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	<title>ちきゅう座 &#187; スタディルーム</title>
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		<title>米大統領選挙を見る眼</title>
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		<pubDate>Thu, 09 Feb 2012 01:20:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[近藤　健　　]]></category>

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		<description><![CDATA[  今年の米大統領選挙は、オバマ大統領再選なるかが焦点であるが、オバマ再選阻止を至上課題とする共和党は、目下のところ党大統領候補をめぐって泥仕合を演じている。共和党の支持基盤である保守というよりは反動勢力の支持を得るべく党候補を決める予備選挙で立候補者たちは、テレビ討論やテレビ広告で政策論争よりも互いに相手の人格や弱点の非難合戦に終始し、そのさまは悲劇とも喜劇ともいえる様相を呈している。選挙は、どの国でも、誰が勝つかにどうしても関心が向くのは避けがたいし、メディアも共和党候補はロムニーかギングリッチか、といったいわゆるホースレース報道に傾斜しがちである。それはそれとして、より注目すべきは、いまアメリカに起こりつつある社会の変動、その選挙そして今後の政治への意味合いであろう。共和党を占拠した観のあるティーパーティ運動、オバマ大統領の「公正な社会」のための「政府の役割」というメッセージ（年頭教書）、などは、この変動にたいするそれぞれの反応ということができる。なぜそういえるのか、今年の大統領選挙をみる一つの視角を提供してみたい。
Ｉ．背景としての人口動態
 １．白人人口の減少　　
  ２０１０年の国勢調査によると、アメリカの総人口は３億８００万人強である。うち、非ヒスパニック白人人口は、６３．７％で、１０年前の２０００年調査の７５．１％から１１ポイント以上減った。（註１）。代わって増えたのは、ヒスパニック系人口１６．３％（前回１２．５％　以下同）および、アジア系人口４．７％（３．６％）である。人口増のうち非白人が約８０％を占める。この調査に基く将来予測では、２０４１年頃に白人人口は５０％を切り、少数派となるとされている。要因は、ヒスパニック系アジア系移民増大と彼らの出生率の高さ、逆に白人の出生率の停滞である。この変化のより著しい現象は、若者の人口構成に表れている。１８歳以下の若者人口では、この１０年間の伸び率は白人マイナス１０％、黒人マイナス２％に対し、ヒスパニック系アジア系はプラス３８％、その結果、現在の若者人口の４６％強はいわゆるマイノリティ＝少数派集団である。現在、カリフォルニア州、アリゾナ州など１０州で白人若者は少数派となっている。（因みに、非ヒスパニック系白人が少数派となっている州はカリフォルニア、テキサス、ニューメキシコの３州）。ブルッキングス研究所の人口学者ウイリアム・フレイによるいと、若者人口で白人が少数派となるのは当初２０２３年と予測されたが、この勢いではそれは２０１９年ごろにやってくるという。
 註１．米国勢調査では、白人、黒人、アジア系といった人種カテゴリーとは別に、民族（エスニック）カテゴリーとしてヒスパニック、非ヒスパニックの分類がある。ヒスパニックとは、メキシコ、プエルトリコ、キューバそのほかスペイン語を母語とするラテンアメリカからの移民や子孫を指す。ヒスパニックの多くは混血であるが、自らを白人、黒人あるいは二人種混合と同定することが可能である。したがって、国勢調査では、自己申告でヒスパニック系かつ黒人あるいは白人というカテゴリーが生ずる。ヒスパニック系で白人と申告したものは２０１０年国勢調査では８．７％。これを「白人」に加えれば、「白人人口」は７２．４％となるが、ヒスパニック系白人は近年の移民とその子が多く、その文化的社会的背景の違いから、アメリカの伝統的な白人人口とは区別して考えられている。
  ２．異人種間結婚の増大　
  人種構成の急速な非白人化あるいは人種的民族的多様化を示す現象の一つに、異人種あるいは異民族間の婚姻増加がる。アメリカでは１９６７まで南部諸州にそれを禁止する法律があったが、すべて撤廃されてから徐々ではあるがこの婚姻が増えてきた。国勢調査では全婚姻人口中異人種・民族間婚姻は約８％と出ているが、２００８年のある調査によると、新婚の１４．６％が異人種結婚であった。当然、若者の結婚にそれが多く、白人社会とは異なった文化が作り出される。個々にも世代間ギャップが生まれよう。黒人と白人の結婚は１９８０年と比較して３倍となった。
　３．少数派住居地の拡散と郊外化　　
  移民や黒人はロサンゼルス、ニューヨークなど都市に住み、それに押されて白人は郊外に移るというのが、従来のパターンだった。しかし、この１０年、白い郊外のイメージは急速に変化している。人口５０万以上の大都会地域（メトロポリタン）の郊外住居者の三分の二は依然白人ではあるが、史上初めてこの地域ですべての少数派集団の過半数が中心都市でなく郊外に住むようになっている。すなわちアジア系の６１．９％、ヒスパニックの５８．７％、黒人の５０．５％が郊外住居者である。この傾向は、６０年代の公民権運動以来、居住差別は違法となり、またマイノリテイィの中産階級化が進むにつれて、徐々に促進したが、ここ１０年移民たち特に増大するヒスパニック系の落ち着く先は郊外あるいは地方のスモールタウン、農村地域へと広がっている。要因の一つは、仕事（特に建設業）のある場所を求めての移住である。そうなると白人たちはさらに外に出て「外郊外地」をつくり、そこにもマイノリテイィの進出が著しければさらに外へと向かうという二重三重の郊外化が進み、外へ行くほど白くなる。
  ブルキングス研究所の報告だと、ロサンゼルス市を中核としたメトロポリタン、ロサンゼルス郡の外国生まれの人口はここ１０年ほとんど変化なかったが、ジョージア州アトランタ市郊外では外国うまれが４倍となっている。つまり従来の移民の落ち着く先が変わってきている。この１０年に新しく郊外に移住した１３３０万人の三分の一はヒスパニック系、黒人が２５０万人、アジア系２００万人であった。農村地域の人口増加率はわずか２％だったが、外国生まれがその増加の３７％を占めた。
   ４．こうした人口動態は、アメリカ社会にとって重要な意味をもつ。
  郊外に住むようになった移民（不法であれ合法であれ）たちは、仕事を見つけ落ち着くと家族を呼び寄せる。これまで長い間白人中心のコミュニティに突然異質なものが多数参入してきたとき、そこには文化的緊張状態が生ずる。移民や黒人は相対的に貧困かつ教育水準も低い。その生活援助や学校教育の財政を誰が負担するのか。税金は誰のためか、資源配分の問題である。周囲を見回して「こんななはずではなかった」と、古くからの白人はつぶやくのである。高齢化の進む白人層と、若くて貧しい非白人の若者の急増という、世代間ギャップ。生活習慣、異質なものへの寛容度、異人種結婚、価値観の相違という文化摩擦などなど。これは州政府、連邦政府の政策選択と直接かかわってくる。例えば、急速にヒスパニック人口が増えているアリゾナ州の共和党知事は、不法移民徹底的取締を主張する。
ＩＩ．では、このようなアメリカ社会へのインパクトを、＜ティーパーティ現象＞の分析をとおして、考えてみたい。
  １．ティーパーティ運動と白人のアイデンティティ
  ２００９年オバマ政権は発足早々、リーマン・ショックに始まった経済大不況対策として約８０００億ドルの景気刺激策を成立させ、次いで多額の税金投入による破産に瀕した銀行及び自動車産業の救済を実行した。これに対し、これは財政赤字/国家債務を悪化させるのみならず、税金の無駄遣い、自由市場への政府の過剰介入、連邦政府の権限拡大という「社会主義」だと主張して、自然発生的に起こった「草の根運動」がティーパーティ運動だとされる。
  英国王権の恣意的権力行使に反抗して独立した米国には、もともと中央（連邦）政府の権力拡大・集中につねに疑いの目を向ける政治文化がある。この運動の参加者のみならず保守派が従来から主張してきた、政府規制反対、自由市場尊重、減税、小さな政府論が育ちうる土壌は、一つにはこの政治文化にあるといえるだろう。ティーパーティ運動もこの政治文化で説明することも可能である。
  しかし、オバマ反対デモのなかに、オバマ大統領をヒトラーに擬したり、リベラル派のリーダー、ナンシー・ロペス下院議長（当時）に「ナンシー、お前は地獄に焼かれろ！」といった過激なプラカードが多く見られたような異常な熱情を帯びた反対運動は、単にこの政治文化では説明しきれない。
  この運動は、全国的なリーダーがいて活動を統括するというような組織的な運動ではない。少なくとも発生当初はそうであったといえよう。そこには反税、反移民を唱える人、政府の役割極小化を最優先とするリバタリアン極端な自由市場主義者などなどが混在する。だが、共通項はなにか、運動参加者、支持者に関する意識調査、世論調査を解読してみると、そこには、ここ１０年の人口動態を反映した白人社会のマイノリティ化への危機感、いいかえれば「白人社会のアイデンティティの危機」という姿が浮かび上がってくる。
  ティーパーティ現象については、ジャーナリストの報告、政治学者の調査、歴史家によるアメリカ史における位置づけ、など２００９年以来、多くの分析がなされている。その比較検討はこの小文の目的ではないので省略するが、さまざまな調査のなかで、運動初期になされた意識調査を取りあげる。自然発生的といわれた運動の初期にこそ、その性格がナマに現れていると思われるからである。
  それは、２０１０年４月５日から１２日にかけて１８歳以上の有権者を対象に、特に運動支持者の特性解明目的をとして実施されたニューヨークタイムズ紙/ＣＢＳテレビの調査である。
  それによると、
  ①「あなたは自らをティーパーティ運動の支持者とみなしますか」との問いに、支持者と答えたものは全体の１８％だった。（註２）
  ②この１８％のうち、白人の占める割合は８９％（調査対象全数の白人の割合は７７％、以下同）；黒人、アジア系はそれぞれ１％（１２％と３％）；ヒスパニック系３％（１　２％）であった。
  ③この支持者の年齢層は、４５～６４歳が４６％（３４％）；６４歳以上２９％（１６％）；１８～２９歳は７％（２３％）にすぎなかった。
  ④性別では、男性５９％（４９％）；女性４１％（５１％）
  ⑤支持者のデオロギー傾向は、保守７３％（３４％）；通常共和党支持者５４％（２８％）；無党派３６％（３３％）。
  ⑥支持者家庭の経済状態（２００８年）では、年収５万～７万４９９９ドルの人が２５％（１８％）で最も多い。１０万ドル以上は２０％（１４％）；１万５千～２万９９９９ドルの貧困層は１３％（２２％）；５万ドル以上を合計すると、５６％（４４％）。階層を上流から最低貧困層まで五つに分けた場合、自らを中の上の層としたものは１５％（１０％）、中流５０％（４０％）、労働者階層を自認したものは２６％（３４％）。ここから支持者は米国人平均よりも相当程度裕福な人びとであるいえる。
  この調査から、ティーパーティ中核支持者のプロフィールは次のようなものなる。
　「白人、男性、年配者、比較的裕福、共和党支持者で保守派」
（註２）この数字は、調査によっては多少異なる。質問の仕方、調査時期によると考えられる。たとえば、ピューリサーチ調査（同年３月１１日～２１日）では、「ティーパーティ運動に賛同するかしないか」の問いに、賛同２４％。民主、共和、緑の党、ティーパーティなどを列挙して「どのグループがあなたの見解をもっともよく反映していますか」との問いに、ティーパーティと答えたものは１４％だった。
関心を惹くのは、オバマ政権に対するパーセプションである。
   「オバマ政権の政策は、富者、ミドルクラス、貧困者のうち、どのグループを優遇していると思いますか、それともすべてを平等に扱っていると思いますか」との問いに、貧困者優遇が５６％（全調査対象では２７％、以下同）；平等な扱い９％（２７％）。
　「オバマ政策は黒人よりも白人、白人よりも黒人、のどちらを優遇しているとおもいますか、あるいは両方を平等に扱っていると思いますか」との問いには、黒人優遇２５％（１１％）；平等な扱い６３％（８３％）。
　「バラク・オバマはあなたのような人びとの問題や要求を理解していると思いますか」には、イエスは２４％（５８％）、ノーは７３％（３９％）。
　これらの数字は、この１８％にティーパーティ支持者と有権者一般との乖離の大きさを物語っているとともに、彼らがオバマに無視されているとの感情を抱いていることがうかがえる。
　
それとの関連で、オバマ大統領自身へのパーセプションの異様さが目に付く。
　「バラク・オバマは米国で生まれたと思うか、それとも他国生まれと思うか」の問いに、ティーパーティ支持者は、米国生まれが４１％（５８％）、他国生まれ３０％（２０％）、わからない２９％（２３％）。ただし、一般有権者の間にも他国生まれと思っている人が２０％いることに留意したい。
  さらに「バラク・オバマは、ほとんどの米国人が守ろうとしている諸価値を共有していると思うか」との問いには、イエスが２０％（５７％）、ノーが７５％（３７％）だった。
  １９６１年８月４日ハワイ生まれという出生証明があるにもかかわらず、オバマは米国市民ではないという根拠のないうわさは、オバマはムスリムであるとの風聞（彼はクリスチャン）とともに、２００８年選挙中にも流されたが、この思い込みあるいは信じ込みは、２０１２年の選挙でも執拗に続いている。また、彼が本物の「アメリカ人」ではないというオバマ攻撃は、ギングリッチ共和党候補をはじめ保守派が言外ににおわせていることである。ティーパーティ支持者のこのようなパーセプション、不満と不安は、運動支持者とのインタヴューに如実に顕示されている。たとえば、６３歳の元ダンス教師は、すべての人が医療保険加入を義務付ける改革法（民間保険へ加入、低所得への補助など。日本のような政府管掌あるいは組合管掌の皆保険とは異なる）は、ごく少数の恵まれない人びとを助けるために多数者から奪い取る誤った考えといい、年配の男性は「俺は、無から出発して生活を築いてきた。だから他人の何者かがおれのポケットに手を突っ込んで金をとって、何の努力もしないものに与えるなんて許すつもりはない」という。努力しない他人の何者かとは、貧困者とくに黒人、ヒスパニックを暗に指す。税金が彼らの生活保護などの援助に使われることへの不満である。
  ６３歳の引退した建築業者はいう。「私は５０年代に育った。素晴らしい時代だった。だれも大金持ちにならず、誰も物事を大きくしなかった。みんながせっせと働いた、それが今はどうだ、すべてはあのＭＴＶの類だ。自らを露出して自己顕示が強く有名になりたがる。道徳はもうどこにも残っていない」。（以上、ワシントン・ポスト紙から）　
ここには、すっかり変わってしまった社会への嘆きと不満、こんなはずではなかったという思いが、込められている。
　
２．人種の要素　　
  ティーパーティ運動の性格について少々長くなってしまったが、その言動に人種の要素が強く働いていることが、窺いしれよう。　
貧困層にマイノリテイィが多いい事実の一方、公民権運動以来、マイノリティの権利は法的に保障され、一部の中産階級化も進み、黒人大統領も出現した。あからさまな人種差別はタブー視もされている。だが選挙において、政策論争において人種の要素はずうっとつきまとっている。共和党予備選挙で、ロムニー候補の決め台詞は、オバマ大統領は「受給権社会entitlement society」 を創ろうとしている。この選挙は「アメリカの魂」を守るかどうかの選挙だ、というものである。ロムニーのいう「受給権社会」とは、生活保護とか貧困者むけの食料切符、医療保険補助などを支給される権利を保障する社会をさす。ロムニーのいう「アメリカの魂」とは、自助精神、成功失敗は個人の努力と能力次第、自由市場尊重を指す。これは、アメリカ保守の伝統的な主張だが、「受験者社会」と対比させたところに、受給者は黒人やマイノリテイィであり、その負担は誰がするのかという暗示である。
  サントラム候補はアイオア州での選挙運動で「私は、他人のお金を黒人に与えることによって黒人の生活を向上させようとは望まない」といった。ギングリッチ候補は、オバマ大統領を「食料切符大統領」と軽蔑的に呼ぶ。確かにオバマ政権下で切符発行数は増えたが（高失業率のせい）、それは黒人の食料切符依存とそれは誰が負担しているとの暗喩でもある。
  保守派が自助、自己責任、自由市場原理を掲げて所得再配分政策に抵抗することいわば常態である。特に、多数つまり中産階層から金をとって少数に与えるという知覚は、高度成長期が終わった７０年代から次第に広がり、８０年代のレーガン政権以来、その感情を耕してきた。その「減税」政策は、人びとの可処分所得を増やすことによる消費拡大、投資拡大によって景気回復を図るという経済政策上の理屈だけではない意味があった。図式化すれば、減税=税収不足=予算削減＝受給権や社会サーヴィスの縮小という流れで、いわゆる小さな政府実現という策であった。多くの白人中産層にとって「社会サーヴィス」とは貧困者への何らかの所得再配分を意味し、税金はそのコスト負担を意味したし、貧困者とは黒人をはじめマイノリティであった。経済不況、失業率の高止まりはこの知覚をより鋭くする。
  ティーパーティの比較的裕福な白人中産層が、オバマ政策は黒人優遇、貧困者優遇であると受け止め、自分たちの利害が顧みられていないと反発するのは、実態は別として、予期しうる態度であるといえるのである。オバマ大統領が黒人であることは、このパーセプションを補強しているだろう。
ＩＩＩ．大統領選挙を左右する要因　　動員力の問題
  どの国のどの選挙でも、勝敗を決定する基本的な要素は、三つのＭである。
  すなわち、Messenger＝候補者、Message＝主張、Mobilization＝動員力　である。アメリカ大統領選挙では、特に、動員力がいちばん重要というのが筆者の見解である。
 １．動員力
  政党支持率と投票行動が必ずしも一致しないことは、よく知られている。70年台初めのウオーターゲート事件のとき、「ニクソンが銀行強盗を犯したとしても、ニクソンに投票する」といわれた、なにがなんでも共和党（あるいは民主党）という人はいる。現在、ティ－パーティー運動支持者は、なにがなんでも共和党だろう。だが、支持者全員が投票所に足を運ぶわけではないし、党候補が誰になるかによっては棄権する人もいよう。
  米大統領選挙の投票率は、よくて６０％、大体５５％前後である。先進民主主義国の選挙と比べて、全く低い。２０００年のブッシュ政権誕生のときは５５．３％、２００４年再選のときは共和党の積極的な投票駆りだしで６０．１％、２００８年はオバマ・ブームで６１．６％、これが戦後選挙の最高であった。中間の議会選挙となると、せいぜい４０％前後である。
　加えて、大統領選挙が間接選挙であることが投票率と動員の関係を複雑にする。周知のように、各州で相対多数票を獲得したものが、その州に割り当てられたその候補者の大統領選挙人を独占する。過半数は２７０票（人）。全米５０州のうち、共和、民主いずれかが圧倒的に強い州がかなりある。そこでは競争はない。選挙運動が集中するのは、どちらに転ぶかわからない州である。ここで動員力が試される。自党支持者を１～２％増やすだけでも、勝敗を決定しかねない。ティーパーティ運動支持者が２０％前後でも、その力が発揮するのは、彼らのオバマ打倒の熱意とそれに伴う動員力なのである。（この間接選挙が民主的であるかどうかは、また別の問題）このように、投票しない潜在自党支持者をいかに投票所へ足を運ばせるかが、勝敗を左右することになる。
  現在の共和党にとってティーパーティ支持者とその同調者が基盤である。ここから棄権者が多く出れば敗北に致命的である。
  民主党の基盤は、黒人（７２年以来一貫して８０％以上）、ヒスパニック（ほぼ一貫して６０％以上）、低所得者層、そして９０年代以降は１８歳から２９歳の若年層である。２００８年民主党は若者たちの積極的な投票借り出し運動によって、この層の投票率が上がり、オバマ勝利につなげた。つまり、民主党にとって、この支持層をできるだけ投票させることが、勝利につながる。ところが、若年、低所得者の投票率は常に相対的に低い（どの国で同じ傾向）。オバマ大統領は、経済不況、失業、生活不安が広がる中で、０８年と同じ様な熱意をこの層に掻き立てることができるだろうか。共和党の一般的強みは男性票（ウオーターゲート事件後の７６年、第三党個候補がいた９２年を除く）、それも白人男性票を７２年以来一貫して相対多数を獲得している。〇八年でも５５％を獲得した（男性全体ではオバマ４９％、マケイン４８％）。ここで注目されているのが、年収３千ドルから７万５千ドルで教育水準は高校までという白人労働者階層である。この層は、０８年でも５２％対４６％でマケイン共和党候補がオバマに勝っている。実のところ、７０年代から、すでに指摘した収めた税が誰のために使われるかという保守派の言説に左右され、共和党寄りの傾向を強めてきた層である。しかし、争点が、「ウオール・ストリート占拠」に示されたような、所得格差の拡大、公正の問題に移るとすれば、彼らの票がどう動くか、共和党にとって大きな懸念である。自党支持に向けどう動員できるか、場合によっては選挙を左右する。彼らは、経済不況にもっとも打撃を受けている人々である。このように、それぞれの潜在支持者をどれだけ自党に投票させるか、投票率が低いだけに、１～２％の底上げはきわめて貴重である。（数字は出口調査から）
 ２．候補者
 もちろん、候補者の人気、人格は大統領選挙を左右する。特に、純粋な浮動票を投票所に足を向けさせる一要因として。今回選挙は、民主党はオバマ大統領、共和党はまだわからないがロムニーか。
大統領選挙は「頭よりも心」という表現がある。理性よりも感情というところか。言わんとするところは、どちらの候補者がより好かれるか、有権者にとって身近に感じられるかが、政策や主張よりも票を動かすといことである。人柄の勝負。オバマもロムニーも、ハヴァード大出身のエリート。オバマは法律大学院、ロムニーは法律大学院と経営学大学院の両方を出ている。しかし、大学院までの経験、経歴からはオバマのほうが庶民に近い。オバマの大統領としての支持率は４０％半ばを行き来して決して高くないが、オバマ個人の好感度は比較的高い。２０１２年１月のピュー・リサーチ調査では、オバマの好感度と非好感度は５１％対４５％である。これにたいし、ロムニーのそれは３１％対４５％。もちろんこの数字は本番選挙になって変わるかもしれない。ロムニーの父親はミシガン州知事で、６０，７０年代の共和党実力者の一人。いわばなんの不自由もなく「乳母日傘」で育った息子のロムニーは、会社買収を専門とする金融ファンド経営で２億ドルを超える財産を作った。「庶民を知らない」という批判が、予備選の段階で同じ共和党内から出ている。これが、本番選挙でどうでるか、まだわからないが。
 ３．メッセージ
  メッセージの内容と発信力は動員力に結びつく。共和党の基本的メッセージは、本番になれば幅広い支持をめざして修正されるとしても、予備選挙ですでに出ている。すでにふれた「受給権社会」か「アメリカの魂（機会の社会）」か、その変形としての「結果の平等」か「機械の平等」か。さらには「大きな政府」か「小さな政府」か、である。こうしたに二項対比は現実の選択としては不毛であり間違っていると批判はできても、単純なだけに明快でわかりやすい。日本の小泉政権時代にいわれた「ワン・フレーズ・ポリティクス」の類である。白人層の不安、不満を味方にするスローガンといえる。そして、具体的には、経済大不況、高い失業率はオバマの失政とする攻撃となる。一方、オバマ大統領は、１月２４日の一般教書で、公正な社会を唱え、貧富・所得格差是正のための政府の役割を「スマートな政府」という表現で訴えた。オバマのこのより公正で平等な社会をという語り口は、実のところ、０８年の選挙運動中から首尾一貫していることに、むしろ驚きを感ずる。医療保険改革、金持ち優遇を是正する税制改革、学校格差・学力格差縮小の教育改革などは、０９年の一般教書や予算教書をはじめ、その後、折り触れて、語っている。ただ、２０１０年の中間選挙でねじれ議会となり、共和党の何でも反対のオバマ下し戦略で実現できず、またオバマ自身の融和を目指す政治姿勢から、共和党と直接対決する言動を避けてきた。これが、リベラル派の不満の種になってきたが、選挙が近づくにつれ、昨年末から対決姿勢を強めている。「ウオール・ストリート占拠」に刺激されたこともあろう。ただし「スマートな政府」は、単純明快ではない。税制改革、インフラ整備の公共事業といった説明を付けざるを得ないところに、リベラル派の語り口の浸透能力が試されているといわれるのである。
以上、少々長くなったが、今年の米大統領選挙を観察する材料を提供したつもりである。
このほか、事実上野放しといっていいほどの選挙資金の問題、また政治不信と議会選挙、対外政策と選挙など、関連した問題もあるが、それは別の機会にしたい。
〈記事出典コード〉
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study439:120209〕

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
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		<title>旧ユーゴスラビィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」（7）</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Feb 2012 11:57:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[岩田 昌征]]></category>

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		<description><![CDATA[15　「共同体」
 　コザラツにおける衝突準備は両サイドにおいて周到に細部に至るまで作成されていた。
　第二次大戦の初期，ムスリム人は親ウスタシャ（クロアチアのラディカル民族主義者：岩田）であって、対セルビア人の残虐行為に参加した。それ故、ムスリム人の古い世代はセルビア人犠牲者の子孫による復讐がありうると内心恐れていた。コザラツとトルノポリエの間にある「共同体」と呼ばれたセルビア人記念墓地は，今度の戦争の前の日々，常にも増してあらゆるムスリム人の意識にのぼっていた。
　ハムバリナの衝突の後，1992年5月25日に連邦軍部隊がバニャルカからコザラツを通ってプリェドルへ向かうと発表された(p.42)。連邦軍がコザラツ近くに現れた時，ムスリム人軍の封鎖線と周囲の家から警告もなく部隊に向けて火を吹いた。１台のタンクが動けなくなり，１人のセルビア人兵士が重傷を負った。かくして，コザラツ地域に住むセルビア人とムスリム人の直接衝突に至った。5月25日，26日，コザラツ地域で激闘が展開し，次いで数千のムスリム人兵士と市民が降伏することになった。
　プリェドル・オプシティナ危機管理本部は決定した，「保護を求める人々のためにトルノポリエに収容・宿泊施設を設け，工作のために戦争捕虜をプリェドルにおけるケラテルム物件とオマルスカ鉄鉱山『ルードニク』の管理棟と工場に拘束する。」
　プリェドル・オプシティナ幹部による思慮を欠いた決定の結果は，後になって，戦争参加者全員にとって悲劇的であることが示された。特に，オマルスカ，ケラテルム，トルノポリエのいわゆる収容所の仕事と何等かの形でかかわった者達にとって。2ヶ月後，オマルスカ，ケラテルム，トルノポリエの諸収容所は解散され，プリェドルとバニャルカ地域からすべての戦争捕虜達が国際赤十字の支援で外国へ出発した。そのほかに，西側の豊かな国々で仕事を得ようと当時の戦争状態をうまく利用したムスリム人達も亦(p.43)。
16　現場にて
　1992年5月22日の夜，1人のムスリム人と3人のセルビア人の客がいた。彼等だけは喫茶店「NIPPON」の敷居をまたぐ勇気があった。電話が鳴った。長年の知人ストヤン・プパヴァツからだった。「君がまだコザラツにいるのか，確かめる命令を受けた。」(p.46)。「店にいるよ。」「何を待ってるのだ。すぐに出ろ。おれ達はコザラツ方面への陣地で君の町を砲撃する命令を待っている所だ。」
　予想はしていたが，この知らせには全く驚いた。幸いなことに家族はすでにバニャルカに疎開させてある。ところで，町からの出口はすべてムスリム民兵が厳重な見張を立てていた。隣人で友人のトリヴォ・レリチがいた。1958年以来付添看護師としてコザラツの保健所で働いていた。彼はこのSDAの戦闘拠点を最後に脱出したセルビア人の一人だった。
　ここに1995年6月7日に彼がプリェドルでこの瞬間を描いた文章がある。「1992年5月22日21時頃，コザラツ保健所の救急室の宿直に向かった。その時そこで働いたたった一人のセルビア人だった。セルビア人医師ドラゴ・ラチマンは道路が封鎖されてやって来られなかった。仕事に行く前にタディチとの約束でランチをつくって，彼の店へ持参し一緒に食べた。1992年5月23日朝6時まで当直した。それが終わって家へ急いだ。家の中庭に多くのムスリム人兵士を見て，家に入るや，息子にすぐコザラツから逃げろと告げた。」「車に乗り込み走らせると，通りの反対側の店の前にドゥシコ・タディチがいた。『どこへ行くのか。』『プリェドルだ。乗っけてくれるか。』……。コンチャラ村で2台の軍用車に気付いた。武装ムスリム人のグループだった。悪名高い犯罪者コレと通称されるスリョ・クスランがいた。彼等が武器を車から下ろしている隙に全速力で封鎖線と彼等の脇をすり抜けた。ドゥシコはプリェドルの中心でおりた。私と息子はそう遠くないスヴォドノ村まで行った。」
　レリチと別れて，親類のヴォキチ・ラドヴァンを訪ねた。彼は署長ドルリャチャの個人的ガードであった。それから列車でバニャルカへ向かった。母，妻，幼い二人の娘が待っていた。その日，プリェドル駅は数千の群衆で混雑していた。発車が遅れていた機関車の汽笛が鳴って，みながほっとした。数分後ムスリム人村ハムバリナへの砲撃の音が届いた。翌日午後2時頃コザラツ，私の生まれた町，逃げ出さざるを得なかった町へ攻撃が開始された。
17　恐るべき告訴状
 　ラジオ・プリェドルが最後通告を放送した。
 　私に対する告訴状でハーグの検察官は言う，「コザラツ攻撃は猛砲撃で始まり，戦車と歩兵の侵攻がそれに続いた。コザラツに入ると，セルビア人歩兵は一軒また一軒と放火して行った。5月28日までにコザラツの50パーセントが無に帰した。残りの被害は1992年6月と8月の間に発生した。町から住民を一掃した後，セルビア人兵士はコザラツに『生命がなくなる』まですべてを盗み略奪した。コザラツ攻撃に際してセルビア人財産に損害を与えないように注意が払われていた。セルビア人の家々には『手を触れるな』と注意書きがあった。」(p.48)   検察官は，その時にコザラツで起こった事態に対する責任の大部分を私に帰した。いかなる官職もいかなる軍階級も有していなかったにもかかわらず，私がムスリム人住民虐殺で鍵的役割を果たしたとされる。検察官によれば，私は，誰を捕虜にすべきか，誰の家を焼き略奪すべきか，誰を殺害すべきか，を命令した当人であった。男色（あるいは獣姦？；岩田）の故に有罪となったＮ.Ｓ（本文には実名あり；岩田）のような偽証人等を挙げて，検察官は，私が1992年5月26日にセルビア人軍所属16人と共にコザラツのムスリム人警察官6人を捕虜にし，正教会の前に据え，2人を選別して，彼等の喉を切り裂いた，と告発した。そんな犯罪と私は物理的に言っていかなる関連を持ち得ようがなかった。何故ならば，コザラツ攻撃の時，50キロメートル離れたバニャルカにいたからだ。(p.49)
 18　敗北者による復讐
 　（pp.50-51にコザラツとその周辺における戦闘で敗走したムスリム人軍によってその後行われたセルビア人住民殺害の諸具体例が筆者ドゥシコ・タディチによって提示されている。要約紹介は省略する：岩田）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study438:120206〕
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		<title>旧ユーゴスラビィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」（6）</title>
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		<pubDate>Thu, 02 Feb 2012 11:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[岩田昌征]]></category>

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		<description><![CDATA[13．二つの塹壕
 　バニャルカの公安部長ストヤン・ジゥプリャニンは将来のセルビア人共和国領内のすべての警察署を完全に統制しようとはかった。警察勤務員全員に民族を問わずセルビア人権力への忠誠署名と新しいセルビア人共和国の記章着付が要請された。それとも解職と武器引き渡し。
 　プリェドル警察署長シモ・ドルリャチャは明言した、「命令電報を受けとった。コザラツの全警察勤務員にそれを実行する。断固として。」
 　ムスリム人とセルビア人の間でこの件に関する長い苦しい交渉が行われた。コザラツのムスリム人指導者の一人ベチル・メドゥニャンは交渉の結果を報告して、言った、「私達は二つの塹壕にこもっている。人々は最後の１ディナールまで武器に使った。それを引き渡したくない。武器引き渡しに署名し、セルビア人の規則を受け容れる者は袋だたきに合うだろう。セルビア人達はまだ我々を攻撃する用意がない。」
 　同じ頃、ムスリム人とクロアチア人から成るBiH残余幹部会(セルビア人代表が抜け出てしまったのでこう呼ぶ：岩田)は連邦軍のBiHからの撤退決議を採択した。BiH内務相アリア・デリムスタフィチはBiHの全警察署長達に秘密電報を打った。①連邦軍の全装備の撤収阻止、②BiH領土防衛隊への供給に必要な連邦軍の装備貯蔵所の封鎖、③BiH内務省のガードのつかない連邦軍の移動阻止、④BiH全域における軍事作戦の急速な計画と始動。
14．連邦軍への攻撃
 　BiH残余幹部会は秘密裡に対連邦軍宣戦。コザラツのSDA幹部とそのパラミリタリー部隊は内相アリア・デリムスタフィチの電報を待つまでもなかった。
　ムスリム人はプリェドル・バニャルカ間を移動している連邦軍部隊へ攻撃し始めた。昼夜をおかずたたかいの叫びがコザラツの通りに響き渡り、群集が通りをかけまわった。その中に私の知人達が多くいて、以前は衝突願望を全く示していなかったのに。プロパガンダの影響は明白だ。残余幹部会の命令でコザラツとハムバリナのSDA幹部は武装軍警部隊を編成し、主要道路上に統制点と封鎖線を設置した。
  1992年5月22日ハンバリナの統制点で武力衝突が起こった。ムスリム人軍は警告なしに連邦軍車輌に発砲し、兵士2人を殺害し、4人に負傷させた。そして、死者と負傷者の収容を許さなかった。プリェドルの危機管理本部はかかる犯罪行為の実行者を5月23日12時までにプリェドル公安部に引き渡すように命令した。期限が守られなかったので、プリェドル警察署長シモ・ドルリャチャは「危機管理本部はこの地域における武装解除と兵士殺害者補足のために軍事介入する事を決定した。」と声明を出した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study437:120202〕
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		<title>日本はどんな社会に向かうのか（その1）</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Jan 2012 09:35:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[岡本磐男]]></category>

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		<description><![CDATA[まえがき
本年1月8日の『朝日新聞』では、2人の民主党政治家の「日本再生の基本戦略」についての論議を掲載している。一人目のそれは、政調会長の前原誠司のもので、あくまで成長路線を追究し、そのためグローバル市場に進出するという主張である。第二のそれは、経済産業省の枝野幸男の主張で、「成長にはこだわらず、新産業を育てあげ内需を拡大すべきだ」というものである。私は2人の民主党の有力政治家の主張がこの程度のものであることに失望するものではあるが、先ず2人の見解に対して私見をぶつけることから本稿を書き始めよう。
成長戦略論
先ず前原氏流の経済成長戦略が重要であるという所説から吟味しよう。この所説はかなり以前から多数の政治家によって主張されてきたのであるが、実際はこの20年間ほどの間、日本はGDP（国内総生産）成長率をほとんど高めることはできず0％に近いほどであった。その理由は主に世界経済の構造的理由によるものと思われる。日本はBRICSのような新興工業国との間の競争関係ではほとんど敗退してきたのである。更に日本は、国内的には少子高齢化社会の下で人口は減少傾向にあるから、国内需要も減退傾向にあるため、今後成長を高めることは困難と見られる。もっとも前原氏の主張は、専ら海外市場―商品市場・資本市場―に向けられており、ここへの日本企業の進出が成長を高めると見込んでいるようである。しかし日本製品の海外への輸出は超円高の下では減退傾向のあるし、資本の輸出は、資本輸出国のGDPを高めるとしても、日本のGDPへの寄与度は企業の利益部分にとどまるから、一定の限度がある。これによって日本の成長率が大幅に高まるなどとは考えにくい。更に前原氏のような政治家はGDP（＝国内総生産）の中身については論議することがほとんどないが、GDPの中身の6割程度はサービス産業であり、そのサービス産業には富（または剰余価値）の生産に寄与するものとしないものとがあり（生産的労働と不生産的労働との区分に関連する）、この点を考慮しないで、単にGDPさえ増えれば国民生活が向上すると見るのは誤りであるという問題もある。
内需拡大論
次に、内需を拡大して経済を活性化すべきだとする枝野氏の議論も決して期待の持てるものではない。日本の内需（個人消費）は全体の需要の6割前後で推移してきたが、内需拡大論は20数年前から主張されてきたとはいえ、容易には実現されてこなかった。枝野氏が説くような、国民生活にとって便利で、生活を豊かにするような新産業が発展する可能性が、今日あるだろうか。10数年前には携帯電話が発明され、国民大衆の日常生活に普及したため、新産業として景気回復の一要因となるかもしれぬとして注目されたが、人々の消費金額に占める割合は低いため、そのような要因とはなりえなかった。その後はデジタル・カメラや液晶テレビなどが発売されるようになったが、これらの新産業が景気回復をリードするような基軸産業となったとはいえない。また今日では、家庭用ロボットの開発などに注目が集まっているが、これらも多くの家庭が購入するとは限らないであろう。多くの家庭は、今日では消費を増やすよりは、生活の安定を求めているからである。
また内需が拡大しない他の重要な要因としては、デフレ問題がある。政治家たちは常日頃、日本経済の活性化のためにはデフレ脱却が最重要な課題であるといっているが、そのデフレがなぜ生じているかについては深く追求せず、単に商品の需要量が供給量を超えているためとする近代経済学的発想にとどまっている。それゆえ、その解消のためには、日本銀行の金融政策緩和を必要とするとの論議にとどまっている。だがこうした表面的な発想はおかしいのである。この問題については、私は以前にも論じたことがあるので詳細には論究しないが、他国に比して遅れた側面があるとはいえ、日本でも技術革新が進み労働生産性が上昇している点や、海外の労働者の低賃金を利用していることによって商品価値（投下労働量）を低下させていることに依拠しているとみている。それゆえにデフレを政府が政策的に解消させるなどということは容易にはできないのである。
財政危機と重税路線
このように見てくると、前原・枝野の両氏の主張は実現可能性は少ないと考えられるだろう。もとより両氏の主張は、今日の日本の危機を背景に提起されている。その危機の中心は言うまでもなく財政危機である。日本の中央政府と地方自治体の財政赤字の累積額は1000兆円に及ぼうとしている。それゆえ、政府の発行する国債金額も世界一の膨大な規模に達している。1月13日に成立した野田改造内閣が社会保障と税の一体改革を中心課題として掲げ、消費税増税を含む重税路線を設定しているのもそのためである。今日の日本は少子高齢化の進展が見通されるため、一方では、年金、医療、介護などの社会保障費の漸進的拡大が見通されるが、この費用を負担する若年層や壮年層の人々は減少傾向をたどるため、世代間格差の拡大、不平等の発生が懸念されているわけである。だが消費税増税を実現させれば財政悪化を食い止められるかといえば、事はそれほど簡単ではない。今後日本の景気がどうなるかにもよるが、消費税の引き上げの時期如何によっては、不況を一層深化させ消費を冷え込ませることによって税収を減少させることもあり得るからである。今日、日本の財政が極めて危機的状況にあるというのは、政府の税収を上回るほどの借金を行うことによって一般会計の歳出をまかなっているという事実に明らかであって、こうしたことを持続させることは到底不可能なのである。更に現在、日本の国債は大量に発行されていても、国際市場での価格下落→国債金利の高騰が生じないのは、国債の消化が日本人（日本の個人、企業金融機関）の貯蓄［約1400兆円］によって行われており、外人投資家によってあまり消化されていないためであるといわれている。もし国債発行額が更に拡大し、日本人の貯蓄の相当部分を上回るほどになり、外人投資家による保有部分が増えていけば、国際市場での国際化化の変動（低下）が生じがちとなり、国債金利が万一高騰すれば、政府の財政危機は一層深刻化していくとみられるが、私はこうなる時期は余すところ3～4年と見ている。
ギリシャの危機
財政危機の陥っている諸国の中では日本は世界第一位であるが、ギリシャを筆頭とする多くのEU諸国では、事態はより深刻のようである。諸国の財政資金の借り入れは、国際金融機関、国際通貨基金(IMF)、諸国の南欧支援ファンドから行われ、赤字財政の規模に応じて金利は上昇する傾向にあるからである。これによってEU諸国の国家の中では財政破綻に陥るかもしれない国々が続出し、これによってEU諸国の資本主義も、極度に低迷する国々も現れてきた。さしあたりここではギリシャのみを取り上げて、福祉国家の破綻とはどのような事象であるかについて見るなら、勤労者の4分の1の数を占めるといわれる公務員の給与は極度に切り下げられるとか、高齢者に支払われる年金や失業者に支払われる失業手当はどしどしカットされ、他方で消費税のような税金は引き上げられるような、通常の人間らしい生活は送れず、ホームレスに近いような人があふれる社会となるのではあるまいか。このように消費支出が極度に抑制されるならば、資本主義の経済システム自身も破綻し、崩壊するかもしれない。ここで問題となってくるのは民主主義国家自身の（財政）破綻が資本主義システムの破壊を導くのか、あるいは資本主義システムの破壊が民主主義国家の破綻をもたらすのかという問題である。ここではまずギリシャのみを取り上げてしまったために、国家の財政破綻が経済システムを破壊するがごとく捉えてしまったが、―この点は私自身の力量の不足によって断言はできないのであるが、―逆に資本主義の経済システムの弱体化、衰退が国家の財政破綻をもたらしている国もある、といえるのではあるまいか。
日本の財政破綻の日は近い
日本においてはまさにそういえるのであって、第二次大戦後自民党政権が発足してしばらくたった1965年から建設国債が発行されるようになり、更にその後には特例国債（赤字国債）も発行されるようになり、80年代末期のバブル経済崩壊以後は、不況発生によって不況克服のための公共事業支出や失業支出のような社会保障費の増加のための財政赤字の累増、国債発行の拡大が更に一層顕著となっていった。また08年のリーマン・ショックと11年3月の東日本大震災の発生の影響によって、その傾向に拍車がかけられつつある。更に付け加えらるべきは、ここ10年間ほどの間、労働者の賃金はほとんど引き上げられず、非正規の労働者は1300万人を超えるほどになっているので、財政収入も低下する傾向にあるということである。それゆえ、消費需要の低迷によって商品販売も円滑には進展せず、日本資本主義のシステムは限界に近づきつつある。それゆえ日本では明らかに、経済システムの衰退が、国家の財政破綻を招来しているとみてよかろう。
国家の破綻と資本主義の破壊
このように今日の民主主義国家の政治は、一応資本主義の経済システムとは分離しており、経済システムは実は政府によって操作されるのではなく、資本の論理によって動いている。それゆえ、国民大衆は資本主義によって生活しているのであるが、資本主義が破綻すれば、―失業などの形によって―生活しえないことも起こりうる。その場合には国民大衆は国家の政治家に支援を要請せざるを得ない。自由・平等・友愛などの理念に基づいて成立した民主主義の国家である限り、〈憲法に定められた〉生存権を保障する建前からいえば、政治家は本来は大衆を―生活保護のような形で―救済せねばならない。だが、生活困窮者の救済が十分に行われているかといえば、必ずしもそうとはいえないであろう。民主主義国家が、いかに自由と民主主義を標榜したとしても、それがイデオロギーにとどまる限り、それが達成されるとは限らない。それゆえ民主主義下においても―平等などという理念を主張したとしても、実際は機会の平等があるにすぎぬとされて―一握りの極度の富裕層と大勢の貧困層が並存するという事態が生じうるのである。今日日本人の多くの人々が、日本を変えてほしいと政治家にいっている。だが問題は日本をどのように変えるべきなのかである。単に日本の政治を変えるだけで暮らしが楽になるなどと考えているとすれば、今日の私たちが生きている社会がどのような特性をもつものかについて全く理解していないことになる。
危険な独裁への道
私も日本は変わってほしいと思う。しかし、経済成長率を高めることが可能とか、デフレ脱却が可能であると見るような民主、自民の保守政治家たちによっては、決して日本社会を変えることはできず、極度の貧困にあえぐ悲惨な社会が到来するとも考えられるのであるのだが、最近注目すべき事態が発生した。それは大阪維新の会の私事によって大阪市長の地位についた橋下徹氏が、今日では独裁といわれるほどの強い政治力をもたなければ、世の中は変えられないと言明したが、この言葉に多くの大衆も共感を示したからである。
この言葉は現在の世の中が1930年代半ば以後の日本とドイツの社会情勢に類似してきたといわれるその情勢を想起させる。
1930年代半ば以後のドイツと日本
周知のように、ドイツでは33年にナチスが政権を獲得して以来、ヒトラー独裁体制が成立していくし、日本でも30年代後半以後次第に軍部独裁体制が確立されていく。先ずドイツからいえば、ナチスとは、日本語の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」であるが、ヒトラーが「社会主義」という言葉を使ったとはいえ、ロシア革命後のソ連の様な左翼の社会主義ではなかった。確かにヒトラーは歴代の首相とは違って、大衆運動を行ったし、ユダヤ人が経営する金融業や流通業の資本を弾圧し、利潤を収奪したりして、一面では社会主義的要素を顕示しようとした側面はある。だが他面では、巨大独占資本から多額の金を受け取ったり、労働者を弾圧したりした国家主義、軍国主義の色彩の強い右派の正統だったのである。奇妙ではあるが、ファッシズムを標榜するヒトラーの政権が、中産階級をはじめとする国民の大部分（9割以上）の支持を獲得し、45年の第二次世界大戦終結時に至るまで、その支持が続いたのは、30年代半ばから国民の完全雇用維持・失業解消に成功してきたからと思われる。それはナチスの政策が当初は公共事業中心のケインズ政策であったが、30年代末からは再軍備→戦争政策へと推移していったためと考えられる。次に日本であるが、日本も30年の頃の昭和恐慌の時代は世界大恐慌の影響から都市でも農村でも大量の失業が発生した困難な時代であった。31年の満州事変を契機として軍部が台頭し、軍国主義化・国家主義化への道を歩むようになる。37年には中国との間で日中戦争が開始され、41年には米・英国との間で太平洋戦争（第二次世界大戦）が勃発する。この間の日本の政府はナチス政権とはかなり親密な関係を結んでいたので、協調して歩みを進めたと思われる。戦争が開始されるや、資本主義の内的矛盾は少しずつ解消されたせいか、経済は不況・失業からは脱するようになる。軍部台頭→軍部独裁に対しては一部の知識人は別にして、大部分は支持しており、特に太平洋戦争への戦争政策に対しては大衆の圧倒的多数はこれを支持したと思われる。戦争中は海外の日本軍隊への物資補給のため国内での食糧等の物資は欠乏したが、配給制度のような統制経済によって大衆は最低限の生活は保障されたので、辛うじて生き延びることはできた。
市民独裁への道
さて、このように見てくると、ドイツのヒトラー独裁政権も日本の軍部独裁政権も、第二次大戦の終結まで持続してきたのは、戦争政策によって失業を解消し、辛うじて国民大衆の生活を維持しえたが故に大衆から支持を与えられたためであるように思われる。しかし今日では、いかなる意味でも戦争は絶対に回避されねばならない。それゆえ、軍国主義やファッショ的独裁は排撃されねばならぬ。だが今日ではインターネットが普及し、欧米や中東諸国での市民の蜂起が見られる時代になった。私は今日ではますます市民・大衆が歴史を動かす時代に入ったとみている。それゆえ、レーニンのいったようなプロレタリア独裁ではなく、むしろ民衆は誰でも生きていける、民衆のリーダーによる市民独裁の体制が構築されるような時代が到来するのではあるまいか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study436:120131〕
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		<title>福島「原発震災」の意味を問う～錯綜する天災と人災（その四 下）</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/18675</link>
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		<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 17:42:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[木村 朗]]></category>

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		<description><![CDATA[【緊急改訂版】NPJ第三六回論評
福島「原発震災」の意味を問う～錯綜する天災と人災（その四 下）
はじめに
　野田総理大臣が、2011年12月17日に「原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものが収束に至った」と述べ、この事故の収束に向けた工程表の「ステップ２」を完了したことを宣言しました。しかし、この「事故収束」の宣言に対しては、その信憑性を疑問視し、完全な収束には相当な時間がかかるという声・見方が内外から多く出されています。例えば、東京新聞は、「政府はウソばっかりだ。誰が核燃料を取り出しに行くのか。被害は甚大なのに、たいしたことないように言って。本当の状況をなぜ言わないのか」との原発労働者の声を伝えるとともに、「廃炉へ進める節目とすることや、“いつ戻れるのか”という避難住民を少しでも安心させようという狙いがあろう。全国の原発の再稼働はむろん、世界へ原発輸出を進める底意もうかがえる」とその狙いをズバリ指摘しています（「東京新聞」2011年12月17日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011121702000035.html同社説http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011121702000054.htmlを参照）。
　これまで日本の原発のあり方を厳しく監視・批判してきた小出裕章さん（京都大学原子炉実験所助教）は、「冷温停止などはじめからありえない」と述べ、放射能汚染拡大のおそれが依然として消えていないことを指摘されています（『社会新報』2012年1月1日号、および「小出裕章：冷温停止・倫理と責任」『原発事故・被ばく問題＝「テレビが真実を報道し出した！？」（ＪＣＪふらっしゅ）』http://www.asyura2.com/11/genpatu19/msg/714.htmlを参照）
　さらに注目されるのは、福島第一原発４号機の崩壊が進んでいることを懸念する声が内外から出されていることです（山﨑淑子さんのブログ「福島第一原発4号機は崩壊が進んでいる。大量の避難が必要になるかも知れない」
http://enzai.9-11.jp/?p=9851や「きくちゆみのブログとポットキャスト」2011年12月24日http://kikuchiyumi.blogspot.com/2011/12/blog-post_24.html[ 福島第一原発４号機の安全が保たれますよう]、「アメリカの人々は4号機建屋崩壊を非常に心配している」http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1037.htmlを参照）。
  また小出さんも、かなり前からこの問題（使用済燃料が詰まった使用済燃料プールがある4号機が倒壊した場合の危険性）について説明しています。（「小出裕章が説明する、4号機（使用済燃料プール）が倒壊した場合の危険性 11/3(2)」
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65773412.html2011年11月3日の「たね蒔きジャーナル」を参照。広瀬隆さん登場の週刊朝日のインターネット番組（１２月２３日放映）：「福島原発事故『収束宣言』大嘘の皮を剥ぐ」http://www.wa-dan.com/hirose/も大変参考になります）。
  もしこれが事実であれば本当に重大です。政府・東電はただちにその実態を隠すことなく国民と世界に公表すると同時に､国際社会からの支援を仰ぎながらあらゆる必要な緊急措置を取るべきです。
  いずれにしても私たちは、来年以降も深刻化する原発事故と大津波・巨大地震の再来のおそれ（追記を参照）と真正面から向き合って辛抱強くつきあっていく必要があることだけは間違いがありません。
 ※　新年早々（元旦）に、東京電力が福島第一原発4号機の使用済み燃料プールに隣接するタンクで、水位が通常の5倍近い速さで低下していると発表しました（「東京電力からのご連絡」http://byodo.jp/news/2012010117.htm）。また、その直後に関東・東北を震度4の地震が襲う事態が生じています（「関東・東北を地震が襲う/ 東京23区で地震に住民「もうやめて！ とまって！」ｍｓｎ産経トピック
http://topics.jp.msn.com/wadai/rocketnews24/column.aspx?articleid=814672）。
４．原発（被曝）と原爆（被爆）の関係性を問う―人類は核（原子力）と共存できるのか
（３）核の軍事利用と原子力の「平和利用」－原発推進政策と核兵器開発政策とのリンク
  原爆と原発の共通のルーツは、いうまでもなく第二次大戦中に原爆開発を主な目的として立ち上げられたマンハッタン計画です。このマンハッタン計画は、軍産複合体が当時の価格で20億ドル余を投入した一大国家プロジェクトであり、デュポン社、ダウケミカル社、ロッキード社、ダグラス社などの軍需産業だけでなく、ゼネラル・エレクトリック社（Ｇ・Ｅ）、ウェスティングハウス社（Ｗ・Ｈ）など日本の原発・原子炉建設にかかわる民間大企業も加わっていました（木村朗「軍需産業と軍産複合体」
http://www.news-pj.net/npj/kimura/gunjusangyotogunsanhukugoutai-20100816.html『応用倫理学事典』丸善株式会社、2008年、572～575頁、を参照）。
  核・原子力エネルギーと核・原子力技術の利用という点では、原爆と原発に基本的な違いはなく、いくら「平和利用」と銘打っても、原発開発は原爆開発と表裏一体といっても過言ではありません。まず核・原子力の軍事利用としては、原爆（核分裂反応：ウラン型とプルトニウム型がある）と水爆（核融合反応）があり、原子力潜水艦や原子力空母にも原子炉が使用されています（世界最初の米海軍所属の原子力潜水艦ノーチラス号が1954年9月30日に就役）。そして、原子力の「「平和利用」（というよりも「非軍事利用」、より正確には「商業利用」「産業利用」）としては、医療、土木工事や採掘、発電などの分野があげられます。しかし、両者には表裏一対ともいえる深い密接な関係があります。
  マンハッタン計画の文民の責任者であった陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、すでに大戦中（１９４５年6月1日）に、「マンハッタン計画は戦後も引き続き継続されるべきである。施設を無傷のままに保ち軍事目的ばかりではなく産業、技術用にも相当規模の原料を備蓄する。そして産業開発に門戸を開く」という戦後を睨んだ核開発計画を立案し、大枠をまとめていました（「ふじふじのフィルター」さんの「広島の黒い太陽」マンハッタン計画。その計画の中で生まれた原発。浮かび上がる「放射能の人体への影響」についてのデータ蓄積、
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-983f-1.htmlを参照）。
  それに関連して、宇宙軍拡と軍産複合体に詳しい藤岡淳さん（立命館大学教授）は、「廃熱を利用すると潜水艦を推進させる電力源となることに目をつけたのが、『原潜の父』のハイマン・リコーバー提督であり、エレクトリックボート社であった。ついで原潜用原子炉を陸揚げし、電力を米国経済の動力源に使い、その量産効果で原潜用の原子炉のコストダウンと『自由世界』のエネルギー支配をはかろうというのが、米国のエネルギー産業界の課題となり、福島第一原発が建設されたわけだ。」、「米国は、核軍拡に6兆ドル、宇宙開発に1兆ドルを使って、５万発の核爆弾と核弾頭を生み出してきた。他方、原発の開発には6000億ドルの税金が投入され、国内に104基の原子炉を建設しただけでなく、同盟諸国にも輸出していった。ソ連を先頭とする東側諸国も原発開発に熱をあげたため、左翼勢力の多くは、原発を生産力の上昇をもたらす進歩的な試みだと誤認するようになった。こうして世界中で434基もの原子炉が生み出されてきたわけである」、という注目すべき指摘をしています（藤岡淳「福島で進行中の核の大惨事をどう見るか－『双頭の天龍』を地球生命圏に降下させた危険を見据えよう」http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/09/blog-post.html、カナダ・バンクーバー在住の乗松聡子さんが運営するPeace Philosophy CentreのＨＰ、および同「アメリカ原子力産業の形成」
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/45301.pdf#searchを参照）。
  政治学者の加藤哲朗さん（一橋大学名誉教授）は、戦後日本の原子力開発の歴史を見るさいの教訓として、「科学者たちが『平和利用の研究』にとどめ『軍事利用には反対』したとしても、いったん国策となり軍部や巨大資本を巻き込んだ原子力開発の巨大システムは、科学者たちが専門的見地でどう反対しても、核兵器開発へと進行していったこと」をあげて、「湯川秀樹や武谷三男を含む日本の科学者たちも、「ヒロシマからフクシマへ」の長い道程をたどって振り返ってみると、反ファシズムの決意でマンハッタン計画にたずさわり、戦後は核戦争反対の先頭にたったアインシュタイン、シラード、オッペンハイマーらの苦悩の教訓を、十分にはくみ取り得なかったように思われますが、いかがでしょうか」と重要な問題提起をされていますが、私も強い共感を覚えます（加藤哲郎のネチズン・カレッジ「「原爆から原発、原発から原爆」の轍を繰り返さず、
放射線汚染大国で生き抜く、新たな想像力を！」
http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtmlより）。
  アイゼンハワー米政権が「平和のための原子力」を掲げて日本に原発導入を促した背景には、米ソ冷戦が激化しつつあった国際情勢のなかで日本を西側陣営に組み込んで支配するとともに、広島・長崎への原爆投下に続くビキニ・第五福竜丸事件での「第三の被ばく」で高まった日本人の核・原爆アレルギーを解消するという隠された意図があったことは間違いありません。第五福竜丸の元乗組員の大石又七さんは、当時の日米加の政府が事件の責任を曖昧にしたまま２００万ドルの見舞金で事態の収集をはかったことに対して、「日本は、見舞金で譲る代わりに､原子力で米国の協力を取りつけたのではないでしょうか。われわれ当事者としては、原子力開発の人柱にされたような思いです」と無念さを率直に語っています。最終的に反対の声に押されて提案を取り下げることになりましたが、米下院議員イエーツの「米国の資金で広島に原発を建設しよう」との演説（1955年1月 27日）にもそうした米国の意図をみることができます（「原発とメディア『平和利用』への道」『朝日新聞』2011年10月30日）。
  また、アメリカの核独占から原子力の積極的輸出という核・原子力政策の転換は、ソ連との核軍拡競争（1949年ソ連の原爆実験の成功、1952年アメリカの水爆開発の成功、1953年のソ連の水爆開発の成功）が拡大・激化するなかで高まりつつあった国際社会からの批判をかわし、当時急速に広まりつつあった核拡散の流れに歯止めをかけつつそれをコントロールするという政治的思惑があったともいえます。そして、そうしたアメリカの意向が色濃く反映されるかたちになったのが、その後に組織される原子力の平和的利用を促進させるための機関とも揶揄されるIAEA（1957年に発足した国際原子力機関：International Atomic Energy Agencyの略称）や核保有国の特権を一方的に保証したきわめて不平等な性格を持つNPT（1968年7月に署名開放された核兵器不拡散条約）でした。
  そのことについて、ピーター・カズニックさん（アメリカン大学準教授）は、
米『ブレティン・オブ・ゼ・アトミック・サイエンティスツ』誌電子版(2011年4月13日)に掲載された論文「日本原子力史とアイゼンハワー」
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/kaku-info/kaku-info-110413.htm
のなかで、アイゼンハワー大統領が核兵器の使用をめぐるタブーを解消させるともに、ビキニ・第五福竜丸事件で生じた日本人の核・原爆アレルギーを除去するために「国内、国外双方において原子力平和利用の恩恵を広めること」を誓約したことを明らかにしています。また、国家安全保障会議の作戦調整委員会が、アメリカが「原子力の非戦争利用に関する強力な攻勢」をかけて損害を食い止めること、および、日本に実験用原子炉の建設を申し出ることをあわせて勧告した事実を指摘すると同時に、原子力委員会のトマス・マレー委員長が「広島と長崎の記憶がきわめて鮮明であり続けているいま、日本におけるこうした原子力プラントの建設は、両都市の大虐殺の記憶からわれわれをみなきっぱりと解き放つことができる、劇的にしてキリスト教徒的な意思表示となるであろう」と宣言したと語っています。これはまさに、アイゼンハワー大統領の原子力平和利用の公約は戦争計画における大規模な軍備拡張と核兵器依存の強化を隠すものとなった、という紛れもない事実を私たちに伝えてくれる貴重な証言だと思います。
  広島平和研究所に所属する田中利幸さんは、「日本の原子力産業は、どこで道を間違えたのか？」と問い、日本の反核運動における核兵器反対、原発容認という奇妙な分離の理由を、戦後、日本政府が核科学を強く推進してきたこと、自分たちの国は、第二次世界大戦で、アメリカの技術力、なかでも核物理学において明らかに優位に立つアメリカに、敗北したと信じたことに見られる核物理学に対する日本人の考え方、自然エネルギー資源が不足していることについての深い恐怖心などに求めています（田中利幸「原爆と“原子力エネルギーの平和利用”」Peace Philosophy Centre: 「日本の反核運動は原発を容認してきた .. http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/04/blog-post_05.html、を参照」。　
  広島平和研究所所長を今年３月まで務められた浅井基文さんは、「要するに『原子力の平和利用』という概念は、アメリカが自らの核政策を正当化するために持ち出した、本質的に人の目を欺く言葉（のもてあそび）であり、NPTは正にその延長線上の法的産物だということです。即ちNPTは、5大国の核独占という本来あってはならない国際的な不平等を固定化することの見返りとして、核兵器国が非核兵器国に原子力の「平和利用」の権利を認めることによって不平等性に対する不満を解消することを狙ったものであるということです」とアメリカ側の隠された思惑について注目すべき指摘を行っています（浅井基文「福島第一原発から何を学ぶべきか」を参照）。
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2011/404.html。
  ジャーナリストの成澤宗男さん（『週刊金曜日』企画委員）は、「核の番人」と呼ばれるＩＡＥＡの正体を「国際原子力マフィア」であると断じています。その理由として、「原子力は安全である」とのお墨付きを与えることによって原発を存続・拡大させる役割をはたしていること、その目的のために放射能の脅威をねじ曲げて過小評価する姿勢、劣化ウラン弾が内部被曝を引き起こす危険性を指摘したＷＨＯ（世界保健機関）の報告書（上級顧問だった英国のキース・ベイバーストック博士が作成）に圧力をかけて握りつぶし「劣化ウラン弾は無害である」と言い切っていること、チェルノブイリ原発事故の犠牲者をそれまでの定説（数万人から数十万人）を覆して「４０００人」と推計したこと、などを挙げています。そして、IAEAを「常に現実を隠蔽しようとする、原子力産業に依存した見せかけの機関」であるとするユーリ－・アンドレーエフ氏（ロシアの原子力事故の専門家）の鋭い批判と「IAEAのもう一つの役割は､核拡散防止条約（NPT）を遵守させること。しかし条約自体、米ロなど五カ国の核武装しか認めないという不平等な内容で、米国の意向に沿ってイスラエルの核武装を黙認するなど、IAEAのやっていることはダブルスタンダードだらけ。しかも、『原子力の平和利用』という名目で各国から原子力産業の代理人が送り込まれ､業界の利益を守るためだけに活動する。国際機関などというと何か幻想を持つ人が多いですが、実態をシビアに見極めた方がいい」という傾聴すべき意見を紹介しています（成澤宗男「国際原子力マフィア　IAEAの正体　チェルノブイリのデータはなぜ改竄されるのか」『週刊金曜日』2011年7月15日号を参照)。
  そして、原子力工学が専門の勝田忠広さん（明治大学准教授）は、「軍事利用と平和利用を分けるNPTの考え方には、科学的に見て本来無理がある。にもかかわらず、日本政府も今まで、軍事利用と平和利用は別物であることを国内で必死に主張し続けてきた。『核』と『原子力』という用語を使い分けるのもその一端だ。また、核兵器保有国は特権的な地位を守るため、この危険なエネルギーを平和利用というアメを与える形でNPT締約国の権利と位置づけ、他国をなだめてきた」と述べていますが、「核軍縮」「核不拡散」「原子力の平和利用」を３本柱とする核不拡散条約（NPT)の本質的矛盾をよくとらえた重要な指摘だと思います（『朝日新聞』2011年8月6日付朝刊より）。
 　さらに、核密約問題の解明にも取り組んでいる軍事評論家・新原昭治さんは、「日米軍事同盟の保持をめざす米政府は、『平和のための原子力』を同盟管理の重要なしかけにした。米政府は原子力の平和利用を道具に、日本の反核世論の放逐をくわだてた。米原子力委員会委員で戦術核兵器推進論者のトマス・マレーは、全米鉄鋼労組大会で日本への原発提供を呼びかけ、これにより、“広島・長崎の被爆の追想”を超えて高い次元に立てるはずだと強調した。もっと露骨なのは、日本への核兵器の常時持ち込みを実現させるため、米政府がその“露払い“と位置づけて、日本で『原子力平和利用』の宣伝戦に乗り出したことである。米国防総省は国務省に対し、核兵器貯蔵計画が日本の世論によって妨げられているので、『原子力平和利用』を活用して核持ち込み反対の世論を弱める『心理作戦』計画の推進を提案した」とズバリ核心を突く情報を開示してくれています（新原昭治著『日米「密約」外交と人民のたたかい―米解禁文書から見る安保体制の裏側』新日本出版社、2011年9月、122頁、を参照）。
  それでは、そもそも「唯一の被爆国」（日本政府の形容）であり「地震・津波大国」でもある日本に、なぜ５４基もの多くの原発が造られることになったのでしょうか？また、アメリカ側から原子力の平和利用というプロパガンダと原発導入促進方針をむしろ進んで受け入れた当時の日本側の思惑はどうだったのでしょうか。１９５０年代にアメリカの代理人となって日本に原発を導入する先導役を務めたのが、当時「メディア王」とも称され政界進出（首相になる！）の野心を持っていた正力松太郎氏と改進党に所属していた若手議員の中曽根康弘氏（元首相）の二人でした。
　アイゼンハワー米大統領が行った１９５３年１２月８日の国連総会演説「Atoms for Peace（平和のための原子力）」を受けて日本への原発導入を容易にするための大がかりな宣伝工作（プロパガンダ）が展開されましたが、それを推進した日本側の主役の一人がその当時読売新聞の社主であり、その後日本テレビの創設者ともなる正力松太郎氏でした。彼は、「ポダム（PODAM）」という暗号名（コードネーム）を保持する米ＣＩＡ（米中央情報局）のエージェントであったことがのちに判明しますが、日本で原子力の平和利用キャンペーンを米国からの「原子力平和利用」使節団の受け入れや全国各地での原子力の平和利用博覧会の開催などを次々に行って日本に原子力事業（原発ビジネス）が導入される世論づくりに大いに貢献し、その過程で念願の政界進出（1955年2月の衆議院選挙で当選）を果たしました。1955年12月19日に原子力基本法（原子力利用の大綱である「民主・自主・公開」の「原子力三原則」が定められた）が成立し、1956年1月1日に原子力委員会が設置されるとその初代の委員長に就任しただけでなく、翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、日本の「原子力の父」とも呼ばれる大きな存在になっていきます（詳しくは、有馬哲夫著『原発・正力・ＣＩＡ』新潮新書、2008年2月発行、佐野眞『巨怪伝－正力松太郎と影武者たちの一世紀（上）（下）』文藝春秋、2000年5月発行、あるいは植草一秀の『知られざる真実』」2011年5月23日「原発村番頭与謝野氏が理論的でない理論的主張示ｽ」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-ef7c.htmlおよび「五十嵐仁の転成仁語」2011年３月22日「原子力発電を推進した元凶としての中曽根康弘と正力松太郎」http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-03-22を参照）。
  また、この正力の片腕となって米国政府の代理人（ＣＩＡ要員）であるダニエル・ワトソンと一緒に「毒をもって毒を制する」という心理作戦、すなわち米ソ冷戦を背景にしたアメリカの水爆実験（第五福竜丸の被爆）への批判と反米感情の高まり―日本人の「原爆アレルギー」（「核」への拒絶感情）を消すための「原子力の安全利用＝原発の推進」を行ったのが読売新聞・日本テレビの重役であった柴田秀利氏でした(NHKが１９９４年に放映した『原発導入のシナリオ ～冷戦下の対日原子力戦略～』４５分
http://www.youtube.com/watch?v=EbK_OlzTaWUを参照）。
　もう一方の中曽根康弘氏は、ヘンリー・キッシンジャーが主催するハーバード大学の「サマー・セミナー」に出席するためＣＩＡの資金提供を受けて５３年９月に渡米します。米国滞在中に日本にも原発が必要との考えを固めた彼は、帰国後、他の仲間の若手政治家数名（稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二）と一緒に原子力平和利用調査費の予算獲得に動き、１９５４年３月の衆議院で２億３５００万円の原子力関連予算案を初めて採択させます（野党議員の質問に中曽根康弘氏は「予算が2億3500万円なのは濃縮ウランが235だから」と答えたと語っています）。これはまさに、日本の原子力政策は巨額の税金を投入する「原発利権」となっていく原点であり、その後、中曽根氏は科学技術庁長官や原子力委員会委員長を歴任するなど、原発推進の先駆者だった正力氏とともに戦後日本の原子力推進勢力の中心人物となっていきます（中曽根康弘著『天地有情－50年の戦後政治を語る』文藝春秋、1996年、を参照）。また、その二人の後継者と目されるのが、現在の読売新聞社主の渡辺恒雄氏と「日本原子力発電」元社員で、その後中曽根氏の秘書を経て、国会議員に転身した与謝野馨氏であることは衆目の一致するところだと思います（植草一秀の『知られざる真実』」2011年5月23日「原発村番頭与謝野氏が理論的でない理論的主張示ｽ」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-ef7c.htmlを参照）
　この他の動きとしては、二人の物理学者、茅誠二・東大教授と伏見康治・大阪大学教授が１９５２年に日本学術会議の総会で、原子力委員会の設立を政府に提案することを要請しますが、当時の物理学者の多くが原爆開発につながるとして反対して不採択となっています。そして、１９５４年春の日本学術会議第17回総会で、わが国における原子力の開発・利用の基本として、翌５５年末に制定される原子力基本法に盛り込まれることになる「民主」、「自主」、「公開」の三原則を声明として発表しました。また、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹氏は、正力氏などの誘いで原子力委員会に最初加わることになりますが、原子力推進の動きに抗議して早々に委員を辞任しています。
  そして、日本の核・原子力政策に大きな影響を与えることになったのが、いうまでもなく１９６４年の中国の核（原爆）実験成功の報道でした。これ以降、中国は米国（１９４５年）、ソ連（１９４９年）、英国（１９５２年）、フランス（１９６０年）に次ぐ五番目の核保有国となり、この隣国中国の存在が体制・イデオロギーの違いもあって、日本の政界・官界・財界・マスコミ界・学界だけでなく原水爆禁止運動や一般国民にも大きな影響・動揺をもたらしたという事実はあらためて想起する必要があると思います。
  日本の核武装論の系譜や世界の核拡散状況を丹念に取材した作品『検証 非核の選択―核の現場を追う』（岩波書店、2005年)がある杉田弘毅さん（共同通信編集委員）は、「日本側に平和利用技術は核兵器に転用できるという思惑があったことも否定できない。６８年に内閣調査室主導でまとまった『日本の核政策に関する基礎的研究』には、平和利用で運転を始めたはずの東海村の原子炉でできるプルトニウムを核兵器に使う案が描かれている。同じころ、外務省外交政策企画委員会は『わが国の外交政策大綱』で、『核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに掣肘（せいちゅう）を受けないよう配慮する』として、平和利用技術を援用しいつでも核兵器を持てるようにするという指針案を打ち出した。西ドイツと核武装についての協議も行っていたという」という重要な指摘を行っているのが注目されます（核心評論「原子力と民主主義」『愛媛新聞』2011年８月１６日付より）。
  日本反核法律家協会の事務局長で核・原爆問題に長年精力的に取り組んでいる大久保賢一弁護士も、「この原発推進の背景には、わが国政府の核４政策が存在している。ⅰ非核三原則の遵守、ⅱ核兵器の不拡散、核軍縮から核廃絶へ、ⅲ米国の核抑止力への依存、ⅳ原子力の平和利用、という政策である。この政策の特徴は、核兵器の廃絶などとはいうものの、核兵器によってわが国の安全を確保するだけではなく、核エネルギーの『平和利用』は承認するというものである。もちろん、核兵器と原発は異なる存在である。けれども、核エネルギーを使用するということでは共通している。日本の支配層も、中国が核実験に成功した直後、核武装を計画したことがあった。けれども、その選択を現実化することはできなかった。米国が許すはずがなかったからである。その結果の核４政策である。これは、核兵器の独占体制を維持できなくなった米国が、『平和利用』のための核を自国のコントロール下に置くという政策をとり、その政策を前提として、核兵器の保有を潜在的に確保しておきたいと考えたわが国支配層の思惑の産物である。他方、この体制は、核兵器保有国と非核兵器国の不平等性を内包する核不拡散条約（ＮＰＴ）として、現代国際法規範とされている。米国をはじめとする核兵器保有国、そして核兵器依存国であるわが国政府は、もっぱらの関心を、原発の安全性ではなく、核の不拡散に集中している。不平等性を固定したまま、自国の核の優位性を確保しようという願望である」と本質的な分析・考察を行っていますが、評者も基本的に同意できる内容です（大久保賢一「福島原発事故に立ち向かうために―『国策』と『前科』との対決―」http://www.jlaf.jp/tsushin/2011/1382.html#03自由法曹団 機関誌 『団通信』1382号（６月１日）を参照）。
   小出裕章さんも、その著書（『隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ』創史社、2011年1月発行）のなかで、「もともと、科学技術に『軍事』用と『平和』用の区別はありません。もしあるとすれば、かつて野坂昭如さんが指摘したように『戦時』利用と『平時』利用の差しかありません。もちろん『平和』利用といいながら開発した技術も、必要であればいつでも『軍事』用に利用できます。今日原子力の平和利用などと称して使われているすべての技術は米国の原爆製造計画、マンハッタン計画から生まれました。もちろん、核兵器保有国、米・英・仏・露・中の五カ国は『ウラン濃縮』『原子炉』『再処理』の核開発中心三技術を持っています。そして、非核兵器保有国で唯一、それら三技術を持っている国が日本です」（同書、109 ～110頁）と述べ、「日本が原子力に固執し続ける本当の理由」を示すものとして、「核兵器については、NPT（核拡散防止条約）に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器を保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル（能力）は常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないよう配慮する」（外務省・外交政策企画委員会が１９６９年に作成した内部資料『わが国の外交政策大綱』）および「個人としての見解だが、日本の外交力の裏付けとして、核武装の選択の可能性を捨ててしまわない方がいい。保有能力は持つが､当面、政策として持たない、という形で行く。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルの転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」（外務省幹部の談話）を紹介しています（同書、110 ～111頁、また日本の核武装の動きについてのより詳しい情報は、槌田 敦、藤田祐幸、井上澄夫、山崎久隆、中嶌哲演、望月 彰、渡辺寿子、原田裕史、柳田 真(共著)、核開発に反対する会 (編集)『隠して核武装する日本』影書房、2007年12月発行、を参照）。.
   ここで最大の問題は、今年３月に起きた東日本大震災と福島原発事故の複合被害という「未曾有の国難」の渦中にある現在でも、日本政府が（原発の再稼働や新増設だけでなく）使用済み核燃料の再処理を行うプルサーマル計画や高速増殖炉「もんじゅ」を断念しようとしない理由は何なのか､ということです。ジャーナリストの鈴木真奈美さんは、その点について、『世界』2011年5月号への寄稿論文「『フクシマ』という道標～核エネルギー政策の転換点」のなかで、「日本も（「再処理－高速増殖炉」：評者）路線変更の機会はあった。そもそも米国から再処理に『待った』がかかった時点で、見直しを図ることもできたはずだ。それを妨げたのは、エレルギー政策の観点からだけだったのだろうか。検証が必要である」（同178頁）、「ウラン資源も近い将来、枯渇する。コストが高く､国際政治の影響を受けやすい原子力は、エレルギー安全保障にとっても賢明な選択とはいえない。甚大な放射能汚染と複合被害が深刻化するなか、政治家や原子力関係者のなかには、この期におよんでもなお原子力発電の維持・拡大を口にする者がいる。利権、信念、面子など、原子力にしがみつく理由はいくつかあるのだろうが、核武装の『ポテンシャルの保持』も無視できないファクターではないだろうか」という重大な問題提起を行っているのが注目されます。日本国内では中国の核実験成功（１９６４年）を受けて核武装を真剣に模索したけれども、結局、米国の反対と見返りとしての米国からの「核の傘」提供の意思表示でようやく断念したという過去の経緯も明らかになっているだけに、この問題提起は看過できない深刻な問題を含んでいるといえると思います。
　具体的には、自民党の有力者の一人である石破茂衆議院議員が、８月１６日のテレビ朝日番組「報道ステーション」で、「原子力発電というのがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原子力政策というのは核政策とセットなわけですね。ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は（核を）作ろうと思えばいつでも作れる。１年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。なぜならば、日本の周りはロシアであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、同盟国であるか否かを捨象して言えば、核保有国が日本の周りを取り囲んでおり、そして弾道ミサイルの技術をすべての国が持っていることは決して忘れるべきではありません」という驚くような発言を行っていること（詳しくは、植草一秀の『知られざる真実』2011年8月22日 「核武装の為の原発推進を公言する自民党石破茂氏」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-991b.htmlを参照）、４人の首相経験者（民主党の鳩山由紀夫氏、羽田孜氏、自民党の森喜朗氏、安倍晋三氏）や与野党党首（自民党の谷垣禎一総裁、国民新党の亀井静香代表、たちあがれ日本の平沼赳夫代表）が顧問に名を連ねる「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」（平沼赳夫会長）が５月３１日に発足したこと、などを挙げることができます。この動きは、表向きは勉強会となっていますが、参加者の顔ぶれから、大連立・政界再編に向けた布石だけでなく、核武装に向けた意思表示との臆測も呼んでいるだけにこれから注視していく必要がありそうです（関連情報として、『東京新聞』6月10日付【特報】超党派議連発足の狙いは「地下原発」は菅降ろし？、および「新ベンチャー革命」2011年5月23日No.371の「地下式原発推進一派は悪徳ペンタゴンからの総攻撃に備えよ！」
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/24659657.htmlを参照）。
２０１１年１２月３１日（３・１１とフクシマというあまりにも理不尽な経験をした年を終えるにあたって）
【追記】
　ここからは追記として、福島原発事故の真因にかかわる見逃せない情報について触れさせていただきます。なお、この情報がある人びとにとって都合の悪いものであるために一般国民にあえて「隠された不都合な真実」なのか否かについては読者のご判断に委ねたいと思います。
   ＜東日本大震災からまもなくして菅首相（当時）の一本釣りという形で自民党から復興担当の総務政務官に異例の抜擢をされた浜田和幸参議院議員（無所属を経て現在は国民新党）は、7月11日衆議院東日本復興特別委員会でのみんなの党の柿沢未途議員からの質問（浜田氏が論文などで、人工的に地震や津波など自然災害を引き起こす環境・気象兵器を米国が敵対国に使用した可能性があるとしている点を取り上げ、復興に関する国際協力を得る政府の担当者に不適格だと指摘した）に対して、「地震や津波を人工的に起こすのは技術的に可能で、国際政治、軍事上で常識化されている」「だからといって米政府などが日本のために援助をしないことはない」と持論を臆すことなく展開しています（「msn.産経ニュース」2011.7.11 20:58 [...]]]></description>
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		<title>　音と音楽――その面白くて不思議なもの（７）</title>
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		<pubDate>Tue, 17 Jan 2012 02:49:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ 第７回　行進曲について 
　＞往＜　　石塚正英さんへ　　野沢敏治から
　春の来る前に想い出すこと 
　新年に入って陽ざしは着実に明るくなっています。春になると聞こえてくる音、それは小学校の運動会のざわめきです。心が浮き立つ音楽が流れます。かけっこの時には、ピストルがパン、パンと鳴り、調子のよい曲が走る子をせかします。ワ―ッ、ワ―ッ、と歓声があがる。地域の住民は自分の子供時代のことを思いだすのでしょう、スピーカーがかなりの音量を出しても、文句を言う人はいません。これに対して、大学の管弦楽団のサークル室から出るトランペットの練習音には近所から苦情が出ます。
　運動会では行進がつきものです。行進にはたいてい行進曲がつきます。行進曲というと、ぼくらは中学校で軍隊行進曲を聴きました。特にシューベルトの３曲はみなが知っている節です。第1番目は２拍子で、タン・タタ・タッタ、タン・タタ・タッタ、タン・タタ・タッタ・ター（↑）…。これは４手のピアノ連弾であって、アンヌ・ケフェレクとイモジェン・クーパーの二人の女性が1978年に録音したレコードは本当に楽しげに演奏していました。シューベルトが過ごした少年時代にはナポレオン戦争で恐ろしい殺し合いが行なわれています。フランスは小太鼓と笛の軍楽隊でもって硝煙の上がる戦場で兵士を鼓舞していました。その節はシューベルトの耳に届いていたかは分かりませんが、軍隊行進曲と名づけられていても、やはり彼らしい曲になっています。テンポよく軽快になったり、優美になったり、3部形式の中間部では意外の転調をして精妙な効果を出しています。これを女学生向けのどうということもない練習曲だとけなす音楽家がいましたが、シューベルトの価値を知らなかったのです。
 　軍歌は戦争賛美か？ 
　軍歌はわれわれの親の世代のものです。今の大学生の祖父母からもう少し古い年代のものです。でも今日の子供でもそれに似た曲調を耳にしていないかな、運動会で。戦前・戦中の軍歌はたいてい歌詞が日本は万邦無比の日の下の国とか神武天皇以来の皇統の連綿を誇り、国体の完全無欠を歌う内容でしたが、それらはフランス等に留学した者があちらの軍歌を手本にして作曲したものです。もちろんヨナ抜き音階になっているのですが。聴いていると、あれ、ヨハン・シュトラウスのワルツに似たところがある！と気づきます。そういえば、かの「君が代」も宮中の雅楽を元にしてお雇い外人が作曲したものです。それは後に軍歌にも編曲されますが、その時にもお雇い外人が関わります。「日本主義」は純粋のものでなく、実は西洋の音楽技術や管楽器編成・調性を使っているのです。和洋折衷です。「右翼」はこのことを知っているのだろうか。さて軍歌は時局のものですから、時局が変われば消えます。でも消えるのは表面であり、巷では後まで残り、ぼくらの親はそれらを耳にするとなつかしがっていました。みなあの戦をなんとか生き延びてきたのです。「暁に祈る」とか「露営の歌」はぼくもどこかで聴いたことがあります。歌謡調なので人の胸に残ったのでしょう。でも戦中に「海ゆかば」のような鎮魂の曲に深く思いを致してきた人からすれば、敗戦に遭って、あの時代は何であったのかと空しくい、もう口にしたくない気持はなんとか理解できます。
　軍歌は戦いを鼓舞するためのもの、結局は殺し合いをするのですから、その用に間に合うものでないとだめでしょう。でもそれだけかというと、そうでもないところが複雑です。表現は実用と離れることがあります。戦争の中の人の心を表現することは戦争賛美になるか、これは問題となります。
 　音楽と政治 
　山田耕筰はヨーロッパの先端の音楽を追う――当時ではＲ．シュトラウスとかスクリャービンなど――軽いところがあり、日本でもオペラやシンフォニーを作曲できることを示したいという変な野心を持つ人でした。彼の歌曲は日本語の抑揚を旋律に近づけるという独特の理論でもって作曲されており、それはそれなりにぼくらの歌になっています。「からたちの花」や「赤とんぼ」など。でも滝廉太郎の「荒城の月」の「ハルカウロウノ　ハナノエン」のエは♯がついて半音高くなっているのに、山田は日本にはなじみがないということで♯を取って全音に変えています。それが今は一般的になっていますが、原作者の意図を尊重してもとに戻すべきだと思います。その他細かな変更数多し。彼は実に多方面に能力のある人でしたが、音楽行政でも活躍していました。「陸軍記念日を祝う歌」を作曲しています。その歌詞は日露戦争の勝利を祝うものでした。また彼は戦中に総動員体制に応じ、音文協を組織し、音楽面で文化戦を行ないます。芸術の政治化です。この山田が戦後、音楽評論家の山根銀二から戦争責任を問われますが、山田はそちらこそ問われるべきだと反論しました。でも論争は続きませんでした。戦争責任とは何か。その問いは東京裁判――これじたい問題があります――だけに任せるものではないでしょう。とくに音楽家の戦争責任なるものは音楽家の作品創造のあり方と切り離してはできないものです。ぼくはいずれ芸術と政治について考えてみたいと思っています。
　ヴェルディは『アイーダ』の中に凱旋行進曲を入れました。これを問題にする野暮な人はいないでしょう。また彼は初期にイタリアの民族統一の運動を背景にした歴史オペラを作曲しています。この「若きナショナリズム」を批判する人もまずいないでしょう。ソ連時代の作曲家プロコフイエフはアレクサンドル・ネフスキーがスェーデンとドイツの軍隊を勇敢に破ったことを讃える歌を作っています。これも問題にする人はいません。これに反して日本が明治に国権的自立を求めていた頃の軍歌についてはどうでしょうか。それは問題にするしないというレベルには至らず、誰の記憶からも漏れています。どうしてなのか、考えてみる価値はあると思います
　音楽の生の一面 
 　以前にもちょっと触れましたが、童謡の「むすんでひらいて」は２拍子できびきびと大声で歌えば軍歌に化けます。「蛍の光」も軍歌になっています！この種の変化は日本だけのことでなく世界で一般的です。どこかにも書きましたが、日本人なら誰でも知っている「故郷の空」、これはもとは18世紀のスミスの時代にスコットランド人の国民的詩人Ｒ．バーンズという人が採集した旋律に詩をつけたものでした。もとの歌題は「ライ麦畑を通りぬけて」です。その詩が春歌なのです。ライ麦は背が高いので恋人にはもってこいなのです。実にあっけらかんと即物的で、ぼくなどそれを日本語に訳して口にするのはちょっとはばかられます。グラスゴーではバーンズの誕生日の集まりで現地の御婦人たちと一緒に歌うことがありました。その時には原語の感覚は分かりませんので、こんな歌日本で知っているぞと大きな声で歌いました。
　ぼくの好きな歌手でアルトの――ソプラノではありません――キャスリーン・フェリアがいます。深くて広い実に独特な声の持主でした。彼女が1952年にエディンバラ音楽祭でワルターの指揮で歌ったマーラー「大地の歌」はよく聴きます。青春の歓びの歌から最終章の友への永遠の別れの歌に至るまで。その演奏の時はもう癌に冒されていて自分にとっても最後の別れであったのですが、彼女の眼には輝くものがあったらしい。翌年に彼女は亡くなります。その彼女はほとんどのコンサートで終わりに民謡や俗謡を歌っていました。そこにはバーンズのものを編曲したものも含まれています。民謡や歌謡だと思い入れたっぷりに歌う人がいますが、そんなことのまったくない音符に正面から向かった歌い方がいいです。彼女は愉快な性格の一面をもち、楽屋では猥雑な歌なども口にしていました。そういう幅の広さが彼女の歌を美しくしているのかと、ぼくには感じるものがあります。
　ピアノの連弾となると、いたずら好きのモーツアルトを思いだします。彼は男女が連弾をするときにお互いの腕が絡むように音符に仕掛けをしていました。
　
　＞復＜　　野沢敏治さんへ　　石塚正英から
 　ハイネと太鼓行進曲 
　野沢さん、「フランスは小太鼓と笛の軍楽隊でもって硝煙の上がる戦場で兵士を鼓舞していました。その節はシューベルトの耳に届いていたかは分かりませんが」とのことですが、当時デュッセルドルフで少年時代を過ごしたハインリッヒ・ハイネにはしっかりとフランス軍鼓手が叩く太鼓の音が届いていました。ハイネは、1826年に著した『ル=グランの書（Das Buch Le Grand）』の中で子どものころを回想しているのですが、その一節に以下のものがあります。ハイネ宅に身を寄せていた「ル=グランさんは破格ドイツ語などまず知らなかったし、主だった言葉―パン・キス・誉れ―くらいしかわかっていなかった。それでも彼は、太鼓でもってすこぶるうまく意が通じるように話した。例えば私がリベルテ（自由）ということばの意味がわからないといったら、彼はマルセイエーズ行進曲を叩いてくれ、それでその言葉の意味を理解した。またエガリテ（平等）という語の意味を知らないといったら、彼は『サ・イラ、サ・イラ･･･貴族どもを縛り首にしろ！』という行進曲を太鼓で叩き、それで私はこの言葉の意味を理解したのだ。･･･これと同じようなやり方で、彼は近代の歴史をも私に教えてくれた。」（石塚正英『三月前期の急進主義』長崎出版、1983年から）
　ナポレオン占領下のデュッセルドルフで、少年ハイネはフランス兵ル=グランの太鼓で「自由・平等」の意味を学び、また同じようにしてバスティーユ襲撃をも学んだのですが、音楽はそのような働きをもっています。特定の音とともに特定の観念が身体にしみつくのです。私は、約半世紀前、中学生の頃、お昼の食事時に決まって校内放送でかけられた「酋長の行列」を今でも忘れません。これは、イッポリトフ=イワーノフ組曲「コーカサスの風景」第4曲ですが、youtubeできいてみてください。http://www.youtube.com/watch?v=NPBvWY8EwZA
 　これをきくと、私は先年亡くなった母親がつくってくれたお昼弁当のおかず、ソースたっぷりのトンカツを思い出します。味もそっくり思い出します。音楽のチカラって、すばらしいですね。
 ラデツキー行進曲の裏おもて 
　この行進曲はウィーン・ニューイヤー・コンサートで毎年演奏されるエンディング曲ですが、私のように19世紀労働運動史を研究してきた者にとっては、ラデツキーなる人物には頸をかしげたくなるのです。この曲はヨハン・シュトラウスが1848年に作曲しましたが、その動機が問題です。シュトラウスは、同年、ラデツキー指揮下のオーストリア軍が北イタリアに攻め込んで、同地域の対オーストリア独立運動を鎮圧したのを称えて作曲しているからです。
　いまでこそ「フォーティーエイト」というとＡＫＢ４８の独占的名称ですが、それ以前「４８」とは、ヨーロッパ史における1848年革命のことをさします。この革命はラデツキーたち皇帝側の抵抗にあって敗北し、活動家の多くが自由の国アメリカに亡命するのですが、彼らを総称して「フォーティーエイターズ」と言うのです。私は『アメリカのドイツ人―1848年の人々・人名辞典』（北樹出版、2004年）を翻訳してまで力をいれこんできたテーマです。なので、ラデツキーのことは自由主義の敵、といった印象で理解しています。
　ところが、ネット上に発見した「カフェ・テルル」さんの見解は私のと違います。「ラデツキーとはハプスブルク・オーストリア帝国軍の主力部隊を率いた帝国元帥で、イタリアの動乱鎮圧、ハンガリーの内乱粉砕に縦横無尽に活躍した人物で、カフェ･テルルが尊敬する歴史人物の一人です。」http://www.ps-psytec.co.jp/cgi/kuru2bbs/12.html
　人びとのコミュニケーションはいろいろと見解の相違があってこそ楽しいのですから、紹介しました。とにかく、この行進曲は華やかで心地いいです。youtubeできいてみてください。youtubeできいてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=tLDH4VwXw7Y
 　さて、2005年ウィーン・ニューイヤー・コンサートで、指揮者のロリン・マゼールは、2004年12月に発生したインド洋沿岸津波被災地をおもい、恒例の華やかな曲「ラデツキー行進曲」をやめ、代わりに同じシュトラウスの別曲「美しき青きドナウ」を演奏しました。しかし、一方で研究者の私にすれば、そもそもラデツキーは自由や平等、独立を求めるヨーロッパ民衆の抑圧者であるわけだから、恒例としても演奏してほしくないという頑固な気分を懐きます。でも他方では、これはなんてすばらしい行進曲であることよ！　と感じ入っておりますので、毎年演奏してほしいです。これって、世界史のトリビアでしょうか？
　パチンコ店の軍艦マーチ 
 　私は、大学生の頃、一通りギャンブルをやってみました。競輪、競馬、オート、など。とくに競馬ははまりました。地方競馬からでてきたハイセイコーです。ウィキペディアによるとハイセイコーは「1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった」とのことです。よって、私だけがギャンブルに狂ったわけでないですがね。youtubeできいてみてください。http://www.youtube.com/watch?v=E-3Da1suKVA　 
　もっとも、競馬への傾倒は近年も生じました。地方競馬ハルウララの応援です。「ハルウララ（1996年2月27日 &#8211; ）とは日本の元競走馬である。連戦連敗があまりに続いたため却って人気を呼び、ブームを巻き起こした。」（ウィキペディア）　競馬は、馬の疾走するときの音がいいです。
　でも、ギャンブルと音の関係では、やはりパチンコです。私が夢中になった頃は球入れが手動のパチンコ台でした。電動ではありませんので、手の動きにリズムというかヒネリというか、とにかく一定の動きが必要でした。一つ入れてはタマの動きに合わせてグルンと盤面を見まわし、結果を確認しては一喜一憂するようでは勝てません。チューリップが開いて感動していたのではリズムを作り出せません。そこで意味を持つのがバックグラウンド・ミュージックでした。なかでもオーソドックスな軍艦マーチがよかったです。民衆の自由や平和と軍隊はダイレクトには結び付きません。しかし、ラデツキー行進曲の素晴らしさを純粋に音楽として称えることは合っていいわけです。それと似たようにして、純粋に球送りの手を滑らかにしてくれる行進曲であれば、素直にそれを愛好していいでしょう。これには君が代マーチも挿入されています。ですので、やな人には「ヤ～ダ」といってもらって差し支えないです。youtubeできいてみてください。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&#38;ei=UTF-8&#38;p=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81
 　〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study434:120117〕
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		<title>＜近代の超克＞論を刺戟する交換論―清家竜介著『交換と主体化』（御茶の水書房、2011年刊）書評</title>
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		<pubDate>Sat, 14 Jan 2012 13:35:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ISHIZUKA</dc:creator>
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		<description><![CDATA[１．問題の所在
社会において交換が成立するには、交換主体のほか、必ず媒体が必要である。それは、先史社会や野生社会ではフェティシュなど聖なる存在であり、有史社会や文明社会では貨幣である。貨幣が用いられず何の媒体も介在しないように見える物々交換にも、媒体は存在しているのである。あるいはまた、古代の交易は、玉（各種のタマ、先史）から金（各種のカネ、文明）へと転回するが､前者は交換の対象というよりも、聖なる存在として交換の媒体であった。
先史社会や野生社会では、人間は儀礼（rite、ritual、cultus）を執り行うことにより自然との間で何らかの交換を行なう。その時、自然は儀礼によって自然神（存在者）として出来（しゅったい）する。社会制度＝労働組織もまた儀礼によって生まれる。あるいはまた、労働の組織化に必要な存在として神々が産み出されることになる。儀礼は神々を産み出す行為である。それに先立って神は存在しない。儀礼とは、その後に神を創り出す行為なのである。
先史社会は以下の三つの要素から成り立っている。原始労働（物質的生産）・自然信仰（儀礼的行為）・氏族制度（人間組織）。先史の生活者たちは儀礼を生産に先行させる。先史人や野生人は、あらゆる事柄・行為を儀礼でもって開始するのである。
そのほか、儀礼とは、人間（自然的存在＝動物）が人間的存在になるための必須条件である。自然的存在（モノ）を神的存在にすることにより、人間（モノないし動物）は人間（神的存在をつくりだす存在）となった。これをさしてフェティシズムという。これまで宗教学や哲学、経済学や心理学などで通説だった解釈、物神崇拝は人間が人間以下のモノにひれ伏す幼稚な観念、という解釈は間違っている。事態はむしろ逆である。物神崇拝は、人間が人間になるために必須の条件なのである。
私は儀礼を二種類に区分する（石塚正英「儀礼の二類型とその意味」、『理想』第678号参照）。第一類型は神々を創り出すものであり、第二類型は唯一神や最高神、絶対神にひれふすものである。前者は生活儀礼であり、後者は宗教儀礼である。通説で流布されている物神崇拝は儀礼の第二類型に関連する。その前に儀礼の第一類型に関連するフェティシズムが存在している。この二つは、歴史的にみるならば時間的に前後しているが、存在論的には第一が第二の必要条件になっている。野生人＝非文明人は第一の儀礼にのみ関連するとも考えられるが、現代人＝文明人は第二の中に第一が隠れるようにして二種の儀礼を日々通過している。
さて、交換に関係する媒体のうち、ド・ブロスが特徴づけしたフェティシュなど聖なる存在は野生＝非文明社会に特徴的であり、マルクスが物神に喩える商品や貨幣は文明社会に特徴的である。併し､両者は基底において媒体としての共通性をもっており、後者は前者と断絶して存在するのでない。とりわけ後者は前者のバリエーションなのである。右に記した文章、「この二つは、歴史的にみるならば時間的に前後しているが、存在論的には第一が第二の必要条件になっている」はフェティシュと貨幣の間にも妥当するのである。そして､私のこの議論にもっとも近いところで交換論を提起しているのが著者清家竜介の学位論文がもとになっている本書『交換と主体化』なのである。
２．本書の特徴
人は身体においても精神においても、ときとしてずっと非文明的ないし辺境的なままで過ごしてきている場合がある。その事例として地動説に対する天動説の関係が指摘できる。科学知・理性知がしっかり根を下ろした現代社会でも、我々は日常生活では天動説に即した観念――「朝日が昇る」など――を捨てないでいる。2004年2月に行なわれたある調査では、小学生の四割が「太陽は地球の周りを回っている」と信じている（2004年4月12日付『読売新聞』記事「太陽は地球の周りを回っている…小学生の四割」）。こうして欧米的文明社会においてさえ、大人の世界では地動説が承知されつつも、子どもの世界ではけっこう天動説が愛好されているのだ。あるいはまた、大人の世界ですら、我々は現在のところ理性知や科学知の視座から地動説を認めつつも、実際には経験知や感性知の視座から天動説にしたがって生活している。頭脳は地動説を承認するものの、身体は天動説を心地よく受け入れるのである。地動説すなわち科学知からはとうてい承認しがたいものの、現代人は、日常生活ではすっかり天動説すなわち経験知に依拠して生活しているのである。
その際、経験知や感性知の立場を前近代的と見なして拒否するのでなく、これを知の体系の一方の極に据えて、また他方の極に科学知や理性知をおき、双方を交互的な運動や相互的な往還といった動的なサイクルに位置付けしなおし、総合していくことが意味をもつであろう。その先に見えてくる新しい知について、私は「歴史知」という術語をあてがっている（石塚正英『歴史知と学問論』社会評論社、2007年参照）。清家は、そのような立場に近しい文章を記している。
「本書は、『交換する動物』としての人間という視角から、近代という時代の牽引者でもあった経済学的なホモ・エコノミクスとは異質な重層的な人間像を提示することを目的としている。」「それとともに『交換する動物』としての人間像の解明から、現代の危機の在り処を照らし出してみたい。」（はしがき3頁）
「本論文が扱う社会的交換形式は、主として以下の四つを想定している。それは『贈与（互酬）』『等価交換』『資本制交換』『再配分』である。」「本書の主題は･･･それらの諸交換形式の『重層的な相互関係』とそれによって産出される『重層的な主体性』を明らかにする事にある。」（序論11頁）
「その重層的な諸交換形式の在り方は『贈与（互酬）』を一階とし、その上に『等価交換』、さらにその上に『資本制交換』が折り重なる三階建ての建物としてイメージすることができる。そして『再配分』は、それらの交換形式によって形成された社会的諸関係を垂直に貫き、人々の相互作用の中からコミュニティのまとまりを作りだす。」（序論13頁）
「現代を生きる人間像は、複数の社会的交換形式の作用に横切られ、その効果によって複数の性格を刻み込まれた『重層的主体』である。」（序論13頁）
清家は、複数の社会的交換形式の一つとしてトロブリアンド諸島の儀礼的交換方式「クラ」を取り上げている（22頁～）。文化人類学者マリノフスキーは、1910年代にオーストラリアやニューギニアで数々のフィールド調査を行なった。その際彼は、ニューギニア東端に位置するトロブリアンド諸島に残る一種の交換経済に注目し、著作『西太平洋の遠洋航海者』（『世界の名著』第59巻、中央公論社、1967年所収）の中で、その成果を記述した。そこに読まれる「クラ」という交換方式は、現今風に謂えば一種の地域貨幣をもちいたものである。マリノフスキーが前掲書で語る「クラ」について、少々長いが以下に引用しょう。
①クラとは、部族間に広範に行なわれる交換の一形式である。それは、閉じた環（わ）をなす島々の大きな圏内に住む、多くの共同体のあいだで行なわれる。この環は……ニューギニアの東端の北および東にある多数の島を結ぶ線によって表される。このルートにそって、二種類の、また二種類にかぎる品物が、つねに逆の方向に回りつづける。／このうちの一つの品物は、つねに時計の針の方向に回っている。すなわち、ソウラヴァと呼ばれる赤色の貝の、長い首飾りである。逆の方向には、もう一つの品物が動く。これは、ムワリという貝の腕輪である。／これらの品物はそれぞれ、閉じた環のなかを動いていくあいだに、種類の違ういろいろな品物と出あい、つねにそれらと交換されていく。……品物のどちらをも長期にわたって所有しつづけることはない。（146～147頁）
②クラは不安定な、内密の交換形式ではない。まったく逆で、神話に根ざし、伝統的な法にささえられ、呪術的な儀礼にとりかこまれたものである。（150頁）
③（クラで行なう交換の――石塚）この共同関係（パートナーシップ）は、若干の形式をふくんだ一定のやり方で結ばれ、終生の関係をつくりあげる。……二人のクラ仲間は、おたがいにクラをする義務があり、そのおりに他の贈物をも交換する。
④二つの重要な原理、すなわち、クラはある時間の間隔をおいてお返しのくる贈物であること、および、等価物の選択は与える側にあり、これを（受け取る側が――石塚）強要することはできず、また値を争ったり、交換を取り消すこともできないことの二つが、あらゆる取引きの根底にある。（163頁）
⑤なかば商業的、なかば儀礼的な交換であるクラは、ものを所有したいという深い欲望をみたそうとして、それ自体を目的として行なわれるのである。しかし、ここで注意せねばならないことは、それが、普通の所有ではなく、特殊な型の所有であって、二つの種類の品物を短期間だけ相互的に所有することである。所有の状態は、恒久性の点では完全ではないが、その代わりに、つぎつぎと所有する人の数の点ではたいしたもので、累積的所有とでもいったらよかろうか。（332頁）
清家が「クラ」に注目した意味は、重層的な諸交換形式の一階を明らかにすることだ。では、二階、三階はどのような事例でいかように説明されているだろうか。
二階すなわち「等価交換」の構築は、国家の創生、労役や貢納を課すが、しかし下位の部族社会での互酬は崩さない「一者の支配」をもって始まる。あるいは国家間の交易、商品の流通の活性化、東地中海沿岸地域に於ける鋳造貨幣の登場、ギリシアにおける実在抽象の哲学、蓄財術＝商人術の開始とともに始まる（84頁～）。さらに、元来はキリスト教的互報性＝パンと葡萄酒による神との交換＝儀礼に起因するものの、中世カトリックにおける地獄落ちの者の煉獄による救済と「適切な利子」（96頁～）による交換の質的転回から産出されるのである。
さらに三階すなわち「資本制交換」は、国民国家あるいは近代市民社会の生成とリンクして構築される。その過程で、貨幣を媒介にした交換、自我をも抽象化する交換は、ジンメルのいう「公正(Gerechtigkeit)」、レヴィナスのいう「正義のメディア」を産み出すのである。こうして市民社会において「交換の正義」が社会の原理となるのである（114～116頁）。清家は、ゾーン・レーテルほかを援用しつつ「貨幣を媒介にした等価交換の効果によって、商品を排他的に占有する相互に独立した私的所有者としての法的な&#8221;personne（人格）&#8221;が成立可能になる」（120頁）とするのである。
その際、清家は、近代市民社会を2種に区分し、次のように結論づける。「資本制交換によって牽引される物質的再生産の領域である”buergerliche Gesellschaft（市民社会）”と、物質的再生産の領域に対する意識的な反省形式であるコミュニケーション的行為によって営まれる”Zivilgesellschaft（市民社会）”は、いわば等価交換から産出されるコインの裏と表として不可分の関係にある。」（180頁）また、マルクスに引き付けてこうも結論する。「マルクスにとって資本主義とは、物神崇拝の一形態である。物神崇拝としての資本主義において、資本とは世俗の神であり、資本家とは、世俗化した宗教の祭司であり、労働者は神に捧げられる犠牲の身体にほかならない。」（149頁）
以上、私なりに清家の議論を辿ったが、最後に清家のいう「再配分」を検討する。これは一階から三階までの重層的な構築物を垂直に貫き「人々の相互作用の中からコミュニティのまとまりを作りだす」ものである。全体を貫くのだから、全体に妥当するものを意味する。一つは「互酬」である。「実際のところ貨幣に媒介された等価交換は、あくまで自然の贈与や家族の互酬性を土台にして展開されている派生的現象にすぎない。」（145頁）いま一つは「犠牲」である。「祭祀・互酬共同体を論じる際にも、『インセスト・タブー』という断念や「供犠」などの犠牲が、その成員たちに要求されていることを指摘した。近代以前の祭祀・互酬共同体は、数々の贈与を要求する犠牲のシステムであった。ジンメルがいうには、財を生産するために要求される自然に対する労働もまた犠牲の行為である。」（140頁）清家は、アダム・スミスも労働を犠牲と捉えているとしつつ､互酬と犠牲をもって「再配分」のたて軸を設定するほか、「租税」をも事例に列記する。「租税国家としての国民国家は、市民社会を構成する成員から租税を徴収し、それを『再配分』することによって拡大した一つの共同体として社会統合を達成する。『再配分』という垂直的な財貨の流れは、実質的に租税国家が担う『国家行政（Polizei）』によって行われる経済政策や社会政策として具体的形態を与えられる。」（165頁）
３．本書を将来に活かすには
歴史知を知のパラダイムとする私は、もし＜近代の超克＞がなされれば、貨幣は神々＝フェティシュ（存在者）にもどると思う。私は、つとに19世紀の社会主義者プルードンとヴァイトリングの交換銀行論に注目してきた。彼らはともに貨幣の廃止を説いた。ただし、二人とも一気に貨幣を廃止しようとはせず、まずは貨幣に備わる二つの役割――交換と蓄財――のうち、蓄財を否定して役割を交換のみに限定しようとした。それを目的にしてプルードンもヴァイトリングも、第一に貴金属貨幣を排除して労働紙幣を発行する無償信用（無利子）の銀行を設立しようと考えた。交換銀行ないし為替銀行である（石塚正英『社会思想の脱構築―ヴァイトリング研究』世界書院、1995年参照）。
そのように限定された交換は最後の晩餐におけるイエスのパンと葡萄酒のようなものである。中世キリスト教のパンと葡萄酒は儀礼の第二類型に相応しい交換＝手段だが、イエスのパンと葡萄酒は儀礼の第一類型に相応しい交換＝媒体である。手段は目的に従属するが、媒体は目的そのものと一致する。中世以降キリスト教会のパンと葡萄酒は＜想像の見立て&#62;に過ぎないが、使徒とともに食するイエスのパンと葡萄酒は＜実現の見立て＞である。後者において、最後の晩餐はカニバリズムの予告である。イエスの血肉を以って神と人は交換するのである。
清家も話題にするフランクフルト学派は、鋭敏にも、ギリシア・ローマ以来の文明社会に疑いを突き付ける。成立事情からして、市民社会は文明社会である。ヨーロッパの文明社会は、まずもって「啓蒙」というクッションを設定することで、非ヨーロッパの自然的社会　　を踏み台にし、同時に、人間による自然の支配を前提条件として拡大してきた。そればかりか、20世紀になって、市民社会において人々は、外なる自然のみならず内なる自然をも支配・搾取しはじめた。いまや、これまでの市民社会を克服して、自然との共生を可能とするような社会観・人間観の樹立が必要になっている。私たちは、このフランクフルト学派の世代の延長上に生きている。すなわち、自然と共生できる人間、あるいは未来の人類と共生できる人間の育成に努めだしたのだ。この動向は、例えば、国連・環境と開発に関する世界委員会（ブルントラント委員会）が1987年に打ち出したスローガン「持続可能な開発（sustainable development）」に、如実に表明されている。ここにきて、近代ヨーロッパで生み出され問いかけられてきたさまざまな人間観に対する、ありうべき一回答が示唆されたのである。人々は、自然をも人格ある存在者、人権を有する市民とみなすという、一種のヴァーチャル・リアリティを自明の前提とし、さらには、環境倫理学の立場を尊重しつつ、外なる自然および内なる自然と共生する人間という見方を確立すべきなのである。
動物の血肉はイエスの血肉である。私にとって、ミメーシスとは＜想像の見立て＞でなく＜実現の見立て＞である。模倣でなく成切りである。カンガルーの毛皮を着て踊るカンガルー・トーテム人は､こうしてカンガルー神に一致するのである。そのような意味でのわがミメーシス観を清家は了解してくれそうである。曰く、
「本書は、新たなコミュニケーションの流れを生ぜしめる主体を『相互主観的なミメーシス的主体』として捉える。･･･ミメーシス能力は、他者そのものを認識しようとするため、硬直した概念の同一性をも超えた、微細な認識を可能とする。それゆえミメーシスという能力は、生活世界を異にする人々の間のコミュニケーションの流れを生み出してゆく基盤となる。このようなミメーシス的主体が、相互主観的に、身体の制約を超えて意識を拡張する電子メディアに媒介されることによって、新たなコミュニティ形成の運動を始動させている。」（196頁）「ミメーシスは、人間同士の連帯を超え、自然との和解をも可能とする融和の願いが込められていた。」（248頁）「万物を含めたあらゆる他者へと共鳴するミメーシスという心的働きがある限り、われわれは、隣人と手を携え、人間的な生をも超えて受苦者たちの姿に応答し、犠牲のシステムに対する批判と連帯の歩を止めることはない。」（249頁）
なお､最後に批評を三つ加える。第一は「犠牲」に関してである。フェティシズムの儀礼に犠牲は介在しない。祭壇で殺される動物は、別の神にささげられる生贄ではない。フェティシュは神そのものである。神々が殺されるのである。対して、神々の代理である偶像（イドル）は生贄を求める。フェティシュとイドルの違いは決定的であって、それはド・ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』（杉本隆司訳、法政大学出版局、2008年）を読めばよく分る。また、ド・ブロスに依拠した石塚正英『フェティシズムの信仰圏』（世界書院、1993年）を読めばよく分る。
批評の第二。清家は近未来のコミュニケーションにとって「身体」は「制約」であるかのように捉える。「身体の制約を超えて意識を拡張する電子メディア」というような表現がそれを裏付ける。しかし、電子メディアは身体それ自体の拡張である。電子メディアは従来の身体観を変容させたのである（石塚正英『複合科学的身体論』北樹出版、2004年参照）。いずれにせよ、人間と人間、人間と自然の共生を実現する結節点は身体なのであって、これを介さない交換はありえない。ときおり、身体を介さないブレイン・マシン・インターフェイスをコミュニケーションの理想とする主張に接するが、あきれるばかりである。
批評の第三。私は目下フレイザー『金枝篇』（国書刊行会、2004年～）の完訳監修をしているが、その際、以下の点に気をつけている（日本語版監修者解説から）。①「未開人(savage,)」「未開人(primitive man)」は「野生人（自然に即して野に生きる人の意味）」や「先住民」などの訳語を使う。「未開」という概念は文明の側で造られたもので、２１世紀的妥当性はない。②国家を形成するに至らないような少数民族の名称に記される「○○族」の「族」を使用しない。「○○人」あるいは「○○の人々」とする。「族」という概念は国民国家の側で造られたもので、21世紀的妥当性はない。
清家は「未開社会」を頻繁に使用するが、それは著者の今回の学位論文の精神には不釣り合いと思う。
 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study433:120114〕
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		<title>旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」（5）</title>
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		<pubDate>Fri, 13 Jan 2012 08:41:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
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		<category><![CDATA[岩田昌征]]></category>

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		<description><![CDATA[11、疎開
   マイキチがハンドルをにぎった。私は、ムスリム人見張番がコントロールしている地域を安全に通り抜ける道を探す役目だった。教会の中庭を出る直前、SDAのムスリム人活動家がやじった、「タディチよ、私達が一番つらい今、出て行くなら、二度とコザラツに戻ってくるな。」「あなた達は戦いを選んだ。私はすぐにコザラツに帰って来る。出来るんなら、阻止してみろ。」
　500メートル走った所、制服を付けた隣人バホニチが道の真中に立ちふさがった。覆面、緑色の制服、緑色のベレー、ムスリム人準軍事組織の徽章が目立っていた。狂ったように自動小銃を私達の車へ向けた。「止まれ」と「NIPPON」の元常連客が叫んだ。「お隣さん、何故通ってはいけないのだ。子供達だけを連れていくのに。」(P.33)「命令なのだ。元へ戻れ。」私はピストルを握りしめ、ドライバーに言った、「左へ、町の中心へ、別の道、コザラを抜ける道を。」子供達は泣いていた。その道は筆舌に尽くしがたいほど混雑とパニックに満ちていた。そのおかげで、誰も私達の車に注意を向けなかった。・・・・・。私達の前方にムスリム人兵士の封鎖線がもう一つあった。そして、そこが私達に残された唯一のコザラツからの出口だった。私達は車を全速力でコザラ山頂へ走らせた。ムスリム人兵士の一団が立ちはだかって、一人が銃を振って車を止めようとした。聖職者は速度をゆるめ、止まろうとしたが、とっさに私は大声で叫んだ。「速度を落とすな、加速、加速、止まるな。」マイキチは一寸の間ためらったが、私の言う通り、ムスリム人兵士達の間を突っ切った。ふりかえると、兵士の一人がバズーカ砲を私達に向けていた。その間、聖職者は「神よ助けて、神よ助けて。」と切れ目なくとなえ続けていた。
  30分程後、私達は、セルビア人軍のパトロールのかたわらをグラディシカ・バニャルカ道路へ向かって走っていた。その日の終り頃、セルビア人勢力が押さえていたバニャルカに着いた。とうとう安全な場所に着いたのだ。・・・・。私の妻と子供達はそれ以来コザラツの我が家に帰っていない。(P.34)
  マイキチは、教会と住宅の鍵を私に託して、定期的に教会の土地財産を見まわるように頼んだ。翌日私は一人でコザラツに戻った。そしてSDSの何人かの義勇兵と共に私達の土地財産を見張り、守り続けた。
　数年後、私は隣人のマニヤックな男ニハド・セフェロヴィチの口から出た嘘言を聞いた。彼は、私が92年夏の戦争中にムスリム人警察官グループを捕虜にして、その時に警察指揮官オスマ・ディドヴィチをコザラツ教会の中庭で殺害した、と執拗に非難した。武力衝突の時、私はコザラツにいなかっただけでなく、そんな犯罪はプリェドル・オプシティナのどの正教会の前で、コザラツの正教会の前でも決して行われていなかったのである。
12、秘密の宣戦
　三つの民族政党(SDA、SDS、HDZ)は出来るだけ有利な地位を占めようと、それぞれの民族の動員と武装に懸命であった。SDS党員として私もこの仕事で自分なりの貢献をした。
　コザラツの少数派セルビア人の生命は大変に危険だった。毎日電話で脅迫され侮辱された。ムスリム人準軍事部隊がこの小さな町をパトロールしていた。(P.36)コザラツのすべての入口と出口では誰が出入りするかをコントロールしていた。ポトコザリェの情勢は混沌としており、あらゆる人が自分で知っており出来るやり方で武装した。この仕事で儲けた者も多かった。私は何回かSDS指導部とオプシティナ警察幹部にコザラツ・ムスリム人の大衆的武装化に注意するよううながした。私はどこから武器がとどくのか、と自問した。私がこの件で話し合った人々のまさしく一部がそれに関与していた事を知らないままに、だった。利得者連中の中に警察署長シモ・ドルリャチャと警察指揮官ドゥシャン・ヤンコヴィチがいたし、オプシティナの政治、軍事、警察のトップにいる何人かの人々がいた。武器陰謀のために当時の党議長スルジョ・スルディチ博士がプリェドルのSDS第一人者の職務から排除されたのだ。(P.37)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study432:120113〕
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		<title>旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(4)</title>
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		<pubDate>Tue, 03 Jan 2012 03:18:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>m_sawamura</dc:creator>
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		<category><![CDATA[岩田昌征]]></category>

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		<description><![CDATA[8.セルビア人共和国の土台
   コザラツの町の中心に「聖ペタルと聖パヴレ」セルビア正教会があった。すなわち、プレェドル・オプシティナの最もラディカルなムスリムス人地区の真中に存在していた。しかし、長年、そこで行われて来た宗教行事がムスリム人達に不快感を与えるような事はなかったが、1990年以来ムスリム人達は教会にかよってくる人々に反発を示すようになっていた。(P,26)
 　BiHの独立を志向するSDAのムスリム人とHDZ(クロアチア民主共同党)のクロアチア人の先手を打って、1991年11月9日と10日にSDS(セルビア民主党)は、セルビアとモンテネグロとの共同体にBiHがとどまるか否かに関する住民投票を組織した。私は、プリェドル・オプシティナのSDS主務委員会からコザラツとその周辺を受け持つ第36投票所を組織運営する任務を受け取った。ムスリム人権力が投票場所の提供を拒否したので、正教会聖職者ムラデン・マイキチに助力を求め、教会の中庭で投票できるように頼んだ。投票自体は、プリェドル・オプシティナ権力の完全なコントロールの下で行われた。私達コザラツの場合、プリェドルのヨヴァン・ヴコイェが主責任者であった。セルビア人住民はほぼ100%投票し、ムスリム人は無視しうるほどの人数しか行かなかった。結果はBiHの他の諸地域と同じであった。それは、セルビア人の真意であって、セルビア人地域を母国とベオグラードから力づくで分断する事を許さないと言う警告、ムスリム人・クロアチア人連合への公式警告であった。1991年の住民投票は、その後セルビア人共和国(スルプスカ共和国)が誕生する政治的土台となった。(P,27)
9　最初の浄化
　衝突前夜、ムスリム人・クロアチア人同盟が戦争の準備をし、公然と武装化しており、それに答えて、ＳＤＳ(セルビア民主党)とプリェドル・オプシティナの軍・警権力は、セルビア人の急速な武装化を組織し、オプシティナ全域で警戒態勢に入った。セルビア人の生命財産の保護の為である。この地域において私達には第二次大戦直前に否定的体験があったからだ。当時、ムスリム人隣人達は、親ウスタシヤ的団体のメンバーであれ、普通の市民であれ、それまでなかったような悪業を、セルビア人隣人達に行ったのであった。その悪業の証人は、「ザイェドニツァ(共同体)」と称される大きな霊廟である。そこに無実の殺されたコザラツ・セルビア人数百人の遺物・遺骨が第二次大戦後に埋葬された。犯行者達の名前は、すべてのコザラツ住民の間で知られていたが、ムスリム人の誰一人としてその犯罪の故に正義の法廷に引き出されることはなかった。和解のために、墓銘板にファシズムの犠牲者とのみ刻まれた。
 　ＳＤＳ幹部と教会聖職者との合意で、コザラツの正教会施設を警護するために夜間当直が始められた。正教会はムスリム人居住地にかこまれていたので、昼間は武装警備員を置かなかった。私達は隣人達を挑発したくなかったからだ。(P,28)警備員は全員ＳＤＳ党員であった。昼間は普通の生活を営み、夜間は自分達の任務を果たす。平服をセルビア人義勇隊の制服に着替え、手に小銃を握った。
 　私は、コザラツの中心にある自宅に母、妻、そして娘二人と住んでいた。私の兄弟達はかなり前から故郷を離れて生活しており、自分達の土地での生活に関心を示さなかった。昼は店で働き、夜は教会の中庭で他のセルビア人と共に見張りに立った。私は、「コザラツ青年ムスリム人」の策定した計画を知った。すなわち、セルビア人軍がコザラツを攻撃して来た場合、私と私の家族全員を殺害する事になっていた。ムスリム人隣人の一人がその任務を担っており、彼の名前をも知った。私達の置かれている情況はわかった。しかし、攻撃の正確な日取りは予め知らなかった。それ故に、戦争にならないようにひそかに念じていた。党指導者のシモ・ミシコヴィチは、私達の家族の避難が間に合うように町への攻撃を適切な時期に知らせてくれると私に約束していた。バニャルカに二人の兄弟と他の親戚がいたけれど、自分達の炉辺を離れるや、通常の難民生活をおくらざるを得ないだろうと分かっていた。そうこうするうちに、私達の町のセルビア人は一人また一人と去って行った。ムスリム人隣人達に気付かれないように、おそるおそるひっそりと、夜がしのびよる頃、最小限の荷物をもって車で立ち去った。
10　セルビア人軍の戦車
 　その日曜日は季節のわりに例外的に暑かった。窓外を見ていると、何か異常な事態が発生したらしい。電話は切断されていた。バニャルカ・プリェドル道路(バニャルカからプリェドルへ向かう幹線道路を約四分の三ほど行くと、右側にコザラツの町へ入る道がある。：岩田)の十字路にセルビア人軍の戦車が出現したと言うニュースが街を駆けめぐった。過熱した空気が街をおおった。ムスリム人達は、老いも若きも、平服の者も軍服の者も動揺しており、やがて生じるかもしれない事態を恐れていた。(P,30)
 　私は教会へ向かった。教会の中庭に聖職者マイキチの家族住宅があった。彼がコザラツへ来た時から、私の家族と彼の家族は親しい間柄にあった。あらゆる事で情報を交換し合った。戦争がいつ勃発するかも知れない苦しい日々においてもそうであった。不安だったが好奇心もある町の人々は、町の中心に砲口を向けている戦車が良く見える場所へ急いでいた。電話が切られて、私とマイキチは何が起こったのかつかめなかった。セルビア人の多くはすでに町の中心地区を去っており、私達はプリェドルのセルビア人権力から完全に忘れ去られていると実感した。
 　私達は意を決して、セルビア人戦車部隊と直接コンタクトをとろうとした。バニヤルカからの幹線道路に出て、コザラツに入る十字路に向かって歩いた。そこに戦車がいたのだ。マイキチは黒衣、私は平服。目的地まで50メートル、右側のムスリム人バリケードから雷鳴の如き命令がとんで来た。「チェトニク達よ、止まれ、戻れ。」自分達の事だとは悟らずに、歩き続けていると、「チェトニク達よ、止まれ、撃つぞ。」
　引きかえして、教会の門まで来ると、中庭にゴミ等が捨ててあった。(P,31)明らかに誰かがわざと捨てて行ったのだ。教会の住宅の玄関口に私の母と聖職者の妻ヴェスナが不安げに立っていた。ヴェスナは子供をだきかかえ、泣きながら、私達がいなかった間に起こった事を語った。「あなた達が出て行った１０分後に、制服のムスリム人グループが中庭へ侵入してきて、悪口雑言を投げつけた。教会からセルビア人旗を引き降ろそうとした。教会の鍵をよこせとおどした。30分以内に旗をおろさないと、『お前も子供も殺し、教会を焼くぞ』。」
　もはや、好戦的ムスリム人達にかこまれて、ここにとどまるのは気ちがい沙汰だ。私とマイキチは家族を安全な所へ疎開させることに決めた。30分間で最も必要な物を荷造りした。ここからより近いプリェドルへ向かう事はいくつもの道がバリケード封鎖されていて、不可能だった。50キロメートル先のバニャルカに向かうことに決めた。小型車の「ユーゴ45」に私達大人5人と小さな子供達3人がぎゅう詰めに乗り込んだ(P,32)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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		<title>原発事故・TPP加入と伝統的循環型農業の終焉</title>
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		<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 10:28:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>souma</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[TPP]]></category>
		<category><![CDATA[原発]]></category>
		<category><![CDATA[循環型農業]]></category>
		<category><![CDATA[犬伴　歩]]></category>

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		<description><![CDATA[　東京都と埼玉県の郊外にはかつて武蔵野と呼ばれた雑木林が今日でも見られます。アニメ『となりのトトロ』のトトロの森もそうです。しかしこのおもにクヌギやコナラなどからなる雑木林は自然の原生林ではなく、江戸時代に堆肥や薪炭用として利用するために人手をかけて営々と作り上げられてきたものなのです。その雑木林の里山地帯に隣接して、所沢市と三芳町をまたいで上富・中富・下富の3区画、約1400haからなる三富新田（さんとめしんでん）と呼ばれる農業地区があります。新田といっても水源には恵まれないため畑作が行われています。ここはもともと近隣29ヵ村の入会地として利用されていましたが、元禄時代に柳沢吉保が川越藩主になると、藩営事業として本格的に農業開発がおこなわれ、三富全体で241戸からなる新田集落として成立しました。300年以上たった今日でも安易に化学肥料や農薬に頼らず、落ち葉や廃菜、鶏糞などを発酵させて作った堆肥を使用する循環型農業を継承しています。三富は営農意識の高い農民たちに支えられて、消費者の信頼を得たブランド性の高い、高品質で安全な農作物を出荷する優良な近郊農業地域としての地位を保っています。三富についてはいろいろなサイトで見ることができますので、ぜひご参照ください。
　三富地区は川越藩の主導で極めて合理的、計画的に作られました。入植した農家はそれぞれ約４ha（標準型で幅40間・奥行375間）の短冊形の土地が与えられ、道路寄りには屋敷林と住家、それから広い畑地、一番奥に堆肥用の平地林という構造になっており、今日でもそのままの姿をとどめている地区も多いです。川越藩はここに入植した人たちが地元意識や相互扶助意識を高めるために、上富に菩提所として多福寺を建立し、中富には三富の総祈願所として多聞院とその境内に総鎮守として毘沙門堂も建立しました。日本の伝統的な村落は共同体の意識で結ばれていましたが、三富はもともと川越藩が増収をねらったものとはいえ、単に生産の場としてではなく、人間生活の基礎付けも疎かにしなかった先人たちの叡智は見習いたいものです。関越自動車道の川越ICと三芳PA間を走っていると、この高速道路によって左右に分断されて両側に広がる豊かな農地が見られますが、この景観が三富新田の一部です。戦後は三富地区も膨張する東京のヒンターラント、近郊農業の適地として繁栄してきました。それを支えたのは研究心の旺盛な精農家達の積極的な農業経営によるところが大きいと言えましょう。
　さて戦後の産業優先政策とモータリゼーションの進展によって三富の景観はおおいに変貌を遂げることになりました。1960年代以降、高度経済成長期に入るとこの優良な農業地区は様相を変えてくることになります。予想を上回る東京の膨張です。まずモータリゼーションにあわせて雑木林を切り開いて、国道245号（川越街道）に接続する道路が作られ、東京へのアクセスが良くなった三富地区は、工場（東ハト、木村屋總本店、大日本印刷、昭和鋼機など）や建設資材置き場（武蔵野倉庫など）、物流センター（伊勢丹センター、西武運輸、日本通運、日立物流、プラス、楽天ブックスなど）として転用されるようになって行きました。70年代に入ると西武池袋線や東武東上線を利用する東京への通勤者のベッドタウンとしても目をつけられ、かつての農地は工場、資材置き場、物流センターに加えてミニ開発の住宅地、マンションが目につくように変貌していきました。この流れに決定的な役割を果たしたのが、関越自動車道の開通と所沢と川越のICの完成です。80年代のいわゆるバブル経済時に土地開発ブームで沸くようになると、東京ではあちこちで地上げや都市再開発と称するスクラップ・アンド・ビルドが行われ、三富が一部かかっている、平地林の広がる通称くぬぎ山地区はその再開発残土や廃材置き場として、また産業廃棄物処分場として目をつけられるようになり、廃棄物の焼却場もあちこちにできて、「産廃銀座」と呼ばれるほどになりました。廃棄物業者が安易に設置した燃焼温度の低い焼却炉からは大量のダイオキシンが発生して、露地野菜が汚染されているとのテレビ報道（1999年2月から）によって、野菜の売り上げが低迷する風評被害が生じ、はては野菜生産者がテレビ局を訴える裁判沙汰にまでなるに至ったことについてはご記憶の方も多いのではないかと思います。
　先に三富の農地は1区画約4haと言いましたが、今日日本の農家の所有農地の平均が２ha弱ですから、元禄の入植時から１戸の営農面積としてはかなり大規模であったということが言えます。しかしそれは開墾当時土地が痩せていて、営農生活が成り立つためには１戸当たり４haも必要だったことが実情だったようです。堆肥用のクヌギやコナラなどの平地林が循環型農業には不可欠だったからです。今日でも行われていますが、端境期には麦を蒔き、ある程度生育すると、その麦を畑に梳き込んで農地を豊かにしてきました。冬期には空っ風が強くて表土が吹き飛ばされる被害も多く（強風の日には今日でも空を覆う土煙が見られます。また現地には長年土埃に当たったため目鼻が削られてなくなってしまったお地蔵様もあります。）、隣の畑との境には茶を一列に植えたりして、表土を守っていました。平地林も防風効果を発揮したでしょうし、通称けやき並木通り（別名いも街道）に沿って並ぶ堂々としたケヤキも防風・防火のためでもあったわけです。地下水脈が深く水に恵まれないこの地（三富全体で12ヵ所の共同井戸から飲料水を得ていました。歌枕として名高い古代の遺構、堀兼の井戸も三富に隣接した地区にあります。注）では、入植農民は遠くを流れる柳瀬川まで水を汲みに行っていたとの記録が残っています（一番川に近い区画でも約3kmの距離があります）。この三富を今の優良農地にするため、先人たちは多大な労苦を払っていたわけです。柳沢吉保の命による開削以来およそ300年、三富新田は江戸時代から明治・大正・昭和を通してずっと循環型農業地域として継承されてきました。そして戦後高度成長経済の時代が到来したわけです。
　この三富の土地が売買されるようになる経緯としては、現地に在住しない地主の土地がまず目をつけられましたが、現役の農家も土地を売り渡すことになります。それではなぜ三富の農家は土地を切り売りしたり、手放すことになったのでしょうか。農家にはそれぞれ事情があったでしょう。ですが土地を手放す最も大きな理由は、代替わり時に避けられない相続税の納入にあると言えましょう。今から20年ほど前ちょうどバブル経済の華やかりし頃、筆者は所沢市が主催する三富の現状を学習する会に参加したことがあります。その時ある精農家がつぶやくように、相続税は７億円だと洩らしました。年間の疎収入は約1千万円とのことです。これでは安定的に農業を継承していくことはそもそも出来るわけがありません。そこではじめに堆肥や燃料用の平地林を処分することになります。肥料は購入することになり、化学肥料も使用されるケースも出てきて循環型農業が崩れることになります。そして畑地本体の売却へと向かって行ったのです。そこに先に述べたように工場、資材置き場、物流センターなどが進出し、さらに大学も狭くて過密だった都心から移転して、第2キャンパスや新学部を開設（日大芸術学部、周辺には跡見女子大や淑徳大なども）、そして貸地や貸工場、ミニ開発のマイホーム群やマンション、廃棄物処分場と焼却場が乱立するようになっていきました。さらに近年では高齢化社会を反映して、医療施設や介護施設（所沢リハビリセンターなど）が目立つようになり、現在では公園型霊園の開発が盛んで新聞の折り込み広告には墓地分譲の広告が目につきます。ちなみに高品質で名高い川越イモ（サツマイモ）の産地である三芳町は、先年ブームになった市町村合併には最も消極的でしたが、それは農地から転用された工場や物流倉庫などからの税収が潤沢だからとのことです。こうして大量生産・大量消費・大量廃棄という、国がすすめた産業優先政策によって都会が便利で快適な生活を謳歌する陰で、ここ三富やその周辺の雑木林で名高い武蔵野から豊かな農地、きれいな空気と水、オオタカを頂点とした豊かな生態系、美しい景観が奪われてきたのです。
　ここにきてTPP加入問題が盛んに取りざたされています。経団連をはじめとして製造業界が加入を積極的に働きかけています。農業を単に生産効率や経済効果の面でしか見ないならば、高齢者が大半を占めて就業人口も少なく、自動車、電機や化学などの産業には足元にも及びません。ですが先ず一度、江戸時代以来の先人達が営々と作り上げ継承して来た、手入れの行き届いた農地とこんもりとした雑木林、見事に育った屋敷林からなる三富の美しい景観を見に来ていただきたいものです。都会の人が癒されるという循環型農業の緑豊かな景観は、江戸時代以来ここに関わって来た人々の努力の継承のたまものであることを忘れてはいけないはずです。TPPへの加入は日本のきめ細かな循環型農業を破壊し尽くさずにはおかないでしょう。現に三富新田の戦後史は、先にご説明したように国の産業優先政策によって破壊されてきた歴史でもありました。三富を一望すると美しい景観の中に虫食いのように、工場や物流施設などが雑然と立ち並ぶ殺風景なエリアも同時に目の当たりにすることでしょう。この光景は経済効果にしか関心が無く、環境や景観に規制をかけない産業誘致政策の結果であることは言うまでもありません。日本には三富のような開拓農地、天に至るような棚田、里山に寄り添うような農村など、私たちの原風景とも言えるような景観が多数存在しますが、多くは崩壊へと向かっています。そしてTPPへの加入がとどめを刺すことになることでしょう。
　TPPによる農作物の無関税自由化は、確実に日本の農業に壊滅的打撃を与えると思います。米国や豪州など大規模農業国の安い輸出用農畜産物に対抗しようと、規模拡大を図ってもとうてい太刀打ちできるはずはありません。むしろコスト削減のためさらなる農薬・化学肥料の多用、遺伝子組み換え作物の導入、それらとセットの米国の種苗会社が独占的に支配するハイブリッド作物依存へと向かうことになるでしょう。棚田をはじめとした水田は単に景観ばかりでなく、水源の維持、洪水対策といった国土保全上でも重要な役割を果たしていますが、日本に暮らす人々の精神形成や文化・伝統にも密接な関わりを持っています。（余談ですが、そうなると「豊芦原の瑞穂の国」という日本の美称や大嘗祭・新嘗祭・お田植えといった農業祭祀をつかさどる天皇の役割はどうなってしまうのでしょうか。それをTPP加入賛成の保守や右翼の方々はどう考えているのでしょうか。一度伺ってみたいものです。）農業は暦や季語、年中行事に見られるように私たちの文化や価値観といった精神の形成に大きく関わっています。TPP加入はかろうじて保持されてきた水田や畑地それに山林など、ドジョウやトンボが生息する環境への畏敬の念さえ葬り去ることになりかねません（「農業改良」のもとにすでにメダカはレッドデータ・ブック入りしてしまいました）。目先の利益で伝統的な循環型農業を捨ててしまうのは、単に浅はかでは済まされない、日本文化の行方を左右する重大問題に思えてなりません。野田総理は「美しい農村は守らなければならない」と発言していますが、農民にとっては希望でも誇りでもあり、都会の人にとっては癒しの場である「美しい農村」とTPP加入とはどう両立できるのでしょうか。
　現在、福島原発の事故によるセシウムの放射能汚染が喫緊の問題になり、除染作業など遅々として効果が上がらない状況にあります。今にして思えば三富や所沢におけるダイオキシン騒動はこのセシウム拡散問題の切実な前例だったのです。所沢ダイオキシン問題は、三富やその周辺の農地に産業廃棄物置き場や廃棄物焼却炉が作られ、廃棄物焼却の過程で発生する、遺伝子を傷つける発ガン性の高い猛毒ダイオキシンが、周辺に飛散して地下水や農地や洗濯物を汚染し、農作物は風評被害にあって売れなくなり、生産者がこれを報道したテレビ局を告訴したり、乳幼児のいる家庭がこの地区から避難するといった事件でした（一方でこの程度のダイオキシンにはさほどの毒性はないとか、直ちに障害が出るとは言えないと発言する学者もいました）。所沢や三富の野焼きや焼却炉から発生したダイオキシンと福島原発事故によるセシウム、どちらも猛毒であり発生した時点で人知では如何とも解決できない難物に人間が手を染めてしまい、そこで慎ましやかに暮らしていた人々の生活を根底から変えてしまったことで共通しています。また山林や農地の汚染（循環型農業に不可欠な落ち葉は使用できなくなりました）と除染問題、そして除染廃土や廃材・瓦礫をどこに保管するかなどの問題や、農畜産物の風評被害問題でも共通しています。
　三富地区は一時産廃置き場が乱立するようになり苦悩しました。産廃に埋め尽くされた瀬戸内の豊島を始め、全国に散在する廃棄物処分場は行政の及び腰の対応が悪徳業者を増長させ、問題を長引かせました。また所沢ダイオキシン風評被害問題では、生産者が報道したテレビ局を訴えました。しかし非難されるべきは国土保全や環境保護を考慮しない国の産業優先政策であり、ダイオキシンを発生させた処分業者とそれを許した行政のはずです。これと同様に放射能による風評被害の責任は農産物を敬遠する消費者ではなく、国の原子力行政や東電、彼らにお墨付きを与えた原子力ムラの学者達にあり、生産者と消費者は共に放射能汚染の被害者のはずです。ダイオキシン問題の場合は野焼きの禁止、旧式や小型の焼却炉の撤去、高温焼却炉の導入などで何とか最悪の事態は回避したようです。しかし一度広範囲に飛散した放射線汚染はそうはいきません。山林・土壌・地下水・河川や海の汚染で、農林・畜産・漁業などは放棄せざるを得ず、ついには放射線量の高い地区では汚染された故郷から出て行かねばならないという取り返しのつかない事態に至っています。
　ダイオキシン禍もセシウムによる放射能汚染も、自然と人間の共生を度外視して、性急に利益のみを追求して止まない、生命よりも産業・経済を優先する文明のあり方を如実に示しています。国や推進論者はリスクを無視してコスト削減ばかりに目を向け、私たちの日常生活を足元から支える、生命に直結した食の安全、自然と環境、そして歴史や伝統、文化といったカネに換算できない大切な価値をゼロ査定してしまいました。また原子力発電においては、国や電力会社は使用済み核燃料の確かな処理計画やそのノウハウもなく、どこか僻地に貯めておけばいいだろう程度の考えで、原発による発電は低コストだとして平然としている有り様です。TPP加入問題でも同じような構造が見え隠れしています。加入推進論者は、日本農業も知恵を出して大規模化や生産性の向上をはかれとコスト面にしか言及せず、またオレンジの自由化でもミカンは大丈夫だったではないか、安全性や価格も含めて消費者が選択できるようになるなどと主張しています。しかしこれは全くのまやかしとしか言いようがありません。そもそもミカンとオレンジは同じ柑橘類とはいっても味も香りも食べ方も全く異なる果物です。輸入オレンジの自由化の時はポストハーベスト問題に目をつぶったように、TPPの場合は遺伝子組み換え食品などの安全性については無視されることになりかねません。また外食産業や食品加工業界を一瞥しさえすれば、低コスト第一主義で安全性の不確かな外国産原料ばかりが目につきます。現実には消費者が食品を選択する余地は極めて限られています。さらに国土保全上重要な林業も管理が行き届かず、また日本の急峻な地形が災いして高コストとなるため、商社や木材業者は日本の木材を敬遠して外国産木材を輸入するようなり、国産スギ1本がダイコン1本と変わらないほどに下落して、苦難を強いられています。スギは手入れの行き届かないスギ林で、花粉を大量に飛散させて、生き残りを図っているとの学説があります（報道によれば、福島県のスギ雄花から高濃度放射性セシウムが検出されたとのこと、「人体への影響は小さい」としていますが、花粉の飛散シーズンが心配です）。TPP加入で日本の農畜産業は林業と同じ道をたどることになるでしょう。農業は知恵を絞って工夫しろとの言いようは、食の安全や人口爆発による世界的な食糧危機に備えた食糧の確保、生命を育む自然環境の保全、歴史や文化との密接な関わり、観光資源としての美しい景観といった、子孫に繋げていくべき農業の総合的なあり方の展望を欠いているとしか考えられません。原発事故とそれによる放射能汚染およびTPP加入問題、このダブル・ショックで各地の風土に適応した伝統的循環型農業は終焉を迎えることになるでしょう。
注　  武蔵なる堀兼の井のそこを浅み思ふ心をなににたとへむ（古今集）
       武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり（千載集）
       汲みて知る人もありなむおのづから堀兼の井の底のこころを（西行）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study430:111228〕
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