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	<title>ちきゅう座 &#187; スタディルーム</title>
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		<title>世阿弥の謡曲にみられる仏教思想（１）</title>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2012 02:33:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[やすい・ゆたか]]></category>
		<category><![CDATA[世阿弥]]></category>

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		<description><![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　はじめに
　　　　「死にたくない!」命の叫び伝へむと生まれたりしか幸なき人よ
　二〇〇四年六月二三日のことだ。イラクで斬首された韓国人、キム・ソンイル(キム・イルソンではない)の最後の言葉が全世界に放映された。「Korean soldiers, please, get out of here. I don&#8217;t want to die. I don&#8217;t want to die. I want to live. Your life is important, and my life is important.」
　韓国企業カナ貿易の通訳担当社員金鮮一（キム・ソンイル）さんが、バグダッドからファルージャ付近の米軍基地に向かう途中で、行方不明になる。社長によると、カナ貿易はイラクで米軍に物資を納めている。金氏は１７日、バグダッドから約２００キロ離れた米軍基地に出かけた後、会社に戻らないため基地に問い合わせて行方不明になったことが分かった。金氏と一緒にいたイラク人職員１人のほか、同行していた米国系企業のトラックとトレーラー３台の運転手らも連行されたという。
　彼はアメリカのイラクにある軍事会社で働いていたらしい。アメリカ軍だけでは足りないので危険な仕事を引き受ける民間会社が外国人などを雇って、イラクで対テロ対策を行っていたのだ。戦争の民営化である。そこに雇われていた韓国人であるキム・ソンイル氏は、テロ集団に拉致され残虐にも大刀で首を斬られてしまったのである。
　彼がイラクに赴いた動機は、テロリズムを撲滅しようという英雄的な動機ではなかったようだ。それだったら、いかに脅かされても韓国軍の撤退など要求しない筈である。韓国では暮らしが楽にならないので、危険だが大きな収入になるイラクでの仕事をしてみる気になったのだろう。
　イラクに行く以上ひょっとしてこういう目に遭う危険性は予測していただろう。でもなんとかしてまとまった現金を手に入れようとしたら、命がけの仕事をすることも時には必要だと決断したのかもしれない。
　たとえある程度覚悟していても、実際に首を斬られるとなると「I don’t to want to die!」と叫ぶのは無理もない。死ねばその先はないのだから。この韓国人の青年のこれまでの人生は、それほどいいことはなかったかもしれない。今までが十分幸せだったら、なにも危険なイラクに行って大金を手に入れようなどとは思わないだろう。これまでが惨めで、辛い人生だったから、ここらで命がけで幸せを掴もうとしたのだ。だとしたら、彼はこれまでの踏んだりけったりの人生の末で大刀で首を斬り落とされるという終末を迎えたことになる。なんとも救いのない、哀れの極致である。
　ではこの青年の菩提を弔うということはどうして可能なのだろう。この青年がキリスト教徒だったのなら、教会できっと天国に入れるだろうと言ってくれるだろう。キリスト教で天国に入るという意味は、一般に大きな誤解がある。少なくとも『聖書』には死んですぐに天国に入れるとは書いていないのだ。世の終わりつまり終末の後で、審判があって、地上に出来る神の国つまり天国に入れるか、ゲヘナ(地獄谷)に行くかの二者択一なのである。
　本稿のテーマに即して語ろう。世阿弥の仏教思想では、このような悲惨な死に方をした人をどう弔うのかということである。何故、世阿弥の仏教思想を語るのにイラクで首斬られた韓国人青年を引き合いに出したのか、疑問に思われるかもしれない。私は何も反米思想からこういう話をするのではなく、世阿弥の時代には、こういう不条理な、悲惨な、残酷な救いようのない死に方をした人々がぞろぞろいて、死ぬに死に切れない怨霊がうようよしているように捉えられていたのである。
　観阿弥、世阿弥は「阿弥陀仏」の「阿弥」を名前につけているが、元々は、時衆の信徒が阿弥号を名乗っていたらしい。彼らの多くは様々な芸能を得意にしていた。その才能は踊り念仏に興じるところから培われたのかもしれない。
　室町時代になると将軍から一芸に秀でたものに阿弥号を名乗らせるということがあったようで、観世座の観阿弥、世阿弥などもそのように説明される。しかし私は能の謡曲の内容を見ると、むしろ仏教思想の表現として能が作られていたのではないかと思われるので、在俗の宗教者を意味する「居士」と同じような号と捉えるべきだと考える。
　前置きはこれぐらいにして、具体的に謡曲を幾つか紹介し、それぞれの宗教思想を解釈していくことにしたい。ただ謡曲の場合、成立年代などを確定するのは難しいので、宗教思想の変化や発展などを跡付けることはできない。また当然同じような思想内容に帰結するのはやむを得ない。だからこの論稿に何か体系的な展開を求められても困る。幾つかの世阿弥作品に見られる仏教思想を確認して、最後にまとめるということで諒としていただきたい。
ーーーーー⒈．『藤戸』―英雄盛綱に騙し討ちされた漁夫ーーーーーーーー
　　　　　　海の道教えし漁夫の欺かれ龍と化わりて怨み果たすや
　『藤戸』とから紹介する。ワキは佐々木三郎盛綱である。彼は源平合戦の藤戸の戦いで、馬で海の浅瀬を渡り、平氏を敗走させた際に、見事に先陣の功を立てた英雄である。その功により、児島を賜り、領主としてやってきて、島民から訴訟を受け付けることになった。
　訴訟に来たのが 前シテの漁夫の母である。実はこの母の息子が盛綱に平家が陣を張っていた島に渡る浅瀬を教えたのだが、情報が漏れないようにするために、盛綱に殺されてしまったのである。
それで母は「息子を返してくれ」と盛綱に詰め寄ったということだ。盛綱は戦の判断で仕方なく殺したので、菩提を弔い遺族の面倒を見るから、あきらめてくれという。後半は後シテに彼に殺された漁夫の霊がなる。怨霊は恨みを晴らそうとするが、仏法で菩提を弔われて成仏するという話である。
　 漁夫にすれば、盛綱が馬で海を渡って敵陣を攻撃するという前代未聞の奇策で大手柄をあげ、児島を領地に賜ったのもすべて自分のお陰であって、どんな褒美でももらえるぐらいなのに、恩を仇で返したその恨みは深いのだ。だから水底の龍になって復讐しようと思ったが、ところが弔われて成仏してしまったのである。そのさわりを引用しておこう。
地「思の外に一命を。召されし事は馬にて。海を渡すよりも。これぞ稀代の例なる。さるにても忘れがたや。あれなる。浮洲の岩の上に我を連れて行く水の。氷の如くなる刃を抜いて。胸のあたりを刺し通し。刺し通さるれば肝魂も、消え／＼と。なる所を。其まま海に押し入れられて。千尋の底に沈みしに。
シテ「をりふし引く汐に。
地「をりふし引く汐に。引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩の。はざまに。流れかゝつて。藤戸の水底の。悪龍の。水神となつて恨を為さんと思ひしに。思はざるに。御弔の。御法の御船に法を得て。即ち弘誓の。船に浮べば。水馴棹。さし引きて行く程に。生死の海を渡りて願のまゝに。やす／＼と。彼の岸に。いたり／＼て。彼の岸にいたり／＼て。成仏得脱の身となりぬ成仏の。身とぞなりにける。
　この謡曲のテーマをどう解釈すべきかは難問である。盛綱の手柄は、浅瀬を教えてくれた情報提供者を残忍にも殺し、恩に仇で報いたという悪行を伴っていた。だから英雄盛綱は実は悪い奴だったと暴露しているとも受け取れる。 だが情報提供者の口を塞ぐためには殺すしかなかったというのが盛綱の判断である。作戦を成功させるためには必要不可欠だった、平氏討伐という大義のためには敢て鬼になることもやむを得ないと盛綱は言いたいのだ。この判断が間違っているとは、部外者にはなかなか判断しかねるところである。
　それでは世阿弥の立場はどうか、それは盛綱が漁夫の菩提を弔って成仏させたという結論によって示唆されている。つまり盛綱の悪行は悪行だが、それによってしか平氏討伐ができないのなら、地獄行きは覚悟で悪行を行うしかない、悪によって善が行われるから、「善悪不二」「邪正一如」で、彼の行く極楽は地獄にこそある。漁師も恨みを懐いたまま自らが平氏滅亡に大なる貢献をしたことで人生をよしとせざるをえないのである。
　 だからあるがままで仏であるという、煩悩即菩提の立場が打ち出されているのである。煩悩即菩提とは煩悩の中にこそ覚りがあるという立場である。恩を仇で報われ殺されてしまった不条理すら、そのまま絶対肯定されているというので、この日本仏教の無批判的な立場は容認できないとする袴谷憲昭らの「批判仏教」による批判もある。(袴谷憲昭『本覚思想批判』大蔵出版、一九八九年)袴谷に言及しながら末木文美士は『日本仏教史』(新潮文庫、一七二頁)で「その現実肯定主義を無批判に賛美するのはきわめて危険なことである」と釘をさしている。
「不殺生戒」を第一の戒に置く本来の釈迦仏教の立場では、煩悩のなせる悪行として戦争を捉え、戦争から遠く離れて生きてこそ悟りの道だということだろうが、世阿弥にとっては戦の世に生き、騙し騙され、殺し殺される中で恨みのあまりに死ぬに死に切れない怨霊の魂の救済こそ何より問題なのである。まさしく「はじめに」で取り上げたイラクで首斬られた韓国人青年の魂の救済こそが問題だったのである。
　それだけの怨みがあれば、到底救済は無理だから、恨みを晴らしに化けて出て大いに祟ればいいのだという者もいるだろう。あるいは死んだのだから魂は断滅した。だから存在しない魂の菩提などナンセンスと割り切る立場もあるだろう。
　 しかしその時代には次々の忌まわしい出来事が起こり、それを祟り以外のことで説明するよりも、祟りとして説明する方が分かりやすい事態になっていたのである。また魂の断滅と言っても、あまりに死に様が無残だと生き残っている人々にとっては、怨みを呑んで死んだ人々の思いが離れないのだ。それは加害者にも被害者の近親者にも言えることである。だから魂の断滅論で割り切ることはできなかった。
　人間は一人づつ何か大切なミッション(使命)を背負って生まれてくると仮定しよう。そのミッションが果たせればその人の人生は、輝くのである。キム・ソンイルは一人一人の命はかけがえのないたった一つの命であり、その命を奪うのは不当だというメッセージを全人類の胸に命がけで刻み込んだ。
「I don‘t want to die!」ほど普遍的なメッセージはないし、そのメッセージが全人類の胸に痛く響いたのは、今まさに首斬られる人の叫びだったからである。このメッセンジャーが彼のミッションだったとすれば、彼は実に効果的にミッションを果たせたし、この最期によって彼の悲惨だった人生全体が聖化されたのである。
　　 このメッセージを受けて我々一人一人が個人の生命を尊び、不条理に生命を奪っていく戦争やテロを撲滅しなければならない。そうしなければキム・ソンイルは浮かばれない。逆にそうすることによってキム・ソンイルは命の大切さを伝えて、戦争やテロを根絶したヒーローとして語り継がれるのである。
　 盛綱に騙されて殺された漁夫はどうか、盛綱が漁夫を殺したことを隠蔽しても、念仏を唱えれば漁夫は成仏してしまうということではないようだ。
ワキ詞「あら不便や候。今は恨みてもかひなき事にてあるぞ。彼の者の跡をも弔ひ。又妻子をも世に立てうずるにてあるぞ。まづ我が屋に帰り候へ。いかに誰かある。余りに彼の者不便に候ふ程に。さま％＼の弔をなし。また今の母をも世に立てうずるにてあるぞ。そのよし申し付け候ヘ。
　「彼の者の跡をも弔い」ということには、彼が殺された事情を明らかにするということが含まれている。その上で妻子に補償をして暮らしていけるようにし、罪滅ぼしをして、その功に報いるというのである。
　もし盛綱の判断が正しくて、漁夫を殺す必要が勝利の保障であったのなら、漁夫はいくら口惜しくとも、その廻り合わせの不運に甘んじる他ないのだ。「藤戸の戦い」の勝利は、奢れる平家を滅ぼし、新しい時代を切り開いた輝かしい勝利であった。そのために一身を犠牲にして貢献した漁夫の名誉は不滅であり、彼の人生は偉大だったといえるかもしれない。 彼を騙まし討ちした盛綱より偉大とも言えないことはない。なぜなら盛綱が漁夫を殺す必要を感じたのは、漁夫が信用できなかったからであるが、それは漁夫の人格的な欠点というより、盛綱の猜疑心のせいとも考えられるからである。
　ともかく漁夫殺害を明るみにすることで、歴史の真相が分かり、漁夫の尊い犠牲が浮き彫りになった。そのことで漁夫のミッションが成就され、不滅となったのである。もちろん漁夫にすれば、そんなことは自分にとっては第二義的で、漁夫として家族とともに海に生きることにこそミッションがあったと言いたいかも知れない。その想いは水底に無理やり沈められたままである。
 　しかし人生はどんなきっかけで急転直下、最期になるかもしれない。その時点で見直すしかないのである。個人の人生設計とはかけ離れてしまっても、それは不運としか言いようがない。個人も社会や歴史の中で生きている、そこから与えられるミッションで納得するしか魂は救われない場合もあるのである。盛綱を怨み続けても、彼の遺族が幸福に暮らせるわけではない。もし魂が不滅とすれば、漁夫にとっては自分の亡き後の遺族の幸福も考えざるを得ない、怨みだけに執着することもできないのである。
　そこで世阿弥の能でこの怨みを明るみにしてもらい、戦争の不条理、盛綱の背信と裏切りを舞台に載せてもらうことで、漁夫の想いも晴れるのである。能はこのように鎮魂の効能があり、祟りを防ぎ、世の中に平穏をもたらし、精神の安定と長久をもたらすと信じられていたのである。 もちろん能は芸術だから、個々の作品は具体的な個々の人物や事件に関して鎮魂するに止まらない。それが表現している全ての類似的な人々や事件に対しても効能があるということであろう。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つづく
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study496:120516〕
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		<title>音と音楽――その面白くて不思議なもの（１０）</title>
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		<pubDate>Thu, 10 May 2012 12:25:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[サウンドスケープ]]></category>
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		<category><![CDATA[音楽]]></category>

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		<description><![CDATA[第１０回　自分なりのサウンドスケープをイメージする
＞往＜　　野沢敏治さんへ　　石塚正英から
　今回は、自分なりのサウンドスケープ（音風景）をイメージすることにします。方法として、周囲からなんらか気にかかる音をひろい、その意味を野沢さんにプレセンテーションする、何かを物語る、連想する、空想する、という設定でお話しを進めましょう。採取対象の例として、次の７つを選びました。
Ex1　聴くと安らぐ音、癒される音
Ex2　聴くと気分悪くなる音、不快に感じる音
Ex3  聴くとせつない音、やるせない音
Ex4　とっておきの音、ひとりで楽しんでいる音
Ex5　これを聴くとあれを思い出す音
Ex6　肌に迫ってくる快音、刺激音
Ex7  音のしない音、音を引き立てる無音
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Ex1　聴くと安らぐ音、癒される音
　晴れた日の郊外、小川のせせらぎでしょうね。数年前の初夏、日光の戦場ヶ原を散策したときのことです。小川のせせらぎがとても心地よく、しばしその場に佇みました。そこへ一羽のカワガラスがやってきて、川にもぐりました。水中で、羽根は銀色に光ります。餌を求めて川底を這うのですが、カワセミのように急転直下でなく、せせらぎの音と調和しています。妻と二人で眺めやりましたが、そこはかとなく癒されました。唱歌に「春の小川」というのがありますが、あれはのどかさが売りですね。
http://www.youtube.com/watch?v=-OvB5RqHaeg
　対して初夏の小川はすがすがしさが売りです。私は、昨年、東日本大震災のああと、上越市の山間部の小さな滝で水車発電を試みました。完成しバッテリーに充電できるようになったのはつい先日ですが、その付近にも小川のせせらぎは聞こえます。鮭の孵化場もあって、自然に満ちています。まさに、聴くと癒される音です。
Ex2　聴くと気分悪くなる音、不快に感じる音
　ガラスを釘でこする音、これに尽きます。なぜなのか、なぜ不快に感じるのか、理屈で言い当てることはできません。単刀直入、胃袋がグニュ～、って感じになるのです。ただし、人工ダイヤモンドのメスでガラスを切り裂くのはそれほど不快ではありません。スキッとした印象すらあります。切り裂いたあと、ガラスをパキッと割るのは気持ちいいですね。問題はおそらく、ガラスの表面にあるのでしょう。切り裂く場合はガラスの中にメスが入ってしまうのですから、別の音なのでしょうね。窓ガラスの表面を発泡スチロールの塊でキュッと擦ると、やはり妙な気分になります。気持ちいいものではありません。
 急を知らせる音、サイレン。これなど楽しいものでなくてもいいのですが、なぜか懐かしさがただよいます。昔は、現在のような電動式でなく、手回しのサイレンでした。救急車に乗って、消防士の一人はサイレンを回す役目だったのです。「ウ～ウゥ～ウ～」と必死に回します。でも、人力ですので、そのうち疲れてしまうのです。最初は大きく元気よく鳴ります。でもだんだん小さく低調に、といった具合です。それがまた人間味あふれる音でしたので、まぁ、電動式になって久しいこの頃でも、なんとなく懐かしいのです。でも、パトカーのサイレン音は聴くと気分悪くなります。ほれ、聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=VxhlPYswawM
Ex3  聴くとせつない音、やるせない音
　弔いの鐘です。これはせつなく、やるせない。いわゆる野辺送りの鐘です。昔、土葬が一般的だったころ、埋葬墓地まで遺族が歩いて向かうのですが、その時に叩いて故人の霊を導き、かつまた己の魂を慰めるのです。或いは火葬の時代となれば、読経の最後に一つ、大きな音を鳴らします。私はそのような場面に幾度か立ちあってきましたが、せつなくやるせない思いを禁じ得ませんでした。いまでは葬儀場から霊柩車が発進するに際して、音を引きずるようにクラクションを鳴らします。これも物悲しい。
　フランツ・シューベルトの曲に「弔いの鐘（Das Zügenglöcklein）」というのがあって、ヨハン・ガブリエル・ザイドルが詩を付けています。「響け　夜通し響け　安らかな安息をもたらせ　お前が音を響かせている人のもとに響け　はるか彼方まで　そうすればお前は巡礼たちを　この世と和解させられよう！」「だが誰が旅立とうと望むのか　愛する他者のもとへと　先に旅立っていった人の　その人は喜んで鐘をならすだろうか？　響きに震えるのではないだろうか　「来たれ」と鳴りひびく時には？」you-tubeでニコライ堂弔いの鐘をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=8S5sROSiTGU
Ex4　とっておきの音、ひとりで楽しんでいる音
　これは秘密です。だれにも教えません。私だけの内緒の音です。ことわっておきますが、オナラではありませんよ。ひとりで楽しむ音をだれかに教えては値打ちがなくなってしまうのです。ただ、一昨年、あるＦＭラジオのレギュラートーク番組でしゃべってしまいましたがね。「ドン、ドン、ドン、タカタッタ！」ではじまります。意味は私だけのものです。でも、このシリーズ第１回目にしゃべってしまいました！
Ex5　これを聴くとあれを思い出す音
　電気ヒゲソリの音を聞くと、チェーンソウを思い出します。話せば長いことですが、手短にお話しましょう。１０数年まえ、信越県境の妙高山麓をフィールド調査していたとき、遠くでチェーンソウの音が響いていました。樹木の伐採に精を出す人たちが一所懸命働いているのでしょう。で、その音、いつまでたっても鳴り響くのです。私の行く先向かう先に、それは響いてくるのです。まるで私のあとを追いかけてくるかのようでした。歩きつかれたので、しばし休憩をとろうと、草むらに腰をかけて背のリュックを下ろしました。そしたら、その中の、私のヒゲソリが音をたててうなっていたのです。「アリャまぁ～」何かの拍子にスイッチが入り、ずっと背中でうなっていたのですが、それを私は遠くでチェーンソウが響いているものと思い込んでいたのです。それ以来、ヒゲソリを使うたび、例の音をほのかに思い出すのです。
Ex6　肌に迫ってくる快音、刺激音
　野球ファンならホームランの快音でしょうね。サッカーサポータならゴールを揺らすネット音でしょうね。私にとっての快音は、フィールドワーク中の靴音です。草むらに分け入るザックザック、次々と進むサッサッサ～、軽快に駆け上がるトントントン、一仕事を終えて降りてくるスットン、スットンスットントン。先日、糸魚川市の勝山城跡に登りました。眼下の浜辺は翡翠のカケラが見つかるスポットです。標高328メートルをけっこう勢いよく登りました。上杉景勝と豊臣秀吉が歴史的会見を行ったという言い伝えがあるので、「ホントかいな？」と思いつつトントン登りました。４０分かけてへとへとになって登ってみて、これはお偉い武将でなく、家来のだれかが登ったのだろうと想像しております。偉い武将は、むしろ海岸で翡翠のかけらを拾って楽しんだと思います。この日も、練馬ナンバーのクルマから翡翠目当ての女性たちが降りて、城に登るのでなく、いそいそと海岸に降りて行く様子が観察されました。きっと、その女性たちは一刻もはやく少しでも大きなカケラを見つけたい気持ちからスットンスットン小走りで浜辺に向かったことでしょうね。
Ex7  音のしない音、音を引き立てる無音
　ベートーヴェンの運命交響曲の出だしです。とりあえずは音楽ではありません。８分休符のことです。休符ですので、音はしません、鳴りません。「ダ・ダ・ダ・ダーン」の前に記されている、始まる前のお休みです。
　ベートーヴェンが第五シンフォニー冒頭においた８分休符は、無音なのではありません。音は発せられないが、明確に音が関係しているのです。８分休符の長さにわたってゼロの時間が、すなわちからっぽの時間が介在するのです。音楽における休止は、ジョン・デューイ（John Dewey, Art as Experience, p.179.）によればけっしてたんなる無音ではありません。「律動的秩序においてはあらゆる終了と停止は音楽の休止と同じく、限界づけ個別化するとともに、関係づけるものである。音楽における休止は空白（blank）ではなく、律動ある無音（silence）であって、過去のものに区切りをつけると同時に前進的衝動性を表わすものであり、休止によって明確にされた箇所に停止させるものではない。絵を観たり、詩や戯曲を読む場合に、我々はその決定的な最後的性質の中に、時にはまた一時的な作用の中に、しばしば以上と同様の特徴を看て取ることができる」のです。（詳しくは石塚正英「始まりとしての８分休符」、石塚『感性文化学入門』東京電機大学出版局、2010年参照。）
＞復＜　石塚正英さんへ　野沢敏治から
　環境音から音楽へ　 
　サウンドスケープという片仮名は最近知りました。高校時代の友人・丸山亮君が送ってくれた論説「都市騒音とサウンドスケープ理論」からです。その論説でサウンドスケープの意味、1970年代から始まったその後の展開、そして問題点を知りました。ですから今回の石塚さんの論題提供はグッドタイミングです。「音風景」についてはこれまでの対論で特に意識せずとも話題にしてきたものですね。今日はまず石塚さんの手法にぼくも乗ります。その上で環境音について考えてみます。
　『枕草子』ばりに
　気持ちよき音（１）――それは春にひばりが空高く姿が消えいるまで舞いあがりながらさえずる時。それに聞きいっていると、身体がけだるくボーっとしてしまう。ぼくは市川に住んでいて、よく江戸川に自転車で散歩に出ます。そのあたりは日本100名鳥の1つの地域に指定され、ヒバリとシギが棲んでいます。自然の音空間が公共空間になっています。このような指定は行政がサウンドスケープ論を応用したのかも知れません。シギは夏にギッ、ギッ、ギョギョ、ギギッ、と鳴きます。
　反対に、鳥の鳴き声がいやになる時があります。ぼくは北海道でよく郭公の鳴き声を聞きました。山を背景にして鳴く時はその山が反響板になって遠く離れていてもよく届きます。それが頭の真上を飛びながら鳴くときは、スコーンと抜けるような音になります。これは発見でした。その北海道から千葉市の稲毛に住居を移したころです。外でカッコー、カッコーと鳴き声がするんです。最初は、やッ、ここでも郭公が鳴いていると、家族で思わずベランダから身を乗り出して耳を澄ましました。でもそれはスピーカーから出たものであることが分かりました。だまされたのです。ある時間になると必ず聞こえるんですから。
　気持よき音（２）――ぼくが住むマンション1階の庭に接した生活道路から入ってくる音。子供たちが通学しながらするおしゃべり、親が幼児に声をかけながらの通行、お年寄りが買い物車を押して歩く音。そして郵便局の配達オートバイやマイカーのエンジン音、小学校から聞こえる運動会の準備の太鼓音。ぼくは身近にあるグッド環境音地区としてはこれを推しますね。
　不快な音（１）――普通の程度であれば気にならないが、図書館でハックショーンと大くしゃみを聞かされる時。
　それがイギリスでは反対であって、小さなものでもくしゃみはこちらが気の毒になるくらいのどの奥に閉じ込めてしまいます。反対に鼻をかむときのすさまじいこと、もうびっくりです。喉が引きずり出されるかのようです。日本とではこうも音感覚は違うんですね。
　不快な音（２）――また言うことになるが、鉄道駅で聞かされる乗客への挨拶と注意喚起、そして案内の放送のしつこくて親切なこと。前後にメロディが付いている。ＹouＴubeで検索してあちこちの駅放送を比較すると、それはそれで面白いのですが。
　もっともイタリアなどでは列車は時刻通りに動かず、乗客にその説明もないことが多い。どっちもどっちです。
　案内放送が苦痛なのはぼくだけでないと思うのですが、どうだろう。昔、スキーが盛んであったころ、ゲレンデにスピーカから「音楽」が流されていました。奇妙にアンバランスでした。これらは音の公共感覚のない「ノイズ」です。日本サウンドスケープ協会という立派なものがあると聞きました。ぜひこの問題を解決してほしいものです。
　音環境条例みたいなものはできないか
　ぼくは景観条例と同じものが音に対してあってよいと思う。社のこんもりした森、リズムと対称性のある街並みなど、これらは景観として生活者にとって大切なものです。同じく環境音に対しても考えられます。それがどういうものかを積極的に言うのはちょっと難しい。それよりもこうしたら困る、余計な工作はしないでほしいというものは多いです。
　ぼくがかつていた小樽でも今住んでいる市川でも、毎日午後5時になると、『新世界』の第2楽章が流れます。「家路」の名で親しまれている曲です。これなどは街に対して働きかけるサウンドスケープなのだろうか。
　「ノイズ」が音楽に入ったのは現象としては20世紀に入ってからです。プロコフイエフのものなどその1例です。ピアノはまるで打楽器のように叩かれ、速射砲みたいでした。ヴァイオリンはキーキー軋みます。それまでの19世紀的なロマン主義に代わって、都会と産業開発の騒音が音楽に入り出したのです。でもプロコフイエフはそれだけに終わらせず、リリシズムの静寂な歌を続けていました。その音配置が斬新でした。ソ連政府はそれを排すべきモダニズムと批判したのでした。
　環境音を切り取る
　写真は対象を映すが、写真をとるのは写真機でなく人間です。ですから、対象は特定のある角度や位置から切り取られます。アングルがその人にとっての対象となります。富士山が工場の煙突の横にあったり、山々の峰からぽっとのぞいたりすると意外な感じがします。ジェット機で火口の真上から富士山を見ると、プリンに砂糖をまぶしたように見えます。富士山の全体をとらえるのでなく、どこかを捨象したり、他の対象と組み合わせたりする。すると、富士山はいろいろな姿をぼくらに見せてくれます。こんな富士山があったのだと知ると、ちょっとうれしくなります。
　同じように耳は環境音を聞き流したり、そのどこかに聞き入ったりする。そこに耳と対象との間に装置が、意識や文化が介在します。隣で女房がぼくに話しかける。いつものことかと、左から右へ素通りです。でも街中で夏の夜に聞こえてくる蛙の鳴き声には耳をそばだてます。
　西洋音楽には西洋の環境音が背景にあると言えるでしょう。日本人は明治以来、西洋の技術を使って日本の感情を作曲しようと努力してきましたが、成功しただろうか？　これがわれわれの曲だとはっきり言えるものは少ないと思います。これが他の文学や美術、演劇の場合と違う点です。音楽では西洋技術・東洋精神という方法じたいに無理があったのでしょう。あるいはそれが克服できるまでにまだ時間が必要なのかも知れません。戦前の吉田隆子の苦悩――西洋の音楽技術を用いて江差追分のような冴え冴えとした音楽を書きたいという悩みは今でも続いていると思う。
　戦後、外山雄三が管弦楽「ラプソディ」を作曲し、その中で炭坑節や八木節をオーケストラに演奏させることがありました。ぼくは高校時代にそれを聞いた時、ちょっと笑ってしまいました。節自体が滑稽味のあるものでしたが、生の民謡が直接闖入してきた感じで、ちぐはぐに聞こえたからです。バルトークのように民謡素材を徹底的に分析して加工するのと違いました。でもそう聞こえたということは、やはり洋楽は日本人の音環境から切れていて、自分たちのものになっていなかったからでしょう。今は少し落ち着いて味わえますが。ふり返ってみると、あのマーラーだって自分の子供時代のサウンドスケープのなかから初期のシンフォニーの素材を得ています。でも素材はそれだけでは音楽になりません。環境音を切り取る人間の「主観」が音楽を作ります。ぼくの場合にはこの音環境とクラシックとの間にまだ溝があるのです。
　ベ－トーヴェンの第6交響曲、これは標題音楽か、絶対音楽か、よく論じられました。ベートーヴェンは珍しく自分の曲に「田園」と標題をつけ、各楽章にプログラムを書きいれています。第2楽章は「小川のほとりで」と標題がつけられていて、その終わりの方で郭公の鳴き声が4度音程で出てきます。これは確かに自然界の鳥の鳴き声を模していますが、それは耳の聞こえなくなっていた彼が、聞こえていた頃の鳴き声を思い出したものであり、ウィーンの郊外で実際に聴いたものではありません。それに第2楽章全体が小川の水の揺らぎを表現しています。聴く人はその音のゆりかごの中で気持が平安になります。全楽章が感情の表現です。第1楽章が田舎についた時の心躍るようなうれしさを、第3楽章では村人の踊りのユーモラスを、そして第4楽章では嵐の雰囲気を――ベルリオーズは驚いたことでしょう――、最後が、嵐の後に捧げる感謝の気持ちを表そうとしています。
　ベートーヴェンの曲は他の音楽家のものと違って音が出にくくなっていると思いますが、その中でも交響曲「田園」はヴァイオリン・ソナタ「春」と同じく、音がすっと流れるように伸びていく。
　その「田園」ヘ長調がその前の第5番「運命」ハ短調と同時並行的に作曲されていた――そう言えば、最初の八分休符と動機の終わりのフェルマータのつけ方は同じである。テーマが繰り返し繰り返し展開されるところも――ことを知ると、ベートーヴェンの精神のダイナミックさに言葉がでません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study495:120510〕
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		<title>歴史における神話のアクチュアリティ（4）</title>
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		<pubDate>Wed, 09 May 2012 12:17:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<category><![CDATA[ファシズム]]></category>
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		<category><![CDATA[神話]]></category>

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		<description><![CDATA[四　20世紀神話のアクチュアリティ（１）――ファシズムとコミュニズム
　現代人が未来を生き延びることができるか否か、それは科学技術のみにかかっている訳ではない。それ以上に、資本主義の歪みを克服する新たな社会制度、政治制度にかかっている。これまでの100年、すなわち20世紀には資本主義と社会主義が大きな神話物語をつくってきた。それにファシズムを加えるならば、20世紀には三つ巴の様相を呈して社会形成神話が併存したのである。その際、神話の次元では3者は別物であったが、神話を産み出す現実の諸局面では相互に関連しあっていた。本節では、3者は神話としては敵対するものの、現実においては入り組んで関連していたという、その問題を検討する。それはまた、民主主義の無謬性という神話を揺すぶる問題でもある。
　まずは民主主義の衆愚性を考えてみよう。周知のように、古代ギリシアの民主主義は奴隷制という経済基盤の上に立っていた。その上に、ギリシア諸ポリス、とりわけアテネの自由市民は、前五世紀ペリクレス時代に民主政治を完成させた。すなわちアテネでは、一定の年齢（18歳）に達した男子に市民権を与え、彼らは全員が公共広場に集まって民会（エクレシア）を開き、政治上の討論を行ない、行政の為の評議会員や裁判官――おおよそ輪番制――を抽選によって選んだ。このように、アテネそのほかのポリスの市民は、全員が民会を通じて直接政治に参加した。だがこの民主主義は、ポリスという社会がアプリオリに前提となっており、ポリスを離れた個人の存在はありえず、したがって個人の意志の反映としての民主主義という次元に立脚してはいなかったし、人権の保障という概念も――人権そのものの概念が欠如していたのだから当然だが――生まれていなかった。
　ところで、アテネでペリクレスの時代に民主政が成立した原因として、よくペルシア戦争（前500～前449年）での平民の活躍とそれによる彼らの発言力の増大が挙げられる。しかし、このような平民階級が多数参加するような統治形態たる民主政に対して、かのギリシアの大哲学者ソクラテスやプラトンは否定的であった。例えばソクラテスによれば、｢汝自身を知れ！」の格言に象徴されるように、人は知識（Episteme）によってのみ道徳生活を確立し得、ポリスにおける政治にしても、知識ある人によって担われてこそ保障され得る。よって治者は少数となる。それからプラトンは、平等化主義およびその具現である民主政（Democracy）を排撃し、｢哲人政治」すなわち貴族政（Aristcracy）の方を高く評価する。彼にとって、実際的に行なわれていたギリシアの Democracyは衆愚政治（Ochlocracy）ないし暴民政治（Mobocracy）としてのそれに映ったのである。大衆を軽視するプラトンにとって最良の政体は貴族政である。もしこれが腐敗すると､まず金権政治（Timocracy）になる。その結果やがて政治権力が少数者に握られて寡頭政治（Oligarchy）に堕落する｡これは必ずや大衆によって批判され、そこから民主政（すなわちプラトンにとっての暴民政）が出現し､さらにその反動として僭主政（Tyranny）が民主政にとって代わる、とプラトンは考える（注19）。ただし、現実の歴史上では、僭主政は金権政治から民主政への過渡期に出現した。       
　さて、20世紀初頭のドイツでは民主主義から、衆愚政と連動した独裁政が生まれた。すなわち、ワイマール民主主義は国民投票など手続きとしてのみ用いられ、形骸化し、プラトンの言う衆愚政治に依拠した独裁政に道を譲ったのである。そうなると、以後はどのような社会政治現象が生じるか、この問題について、ライヒは彼独自の「大衆の性格構造」理論から次のように説明する。
「『穏やかな』ブルジョワ民主主義の時代に、あくせくしている工業労働者は原理上二つの可能性のいずれかが彼の前に開かれている。一つは、地位が上だと考える中産階級との同一視であり、いま一つは、反動的形態と正反対の生活形態を生み出すかれ自身の社会的立場の同一視である。前者は、中産階級の反動性を妬み、時には模倣しながら――経済的な機会を与えられるなら――、その生活をまるごととり入れる途を択ぶ。他方、後者は、反動のイデオロギーと生活形態を拒否して労働者階級独自のイデオロギーと生活形態をとり入れる。前者の社会生活も後者の階級生活もともに同じ影響にさらされているので、いずれの方向からも同質の強い牽引力がはたらく。」(注20）
　労働者たちは、鉄鎖のほか何も失うものをもたないような生活苦からはい上がりたい、中産階級の方に上昇したいと願う。しかし、労働者はいくらドレスアップしてみても所詮心根からして労働者だ、などと当の中産階級に差別され見下されていると感じるや、労働者たちはいっそう劣等意識を深めたり絶望したりするものの、反転して階級格差の廃絶を唱える2勢力、すなわち社会主義とファシズムのいずれかを熱烈に指示するようになる。その際、ファシズムの神話物語においては、まずもって古代ギリシア人をゲルマン人と同じ人種として北欧人種に括った。1936年ベルリン・オリンピックにおけるギリシアからのトーチ（聖火）リレーとアスリートたちの肉体美の誇示は、神話の奥深さを演出してあまりあるものだった。その上で、ギリシア人以外たいがいの諸民族を非アーリア系に一括して排外する筋書きを用意し、労働者の階級意識をショーヴィニズムで塗り替える運動に血道をあげた。それに対してマルクス主義の神話物語においては、社会的窮乏化の進行は労働者に階級意識を自覚させ、彼らはインターナショナルの崇高なる連帯感を抱いてヨーロッパ的規模でのプロレタリア革命に決起する、あるいは、資本主義の矛盾はそれ自身の弁証法的な深まりの先において、共産主義革命という解決の突破口を切り開く、という筋書を用意した。
　両勢力とも民主主義を用いて解放神話を用意したということでは同列だったが、その内容においては相互に次元を異にしていた。ナチズムはドイツ・ナショナリズムを高揚させる内容であり、マルクス主義はそれを削ぎ落としインターナショナリズムを高揚させる内容であった。第一次世界大戦で英仏に敗北し亡国の淵に立たされたドイツ人にとって、魅力ある神話は、どちらかと言えばナチズムの方であった。
　ところで、神話は過去に意味を添えるばかりでなく、むしろ未来を積極的に語る。「日はまた昇る」など円環をなすにせよ未来まで構想するのが神話であるとするならば、それは神話と言わずユートピアと称する方が適切である。それほどに、ユートピアもまた神話と深く結びついている。羽仁五郎によれば、ユートピアの発生はそれを抱くものの自己解放に関係する。「現存の社会と対立し、それを圧迫と感じ、これを批判し、より高き目標に向かってこの現在より解放されようとする」(注21）のがユートピア精神である。円環をなすにせよ、未来を語らない神話、未来を意識しない神話などありえるはずもない。したがって、あらゆる神話は同時にユートピアであるとも言える。
出典：石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年、第７章
（Copyright©2012 ISHIZUKA Masahide  All Rights Reserved.）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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		<title>旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」（18）</title>
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		<pubDate>Wed, 09 May 2012 09:01:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[岩田昌征]]></category>

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		<description><![CDATA[５６．たった一人の囚人 
（タディチの独房生活の諸条件が列挙されている。裁判の政治的・社会的意味にかかわることではない。省略する。岩田）
５７．最初の面会 
丸２年間、家族の誰とも会えなかった。弁護士ヴラディミロフの支援で妻と娘二人との面会がかなった。（p.142）
私達は面会室でだきあった。末娘サシカは逮捕時３才だった。「私がわかるかね。」「わからない、お父さん。」入口のかたわらに看守２人が立っていた。「失礼、我々はここにおらねばならない。」「何故。」「あなたの家族を守るためだ。」「私の家族を私から守るとは。」「そう命令されている。」（p.143）
家族と一緒に写真をとることも許された。第１１１号室の壁にその写真をかけていた。
私の妻が面会にハーグに来た時にオランダテレビが妻にインタビューした。「あなたの夫は戦争中何をやっていたのか。」「交通警察官でした。オマルスカ収容所にいたことはありません。」「全部作り話だと。」「そう作りごとです。」「それなら何故ドゥシコは起訴されたのか。」「セルビア人を起訴すること。夫であれ他の誰であれどうでもよかったのです。」「全くの偶然で。」「はい。」「多くの人々があなたの夫を告発しているが、彼等は誰なのか。」「ある人々は私達の隣人達で、別のある人々は全く存じません。」「そう、法廷にあんな風にやって来て、ドゥシコ・タディチが自分達にああしたこうしたと語れないのでは。」「出来ます。誰でも出来ることです。」「オマルスカ収容所は存在したのですか。」「ありました。存在したことは恥辱です。」「娘さん達はどう感じてますか。」「父親が不在なのは子供達につらいことです。でもお父さんが無実で何も悪いことをしてないと知っています。」「２年間獄中にいますが、どんな調子ですか。」「健康です。」「何が彼を耐えさせているのか。」「真理と真実です。無実だから耐えています。」
５８．三日間の虚偽証言
 
ハーグ法廷でドラガン・オパチチほど茶番を演じた者は無かった。ポドコザリエのセルビア人の病理を一身に体現している犯罪者こそ私である事を完璧に立証する決定的証人として検事側が鳴物入りで登場させた人物である。ボザンスカ・ボイナ出身の若きセルビア人である。ドラガン・オパチチの証言はタディチ裁判のかがやかしい瞬間となるはずであったのに、検察の最も弱い環になってしまった。（p.146）検察は彼こそ直接現場証人であると公衆に公表していた。彼がサライェヴォのムスリム人獄にいれられていた時の供述を適宜にマスメディアに伝えるように検察はつとめていた。トルノポリェ収容所の月給３００マルクの看守とされるオパチチは他の犯罪者と共に私が「収容所指揮官」として行ったとされる多くの犯罪を自分の両眼で目撃した、と言う。
私達が若いムスリム人女性達を倉庫や地下室に連れ込み、ある者が手を押え付け、他の者が足を、そして第三の者が犯した、と言う。彼女等が失血し、気を失うまで、かわるがわるに暴行した。数え切れない位だ。オパチチ自身も死の脅迫下に６人の若いムスリム人女性を強姦せねばならなかった、と語る。
オパチチは異常な記憶力をもつかの如く、身長１６５センチ位、年令１７才位の少女や１７０センチと１８才の少女等の身体的特徴、外見、服装を詳細に述べた。（p.147）暴行が済んだ後に少女達をお互いに血が出るまで殴り合わせ、それを見ながら、私が「見ろよ。ムスリム女達が憎み合い、殴り合ってるぜ。」と叫んだ、と言う。少女達をせめさいなんでいる者達に「双子を生ませろ」とののしった、と言う。ムスリム女をはらまないままトルノポリェ収容所から出すなとの命令があった、と言う。ムスリム人老女の一団の殺害を私から命令された、と言う。オパチチは詳細に語る。「ある時タディチは１０人の囚人を殺すように私に命令した。ふるえが来て出来なかった。その時、２人の囚人が抗議した。タディチに収容所から出してくれるように金を払っている、と。すると、タディチは２人に近付いて、『テテヤツ』というピストルを引き抜いて２人の頭を撃った。それから私の方に向いて、残った８人の頭を撃てと言った。」
検事グラント・ニーマンにたくみに導かれて、ドラガン・オパチチはハーグ法廷でこれらすべてを丸三日間繰り返し供述した。しかし、そこに何一つ真実は無かった。弁護団と私は彼の嘘をつかみ、ハーグ検察の最大のモンタージュを暴露した。オパチチは裁判所の名簿では証人「Ｌ」であった。彼の調書を見ると、セルビア人共和国軍に所属していて、ムスリム人の捕虜となって、戦争犯罪のかどで１０年の刑を宣告されていた。そして父親も兄弟もいないことになっていた。（p.148）私達は彼に父親も弟（or兄）もいる事を発見した。私達は二人をハーグに来てもらって、身元の確認をした。それはまるで刑事映画のシーンのようだった。暗色ガラス壁の片側に父ヤンコと弟（or兄）ペトロが、他の側にオパチチがいた。オパチチは二人は誰か質問されて、人生で一回も見たことがないと決然と答えた。両者の場所が入れ替わり、二人は彼を見れるが、彼は二人を見れない。「この若者を知っているか。」「知らない訳がない。私の息子トラガンだ。」ヤンコも兄（or弟）だと断言した。
ハーグ法廷はかくそうと努めたが、大スキャンダルがとび出してしまった。ハーグ法廷はサライェヴォのムスリム人政権に手ひどくあざむいてくれたなと抗議するであろう。ムスリム人政権は私の運命を決定的にこわすことのできる鍵的証人を握っているとあらゆる方面に広言していた。しかし、その証人が語っていたことすべてが嘘であることが判明してしまった。
オパチチは後になって自分の放浪の様子を次のように述べる。
「１９９４年１０月末にトレスカヴィツァでムスリム人の捕虜となった。負傷していた。フラスニツァ、次いでサライェヴォへ護送された。地下室にぶち込まれて、ぬれた縄や棍棒で殴打された。１９９５年春に１０年の禁錮を宣告された。トルノポリェ収容所で２３人の囚人を射殺し、ムスリム人女性２人を虐殺し、１０人を強姦したという罪状だ。」
オパチチはトルノポリェ収容所に行ったことは全くなかったと言う。「やがて警察官がやって来て、トルノポリェでドゥシコと協力して人々を殺害した証拠があがってると言う。この時までドゥシコ・タディチなる人物のことを聞いたことがなかった。彼等は私を殴り、傷口に塩をすり込んだ。タディチを知っているとサインせよと要求した。長い間私は同意しなかった。しかし、かのタディチに不利な証言をするべく、ハーグに行くことになると言われて、同意した。あちらでは、ムスリム人牢獄から出られるのだと気付いたのだ。」（p.149）
それから作業が始まった。私がうつっているビデオ、トルノポリェ収容所のビデオが彼に見せられ、質疑応答が教え込まれた。
「ハーグから調査官がやって来た。ボブ・リードとグラント・ニーマンだ。彼等は私をムスリム人獄から受け取って、トルノポリェ、「犯罪」現場へ連れて行った。何を語る必要があるかを私に言って、撮影した。それからハーグへ連れて行った。私は完全に孤絶していた。被保護証人「Ｌ」として法廷へ出されるのを待っていた。経歴も父も兄弟もなく、名も姓もない。法廷へ引き出されて、そこで生涯はじめて生身のタディチ本人に会った。」
後になってすべてが暴露された。オパチチは私を告発せねばならなかったのに、ハーグ検察、ムスリム人政権、そしてマスメディアの汚いチームを告発してしまった。メディアは私の諸犯罪を書きたてる競争をしていた。とりわけ、ドイツの日刊紙『ビルド』は突出しており、私を「セルビアの虐殺人」と名付けた。また、ナターシャ・カンディチ（セルビア市民社会で最も有名かつ強力な人権活動家、ベオグラードのＮＧＯ人道法センターの長。岩田）、憎悪の言論とたたかう偉大な女性闘士は、ベオグラードの週刊誌『ヴレーメ』（市民派・リベラル派の週刊誌。岩田）において私が行なったと言う一連の殺害を記述しつつ、コザラツのムスリム人警察官エミル・カラバシチが息をひきとる前に私が彼の身体に４つのＣ（ローマ字ではＳ、４つのＣはセルビア民族の象徴。岩田）刻み込んだと語っている。ハーグ裁判においてそのような所業は私の罪状でなかったし、証拠があったわけでもないのにだ。（p.150）
５９．汚いチーム 
ゲルマン系検察官グラント・ニーマン（オーストラリア人。岩田）とアメリカ人調査員ボブ・リードは私の弟（or兄）リュボミルとベオグラードの調査員ドラガン・ペトロヴィチによる発見が彼等に与えた損傷を小さくすべくあらゆる事を行なった。最初、偽証人「Ｌ」がサライェヴォの軍情報サーヴィスが用意したセルビア人であったと言うわずかな情報しかメディアに出なかった。裁判院はトルノポリェにおける諸犯罪に関して私の起訴を取り下げると弁護チームに通知した。（p.151）しかしながら、裁判院議長アメリカ人女性ガブリイェラ・メクドナルドは「Ｌ」以外の「諸証人もまた偽証していると考えないように希望する。」とある公判で弁護士ヴラディミロフに表明した。
被保護証人ドラガン・オパチチに関する更なる調査は実行されなかった。ハーグ法廷は形式的には調査すると表明していたし、私も弁護団が公式調査を要求するように何回となく求めたのではあるが。証人「Ｌ」はハーグからサライェヴォへ戻され、最後にゼニツァのボスニア人監獄へ。残念ながら、私の弁護団長はハーグ法廷検事局を信用していたのだ。
ドラガン・オパチチが検察当局の最重要証人となったなり方を詳細に知りたかった。彼がボスニアへ帰される前に、ハーグの国連拘置所で彼と何回か会う秘密のチャンスを持った。私達は一人の信頼出来る看守を介して監獄内で手紙のやりとりを何回か行なった。ドラガン・オパチチは今日まで知られていない若干の「諸事実」を明らかにした。それらを総合すると、前主席検事ニーマンと彼の協力者達による法廷規則の違反に関する「新証拠」をなす。ある手紙でドラガン・オパチチは次のように書く。
「おれが捕虜となって、はじめてハーグ法廷からボブ・リードと通訳がボスニアにやって来た。ほかにも彼等と一緒に法廷から来た者達がいた。私が目当てだった。ニーマン検事はスプリトの牢獄で私を待っていた。サライェヴォ、モスタル、スプリト、そしてザグレブへ私を運んだ。（p.152）
トルノポリェ収容所指揮官としてあんたを有罪にする必要があった訳だ。ムスリム人はおれを未成年者として罰した。あんたに有罪判決を下すためだけにおれを告発したんだ。おれが連れて来られた時、証言する事に同意せざるを得なかった。トルノポリェ収容所で行なわれた諸事件すべてに関してあんたに不利に証言する事を承知しなかったとすれば、そのことでおれが罰せられただろう。
グラント・ニーマン検事とボブ・リードはあんたに不利に証言すべく、他の人達もやって来ている、おれもそうしなければならぬ、しかしおれが同意しなければ、あんたは釈放されるだろう、と語った。おれがそうしないと、殺人や強姦のすべての罪がおれに負わされるだろう、と言った。おれが証言に同意すれば、あんたは有罪になるだろう、と言った。
おれはあんたに助力したい、法廷を告発したい。自分のために、そしてあんたのために。やつらはボスニア人側に協力したからだ。やつらはあんたを的にしておれに虚偽の罪を負わせた。その時にあんたの写真やボスニアのビデオを見せた。あんたが理由でおれはここに来させられた。おれはあんたに深くあやまる。おれはあんたに不利になるような事をしたくなかった。おれ達は以前全く知り合ってなかった。事はボスニア側と法廷から出ていたんだ。返事があるなら、誰にも知られないように書いてくれ。あんたにもう一度あやまる。クリスマスおめでとう。」
国連拘置所にて　デンハーグ　１９９７年１月７日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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		<title>自然農業は人を変える―――『土に生きる』第3号を手にして（４）</title>
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		<pubDate>Tue, 08 May 2012 11:05:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　どんな運動団体にも問題はあり、その存続が危機に陥ることがある。「作って食べる会」は発足後まもなくしてその時を迎えた。露木裕喜夫と岡田米雄が会の路線をめぐって対立する。そこに他の問題も加わり、会員の間で感情的な対立もおこり、人間不信にまで至ったと言う。胸が痛くなる。運動する者が良い方向にもっていこうと熱心になると、指導権争いとなり、軋轢が起こる。それは自然法則なのか。本会でもそうであったのか、代表の戸谷委代がその責任をとって辞任する。そのいきさつは会誌では詳しくないので、本での説明に任せるが、会の運営はこれを期に草創期に特有の少数者による指導から多数者による運営へと変わっていったようである。
　表紙に雌どりと卵のカットが入る。本文は29ページで前号より少ない。目次と編集後記が各１頁ずつ付く。編集者は椿紀子と菅洋子、筆耕者は中島。発行日は1977年2月25日。「食を考える」特集号となっている。
　本文中に三芳村山名集落の戸数・耕地面積の表が入る。全戸数133戸（寺２戸、商業３戸、農業118戸）、水田約60ヘクタール、畑訳40ヘクタール、山林約100ヘクタール。前号で計算したのと同じく、１戸当たりの耕地面積の平均は全国平均の約半分と小規模である。
　1977年という年（以下は岩波『近代日本総合年表』を参照）
　発行の1977年は今から35年前になる。アメリカの航空機を購入するのに日本の首相が関わっていたというロッキード事件が日本とアメリカを揺るがしていた。首相田中角栄らが初公判に出廷している。日本の政治のトップが逮捕され、裁判で裁かれるのである。与党は金がらみの政治で汚れていた。他方、野党の社会党では、大会で江田三郎と社会主義協会派が対立する。そこで社会主義路線をめぐって争われ、江田の構造改革路線は抑えられる。
　この年の経済成長率は名目11.5パーセント、実質5.3パーセントであった。それは50年代後半から始まった高度成長が1973年の石油ショックでとん挫し、74年には戦後初のマイナス成長を経験したのをへて、75年実質2.7パーセント、76年実質4.8パーセントと低成長時代に入る。それが80年代に入っても続く。それでも欧米諸国に比べて高い成長率であり、日本は比較的好調であった。他方、77年の消費者物価指数は8.1パーセントの上昇で、インフレは続いていた。
　産業構造の変容が進んでいて、繊維産業は構造不況のまま、電気関連・造船業等は好況であった。アメリカとの間での経済摩擦も続く。カラーテレビがアメリカ市場に急伸する。アメリカが日本製炭素鋼をダンピングとみなすが、日本側が輸出価格を引き上げて事態を収める。日立造船は約50万トンもの日本最大のタンカーを製造している。他方、農業では政府は生産者米価を1万7232円と決定し、77年度産米が1310万トンとなったことに対して生産調整面積（転作）を19万2000ヘクタールにしている。豊作と減反という矛盾。
　社会的には平均寿命が男72.69歳となり、スエーデンをぬいて世界1位。女は77.95歳で両国がともに1位。カラオケがブーム。ディスカウンターが盛況。でも小中学生の自殺が増える。
　周りの変化
　この頃になると、和田博之が述べているように、有機農業をめぐる状況は当初とは変わってきた。最初はそれは「近代農法」の体制のなかで異様に見られていた。それが一般の新聞だけでなく農業新聞も公害や食物汚染を取りあげるようになる。そしてこの会が始まった２年目に、有吉佐和子の『複合汚染』が出て、これがきっかけで有機農業は大きく広がる。石油危機を契機に「作って食べる会」の会員は増えていたのだが、同書の影響で消費者会員は一挙に1100余名に増える。それほどこの本の力は大きかった。それに対して農業の専門研究者から『複合汚染』に対する「科学的」反論が出される。その議論の仕方を紹介したいが――「研究」というものを再考するのに参考になるのだが、頁の余裕がないので割愛する。同会の生産者会員は18戸に減っていたが、それでは増えた消費者会員に供給できないので協力農家を増やし、38戸で提供するようになる。
　会の運動に対しては外部から次のような批判がでた。戸谷がそれらを紹介している。一般の新聞に読者からの投書が載り、有機農産物を買うのは金持ちであって、われわれのような貧乏人ではできないと書く。実際はどうなのか。会員の主婦は大体サリーマンの妻であり、後に同会の消費者に行なわれた調査の収入項目では確かに全国平均より多かった。しかし金持ちといっても平均収入額の何倍もない。そんな差で金持ちだ貧乏人だと区別するほどに、当時の国民の生活感覚は中間階級意識であったのである。他に前田俊彦や農業評論家の批判があった。彼らの論調はこうであった。有機農業運動は自分たちさえ良いものが手に入ればそれでよいとする消費者のエゴの運動である、慣行農法をニセ農法とするのは農民差別である、有機農業運動は消費者的発想の上に立つもので農民を犠牲にするものだ、等々。彼らは戦後の「近代」農政に対して現場の農民の声を代弁していたのだが、自然と人間の関係をただす新しい動きには敏感でなかった。やがて彼らの論調は変わる。彼らは戸谷たちの反論や説明もあって、本会の意義を認めるようになる。さらには近代農業を推進してきた農林省の空気も1部変わり出す。省内で有機農業が研究されるようになる。
　自然農業は自然の力を借りる農法のことであり、……
　生産者会員は自然農法についてそれなりの工夫をした。草の中にジャガイモの種を植え、その上に堆肥を振って覆いにし、直射日光が当たるのを避ける。堆肥はすきこまれないのである。また、ベテランになるとハト麦を作ったり野菜の種を自家採種するのに畦を使う。野菜の種の自家採種は難しいのだが。その他、ブタを入れて開墾を手伝わせる。役畜も人間と同じく働くのである。その代わりにブタには餌を、それもほとんどお金を要せずに、与えるのみ。露木はそれを「自然に生まれた経済」と言う。以上のことだけでも、自然農法は慣行農法よりもずっと自然の力そのものを借りていることが分かる。
　人間は家畜の労働に対して賃銀を払うことはない。経済学の歴史の中では、俗に言われる労働価値論は輝かしい歴史をもち、人間労働を積極的に意味づけたうえでそれを伸ばさない社会制度を批判していた。それは経済理論的にも社会思想的にも進歩的であった。しかし、それは家畜の労働や土の力が農産物を作る上で大切であることを知りつつも、経済価値を生産するとは考えなかった。労働価値論は人間中心の経済論であった。
　露木が紹介しているが、ベテランによる自然農法は慣行栽培よりも品質は良く、おかずがいらない程のおいしいお米であり、2ヘクタールで100表という多収であったらしい。10アール当たり5表だから、東北や北陸に比べると多収とは言えないが、有機農業は軌道に乗ると、大体どこでも一般農法と変わらないほどの収穫量になる。
　…命が命を食することを教えるものであり
　生産者は牛に餌を与えて食べさせる。でもその牛に人間の方も食べさせてもらっている。牛から出る牛乳や肉によって、またそれらをお金に換えて必要なものを買うことによって。自然農法ではそうしみじみ思うことができる。それは自然農法では牛との関係が慣行農法よりもずっと家族的だからである。このことは牛に限らない。人間は米や野菜にも食べさせてもらっている、そう言いうる。
　人間が食べさせてもらうとは、自然農業では命あるものは命を食べることをしっかり見させてくれることをも指す。市場ではそのことはぼかされる。和田の言うように、自然農業をすることで食品に毒がなければそれでよいことにはならない。自然農業は「命あるものは、自然の仕組みの中で、許される範囲で他の命あるものを食べ」ていることをはっきり見せてくれる。「食物連鎖」は弱肉強食のイメージのタテの関係でなく、横の関係としてあると言える。「食物連鎖」をこのように感じさせ認識させるのは自然農業においてである。
　提携の信頼関係を築くことである
　自然農法は農法のことだけでない。それはそれまでの生産者・消費者の関係を変える。岡田が「現代消費者論（主婦論）」の中で論じることであるが、農民はメーカーが一方的に供給する肥料や農薬から自立し、主婦は「夫から」自立する。また両者は中間業者や市場から自立する。その両者を提携させるものは何か。それはお金ではない。岡田は両者は命を扱う点で共通だと言う。そして日本の産業を工業主導型から農業主導型に換えるべきだと論じ、それには男性でなく主婦でないとだめだと言う。
　ウーマン・リブ運動では女性が「主婦」として家庭に押し込められることに反発するが、女性解放は主婦業を見つめ、それに徹底することでもなされたののである。逆説的であるが。「生活クラブ」の活動もこの種の「女性」解放の活動であったと言える。同じことは戦後に限っただけでも、主婦は家族の健康を考えて原水爆核実験禁止を求める署名運動等に入り、そこで社会意識を育てていったことがある。
　農民が社会に目を向けるのはかつては小作争議や階級運動によってであり、農業協同組合に結集して市場交渉力を強化することによってであった。それが時代が変わる。環境を考え、農薬から家族の健康を守ることを考え、消費者との「提携」によって経営の自立をも考えるようになった。
　提携は前の号で示したように、次の3原則を守る。価格は生産者が決める。消費者はできた農産物の全量を引き取る。配送は生産者が受け持ち、配分は消費者が受け持つ。これが都市と農村を「結ぶ」のであって、その結び方が市場のようにいったん両者を断ち切ったうえで利害の相互性によって結ぶのとは違う。両者の関係はもっと直接的な「提携」なのである。
　提携は「産直」とも違う。産直は農家や農協あるいはスーパーが中間流通を省いて直接消費者とつながるのであるが、それは上の3原則のどれをも基準にしていない。産直は市場の合理化の1つであって、これは後の第６号で問題にされる。本会のあるポストが提携で不足する分を産直で補っていたからである。提携は産直と違って、戸谷が言うように「必要なものを必要なときに必要なだけ」摂る「知足」を知ることである。彼らはそれをよく「血の通った人間関係の回復」と言う。市場では違う。そこでは自分の利害を隠し、相手が語る言葉を疑っている。それが提携によって相手を疑わなくてよくなる。戸谷はそれを食べ物を通じてその「心を読みとる」ことだと言う。…やがてその信頼を破る行為が生産者から、そして消費者からもでてきて、提携はそのたびに試練にあう。
　…提携は消費者・生産者の双方を変えていく
　提携は消費者を変えていく。消費者は1週間に1度届いたものをグループで配分してから、次の週に届くまでの献立を考える。武蔵村山市の高沢昭子が面白い表現をしている。野菜と「にらめっこ」して、と。献立を考える例を川崎の山本久子からとると――「大根の葉は精進揚げと味噌汁の実に。後はかつを節を入れ、酒、醤油で味つけしていためる。暖かいご飯の菜めし、チャーハン、箸休め（――ちょっとしたおかずのことと初めて知った。野沢）にも重宝です。大根はなます、味噌汁、ふろふき、おでん、鶏肉との甘辛煮、里芋、こんにゃく、人参とごった煮と冬の間中ずい分世話になった。…」。
　最初は混乱する。生産の質も量も安定しなかったから。小松菜20杷が1度に来たことがその後の伝説となる。でも「不平は言わない」。三鷹の今井みちるは「ここでネを上げては女がすたる」とがんばる。その後も今井はなすを10袋引き受け、「5袋をよそへ分けて、2袋をさしあげて、ナスの忘れ煮（――まったく初耳だが、たぶんナスをたいた後でそれを忘れるくらいおいておくと、味が浸みておいしくなることか？。野沢）10ケ、次の日天ぷら５ケ、ぬかづけ２ケ、3日目味噌汁の実、夕食にキャセロールという具合」に処理する。
　生産者との提携は三芳との場合を参考にして他にも応用される。地域の豆腐屋に防腐剤のAF2――夏で3日ほど、冬で1週間ほどもつ――や泡消し――豆腐の煮汁の泡を速く消す効果あり――を入れないで作ってくれ、またにがり―ーにがりの塊を水に浸して成分を抽出し、それで豆乳を凝固する――を使ってくれと頼む。生産は注文制にして「豆腐の形にならなくてもそれを形が悪くても引き取る」。月1回のペースから始まって週2日までと利用者が増える。また醤油を自然塩を使ってくれと頼んで樽全量（2千本）引き取る。「商品物神」の克服はマルクス学の中だけのことではない。
　消費者は分業の境界を少し越える。武蔵野市のＴ生は「子連百姓記」と題して報告している。8畝（8アール）の田を借りて自分で3表半を収穫する中で変わる。たとえば、天日干しについて火力乾燥なんてとんでもないと思っていたが、自分のわずかな家族分だけでも午後3時までの秋の短い日にカマスから出しては入れることを3日間やる、それだけでも実に大変なことを知る。
　生産者も変わる
　生産グループの側も変わる。最初の頃は技術が確立していなかったために失敗の連続。ただ種をまいては収穫なしの結果の連続。
　消費者の需要に適切に応えるには「作付計画」が必要となる。そういう「合理化」は必然的なもの。
　生産者の鈴木昇が言うように、「会員全員が運転者であり、事務員であり、作業員であり、生産者である」。資金不足で専従をおけないという事情もあるが、分業は多少とも克服される。
　また、生産者も消費者から学んで家で石鹸や天然塩を使うようになる。　
　ただし、変わるといっても完全に市場から自由になるのでない。周りの農家や農協との付き合い上、1部の農産物を農協に出荷する。
　それに生産者が克服できないことがある。どうしても自然に負けてしまう。1977年は会異常な気象であった。秋の長雨が12月まで続く、冬季には異常乾燥と寒害。天候に任せるだけでは思い通りの物はできない。現在の技術では自然農業で天候をコントロールすることは難しい。加えて鳥害に会い、ヒヨドリがキャベツやホーレンソーを食い荒らす。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study492:120508〕
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		<title>黒田寛一にとっての大井正、私にとっての大井正</title>
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		<pubDate>Mon, 07 May 2012 12:06:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　きょう、職場から帰宅したら黒田寛一初期論稿集第7巻『断絶と飛躍』が届いていた。出版社こぶし書房から新刊を戴いたものだ。その中に、黒田が書いた「退廃せるスターリニスト大井正」（1956年）を見つけた。さっそく読む。そのタイトルは、黒田が『社会観の探求−マルクス主義哲学の基礎』（理論社、1956年）を大井に謹呈して、大井が返事を書いた、その内容に絡んで付けられている。黒田は、大井の返書（ハガキ）に記された次の文章に、いわば激怒する。「マルクス主義者は＜創造的＞マルクス主義をめざすべきではなく、＜公式主義＞をつらぬくべきだと、つくづく考えています。これは、レーニンの＜主義＞でもありました。スターリンの転落は、創造的たらんとした点にありました。」（同書、p179）
　黒田は、こう書きつけた。「ようく読みもせずに、こんなことを書きうる大井の不誠実きわまりない態度こそが非難されなければならない。思想史家としての、しかも公式主義まるだしの思想史家としてのみじめな『基礎』をもとにして、ぼくの『基礎』をみるからこそ、＜解説的＞なものとしか映じなくなるのだ。」(p179-180)
　私は、大井追悼文「“人間のなかの神”を考える―大井学匠に何を学んできたか」（『季報・唯物論研究』38･39合併号、1991）で、大井の文書から次の個所を引用した。「教師をたとえば『聖職』だとしましょう。しかし、その『聖』の意味は、神ではなく、親であるから、育てることにあります。自分の先生の死が殉死したいくらい、悲しく、慕わしいばあいがあると思います。（大井正から野村みどりへの手紙、1981.09.16、『人権と教育』第207号、1991.03.20）」それにつづけて、私は以下の文章を書いた。「この言葉に、私は安堵感を覚える。というのも、大井正にとって聖とは神ならぬものであるかのように、私にとって神とは、神ならぬものであるからだ。」（『季報・唯物論研究』p72）
　黒田は、まちがいなく大井正『現代哲学』（青木書店、1953年）を読んでいる。この本を私は1989年に世界書院から復刻した。病床にある大井の求めに応じてのことだった。その編集を担当して、私は1953年という固有の年における40歳当時の大井―バリバリ、ゴリゴリの理論家―を再三再四読んだ。だから、黒田の激怒を心情的に理解する。だが、大井は1960年代後半から70年代に至り、初期マルクスから説き起こしてヘーゲル学派に及ぶ過程で、とりわけシュトラウスの神話的聖書解釈、フォエルバッハの人間学的唯物論ほかへの探究を強める過程で、いわば後期大井を実現する。後期は前期の結果としてある。大井は、死ぬる年に思想家大井正となった。死は生の完成を意味する。恩師の生きざま、それは、私にはほんとうに魅力的な歩みなのだ。そのことを記して、再度、大井正の生誕百年を刻印したい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study491:120507〕
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		<title>人間論の構造構成 （下）</title>
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		<pubDate>Sat, 05 May 2012 22:02:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　 5．ホモ・サピエンスの構造
　ホモ・サピエンス（叡智人観）とホモ・ファーベル（工作人観）という代表的な人間観の対立を見直しておこう。ホモ・サピエンスという言葉は分類生物学のリンネ（Carl von Linne1707-1778）の命名らしいが、元々は知恵の発達したものという意味である。それがいつしか叡智人観とも訳されるが、単なる道具的な知識だけではなく、道徳判断や宗教的な聖なるものへの感受性や、芸術的な審美感も含むような能力とされている。
　シェーラー（Max Scheler, 1874 &#8211; 1928）の人間観の分類では、イギリス経験論や功利主義、実証主義、マルクス（Karl Marx, 1818 &#8211; 1883）の唯物史観、フロイト(Sigmund Freud1895-1982)の精神分析などはホモ・サピエンスに分類されないのだ。言語を使用する動物、道具を使用する動物というのもホモ・サピエンスではない。自然科学的な知識や知恵がいくら発達しても、リンネの命名意図に反してホモ・サピエンスではないということになる。
　シェーラーは、理性を実体的に捉え、それを神と分有しているとみなす人間観をホモ・サピエンスとみなしているのである。だからギリシアのアナクサゴラス（Anaxagoras、紀元前500年頃 &#8211; 紀元前428年頃）に端を発して、プラトン（Platon紀元前427年 &#8211; 紀元前347年）のイデア論、ストア派を源流とする自然法思想や社会契約説、大陸合理論、ドイツ観念論などがホモ・サピエンスの人間観だということになる。⑧
　実体としての理性があって、イデア界で知の体系を成しており、プシュケー（魂）はイデア界にあったときにそれをコピーしているとみなすことによって、プラトンはすべての現象をイデアを範型として認識可能としたわけである。つまり認識するには予め知の体系がなければならないとすると、事物に先立って観念があるとする形而上学や観念論になる。⑨　
　この議論に対して、観念はあくまで事物の観念でしか有り得ないという至極もっともな理屈でアリストテレス(Aristoteles前384 &#8211; 前322）は批判するが、プラトンの議論の前提は主観性つまり自己意識があって、はじめて現象を客観的な事物の現象と見做し得るということなのである。この主観性としての自己意識が感覚から超越しているので、自己意識が精神的実体として霊魂として実体化され、イデア界や霊界に帰属するとされ、物心二元論が成立するのだ。
　実際、認識には意識内容から離れて、意識内容を事物の現われとみなす自己意識が前提となる。そこに立脚した議論としての観念論およびホモ・サピエンスの議論の有効性を認めなければならない。やはり自己意識の成立によって生じた主語・述語の言語構造による知の蓄積・伝達システムがあってこそ、客観的事物認識が可能になっているのだから。
　しかし精神的実体として理性が存在するといっても、それは知の蓄積・伝達システムとして言語体系が存在するということに他ならないから、それは各人の中枢神経の中の記憶として蓄えられていたり、文字文化やその他の文化を構成する諸事物の中に保存されていたり、諸事物の社会的関係として存在しているといえる。
　また自己意識や霊魂なるものが実体としてあるという意味も、思考や反応が一定の個性的傾向性を示していることに他ならないから、決して身体がなくても個人の霊魂が空中を浮遊したり、上空の霊界に存在したりするわけではない。とはいえ意識内容から超越的に自己意識があって、それを対象化して事物として捉えているという構造においては、あたかも実体的に主観性が存在しているかのように機能しているわけで、その限りでホモ・サピエンス的な捉え方も有効である。
　6．ホモ・ファーベルの構造
　
　ホモ・ファーベル（工作人観）は、環境に働きかけて改変し、人間の身体が適応できるようにすることを人間の根本的な存在構造と捉える人間観である。動物は環境に働きかけつつ、環境に自己の身体を進化させて適応していくのだが、ホモ・ファーベルとしての人間は、自己の身体は進化させないで、道具を進歩させ、環境を変化させてることによって環境を支配するのである。
　若きマルクスは、1844年の『経済学・哲学手稿』で、「自然は人間の非有機的身体」だとした。⑩もちろんフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach,　1804―1872)の人間学的唯物論を引き継いでいるのだ。つまり、身体は不完全であり、常に外界から取り込まなくてはならないのだ。受苦的存在であるがゆえに窮迫し、窮迫を克服しようと情熱的に活動するのである。これを「ライデンからライデンシャフトへ（苦悩から情熱へ）」というのだ。
　不完全性は積極的な実践の根拠となっていて、そこから活動的な人間観が展開されている。ペシミズム(虚無主義)や絶望になっていない。しかしやはり主体性の原理となっている。その主体が精神ではなく身体として捉えられているのだ。
　自然を非有機的身体とするということは、主体の範囲が拡大するということである。身体は裸体から衣服を含めた身体に、住居を含めた身体に、個人の身体から共同の身体に、農場や工場や海や空を含めた身体へと拡大するのである。自然が人間の非有機的身体だということは、自然が人間の定在だということである。人間はたんなる身体的存在にとどまらず、社会的諸事物や環境的自然としても見出されるのである。実際に経済的諸関係を取り結ぶのは生産物としての諸商品である。マルクスは『資本論』ではこれをフェティシズム的倒錯としたが、人間を身体の限界内で捉えることはできないのだ。⑪私は社会的諸事物や人間環境を含めてを事物のカテゴリーとして捉え返す立場をネオ・ヒューマニズムと名づけている。⑫　
　精神と身体は人間性の両面を成すという意味でホモ・サピエンスとホモ・ファーベルは対立すると共に補完しあうのだ。だから構造構成主義的調整が可能なのである。つまり主体が身体だといっても、その身体は個々人の身体から地球環境にまで伸縮しうるものであり、主体となって自己を対象化しているときには主観性として働いているのだから、あたかも自己意識が実体として存在するかに機能しているのである。
　7．有限性と実存
　極めて限定された紙幅のなかで、人間論の構造構成のラフスケッチ(粗描)を描こうとしたけれど、「人間論の大樹」の鳥瞰図には程遠い。人間論では有限性と実存が重要なテーマなのでぜひとも触れておかなければならない。
　「汝自身を知れ」というアポロン神殿の標語は不死なる神が死すべき運命の人間に与えたものとして受け止めれば、有限性を自覚し、死に向かう存在として人間を捉え返す人間論がそこに含まれていたと思う。
　有限性の自覚は、死を覚悟することによってたった一度の人生を意義づけ、価値あることをなそうとする積極的な人生観を生み出す契機となる。そして今、ここに在るということにおいて自己の生の実感、充実感を得て有限な生を納得しようとする。かくして自分がいかに生きれば自分の生が充実するのかという自己の生の選択が行なわれる。このような実存的な人間論は人間を本質において捉えるのではなく、状態性において捉える人間論である。三木清はパスカル研究によって、本質論ではなく状態性において人間を論じる方法を打ち出している。偉大と悲惨、両極の間を揺れ動く動性、中間者などの人間の状態性論である。⑬　
　有限性の自覚は、当然死や滅びなどからの救済への願望を生み、宗教的な人間の存在構造を構成することになる。つまり有限性を克服するためには絶対者の実在を信仰し、絶対者に依存することにより、絶対者による救済を願うことになる。かくしてコスモス（宇宙）全体が絶対者である神の被造物であり、神に依存した存在であるということになる。神との垂直構造によって、神に依存し、神に還ることで救済されるという図式が立てられるのだ。
　絶対者たる神と有限者たる人間は絶対的な断絶がある。この断絶を克服して絶対者と融合するには、堕罪によって神から離れた罪を悔い改め、神の定めたトーラー（律法）に戻らなければならない、文明が進展すればするほど価値は多様化し、大部分の人類は神から離れるので、人類は最後の審判に宿命的に向かうことになる。
　その意味でキリスト教はイエスの贖罪の十字架で、神の愛に目覚め永遠の命につながるとされる。とはいえ正しい信仰に目覚めることができるのは少数であって、大部分がゲヘナであることに変わりはない。
　これらのヘブライズムの宗教的人間は東洋人には縁がないかに思われるかもしれない。しかし問題を有限性や死の問題、それを見据えていかに生きるかという問題に直面しているのはすべての人間に共通しているのであって、その意味でも有限的な生命の営みの中にいかにして、不滅のものを見出していくのかは問われている。そういう形ではあれ、絶対者との断絶を克服するという課題は共有しているのである。
　そしてそれは人間が生成したのが、生理的な表象の世界、主客未分な事的世界から、人と人、人と事物、事物と事物が分裂した、主観・客観的に物的世界への転換であり、ようするに自己と世界、自己と絶対者の分裂対立であったことに淵源があるのだ。そういう意味で、すべての人間論は、深い意味で構造を持ち、構造相互に連関しているのである。
　まだまださまざまな人間論の構造と構造連関を明らかにしなければならないが、今回はその手始めであり、まったくの試論的で未熟なたたき台ということで、ご寛恕願いたい。　
　
参考文献
①拙著「人間観の転換と人間論の大樹」（『季報唯物論研究第91号2005　年２月号』やすいゆたか責任編集「特集21世紀「人間論」の出発点」」所収）
②西條剛央著「構造構成主義」（滝内大三、田畑稔編著『人間科学の新展開』（ミネルヴァ書房）2005年刊に所収）
③坂本百大著『人間機械論の哲学』勁草書房 1980年刊参照
④『猿が人間になるについての労働の役割』エンゲルス著、大月文庫
⑤A．A．レオンチェフ著『言語の発生とその展開ーソヴェート言語学序説』未来社1970年刊
⑥拙著「「人間」カテゴリーについて」（『季報唯物論研究18号1985年７月号』所収）
⑦尾関周二著『言語と人間』大月書店1883年刊
渡部昇一著『言語と民族の起源について』大修館書店1973年刊
坂本百大著『言語起源論の新展開』大修館書店1991年刊
⑧マックス・シェーラー著「人間と歴史」1926年、「宇宙における人間の地位」1927年いずれも『シェーラー著作集十三』白水社1976年刊所収）
⑨プラトン『国家論』　藤沢令夫訳　岩波文庫　1979年刊
⑩マルクス著『経済学・哲学手稿』藤野渉訳　1962年刊
⑪保井温著『人間観の転換ーマルクス物神性論批判』青弓社1985年刊
⑫やすいゆたか著「対談　『ネオ・ヒューマニズム宣言』をめぐって」
ネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集　創刊号』所収
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/yasuiyutaka/yasuiyutaka_neohumanism.htm
⑬三木清著『パスカルにおける人間の研究』（『三木清全集第一巻』岩波書店1966年刊所収）　
＊なお本稿は2005～6年に書き上げた未発表論文である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study490:120506〕
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		<title>フェティシュを投げ棄てる布村一夫―生誕100年を記念して―</title>
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		<pubDate>Sat, 05 May 2012 21:53:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<category><![CDATA[石塚正英]]></category>

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		<description><![CDATA[　1960年代末からの大学生活において、私がまずもってテーマに設定したものの一つに、共同体とその解体に関連するものがある。1970年、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』『資本主義的生産に先行する諸形態』、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起原』を読みノートを執ったおり、私ははじめてルイス・ヘンリー・モーガンの名を知った。当時は一様に「モルガン」とドイツ語（マルクス・エンゲルス）経由の名称で記されていたあのモーガンを、私はそれなりに細かく調べてみた。家族の第一形態「血縁家族」、第二形態「プナルア家族」、第三形態「対偶家族」、そして第四形態「単婚家族」といったメモ、最初の社会的分業＝牧畜種族の分離、第二の分業＝農業からの手工業の分離といったメモはいまも読書ノートに残っている。
　共同体にかんする研究は、その後、唯物史観の再検討を課題にしていくことで副次的に継続していくのだが、1980年代に入るや、そのテーマは一挙に主題にまで上昇することになる。その契機は、1981年10月東京の明治大学駿河台校舎で行なわれた「第一回女性史のつどい」である。これが開かれたとき、会場でモーガン学者布村一夫先生（1912～1993）と出会った。このとき以来、私は布村民族学・布村神話学に確実に感化を受けることとなった。フェティシズムを研究テーマとして設定することになるのもこの感化の引力圏内においてのことであった。
　先史社会は以下の三つの要素から成り立っている。原始労働（物質的生産）・自然信仰（儀礼的行為）・氏族制度（人間組織）。先史の生活者たちは儀礼を生産に先行させる。先史人や野生人は、あらゆる事柄・行為を儀礼でもって開始するのである。
　そのほか、儀礼とは、人間（自然的存在＝動物）が人間的存在になるための必須条件である。自然的存在（モノ）を神的存在にすることにより、人間（モノないし動物）は人間（神的存在をつくりだす存在）となった。これをさしてフェティシズムという。これまで宗教学や哲学、経済学や心理学などで通説だった解釈、物神崇拝は人間が人間以下のモノにひれ伏す幼稚な観念、という解釈は間違っている。事態はむしろ逆である。物神崇拝は、人間が人間になるために必須の条件なのである。フェティシュを投げ棄てるところから始まるのである。
　布村生誕100年を記念して、以下に布村著作を書き記す。
Ⅰ古代社会ノート、1962年
Ⅱ日本神話学、1973年
Ⅲモルガン　古代社会資料、1977年
Ⅳ原始共同体研究、1980年
Ⅴ共同体の人類史像、1983年
Ⅵ原始、母性は月であった、1986年
Ⅶマルクスと共同体、1986年
Ⅷ日本上代の女たち、1988年
Ⅸ神話とマルクス、1989年
Ⅹ正倉院籍帳の研究、1993年
　最後に一言。布村が亡くなって4日後、雑誌『情況』1993年7月号が届いた。その中に榎原均氏による短文があって、布村学説に触れていた。「布村一夫は、長年研究してきた共同体論にフェティシズム（物神性）論を加味して新たな境地に到達している」（153頁）。その後の文章で「布村説を受け継ぎ、それを『フェティシズム史学』へとまとめようとしている石塚正英の提起を検討する」とし、さらに「石塚は、原始信仰としてのフェティシズムについてのみならず、『資本論』のフェティシズム論についても、布村説を土台にして独自の解釈を試みている」（155頁）としている。幾度も記すが、今年は布村一夫生誕100年にあたる。いつになっても、生ある限り、私は心から先生に感謝している。
 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study489:120506〕
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		<title>人間論の構造構成 （上）</title>
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		<pubDate>Sat, 05 May 2012 13:10:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[はじめに
　人間とは何かというテーマは古今東西さまざまに論じられてきた。百人百様の人間論があり、それぞれ人間の一面を捉えている。しかしそれぞれ人間に対する捉え方の問題関心がずれているので、互いに他の人間論は人間の核心を捉えていないように思っているらしい。しかし、それぞれの視角においては有効なので、それぞれの人間観の構造を明確にしつつ、相互補完的に総合的な人間像を組み立てていく作業が必要であると思われる。私はそれを「人間論の大樹」と名づけて問題提起してきたが、その方法論が整理できないでいた。①
　西條剛央氏の講演②ならびに『構造構成主義とは何か』（北大路書房）という著作によって、「人間論の大樹」形成の方法論が見えてきたのである。とはいえまだまだ荒削りで試論的なスケッチしか示せないがたたき台を提供させてもらえれば幸甚である。
　1．生物学的特徴―直立二足歩行するサル
　人間と生物学的なヒトを混同するのは、人間学で陥りやすい初歩的なミスである。元々人間は生物学的概念ではない。つまり自己意識をもつ人格的存在が人間であり、それは猿科霊長目の人類という動物であるとは限らない。別に手塚治虫の劇画『鳥人大系』のように鳥類から鳥人が生じてもよいのである。異星人の存在がいまだに発見されていないとしても、他の太陽系とは別の惑星で大気や水があって別の生物進化が行なわれると、全く地球上では見られない生物種から自己意識を持つ知性体が進化してくる可能性はある。
　それに自己意識をもつ知性体ロボットが存在しても、それらが人間ではないということはできない。③この見解には異論があるだろうが、その人は人間概念を生物学的概念な人類概念と混同しているのである。もちろんそのような区別に関心がなく、人間はどのような生物であるのかという関心しかもたない人にとっては生物学的な人類概念で十分満足であろう。
　とはいえ地球上の人間を考察する場合は、猿から進化した人類が人間となって文明を形成したわけだから、人間と成った人類がどのような生物学的特徴を備えているのかを人間理解の参考にする必要がある。
　直立二足歩行する猿が人類に成ったのだが、そのことによって前足が手に進化して、手の延長としての多様な道具の使用が可能になった。従って手の延長としての道具の使用に人間の本質を見出す人は、生物学的人類と人間との区別は念頭にない。④
　たしかに道具の種類が豊富になり、その結果文明が開花するようになれば、人間の生成といえるが、何種類かの道具を使用したからといって、存在構造が一変したわけではないのだ。
　また生物学的人類と人間を混同する人は、猿人段階から直立歩行で頭脳容量が大きくなったので、人間的な思考をし、言語を使用していたかに思い込んでいるが、その根拠はない。特に言語に関しては、動物言語という観念があって、動物でも言語を使用しているとみなす見解もあり、身振りや音声や超音波を使った動物信号を言語と混同する傾向がある。そうすれば、言語は人間の本質とはいえなくなり、言語を通して人間の存在構造を解明することもできなくなる。動物信号と人間独特の言語の違いを明確にしないことには、人間の何たるかは解明できないのだ。
　喉の発達から音節を区別する発声がネアンデルタール人から可能になっていたので、旧人段階から音声言語の使用を説く見解が有力である。しかしそれは音声信号の豊富化を意味するに過ぎず、人間独特の言語ではないのだ。なぜなら言語には認識を蓄積し、そのことを通して自然認識が飛躍し、文明が開かれるところまで進んでいく必然性があるのだ。⑤
　2．言語の構造と認識の構造
　
　言語は主語・述語構造をもっている。未開言語にそれが不明瞭なのは音声信号の要素が大きいからである。主語はそれにつける述語を変えることによって主語に来る事物の知識をいくらでも豊富にできる。また逆に、主語の取替えによって多くの知識を蓄積できるので、物事の認識は無限に発達して文明に到達させる必然性があるのだ。
　しかし言語は音声信号の多様化によって自然に主語・述語構造をもつようになったのではない。主語にくる対象が客観的な事物として捉えられていたからこそ、その事物の様子や属性を述語として付け足すことができたのである。つまり世界が事物の集合として捉えられていたからこそ、それに対応して主語・述語構造をもつ言語が成立したのである。
　だから動物信号の段階では世界は事物によって構成されているのではなく、生理的な表象の変化として捉えられていたのである。つまり物ではなく事態・事の連続なのである。動物は事態表象を信号化してコミュニケーションしているのである。だからいかに多様な信号を駆使しても、多様な事態の変化を伝えることしかできず、客観的な事物としての知識を蓄積できないのである。つまり音声信号は生理表象の伝達に過ぎないが、言語は事物認識の伝達であるという決定的な断絶があるのだ。
　世界が生理的な事態であるという事的世界構造から世界が事物の集合であるという物的世界構造へとブレイクスルー（突破あるいは破開）するに伴い、生理表象から主観・客観的認識構造に変化し、それが音声信号から主語・述語構造の言語の成立を惹き起こしたのである。ここに生物学的人類から人間へと存在構造の転換が起こっているのである。だから言語の主語・述語構造と認識の主観・客観的構造はセットで捉えておくべきである。このことに関しては一見常識的な説のように思われるだろうが明確に述べている書物に出会ったことがない。⑥
　3．対他構造と事物構造
　つまり事物となるとそれは生理表象として現れているものの、身体の外に存在する実在と捉えられている。そしてその生理表象を事物だと解釈する自己意識が成立しているのである。動物の場合は、自己の生理表象に対して条件反射の積み重ねで、生理的に対応してきたのである。その対応がうまくいったのが生き残り、進化してきたのである。ところが人間は生理表象を事物の表れとして解釈するので、その事物は自己の身体の外に立つ独立した実体とみなされる。そしてその事物に対して立ち向かっている自己を見出すのである。
　しかし何故そのようなことが可能なのか、それは実はヒト同士の個体的身体間の関係が対他関係になったからである。前人間的なヒト同士は融即段階にある、生理的表象として親しい表象か疎ましい表象であり、生理的に反応しあっていた。そこには互いに独立した他者としての意識はなく、他者に対して自己を意識することもなかったのである。ところが相手を生理的表象として愛したり、退けあったり、避けたりするのではなく、取引相手として交渉しなければならない関係ができた。つまり交換の発生である。
　交換の発生によって、ヒト同士は身体的な生理的関係から、人格的他者関係に移行する。それで交換される事物も以前の身体の延長から切り離され、他の事物からも区別されて生理的表象ではない、生理からあたかも独立した事物とみなされる。そのことによってそれ以外の生理的表象もやがて事物として捉えられるようになる。こうして生理的表象の世界から脱して、事物によって世界が構成されているとみなされるようになり、主語・述語関係で表現される言語が形成されたのである。こうした観点からの言語起源論が見当たらないのも腑に落ちないところである。⑦
　だから人格的な対他構造が世界に当てはめられて、事物間の関係として世界が表象されるようになったのである。つまり人格関係と事物関係は相即しているので、人格関係が精神的実体の関係とみなされるように、事物間にも霊的関係が想定されることになる。物と心、物質と精神を対極的な二元論で捉えてきた超越神論の文化からは想像もつかないだろうが、元々、日本語では「物」という言葉は「事物」とともに「霊魂」をも意味していた。最も伝統ある氏族である物部氏は武器を扱う軍事集団であると共に、霊魂を祀る祭祀集団でもあったのである。しかも身体間の生理的関係が人格的関係に変わっても、身体がそのまま人格とみなされたように、物それ自体が霊とみなされていたのである。つまり身体についての捉え方も生理表象から事物へと構造が転じていたのである。
　
　4．人間生成論の構造構成
　
　人間の生成の論理構造に即して捉えれば、各人間論を相互補完的なものとして構造構成することが可能になる。交換を契機に人類ではなく、人間が発生したとすれば人間は根源的に交換価値を価値意識に持つ商品人間として存在構造をもっている。それにより他者と交渉するという対他存在として自己意識を持つ存在である。人間であるかどうかは自己意識があるどうかで決まるという自己意識が人間の本質であるという人間論も相即的に成立している。
　交換関係を機に成立する対他関係によって、人格相互の対他関係が、事物間関係としての物的世界観を生み、それに相即して認識が主観・客観的なものとして成立する。この認識構造を基底に主語・述語的構造をもつ言語が成立する。この言語が認識によって獲得した知識を無限に蓄積させる構造をもっており、しかも、コミュニケーション手段として、その知識を社会的に共有する機能を果たすので、文明を発生させるにいたる必然性を持っている。言語が人間の本質とみなされる道理である。
　言語と思考および理性をばらばらに考えて、それぞれを人間本質と捉えるのは、説得力がない。考えるということは自己との対話であり、他者との対話も思考過程である。そのことを通して知識が蓄積整理され、法則的・体系的な認識が出来上がっていくと、それが人間理性として機能するわけである。なぜばらばらに考えるのかといえば、言語に対する定義があいまいであるからで、先述した動物信号との違いを明確に抑えておかなくてはならない。
　道具使用や労働を人間の本質におく場合、その主体を自己意識ある人間として抑えておかなくてはならない。従って道具の使用や労働の発達によって人間が、交換による対他関係や自己意識の成立を踏まえないで成立したかに捉えるのは間違いである。身体の延長として各動物も自然を利用する、つまり道具として使っているのである。そして自然に働きかけ、環境を自己に適応しやすいように改変している。その意味で労働によって自然を改変し、獲得しているのである。
　だから人間の本質として道具や労働を取り上げるのなら、道具や労働に人間独特な質を持たせなければならない。その道具は身体の代わりにどんどん進化して、身体は進化しないのに自然が人間の適応できるものに改変されているような道具でなければならない。労働も蜂やビーバーなどは驚嘆すべき巧みさや規模を持っているけれど、それらは種によって定められた習性に従っており、その意味で閉じられたものである。人間の労働は、予め実現しようとしている労働生産物が無限に豊富化し、発展していくわけで、その意味で開かれており、自然全体を普遍的に支配する労働である。
　道具や労働がそのようなものであるためには、生理的表象に対して条件反射の積み重ねで対応していては無理だから、やはり主観・客観的な認識が成り立ち、主述構造を持つ言語で知識の蓄積と共有、法則性の認識が行なわれなければならない。つまり道具や労働によってのみヒトが人間化したのではなくて、むしろ道具や労働が人間化されなければならないのである。そのように人間化された道具や労働であるからこそ、他の動物と本質的な区別ができるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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		<title>神と戦う哲学者大井　正―生誕100年を記念して―</title>
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		<pubDate>Sat, 05 May 2012 09:31:39 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　久しぶりに、恩師大井正（1912-1991）の「罪について―ときには思想史的に―」（明治大学『政経論叢』59-1･2､1990年）を読み返した。大井は言う。「タブーを呪術とみて、これを宗教とは区別する見方がある。しかし、わたしはこの見方をとらない。宗教を儀礼主義からとらえるならば、儀礼はすべて呪術である。儀礼は、神に対する人間からの要求のために行われる行為である。共同体の反映、農耕の豊饒、船舶の安全などがその主要な側面をなしているが、この儀礼全体の入口にタブー行為がある。タブーがどんなに頻繁に行われようとも、儀礼としてみれば、その主要な側面ではない。しかし、このタブーを除いては、すなわち呪術を除いては宗教は成り立たない。」（p159-160）
　この引用箇所は、いまだ大井晩年の存命時に、私が次のような内容で批評した個所である。「大井がここで論じる『神』は先史社会や野生社会の神であるから、すくなくともGodではない。spiritsである。タブーはGodに関係ないところで形成された。先史社会や野生社会ではspiritsに関係してタブーが形成された。先史人や野生人は宗教を知らない。そこからやがて宗教が発生してくる土台の精神運動を知っていただけである。『神への要求』はフェティシズムに起因する。儀礼は神を前提にするのでなく、神を産み出す行為である。これをフェティシズムという。」
　ところで、大井は論文の最後のところでこう記している。「わたし自身のテーマ概念は、悪ではなく罪である。悪と罪とは厳しく区別される必要があるのかどうか。実は、わたしはこの研究を志して以来つねにこの厳しい区別を意識しているのである。わたしはまず、神と対決することを必要とするのである。神が観念にすぎないとしても、その観念を戦いの相手に、わたしは選んでいる。このさい自分も傷つく可能性があることを覚悟している。観念を相手にして。このテーマ概念がどれだけ現実的であるかは、自分の判断ではなくなっており。ネクラの戦いかもしれない。しかし、死の直前、老化のはてにやっとこの仕事にはいった。多忙だった。健康上の不意な事故にもあった。いや、相手を軽視した。」（p182）
　大井は幼少のころキリスト教の書物を多読した。それで観念的＝静的にはキリスト教に深く入って理解した。けれども、身体的＝動的には唯物論を受け入れた。そして、最晩年、神と戦うことを決意する人間となった。そのような思想家に教えを受けることのできた私は、研究者として、もはや何も惜しむことはない。
　なお、大井死去に際して、私は『季報・唯物論研究』から追悼文寄稿の依頼を受けた。そこで同誌の38・39合併号（1991）に以下の文章を載せた。ほんの一部を抄録する。「先生が昨年発表された『罪について』の最後の数行に、次の一節が読まれる。『わたしはまず、神と対決することを必要とするのである。神が観念にすぎないとしても、その観念を戦いの相手に、私は選んでいる。このさい自分も傷つく可能性があることを覚悟している。観念を相手にして』。（中略）ところで、大井正にとって神とは一体何なのか？――この質問に答えられる者はだれもいない。（中略）わたしなりに大井先生の立場を論じさせていただくなら、こうなる。己が神を己が好みで選び取り、これを拝み、打ち叩きもするフェティシストが唯物論者であったと同様、神は観念（模写）にすぎないと前おきしてこれと戦おうとする大井正もまた、どこまでも唯物論者たらんとしているのである」。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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