社外取締役に就任される予定と報道されています。
　しかし、貴殿がNHK経営委員長の職と兼任の形で東京電力の社外取締役に就任されることについて、当会は以下述べる理由から、これを断じて認めるわけにはいきません。
　会社法上、社外取締役の職務は会社の業務の執行ではなく、いわゆる独立役員として業務執行取締役の職務の遂行を監視し監督することにあるとされています。その一方で、社外取締役は引き受け手がなく、著名人の名誉職的な役職と評されたりしています。しかし、だからといって、今回、貴殿が東京電力の社外取締役に就任されることを是認したり、就任に伴う問題点を軽視したりすることは到底できません。
　１．まず指摘すべき重大な問題は、NHK経営委員長の職と東京電力の社外取締役の職は、それぞれの職責の重さ、時間的精神的な負担の面から両立は不可能だということです。公共放送・NHKの最高意思決定機関の長の職責の重さは改めて説明をするまでもありません。他方、社外取締役の職務も取締役であることに変わりはなく、他の取締役と同じように善管注意義務・忠実義務・内部統制構築義務・監督義務等を課され、相応の報酬を受けます。このうち、会社に対する損害賠償責任に関しては株主総会の決議によって軽減が可能とされているとはいえ、報酬の2年分が最低責任限度とされ、それを超える範囲内では他の取締役と責任を共有する立場にあります。
　具体的に言えば、社外取締役の職務は、取締役会への出席にとどまらず、報酬・指名・監査委員会や各種経営会議への出席、経営陣との打ち合わせ、投資家・取引銀行・取引証券会社等に対する会社説明会への出席、監査法人との報告会への出席等、枚挙にいとまがありません（日本取締役協会『社外取締役の導入実態調査 2011年』参照）。これを見ただけでも兼任となれば、兼任先の業務遂行に相当な負担を要することは明らかです。
　しかも、今回の貴殿の兼任先は一民間企業ではなく、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった一国規模での最重要課題を抱えた東京電力です。このように重大な課題が山積する東京電力のコ－ポレート・ガバナンスを有効に機能させる上で社外取締役に求められる職責の重さを考えた時、NHK経営委員長の職にある貴殿が東京電力の社外取締役を兼務できるものでないことは常識に照らして自明です。それでも貴殿が東京電力の社外取締役を引き受けられるとなれば、「NHK経営委員長の職務とはそれほど楽なのか」と評されても致し方ありません。
　２．しかし、問題は兼務に伴う時間的精神的負担の大きさにとどまりません。NHK経営委員長としての職責と東京電力の社外取締役に求められる職責がそもそも相反するという点が重大です。このことは2つの面から指摘できます。
　一つは、東京電力が、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった諸問題について、NHKの極めて重大な取材・報道対象だという点です。NHKの業務執行を監督する立場にある経営委員会の長が、そうした取材先の社外取締役に就任し、相応の報酬を得る一方、善管注意義務・忠実義務等を共有するのは、メディアに携わる者の基本というべき非当事者原則に真っ向から反し、経営委員会の職務遂行の公正性に対する視聴者の信頼を根底から覆すことは明らかです。
　もう一つは、東京電力が政府の実質的な支配下に置かれる会社になるという点です。貴殿がそうした会社の社外取締役に就任され、取締役会の議決に加わって、その決議に係る責任を分有する行為は、貴殿が政府の意思決定と密接に関わることを意味します。そうした貴殿が政治からの独立を生命線とするNHKを監督する経営委員長の職にとどまることは結局、NHKあるいはNHK経営委員会の政治からの自立に関する視聴者の信頼を大きく損なうことは、これまた明らかです。貴殿はこの点をどう認識しておられるのでしょうか？
　以上から、当会は貴殿に対して、次のことを質問もしくは申し入れをいたします。
　１．（質問） 上記の理由により、NHK経営委員会の長の職責と東京電力の社外取締役の職責は両立しがたく、両者は相反するという当会の指摘について貴殿はどのように受け止められるか、お答え下さい。
　２．（申し入れ）貴殿がNHK経営委員長の職にとどまる意思を持たれているのであれば、それとの両立を期し難い東京電力の社外取締役への就任を辞退されること。あるいは、既に、就任を受諾されたのであれば、それを撤回されること。
　３．（申し入れ） 貴殿が東京電力の社外取締役への就任を受諾される意思が固いのであれば、それとの両立を期し難いNHK経営委員長ならびに経営委員の職を自ら辞されること。
　ご多用のこととは存じますが、以上3点の質問ないしは申し入れについて、ご回答を2012年5月24日までに下記あてに書面でお送り下さるよう、お願いいたします。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  敬具
初出：「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0888:120515〕
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		<title>演劇は政治を変えられるか　―新国立劇場で『負傷者１６人』を観る―</title>
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		<pubDate>Sat, 12 May 2012 13:00:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[『負傷者１６人』]]></category>
		<category><![CDATA[半澤健市]]></category>
		<category><![CDATA[演劇]]></category>

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		<description><![CDATA[《パレスチナの闘士とホロコーストのユダヤ人》
　新国立劇場小劇場で２０１２年５月３日に『負傷者１６人SIXTEEN WOUNDED』という芝居を観た。
舞台はオランダのアムステルダム。時代は「オスロ合意」前後の１９９０年代中頃。仲間との喧嘩で傷ついた若者を老いたパン屋が救う。頑なな若者とパン屋の心が通い合う過程で二人の正体が見えてくる。若者は闘争のパレスチナから来たムスリム（イスラム教徒）であり、独身のパン屋はホロコーストを体験したユダヤ人であった。
憎悪と不信が、話し合いのなかで次第に溶解していく。若者はパン屋の弟子になり美しい恋人も得た。人生経験と思想を異にする二人は理解し合い、父と子のような生活に入れるかにみえた。私生活が、政治と宗教を乗り越えたかにみえた。パン屋の愛人は娼婦だが彼は本気で求婚する。そこへ若者の兄が登場する。彼は弟に再び闘争への復帰を促す。
それを知ったパン屋は思いとどまるよう若者を懸命に説得する。ここの激論がハイライトである。しかしその夜、若者は身ごもった恋人を残して出て行く。
ヨーロッパの諸都市で同時多発テロが起こった。「アムステルダムでは最も被害が多く爆破犯のほか死者１０人、負傷者１６人」というテレビニュースのナレーション。屋外に聞こえる救急サイレンの音の中に幕が降りる。
原作者はエリアム・クライエムEliam Kraiem、父親がイスラエル人、母親がユダヤ系アメリカ人。翻訳は常田景子、演出は新国立劇場の芸術監督でもある宮田慶子。キャストは若者マフムード（井上芳雄）、その恋人ノラ（東風万智子）、パン屋ハンス（益岡徹）、その愛人ソーニャ（あめくみちこ）、若者の兄アシュラフ（粟野史浩）。
《三つの感想》
　三つのことを考えた。
①政治の現実に個人の善意と友情は立ち向かえるのか
この劇では立ち向かえなかった。若者とパン屋は引き裂かれる。しかし作家はイスラエルに肩をもってはいない。イデオロギーの勝負に持ち込まない。イスラム研究者の内藤正典（同志社大教授）はこう書いている。
「ヨーロッパ社会は、ムスリムと彼らの信仰であるイスラムが暴力の源泉だと、ますます頑なに信じこんでしまった。しかし、これだけは言っておかなければならない。暴力の源泉は宗教ではない。たとえばパレスチナでの暴力を、ユダヤ教とイスラムという宗教間の衝突だというのなら、それは根本的な誤りである。イスラム帝国として６００年以上にわたって中東に君臨したオスマン帝国（１２９９～１９２２）は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、根絶やしになどしていない。帝国は、今日のイスラエルにあたる地域も支配し、ユダヤ教徒との共存を実現していた。暴力による支配を厭わなかったのが近代ヨーロッパであることに、疑問の余地はないのである」。（本公演パンフレット、以下引用は同じ）
なるほどそうかも知れない。ならば歴史は進歩していないのか。退歩しているのか。歴史の中で、かけがえのない人生が奪われているのである。
②演劇に何ができるのか
作者のクライエムはこう言っている。
「日本、ヨーロッパ、南北アメリカでは、世界を認識する見方が根本的に異なります。ですが、本作で私は根本的な共通性に訴えようとしています。『負傷者１６人』では、逃走中のパレスチナの若者と、第二次世界大戦が終わって４５年を経てなお身を潜めているユダヤ人を取り上げ、その文化の違いを可能な限り掘り下げてみました。ですが、やはり私の真の関心は２人の間の相違ではなく、あくまで類似性があるはずだという信念が本作を支えています」。
演出の宮田慶子は言う。
「現代戯曲の面白さは、何といっても、作家も舞台の作り手である私たちも、そして観てくださる観客の皆様も、皆がまさに同じ時代に生き、共通の情報をもち、その上で個人としての考え方知識や経験まで、すべてを巻きこみ、取り込みながら、舞台が進行することです」。
作者も演出家も演劇は無力ではないと主張している。文学にできることがあるといっている。言葉の力は物理的ではない。しかし確かに人の心を動かすことができると私は思った。それは細い一本の糸となって実世界に影響を与えるだろうと私も思った。
③惨劇が商品となり消費される
本作品の米国ブロードウェイ初演は、９／１１から２年７ヶ月後の０４年４月だった。それを観た青鹿宏二という演劇専門家は、「よいタイミングでなかったが、作者のヒューマニズムを強く感じた」と述べている。それから８年、日本語になった作品を快適な座席で東京の小市民が観ている。ホロコーストと中東の悲劇が消費財になっている。演劇の牙が丸くなってテレビのニュースショーのように受け止められている。
この構図は何なのか。同じ感覚を私は、井上ひさしの東京裁判三部作を観たときにも感じた。観客の会話、巨大な劇場、豪華な舞台、それと演劇の深刻さの対比がうまく納得できない。この意識は偽善的または自虐的であろうか。澱のような気分から私は離れられない。
■『負傷者１６人』は新国立劇場小劇場で２０１２年５月２０日（日）まで上演中。
詳細は新国立劇場（電話03-5352-9999）へ。
初出：「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion088７:120512〕
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		<item>
		<title>個の尊厳と自由の精神に対立する自らの 「国家」という意識（その2）</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/22796</link>
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		<pubDate>Fri, 11 May 2012 08:19:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>souma</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[個の尊厳]]></category>
		<category><![CDATA[国家]]></category>
		<category><![CDATA[大木　保]]></category>
		<category><![CDATA[自由]]></category>

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		<description><![CDATA[「個の尊厳」にまさるものなどありはしないわけで、世界金融資本にいいように食いつぶされた国家の借財などを負担するいわれはない ・・
 ハイパーリラックス（副交感神経亢進）といえば、
大きなとらえかたをすれば、世界中の人たちがいつのまにか拝金主義にはまっていたのですが、
欧州のギリシャやフランスの人たちは、ようやくにして自律神経のバランスをとりもどしたように、
「自国の帳尻あわせのためにしいられる犠牲」を拒絶するという真っ当な思考をしめすようになりました。
もとより、「個の尊厳」にまさるものなどありはしないわけで、
世界金融資本支配体制にいいように食いつぶされた国家の借財などを負担するいわれはないのであって、
声高らかに 「NO! 」 をつきつけることができたことは、
世界のひとたちにとっておおきな光明となるにちがいない！
&#8211; さて今回は、前回にひきつづいて
わたしたち自身が隠しもっている厄介な腹中の虫のような「観念」についてお話してまいりましょう。
くりかえしますが、
わたしたちがそれぞれに孤独と生き難さにおしつぶされそうな、この社会を、
「互いのかけがえのない存在をみとめあう、ゆたかな精神の自由・自立の社会」にするためにかかげる&#60;個の尊厳と自由 &#62; とは、また
“ まちがっても 、&#60; 国家 &#62; に収斂していくような 『共同意識』（ナショナリズム）に、
まさに &#60; 個 &#62; の自由度を抑圧するような 『ナショナリズム』にひきこまれない、
「のほほんとして拒絶できる」大衆としての尊厳をしめしてゆけるよう、成熟しなければならない。 ”
という意味での&#60; 自由 &#62;であり&#60; 尊厳 &#62;　のイメージでもあるわけです。
すこし過去の日本にさかのぼって、
吉本隆明氏がするどく指摘した、この共同意識のすさまじいはたらきについてあらためてみていきましょう。
&#8211; 過去に、
わたしたちの尊厳と自由な精神を封じ込めた、みずからの「帝国日本」という「国家」意識は、
狡猾な権力がさしだした「愛国」に名を借りた「敵対意識と日本ナルシズム」の高揚へと収斂されていった。・・
その日本人特有のナルシズムに裏打ちされて、大陸侵略を容易にゆるし、
それがみずからを縛る強迫的共同観念となる域まで、国民大衆がとりこまれ、
やがて、国民こぞっての戦争に立たされ、
あげくに敗戦、　帝国の破綻をむかえることとなる。・・
すなわち、
敵対・差別意識と民族の超越性という共同観念と自己観念（ナルシズム）との同化が完結したとき、
みごとに狂気をはらんで孵化した日本ナルシズムが即、日本ナショナリズムに昇華して、
現実から遠く解離したことで 「 昂揚感（陶酔）」につつまれ、
それゆえにまた、破滅から免れなかった。&#8212;
以前にも書いたように、
そもそも、　明治の日清、日露戦争後の （下関条約）、（ポーツマス条約）以来、
「侵攻して決戦勝利すれば領地や賠償金が手に入る」という「帝国主義」思想が
国をあげて国民こぞって、
「とうぜんのように身近に認知」されるようになったことが、
国家意識（共同観念）と自己意識が同化する道を貫通させたとみとめられよう。
やがて国民の知覚的な認知にまで身体化してしまった「帝国主義」観念が、のちのちまで、
日本（人）の「個のゆたかな精神性」=「ひらかれた世界観」への成熟の道をとざしつづけることになる。
結果的に、その身近になった帝国主義思想をたくみに利用した昭和の北支派遣軍の
（当時の）統帥権侵犯ともいえる戦火拡大をも 時の政府がゆるす要因となったとかんがえられる。
&#8211; すなわち、昭和のはじめ頃ごろ、
政党はつねに他党の足をひっぱることだけに専念し、
国民は経済破綻にくるしみ、議会政治を見かぎろうとしていた折、
北支事変を契機に戦火が拡大して、ついには首都南京を攻略する。
この軍部独走による一時的勝利 を、日本中が歓迎した。
「勝利」にわく 国民はこんども 「戦勝の報酬」をのぞんだが、
蒋介石国民党政府が敗北をみとめなかったために、
戦争がまだつづいてゆくことに 国民はとまどった。
「勝ったはずの戦争がなぜ終わらないのか？」
これがいままでの帝国主義の戦争ではないことを国民は理解できなかったのである。
またこのときに、社会大衆党の西尾末広などは、
国家総動員法を社会主義の模型だといって賛成した。
西尾はそれが全体主義官僚支配思想であることを積極的に肯定したのである。
（そんな人物が戦後、その名も民社党なる党派をひきいたことは笑止千万だが、
戦後のいずれの党もこの程度におのれと国民に対して不誠実で、
戦争と敗戦の思想的な意味と責任を真摯にひきうけることはけっしてなかった。）・・
このように気がつけばいつのまにか、国中が総帝国主義化をはたしていたのである。
しかし、いざ総動員体制がうごきだすと、
だれもが戦争のための艱難辛苦の強制が予期した以上のものであることを、
すなわち、「この戦争がただ事ではない」ことに気づかされる。・・
しだいに、日常生活の中では、
異常に躁症状をきたしたひとたちが愛国行動以外をゆるさないという病理を見せはじめる。
多くの国民も、帝国主義思想とその実現という夢の代償として
世界列強を敵にして、
「世界に冠たる日本民族の超越性」という
現実解離した美化のイメージを欲求せざるをえないほど
強迫的な孤立に染まったとかんがえられる。
このとき、
帝国日本の国民大衆は、（のちに吉本隆明氏が洞察したように）
個の尊厳と自由な精神をみずから封じ込めてひさしく、
もはやナルシズムとしてだけの自己観念をたよりに、
戦争指導部がかかげる必勝のための共同観念（国家意識）「日本ナショナリズム」にのみこまれていったのである。
&#8211; 一方、そのときどきの内閣は軍部官僚主導とはいえ、
周囲の野党や知識人らの分からず屋たちとは違って、 こんにち考えられているよりも自重し、
ぎりぎりの情報外交に帝国の命運をかけていたのはたしかであった。
しかし残念ながら、指導部の世界情勢認識にはつねに「希望的観測」という、
孤立意識ゆえの&#60; 認知バイアス &#62; がかかっていたのである。・・
世界列強への恣意的な「対立と依存」（対ソ、欧米および三国同盟）、
後進諸国への優越意識による戦局の甘い見通しを捨て切れなかった。
なにせ元が明治以来のほとんど無自覚な帝国主義観念が継続されてきたことの結果である。
それは、昭和十五年（1940年）二月二日の
第七十五議会における衆議院議員・斉藤隆夫（立憲国民党）による渾身の「反軍演説」が
すでにだれの頭にもひびかなかったことに、みてとれるのである。・・・
&#8211; くりかえして言うと、
わたしたちがもっとも自覚しておくべきは、
この、みずからの中にわきあがる「国家」というやっかいな意識（共同観念）は
強迫性をともなって、 いまだに個々の頭に根深く執拗に潜む生きもののごとき意識であることである。
戦後GHQ右派にこの国を売り渡して 戦犯免除と権力を得た元高級軍人・政治家・官僚とおなじスタンスで、
御用マスメディアがたれ流す、
「止むを得なかった帝国日本と対米隷従」の紙面でみたされているのをみるにつけ、
過去に自己意識を破綻させられたあてどない者の、
強者へのあわれな擦り寄り行動がまねいた痴呆化現象というほかあるまい。
それはままた対人恐怖不安症のように、 世界の現実からいまだに逃亡・依存したがる
「昭和の亡霊」たる戦後体制派たちの長きに過ぎた無残な姿にほかならない。
それをまたゆるしてなかば同化してきた国民の、とりかえすことのできない時間をも見つめなければなるまい。・・
&#8211; 現在でも個人のレベルにおいて、そのような共同意識の国家観念を
大なり小なり、自己意識に密着させるようにしているひとたちもいる。
それは、メディアや支配層の為にする欺瞞的な国家観とはちがって、吉本隆明氏のみるように
古代以来の純粋な共同意識が埋もれ火のように秘匿されている人の特色とみなされようか。
しかしまた、社会の生活意識から解離して自己喪失を呈した分だけ共同観念に取り込まれようとしている、
心的な危うさに立たされた人とみることもできよう。
なぜなら大衆は日常性の中では自覚的な共同意識にいたることがないからであり、
ある意味では健全に日常性そのものを生きているからである。
&#8212;
その健全性に重きをおいてみれば、
「君が代の起立斉唱の義務と罰」をうたった大阪市条例が、
「さしたる混乱もなく過ぎた」ことは、
市長や御用メディアの思惑とはちがって、
この時代に至ってようやく、国民の総体が、
「君が代」にもはや、つよい負の歴史的意味も、
また逆にナルシスティックな美化の妄想をもいだけない、という
あらたな地点に立ったといえようか。・・・
それは、「個の尊厳と自由」の方向にむかっているのだろうか。・・・・・
（ブログ・心理カウンセラーがゆく！http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0886:120511〕
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		<item>
		<title>ミャンマー民主化に向かって苦渋の選択　－アウン・サン・スー・チー議員らが初登院－</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/22716</link>
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		<pubDate>Tue, 08 May 2012 01:29:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤力司]]></category>

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		<description><![CDATA[ミャンマーの民主化運動のリーダーで、先の補欠選挙で下院議員に初当選したアウン・サン・スー・チー氏は5月2日、自らが率いる国民民主連盟（NLD）の当選者37人とともに下院に初登院、正式に議員に就任した。これより先4月23日の議会開会に当たり、スー・チー氏は議員就任宣誓の「憲法を守り」という言葉を「憲法を尊重し」に改めるよう要求したが容れられず、この日は同僚とともに登院を拒否した。しかしその9日後には「憲法を守り」の宣誓をするという、苦渋の選択をせざるを得なかった。
軍事政権時代に制定されたミャンマー憲法は、国会議員定数の4分の1を選挙なしで軍人に割り当てるなど、民意より国軍の発言権を優先している。このためスー・チー氏は憲法の改正を主張し、4月1日投票の補欠選挙でもNLDは改憲をスローガンに掲げて闘った。その結果は、補選の対象となった上院6議席（定数224）、下院37議席（同440）、地方議会2議席の計45議席中43議席をNLDが獲得するという圧勝だった。だからこそ
現「憲法を守り」という宣誓の言葉をそのまま呑むわけにはいかなかった。
スー・チー氏は「憲法を守り（safeguard）」でなく「憲法を尊重し（respect）」とする妥協案を提示したが、テイン・セイン大統領が率いる政府はこれを拒否した。テイン・セイン大統領と言えば、昨年3月30日ミャンマーが軍政から民政に移管して以来のトップ指導者だ。元々は長年にわたって権力を独占してきた「国家平和発展評議会（SPDC）」という（名は体を表さない）軍事政権のナンバー4だった陸軍大将である。ところがこのテイン・セイン大統領、軍服を背広に着替えた途端に軍政が通算15年間も自由を奪ったスー・チー氏との対話で、自分はミャンマー民主化に尽くすと売り込んだという。現地から伝えられるところでは、スー・チー氏もテイン・セイン氏と「意気投合」したとか。
「意気投合」説にもかかわらず、ミャンマー政府は議員就任宣誓の文言変更の妥協案を拒否した。そこでスー・チー氏さらに妥協した。「私たちの支持者や投票してくれた人々は、NLDの議会活動に期待し民主主義を実現して欲しいと願っている以上、私たちは議会に参加し議会で憲法を改める努力を続けることにした」というのである。補欠選挙で圧勝したとはいえ、NLDの国会議員の数は定員の10％にも満たない。圧倒的多数は、国軍の翼賛政党である連邦団結発展党（USDP）と任命議員の軍人が握っているという現実がある。
民政移管のための総選挙は2010年11月に行われた。NLDはこの当時の選挙法で事実上非合法政党とされ、選挙をボイコットせざるを得なかった。テイン・セイン政権発足後に改正された選挙法でNLDは政党登録できるようになり、今回の補欠選挙に参加できたし、今後の総選挙にも参加できる道が開けた。確かに2011年3月31日に、軍事政権最後の首相だったテイン・セイン将軍が間接選挙で大統領に選ばれて民政移管が実現して以来、ミャンマーの「民主化」と「開放」は急速に進んだ。
少数民族に対する残酷な人権侵害や、NLDが大勝した1990年の総選挙結果を無視して独裁を続けてきたミャンマー軍政に対する欧米の制裁措置は、2011年3月以降テイン・セイン流の民主化措置を受けて段階的に解除されつつある。最も厳しい制裁を加えていたアメリカのクリントン国務長官が昨年末にミャンマーを公式訪問、長官とスー・チー氏の2ショットの笑顔写真は「ミャンマー民主化」を世界に訴える効果があった。これをきっかけに欧州、米国、日本、韓国などの「開発処女地」ミャンマーへの投資競争が始まった。
とはいえこの国にはなお見過ごすことのできない問題がある。それはまず1962年軍事クーデターで権力を握ったネ・ウィン将軍の独裁に反抗して、1988年7月に学生と民衆が決起して26年ぶりに軍政を打倒したことだ。しかしこの国の軍部は、その2カ月後に新たなクーデターを起こして再び権力を握った。新たな軍政は、1990年の総選挙で民意にかなう政党に権力を移譲すると約束しながら、約束を破って総選挙で圧勝したNLDに政権を渡さなかった。それどころか当選したNLD議員を投獄し、議会すら開かせなかったのである。
こういう負のプロセスを経て権力を握ったのが、ネ・ウィンを継承した将軍たちである。その代表が1988年クーデター当時陸軍参謀長だったソー・マウン大将だが、1992年にはタン・シュエ上級大将がその地位に就いた。このタン・シュエ大将（79）こそ、以後19年間にわたってミャンマーに君臨し、独裁権力を振るった人物である。テイン・セイン氏も、軍事政権トップのタン・シュエ将軍の指名で民政移管後の初代大統領になれたのだ。
さて問題は、民主化にひた走るテイン・セイン大統領と昨年まで彼の上司だったタン・シュエ将軍の関係である。タン・シュエ将軍はテイン・セイン氏にすべてを任せミャンマーの改革がさらに進むことを是認しているのか。それともテイン・セイン氏とアウン・サン・スー・チー氏の“蜜月”をいつまでも放置できないと思って監視しているのか。表向きは完全引退したとされるタン・シュエ将軍だが、憲法に規定のない「軍評議会」なるものを秘かに組織して、テイン・セイン政権の政治決定に影響力を行使しているとの報道（2011年6月19日付東京新聞）もある。
さらにリチャード・ルーガー元米上院外交委員長（共和党）もこの「軍評議会」の存在を指摘している。それによると「軍評議会」はタン・シュエ将軍を筆頭にテイン・セイン大統領らごく少数の軍人で構成され、政務や政策について報告を受けたタン・シュエ将軍が大統領に指示を出すという仕掛けだという。その一方で、「院政を敷くに違いない」と言われたタン・シュエ将軍は予想を裏切って完全に引退、イラワジ・デルタの貧しい家庭に生まれ、学費無料の士官学校に学ぶしかなかったテイン・セイン氏は、今や大統領として「清廉」と「改革」の初心を貫いているのだと評価する、現地識者の観測も伝えられている。
非民主的な憲法の下で民主主義を貫こうとするアウン・サン・スー・チー氏には、曲がりくねった棘（いばら）の道が待ち構えている。15年もの軟禁生活に耐え抜いた精神力と愛国心こそ、彼女を真にノーベル平和賞にふさわしい受賞者にした。だからこそミャンマーの人々は、今回の補欠選挙でNLDを圧勝させた。しかしこの国に「新しいページを開く」という言葉を連発するテイン・セイン大統領は、2015年に予定される次の総選挙までにNLDとスー・チー氏に完全に自由な選挙活動を許し、民主的憲法への改正への道筋をつけさせられるだろうか。「イエス」と言いたいが、まだ言い切れないのがミャンマーの現状であろう。
初出：「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0885:120508〕
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		<title>サラダ記念日くらいの親しみがあるといい</title>
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		<pubDate>Mon, 07 May 2012 09:46:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[三上 治]]></category>

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		<description><![CDATA[「『この味がいいねと』君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。あまりにも有名なこの歌を引用させてもらうのは恥ずかしいが、五月三日の憲法記念日もこれくらい親しみがあるといいのだと思う。憲法記念日というのはどこか正装をして出掛けるようなところがある。よそ行きのような所が付きまとうのである。本来は憲法が民衆の意思の結晶としてあるものなのに、制度として外《外国》から移入されたものだというところがあるからだろう、と思える。社会から生まれたものでもない、その分だけ諸個人に身体化されてある度合いも小さい。それに,大正時代以降の左翼系の人たちから憲法はブルジュワジー（資本家階級）の道具として冷たく扱われてきたことも結果していると思う。
憲法が歓迎されざる存在としてずうっとあったことが憲法の歴史といえるのかも知れないが、根本的には国民の共同意思が権力（政治）を律する原理にはなっていないことがある。憲法の根本たる憲法精神が不在のままに憲法というと条文だけの存続《流通》してきたことにもよる。精神（魂）のない仏像みたいなもので、ありがたみ味もいまいちというところなのだ。こうした憲法が日本の憲法であるが、にも関わらず世界で先進的でかつ誇れるところがある。憲法第9条である。これは現行《戦後》憲法の特異性である。多分、全体として言えば魂なき憲法の中で、この条文だけは魂があり、現行の憲法を憲法らしくしているのである。憲法第9条の非戦条項が世界遺産というべき内容であることがその一つだが、もう一つこの条項には国民の意思が反映《結晶》しているからだ。国民の戦争観（戦争についての意思）が反映されているのだ。これはこの憲法制定（形式的には改正）時に、アメリカ占領軍や日本政府の思惑を超えて国民の意思が反映したのである。この条文をあわてて作ったアメリカ占領軍が改定を促しても、彼らの意図を否定して存続してきた。アメリカの意図を受けての体制や権力の自主（？）憲法制定の動きを否定してきた。戦争の経験と集約的表現がここにある。あまり親しみのない憲法だけど、第9条だけは国民の意思という点でも、非戦と言う意味でも世界に誇っていいものだ。戦争体験のない世代に9条の歴史的意味がどのように伝わるか、という難題に逢着している。それを憲法記念日の度に想起するがこれはいまやイデオロギーを超えた課題である。野田首相など民主党の戦争体験なき幹部連中に僕らが感じているものだ。ここ十数年。僕らが一番危惧してきた事だが、日米同盟の名の下で海外派兵などに軽が軽しく踏み切りそうな動きにそれを感じている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0884:120507〕
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		<title>青山森人の東チモールだより　第２１１号（２０１２年５月６日）</title>
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		<pubDate>Mon, 07 May 2012 04:30:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[東チモール]]></category>
		<category><![CDATA[青山森人]]></category>

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		<description><![CDATA[異常気象は東チモールの歳入を減らす
青山森人　e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
泣きっ面に蜂
東チモールにおける大雨は、この二ヶ月に限れば、大統領選挙の第一回目の投票がおこなわれた３月半ばにその頂点に達したと思われます。これを境にして季節は雨季から乾季へ徐々に移りながら、一週間のうち三日間だけ雨が降る、あるいは二日間だけ……と、しだいに雨の日が少なくなってきました。
ところが４月下旬の週は雨天の日が、降水量はそれほどでもないにしろ、増えてきました。５月４日（金）から曇りがちの天気となり５日（土）はまとまった雨が降りました。しだいに雨が少なくなるという季節の傾きに入ったのか、まだ入っていないのか、よくわからなくなってきました。
最近の東チモールの天候は読みづらい。こうなってきから、ああなるだろう、という経験・勘による“天気予想”は当たらなくなってきました。日本の四季の移り変わりと比較すれば単純な東チモールの季節な流れですが、複雑になってきたことはわたしでも感覚的にわかります。これがいわゆる世界的な異常気象の一端なのでしょうか。ともかく東チモールは異常気象よる大雨の被害を頻繁にうける深刻な事態が慢性的になってきました。
この異常気象の原因は地球温暖化であり、地球温暖化の原因は人間が排出する二酸化炭素であると唱えられる一方で、この二酸化炭素原因説には多くの専門家が疑問を投げかけているは周知のとおりです。
二酸化炭素説の真偽はさておき、オーストラリアではジュリア=ギラード政権が今年７月１日から「炭素税」なるものを施行することになっています。簡単に言えば、大気中に放出される二酸化炭素１トンにつき２３豪州ドルの税金をかけ、２０１５年までに２９豪州ドルに上げるというのがこの新税法です。この国の政治家や気象専門家が、二酸化炭素の排出が異常気象の原因であり、オーストラリアを含む世界中で発生する大洪水の原因であるという結論にどう達したのか、あるいは「炭素税」が地球温暖化防止に貢献するという結論に果たして本当に達したのか、そのへんのところはわたしはよくわかりませんが、新税の撤回・見直し論がオーストラリアの報道には多く見うけられます。個人・企業・団体に与える社会的・経済的影響の評価・分析が不十分だというのがその理由です。
さて、ここで問題にしたいのはオーストラリアではなく東チモールです。オーストラリアの新税法が東チモールの財源に影響するかもしれないのです。４月下旬にこの問題が東チモール側から提起されたとオーストラリアで報道されました。チモール海の「共同開発区域」（インドネシア占領時代は［チモールギャップ］と呼ばれた）における「バユ・ウンダン」ガス田などのガス開発から得られる利益の９０％を東チモールが受け取り、それがいま東チモールの主な財源となっています。開発事業はオーストラリアが実施しているので「炭素税」が適用されると、東チモールの歳入が年間で数百万ドル～数千万ドルもの削減になるといわれているのです。アジアの貧国にとってこの収入減は痛い。二酸化炭素が異常気象をもたらす地球温暖化の原因だとしたら、化石燃料の消費が少ない鉱工業未開発国である東チモールは異常気象に加担していない地球にやさしい国として、世界中から憐れみの褒賞を受ける筋合いはあっても大金をふんだくられる筋合いはありません。東チモールは異常気象から大雨の被害をうけるだけでなく、今度は財源減少の憂きめにあうとしたら、まさに泣きっ面に蜂です。
日本と似ているオーストラリアの政治状況
「炭素税」についてオーストラリア国内で賛否両論があり、これによって物価が上昇し生活が苦しくなろうが、ジュリア=ギラード首相率いる与党労働党の支持基盤が揺らぎ次回の選挙に負けようが、それはオーストラリア国内の問題です。なにゆえにチモール海の波を越えて貧しい東チモールの財源に波及しなければならないのか、東チモール側としては納得がいかないことでしょう。
東チモールのアルフレド=ピレス天然資源担当長官はオーストラリア税法の一方的な自国への適用は受け入れられないとオーストラリアの新聞に語っていますが、当然です。オーストラリアの報道によれば、オーストラリア政府は「共同開発区域」における開発に関して「炭素税」が東チモールに波及することは認識していたものの、この件にかんして協議はなされていないという。ピレス長官の「一方的な」という表現はここから来ていると考えられます。
一年分の国家収入から数百万ドル～数千万ドルが引かれるという事態についてオーストラリア政府から東チモールへ説明の申し入れがあって然るべきです。それがないとなると、その態度は東チモールにしてみれば大国の横暴に映ることでしょう。東チモールとオーストラリアの関係はますます悪化していく予感がします。
冷え切った両国関係にあって希望の光をもたらしてくれそうな人物、オーストラリアの閣僚のなかで東チモールが最も歓迎する人物であったゲビン=ラッド前外相（元首相）は、いまは閣僚から身を引いています。ケビン=ラッドは今年の２月、訪問先のワシントンで突如、外相を辞任すると表明し、自分を首相の座から降ろしたジュリア=ギラード首相へのたまっていた恨みのマグマを噴出させるかのように、ギラード党首にたいして党首選の挑戦状をたたきつけ、党首・首相の返り咲きを試みました。党首選挙運動のなかでケビン=ラッドは「炭素税について選挙前の発言をしたのはケビン=ラッドではない」、「東チモール解決案（難民中継センターの東チモール建設案）やマレーシア解決案（オーストラリアがマレーシアに８００人の避難民を送り、その代わりオーストラリアがマレーシアから４０００人の認定難民を受け入れるという交換案）に関係したのはケビン=ラッドではない」などなど、支持率低下を招く政府の失態を自分のせいにされるのはもううんざりだとばかりに激しくジュリア＝ギラードを攻撃しました。新旧両首相が党首選で対決するという異例の事態に盛り上がったかのように見えた労働党の内紛劇でしたが、ケビン=ラッドは三割の支持しか集められずあっさりと敗北し、党首選に立候補するときに約束したとおりジュリア=ギラード批判を止め、政治の最前線から退いたのです。
いま選挙をすれば労働党は大敗し政権交代が必至という状況と、政権与党内でゴチャゴチャ争っているという状況は日本とよく似ています。国民の人気が高いといわれるケビン=ラッドですが、党内ではその政治手法が批判され難しい立場に追い込まれるのも、日本の小沢・民主党元党首の状況に似ているといえるかもしれません。さらに、2010年の選挙前にジュリア=ギラードが「わたしが指導する政府では炭素税はない」と明言したのにもかかわらず、あっさりと180度ひっくり返り、炭素税がまさに実施されようとしている状況は、日本より少し先を行っているということでしょうか？
ケビン=ラッドが引っ込んだことはオーストラリアと東チモールの外交関係の観点からすると調整役を失ったことを意味し、もしオーストラリアが東チモールとの関係改善を望むならば、オーストラリアにとって損な出来事だといえます。
　オーストラリア与党の内紛劇は一応の幕引きをみましたが、来年には任期満了に伴う総選挙が待ち受けています。
ますます高くなるチモール海の波
そしてこれも「もしオーストラリアが東チモールとの関係改善を望むならば」という条件付きですが、タウル=マタン=ルアク新大統領の誕生はオーストラリアにとってさらなる難事かもしれません。シャナナ=グズマン首相と同じ様にタウル=マタン=ルアク次期大統領はオーストラリアの態度を好ましくなく観ていた人物です。いや、オーストラリアにとってシャナナ首相以上に、タウル=マタン=ルアク次期大統領は司令官時代にオーストラリア軍との折衝にあたりオーストラリア軍から直接嫌がらせをうけた経験があるだけに、東チモールとの外交関係を好ましい方向に回復させるうえでの好ましくない人物かもしれません。もちろん、タウル次期大統領は、シャナナ首相のようにあからさまに外交上ややきわどい言動（『東チモールだより第１５４号』［２０１０年６月１４日］参照）をとるようなことはせず、表向きはあくまでも礼儀にのっとった態度をとることでしょうが。
このような環境のなかで「炭素税」によって歳入を減らされれば、東チモールはオーストラリアからますます気持ちが離れ、交渉が暗礁に乗り上げているチモール海の「グレーターサンライズ」ガス田開発の伴侶をオーストラリア以外に求めることが現実になることでしょう。

「メーデー」のこの日は祝日となっている。労働組合・団体の集会が各地で開かれた。写真のこの集会は平和裏に行われたが、この国の最高級ホテルである「ホテル・チモール」前の集会は、警察が届出なしの不法集会だとして解散させようとし、これに抗議した集会参加者は投石、ホテルやパトカーの窓が損傷をうけ、警察官２名とホテル警備員１名が負傷、集会参加者８４名が拘束されるという大騒ぎになった。そもそもなぜかれらはこのホテル前の集会を企画したかというと、ホテルのお金を盗んだとして解雇された４人の従業員への連帯行動であった。かれらはお金を盗んだ事実はないと主張している。また集会にしても届出は提出しているので不法ではなく、警察が一方的に集会参加者を挑発したと訴えている。人権団体も警察の取り締まり方にやり過ぎがあったと批判している。なお、「ホテル・チモール」のポルトガル人支配人は妻子とともに翌日、騒ぎを恐れて、表向きは健康上の問題だとして、バリ島へ出国し、逃げた模様だ。４人の解雇が正当か不当か、白黒をつけなければならない責任者がこのざまではなんともならない。もし盗難が事実無根で不当解雇だったとしたら、誠意をもって謝罪すれば東チモール人はわかってくれるはずである。1975年、東チモール人の政党同士が内戦を始めるとポルトガル政庁はアタウロ島に逃げた。ポルトガル人は逃げないでもらいたい。
２０１２年５月１日、レシデレ地区の浜辺にて。ⒸAoyama Morito
～次号へ続く～
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0883 :120506〕
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		<title>戦後学生運動の“最後の輝き”か　－50年代学生運動を回顧し検証する動き－</title>
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		<pubDate>Sat, 05 May 2012 23:16:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[学生運動]]></category>
		<category><![CDATA[岩垂　弘]]></category>

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		<description><![CDATA[　1950年代は、学生運動が盛んな時期だった。占領軍（連合国軍総司令部＝ＧＨＱ）による反共政策が強まったり、日本の独立をめぐって全面講和か単独講和かの論争が高まったり、米ソによる核軍拡競争が激化した時代であったから、これを反映して学生運動が高揚したわけだか、このところ、その50年代の学生運動を回顧し、その意義を検証し、後代に伝えようという動きが目立つ。戦後学生運動の“最後の輝き”といえるかもしれない。
　５月８日、早稲田大学29号館の早大生協本部会議室で「第２次早大事件60周年記念の集い」が開かれる。主催は、1950年代の学生運動に参加した同大学ＯＢによって結成された第２次早大事件60周年記念の集い実行委員会（共同代表・芹澤寿良、中藤泰雄氏）。
　実行委によれば、52年５月８日夕刻、５月１日のメーデー事件（注１）に参加した学生の調査のために身分を偽って早大キャンパスに立ち入った神楽坂警察署の２人の私服刑事が学生に見つかった。学生たちは「警察官の大学構内無断立ち入りは、これを禁じた文部事務次官通達に違反する不法行為」として、始末書、陳謝文を書くよう要求。刑事がこれを拒否したため、学生側が抗議を続けたところ、９日午前１時過ぎ、300人を超す警官隊が実力行使を開始、座り込んでいた無抵抗の学生たちを排除し、学生26人を逮捕、学生・教職員100余人に重軽傷を負わせた。警官隊の大学構内侵入と無抵抗学生への暴行は社会的にも批判を浴び、国会でも取り上げられた。これが、第２次早大事件である。
　この事件を記念する集いが、事件から40周年の1992年に、50周年の2002年に開かれてきた。今回の集いは、こうした２回の集いの延長線上にあるものだが、50年代に学生運動に参加した人も80歳前後に達したことから、第２次早大事件を記念する集いもおそらくこれが最後になるだろうとの実行委メンバーの思いから、集いが目指す回顧・検証の対象も第２次早大事件に限らず、50年代に早大で行われた学生運動全般に広げることになった。
　このため、当日は、第１次早大事件についての発言も予定されている。この事件は、50年10月17日に早大で起きた、レッド・パージ（注２）反対闘争にからむ事件。この日、全日本学生自治会総連合（全学連）の呼びかけに応えた、早大学生自治会主催の「全早大平和と大学擁護学生大会」が開かれたが、レッド・パージ反対闘争参加を理由とした学生の退学処分に反対して、大会参加の学生が大学本部で開会中の学部長会議に乱入。学生と、大学当局の要請で出動した警官隊とが衝突し、学生143人が逮捕され、双方で20数人が負傷した。この事件により学生97人が退学処分を受けた。
　この時、逮捕され、退学処分となった学生の１人が、当時早大学生自治会委員長だった吉田嘉清氏（元日本原水協代表理事）だ。
　このほか、50年代の学生生活、学生による生協活動、文化活動などに関する報告も予定されている。
　当時、早大は東大と並んで日本の学生運動の拠点と言われていた。それだけに、早大における学生運動の検証は、当時の日本の学生運動を検証することにもつながりそうだ。
　50年代の学生運動に詳しく、「50年代の学生運動は、公布され施行されたばかりの新憲法（日本国憲法）の定着過程を担う大衆運動の役割を果たしていた」「50年代初頭の学生大衆運動は新憲法感覚の発露」と見る高橋彦博・法政大学名誉教授も報告する。
　昨年２月、『蒼空に梢つらねて――イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に北大の自由・自治の歴史を考える』と題する本が、株式会社柏艪社（札幌市）から発行された（発売は株式会社星雲社）。2010年５月16日に北海道大学で開催された対話集会「北大の自由・自治・反戦・平和の歴史を考える――イールズ闘争60周年・60年安保闘争50周年の年に――」の全記録だ。同書によると、この集会にはイールズ闘争の関係者や60年安保闘争の参加者を含めた北大のＯＢら250人が集まったという。
　
　イールズとは、ＧＨＱ民間情報教育局高等教育顧問ウォルター・Ｃ・イールズ博士のことである。日本で占領政策を進めたＧＨＱは、第２次大戦後に東西冷戦が激化すると、日本を反共の砦とする政策に転換した。このため・レッド・パージを各分野で推進し、大学にはイールズ博士を派遣した。イールズ博士は1949年７月に新潟大学で「共産主義的教授を大学から追放せよ」と講演し、その後も全国の大学で同じ趣旨の講演を続けた。50年５日２日、東北大学で講演を行おうとしたが、学生が抗議して講演会は中止となり、学生14人が退学を含む処分を受けた。
　北大でイールズ博士の講演が行われたのは、その直後の５月15、16の両日。ここでは「初日の講演会はイールズ博士が教職員の理路整然たる反論にまともに答えることができないまま終了し、翌日は約束に反する一方的なイールズ博士の講演に対して学生が質問を要求し演壇に向かったため、司会者が講演会の中止を宣言しました」という事態となった（『蒼空に梢つらねて』）。ＧＨＱは事件の責任者の処分を日本政府と北大当局に迫り、退学を含む学生10人の処分が発表された。
　『蒼空に梢つらねて』には、こうした北大におけるイールズ闘争の経過や真相が、事件の当事者や関係者の証言で明らかにされている。
　昨年９月には、田中貞夫・太田雅夫編著の『50年代の群像　同志社の青春』が刊行された。田中氏は元同志社学友会中央委員長、太田氏は元同志社学友会中央副委員長。発行者は「50年代の群像刊行会　木原泰男」。
　池本幸三・50年代同志社平和の会代表が「まえがき」の中で書く。
　「私たちのなかには、広島と長崎で被爆したものや、空襲や学童疎開の体験をしたものが多い。そして同志社大学で学ぶことで、戦争放棄、国民主権、基本的人権、男女平等を謳った日本国憲法の重要性を学んだ。しかし、それはアメリカの核独占と軍事的、経済的世界支配と、ソ連との東西の冷戦態勢の構築、強化、それに応じて起こった政治の逆コースに直面した。自我の形成と社会への目覚めの時期に、私たちは全面講和、再軍備反対、日本の真の独立を求めて、さまざまな形で異議申し立てを行った。その間の状況については、本書の前半部分で明らかにされている。しかし、本書は大学卒業後の人生の軌跡を辿ることに力点がおかれた。……多くの直情径行な青年たちはどこへ行ったのか。その頃の志はどのように持続されているのか。どのように変容していったのか。そうした『生き様』を、多様な形で発掘し、これを記録に留めて、後世に伝えたい」
　ここには、50年代に同志社大学で学んだ学生たちが在学中どんな運動に取り組んだか、卒業後はどんな軌跡をたどったかがビビッドに描かれていてまことに興味深い。
（注１）メーデー事件　日本が独立を回復した直後の1952年５月１日、第23回メーデーが東京の明治神宮外苑で行われた。皇居前広場をメーデー会場として使用することを禁止されたことに抗議するメーデー参加者約１万人が皇居前広場に入って警官隊と衝突。２人が死亡し、約1500人が負傷、1232人が検挙された。「血のメーデー事件」と呼ばれる。
（注２）レッド・パージ　1950年にＧＨＱによって行われた、共産主義者やその同調者の公職または民間企業からの追放をいう。共産党幹部のほか、官公庁から約1200人、民間企業から約１万1000人が追放された。
初出：「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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