<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>ちきゅう座 &#187; 特集：安保５０周年</title>
	<atom:link href="http://chikyuza.net/n/archives/tag/special_anpo60/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://chikyuza.net/n</link>
	<description>メディアネット世界の眼　見る・聞く・話す</description>
	<lastBuildDate>Fri, 10 Feb 2012 16:10:11 +0000</lastBuildDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.9.2</generator>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
			<item>
		<title>生きた歴史の証言に感動</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5470</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5470#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 28 Dec 2010 23:29:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[宇井　宙]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5470</guid>
		<description><![CDATA[　今年は60年安保闘争から50周年ということで、「ちきゅう座」でも特集ページを設けている。戦後の日本が経験した最大の国民的民主主義運動であった60年安保闘争も、その後に生まれた世代にとっては、歴史的事件ではあっても、これまで経験者・当事者の生の声を聞く機会は少なかったように思う。それがこの年の暮になって、当事者の貴重な生の証言を聞くことができたのは、大きな収穫だった。
 とりわけ御庄博実（丸屋　博）氏の「樺美智子さんの「死の真相」 （６０年安保の裏側で）」は出色の証言である。厳密な司法解剖の結果、樺美智子さんの死因が「人なだれ」による圧死などではなく、機動隊の警棒による膵臓頭部への強打と扼殺による窒息死、つまり機動隊による意図的な虐殺であったと証明されたこと（50年前に証明されていた医学的事実が、当時現場にいた長崎暢子氏らの証言とともに今、明らかにされたこと）は、非常に重大な意味を持っているのではないだろうか。
 この衝撃的な記事に触発されて書かれた川元祥一氏の「六・一五という記号―その夕刻何があったか」と松岡宥二氏の「60年6．15闘争に思う」も当時現場にいた人の証言として貴重なものであると思う。このような貴重な証言を「ちきゅう座」で読むことができた幸せを思うとともに、こうした証言がマスコミには載らない現状に皮肉なものを感じる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0271:101229〕

]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5470/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>60年6．15闘争に思う</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5444</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5444#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 27 Dec 2010 05:07:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[交流の広場]]></category>
		<category><![CDATA[松岡宥二]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5444</guid>
		<description><![CDATA[６．１５は、私にとって人生で忘れられない日です。特に丸屋博先生の６．１５の文章は、当日明治、東大、中央の隊列に続いて南通用門を突破した身としては、感慨がひとしおです。丸屋博先生の言われるように、門を突破した後は広い空間で機動隊の警棒と放水の雨との闘いでしたが、将棋倒しになったことはなく、機動隊の囲いの中に囚われたことが記憶に残っています。私も権力による扼殺だと思います。あれから５０年、社会を少しも変革できずに、年老いた自分が情けないです。
私は、高校のとき結核で休学し、その後浪人して６０年は大学２年でした。上智は政治活動が禁止されており、学生運動をしても就職すればと甘い考えの持ち主でした。６．１５が、私の甘い考えを吹き飛ばし、用意された就職も断り、何とか今日までの生き方を支えています。三里塚の団結小屋の第１号は、私たちの建てたものでしたが、千葉県社会党（社青同協会派）に乗っ取られ、その後社青同KFの団結小屋となりました。小屋には、松岡打倒の落書きがあったそうです。その後、駒井野に労働者団結小屋を作り、戸村さんには亡くなられるまで可愛がっていただきました。その後、日本カーバイトの戦闘的二組結成、クロム公害運動と、党派に属さず、ひとりのist として生きてきたつもりです。６．１５で東大のすぐ後の隊列にいた者として、腹と頭を襲う警棒の攻撃で、樺さんの圧死は権力による捏造だと思います。今は、人生最後の活動として、労働運動の危機的状況に少しでもかかわりたいと思って発言しています。恥ずかしながらそれが私の経歴です。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5444/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>六・一五という記号―その夕刻何があったか</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5434</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5434#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 26 Dec 2010 13:04:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[1960年6.15]]></category>
		<category><![CDATA[川元祥一]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5434</guid>
		<description><![CDATA[ちきゅう座に掲載された「樺美智子さんの〈死の真相〉(60年安保の裏側で)―60年安保闘争50周年　御庄博実」を読んで大きな刺激を受けた。樺美智子さんの司法解剖時の所見を読むのは初めてだ。そして、検察の「人なだれによる死」という裁定に疑問をもって今も真相が追及されていることも初めて知った。しかも御庄の文章は解剖の所見だけでなく、その日樺美智子がどの位置で死んだかという関心と共に、彼女の死因に関連するかもしれないこととして、一九六〇年六月一五日の夕刻、国会議事堂南通用門で何があったか、当時現場にいた数人の聞き取りも書かれている。
私自身樺美智子の死因について特別な、直接的な証言をする材料はなく、この問題では傍観者的な位置にいたが、当時現場にいた者の何らかの証言が彼女の死因の解明に役立つかも知れないことが、司法解剖の所見によってわかるので、当日その場にいた者の一人として、記憶をたどりながら書いておくこととした。司法解剖の所見では「警棒様の固い鈍器で上腹部を激しく突かれて、脊柱と間にはさまれて挫傷して出血した」のが死の原因と考えられている。尚、これ以上の詳しい司法解剖時の所見と、記号としての「六・一五」が何を意味するかは御庄などの文章を読んでもらいたい。
一九六〇年六月一五日の夕刻、まだ明るかったが、国会議事堂南通用門の門扉を開けるため、硬く厳重に閉ざされたそれに最初に鎖を掛けたのは私だった。私は当日明治大学のデモ隊の旗手だったが、門扉に体当たりし、前夜の打ち合わせ通り担当した者が門扉に鎖をかけようとするのだったが、ことがうまく進まないのを見て、私は隣にいた明大生に旗を渡して鎖を取り、横から見えた隙間に押し込んで輪にしたのである。その輪に太くて長い縄を通して後ろに送り、多くの学生が取り付いて綱引きのように「ワッショイワッショイ」と曳いた。小雨が降っていた。門扉を引きちぎるにはかなり時間がかかった。三十分とか、小一時間かかったのではないか。
やがて片方の門扉が外れて歓声が起こった。もう片方はすでに閂を失っていて簡単に外れた。
門扉の中に装甲車が二台並んでいて、これを引き出しにかかった。御庄の文章では後ろ向きの装甲車となっているが、間違っているだろう。なぜなら、その直後私は目の前の装甲車の運転席に入ったのだ。
装甲車のバンパーともう何箇所かに縄を通して曳くのだったが、なかなか動かなかった。私は思いついて装甲車の運転席に入り、サイドブレーキを外しにかかった。しかしその構造をよく知らなかったので手間取った。その時だった。ホロを張った荷台には人影が無く、その向こうに機動隊の隊列が見えていたが、突然一人の機動隊員が荷台に現れ拳銃に手を掛けた。すると続いて荷台に現れたもう一人の機動隊員が先の隊員に後ろから抱きつき拳銃を抜こうとする腕を押さえた。その様子に気をとられ、サイドブレーキを引くつもりの私の手は止まっていた。すると反対側のドアが開き、一人の学生が飛び込んできてサイドブレーキを外した。
装甲車は簡単に引き出され、群衆の中で虜のように見えた。しかも誰かが運転台でハンドルを操作しているのだろう、二台目も含め、カーブを切って群集の中をゆっくり進む。
最初、隊列を組んで南通用門に体当たりしたのは午後四時前後だったと思うが、前夜からの打ち合わせどおり、最前列が明治と東大の隊列だった。私の記憶はそうだったが、後で中央大学のデモ隊も最前列にいたのを知った。
通用門に体当たりする直前だった。明治大学の隊列の左側にあった東大の隊列に女性がいるのを見て、「危ないから中に入った方がいいよ」と私は声を掛けた。すると女性が私を怒った。言葉をはっきり覚えていないが、「そんなの関係ないでしょう」といったと思う。「自立した女」といったような印象が脳裏に残った。後で思うのだったが、その女性が樺美智子ではなかったのか？しばしばそんなことを考えた。しかし、御庄博実の文章では、その日東大から参加した女性は三人だったようで、樺美智子一人にしぼることは出来ない。その上で今思うのは、生存する他の二人の女性に、六・一五当日南通用門を前にして「危ないから中に入った方がいいよ」と声を掛けられた人がいるかどうか、尋ねてみたい気がする。とはいえ、御庄の文章にすでに「女性はデモ隊の中に入ってもらった」という証言もあるし、中央大学の隊列もあるので、私が声を掛けた女性は中央大学の学生だったのか、とも思われる。
このような隊列ではあったが、綱引きの段階から、学校別の隊列の見分けはつかなかった。そして装甲車が引き出されたとたん、最前列は混沌としたまま学生たちが通用門を入った。ある程度隊列を残していたのは後列だったのではないか。
私自身、二台目の装甲車の後姿を見た直後のことを覚えていない。かなり興奮していたのかと思うが、気づくと国会の庭にいた。初めて見るのだったが、庭の植木やその向こうにかすかに見える建物などすべてが、人間の背丈に見合っているのを感じ、感動を覚えた。考えてみるとそれは当然ではあるが、それを知っただけで国会の中庭に突入した価値があった。
なぜかあたりが静かに感じていた。庭に人がいっぱいだった。いつのまにか全学連の情宣車が入っていて、車の屋根で北小路がアジッていた。明治大学のデモ隊がどこにいるのかわからなかった。後でヒヤリと思いだすのであるが、明治大学の旗のことを私は忘れていた。私は庭に座っているらしい学生の群れの外側を歩いていた。あたりは暗くなっていた。右側に学生の群れ。一般人もいただろう。左側、植木をはさんで五六メートル奥に、何かの照明を受けて鈍く光るヘルメットの群れがあった。機動隊だった。機動隊がデモ隊から距離を置いて、ひかえている。しかしこのままでは終わらないのを感じた。
この時点で現代的な思考を加味すると、検察のいう樺美智子の死の原因「人なだれによる死」、つまりデモ隊の中で圧死したとしたら、最初の門扉への体当たりの時か、装甲車を引き出して人々が通用門を通る時しか考えられない。しかも後者は押し合いへし合いといった状況ではなかった。こうしたことを考えて、なお、この二つの可能性を考えると、もしこの時点で樺美智子が倒れ、死んでいたとしたら、誰かが気づくことになるだろう。しかしそのような声は一切なかった。だから樺美智子の死は、この後起こったと考えてよい。
満たされた気持ちで国会議事堂の中庭に立っているとき私は仕事を思い出した。当時新聞配達をしながら学校に通った。その日の夕刊を配らなかった。イケナイと思ったが後のまつり。本当に議事堂の庭に入れるとは思っていなかった自分に気づく。一方で、店を辞めてもいいと腹をくくった。
そんな時だった。「行け」というような声を聞いた気がする。見ると静かだったヘルメットの群れが盛り上がって突進してきた。私は思わず通用門の方に走った。が、そのあたりもヘルメットの群れがあった。私は学生たちの中に入って走った。学生たちも気づいていて、大騒ぎになった。その後のこともあまり記憶にない。気づいた時私は土手を越えて転げ落ちた。今思うと南通用門に向かって右側の土手だと思う。
通用門の前では照明が輝き、シユプレヒコールや怒声が沸き立っていた。土手の中でも悲鳴などが起こり、人が次々と土手を転がった。私は呆然と歩道に立っていた。逮捕者が大勢出ると思った。明大の学生に会いたかったが、しかし何も出来なかった。私はやがて、大目玉をくらうのを覚悟しながら、晩飯を食いたくもあって、泊り込みの新聞配達店に一人帰った。
次の日、包帯を頭に巻いた学生がいっぱい現れた。警棒で頭を割られていた。警棒で腹部を突かれ、息が止まるかと思ったという学生の声もあった。国会の中庭での出来事だ。しかし、それでもそのようにして学校に来る者は軽症で、昨夜病院に担ぎ込まれ、そのまま入院している者も少なくなかった。
六・一五前夜の作戦会議のことも書いておく。
新聞販売店で泊り込みの配達員だったので、私は本格的な活動家ではなかった。日本文学科の学生委員だったので、教室ではデモへの参加を呼びかけ、自分もデモが好きで、ほとんど毎回参加した。だから学生会の中執などはよく出入りした。六・一五前夜頃は、明治大学の活動家の多くがパクられていた。重要な会議があるので是非きてくれといわれたので、夕刊を配った後出かけた。当時の七号館(？)校舎の地下室だった。都学連の幹部がいて、明日は必ず国会突入をするとし、そのため作戦を作り、用意するもの、役割などを決めた。細かい話しは覚えていないが、そのとき私が明大の旗手になった。隊列の最前列もその時決めた。ただ、最初から南通用門と決めていたのかどうか、記憶がない。とはいえ、これまで何回も国会突入を試み、うまくいかなかったので、その反省があって、門扉を破る道具、太く長い縄や、大きなペンチ、鎖や針金などを用意することとし、翌日昼までに秋葉原などに行ってそれらをそろえる役割も決めた。
六・一五のさらに後のことであるが、拘留期間を過ぎて帰ってきた校友の何人かから、「警察がお前の写真を見せて名前を聞いた。気を付けろ」といわれた。気をつけようもなかったのであるが、幸いつかまらなかったのは、その後私が新聞販売店を何軒か変わり、足がつかなかったせいだと思っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0267:101226〕
＊著者より若干の修正がありましたので補足・修正版を再度掲載しました。（編集部）
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5434/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>「主人とドレイ」の関係は深化すべきか　―ドキュメンタリー映画『ＡＮＰＯ』を観て―</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5403</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5403#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 26 Dec 2010 01:00:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inukoroおやじ</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[半澤健市]]></category>
		<category><![CDATA[安保闘争]]></category>
		<category><![CDATA[映画『ＡＮＰＯ』]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5403</guid>
		<description><![CDATA[８９分のドキュメンタリー映画『ＡＮＰＯ』はアメリカの女性映画監督が描いた「安保」像である。同時代人へのインタビューと映像を織り交ぜて見せていく。手法として新奇なものはないが、見ていくうちに私は随所に新鮮な驚きと大きな共感を覚えた。
三つほどの観点から論じたい。
一つは、主に芸術家の作品を背景にして「安保」を語っていること。
二つは、安保―正しくは「反安保」―のエネルギーの巨大さを語っていること。
三つは、安保闘争の結果、いかに一面的な日米関係が続いているかを語っていること。
《絵画と映像による安保の表現》
映画監督大島渚は戦争記録を論じて「敗者は映像を持たない」と言った。東宝争議を論じて「なぜ争議を映像に残さなかったのか」と批判した。私は安保についても同様ではないかと疑いたい。我々は安保闘争に関する映像をしっかりと残しているか。それは決して多くはない。
その中から監督リンダ・ホーグランドは、ドキュメンタリー『１９６０年６月 安保への怒り』（富沢幸男監督・６０年）の動く映像によって、また多くの画家・写真家による動かない映像によって安保闘争を再現する。さらには安保に関わる戦後日本の総体を表現する。
会田誠、朝倉摂、池田龍雄、石内都、石川真生、嬉野京子、風間サチコ、桂川寛、加藤登紀子、串田和美、東松照明、中村宏、細江英公、山城知佳子、横尾忠則、佐喜眞加代子、阿部合成、石井茂雄、井上長三郎、市村司、長濱治、長野重一、浜田知明、濱谷浩、林忠彦、丸木位里・俊、森熊猛、山下菊二。一つ一つを紹介できないのが誠に残念である。
これらの芸術家の、作品はおろか名前さえ、私は多くを知らなかった。だがメディアが価値判定人である社会にあって彼らは名作・労作を作り続けたのである。監督はこれらの「文化遺産」を日本にもあった「抵抗」の歴史の表現と考えている。その発掘と評価に対して私は大いなる敬意を表したい。
安保は政治的な事件である。しかしこの映画監督はおおむね絵画・映像を材料にしてしか安保を語らない。そのことは「安保」が、政治的事件であるとともに、我々の精神における事件であることを強調しているように思う。
《安保エネルギーの実体は何だったのか》
『１９６０年６月 安保への怒り』に写っている日本人の毅然とした表情に私は涙を禁じ得なかった。それは幾分かは自分の顔でもあったと思うからである。
安保闘争は２０年に亘る不況と閉塞感の中にある今の日本では信じられないような国民的エネルギーの爆発であった。後知恵で法律論をいえば改訂安保が幾分の双務性や自立性を獲得したという論が成り立つかも知れない。しかし当時の世論を要約すれば「東条内閣の閣僚でＡ級戦犯容疑者だった政治家が首相となり米国と組んで日本を再び戦争に駆り立てようとしている。やり口は独裁的・反民主的である。平和・独立・民主主義のこの危機から日本を守れ」というものであった。「反戦・民主・反米」が渾然一体となったナショナリズム感情の発現であった。普段ならストライキに反対するタクシー運転手や商店主がデモ行進の列に熱烈な拍手をおくった。国会を何日も何日も十万人規模の群衆が包囲した。その熱気が画面から伝わる。この状況をいまは当事者もジャーナリストも客観的に語る。
安保の勝負はついたのか。勿論、ついた。安保は通ったのだから安保闘争は敗北に終わった。これが常識である。しかし一本勝ちではなく判定勝ちであった。
ジャーナリストの保阪正康は画面で「このエネルギーが高度成長へとつながった」と語っている。これは重要なポイントである。政治の季節から経済の季節への転轍機は誰が回したのか。それは大衆のエネルギーに恐怖した権力が回したのか。それとも敗北した大衆自身が回したのか。映画監督は安保闘争の勝敗そのものには関心がなさそうである。彼女の関心はポスト安保の日本人の精神構造にあるらしい。 《アメリカ人に問われている安保の精神構造》
リンダ・ホーグランドは日本生まれで、宣教師の娘として山口と愛媛で公立小中学校に通った。イェール大学卒。日本で２００７年に公開されたドキュメンタリー『TOKKO―特攻』（２００７年）ではプロデューサーを勤めた。この作品は、日本の特攻兵士が狂気の非人間ではなく普通の人間であったことを淡々と描いた、それでいて静かな反戦の意志が感じられた。リンダは黒澤明から黒澤清まで日本の映画監督の作品約２００本の英語字幕も制作している。彼女は『ＡＮＰＯ』のパンフレット（１０年９月）にこう書いている。
▼日本人の子供達と一緒にアメリカが広島に落とした原爆について授業で教えられた時の記憶は鮮明です。先生が原爆の悲惨さを話し終わったら、小学校４年生のクラスメート達は一斉に唯一金髪で青い目のアメリカ人を振り返り、いったいどんな野蛮な国の人達がこんな無残なことをしたのだろう、という眼差しで見られた記憶があります。その瞬間、私も自分の国がもたらした行為の酷さに、子供なりの罪悪感で胸を痛め、とにかくその場所から逃げ出したかったことを覚えています。私はその体験に対するこだわりから、大人になってからも、日本人とアメリカ人の狭間であの戦争と、そして今日までの日米関係について様々な視点から考えることになりました。▲
映画は安保闘争の残した問題を追跡する。目に見える形では米軍基地の役割―いうまでもなくベトナム、イラク、アフガン戦争の基地としての―についてである。
作者の最大関心は安保体制が日本人の精神をどのように変えてきたかにある。
彼女は日本映画の字幕を制作する過程で１９６０年が、大島渚や今村昌平だけでなく、成瀬巳喜男にまでトラウマを残したことを知った。この感受性を私は信頼する。その後、前述のように多くの絵画や写真に接することによって、彼女は「安保がいかに国民的な運動であり、どれほどの人達の希望と熱意をかき立て、究極的にはどれほどの人達の絶望と挫折を呼んだのか」を分かり始めたというのである。
《安保後５０年論の秀作》
作品中の登場人物が日米関係を「娼婦とヒモ」の関係にたとえている。これに対する作者の評価は明示されていない。しかし、である。日米関係は「主人とドレイ」の関係に近似している。しかもそのことを日本人は自覚していない。これが作品のメッセージだと私には感じられる。いま日本の二大政党は何をやっているのか。日米関係の深化を政策の中心にしている。いま日本のメディアは何をやっているのか。米空母ジョージ・ワシントンへ自衛隊ヘリが着艦する画面を批判もなく流している。自衛隊の指揮権は誰が行使しているのか。日米韓軍事協力は日独伊三国同盟とどこがちがうのか。
安保５０年目の２０１０年に様々な言説が生産された。その中にあって映画『ＡＮＰＯ』は第一級の作品である。
■『ＡＮＰＯ』の上映館・上映時間は限られています。「映画『ＡＮＰＯ』公式ブログ」で確認の上ご覧下さい。http://www.uplink.co.jp/anpo/










初出：「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0265:101226〕




]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5403/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>樺美智子さんの「死の真相」  （６０年安保の裏側で） ―60年安保闘争50周年</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5376</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5376#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Dec 2010 05:22:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[御庄博実（丸屋　博）]]></category>
		<category><![CDATA[権力による捏造]]></category>
		<category><![CDATA[樺美智子の死の真相]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5376</guid>
		<description><![CDATA[はじめに
二〇一〇年四月某日、長崎暢子(旧姓・榎本)先生に会いました。五十年前、安保デモで樺美智子さんと一緒に国会に突入した3名の東大女子学生の一人です。
東大教授（現代史・インド史）を経て、いま龍谷大学の教授です。
長崎先生から僕に会いたいと、広大名誉教授の金田晋先生（国会突入時の東大文学
部学友会委員長）とご一緒でした。金田先生の伝言で、五十年前の「安保騒動の樺美智子の死」を、心の奥から突き上げる思いで、僕もお聞きしたいことがある！と思いました。
一九六〇年六月の『安保』は、樺美智子さんの死に燃え上がった日本を目の前に、時のアメリカ大統領・アイゼンハウワーが直前まで予定していた来日を中止し、ヒロヒト天皇との面会もキャンセルして、急遽マニラから帰国するという国際的事件でした。
日本の現代史の中でも特筆する大きな事件です。『安保五十年』と言うべきいま、樺美智子さんの闇につつまれたままであった「死の真相」が、もう一度語られてよいのではないでしょうか。
Ⅰ：樺美智子さんの死を知らされて

旧制・広島高等学校を卒業して、被爆の経験を持つ僕は一九七七年広島共立病院長として赴任し、被爆者医療を病院医療の重要な柱の一つにして三十年余取り組んできました。しかし岡山大卒（一九五三年）そしてインターン後の約略九年、東京・代々木病院で内科医師・丸屋博として超多忙といっていい日々を送っていました。
一九六〇年六月十六日、午後も病室の回診をやっと済ませた頃であったろう。中田友也副院長が院長室で僕を待っているという。当時、院長の佐藤猛夫先生は中華医学会の招きで中国に行っておられて留守でした。院長室には中田友也先生と、僕は始めてお目にかかる参議院議員の坂本昭氏（佐藤院長と一高・東大医学部の同級生、高知県選出）が、待っていて、厳しい表情で一冊の大学ノートを差し出されました。
「昨日十五日夜、国会構内で東大生の樺美智子さんが死んだ。今朝、慶応大学法医学で司法解剖が行われたばかりで、中舘教授のプロトコール（口述筆記）がここにある。一語も漏らさずに記録してある。これを伝研（伝染病研究所）の草野先生に読んでもらって樺美智子さんの死因をまとめてもらいたい」と。当時僕は代々木病院に勤めながら、週二回、伝染病研究所の草野信雄先生のところへ病理解剖の勉強をさせてもらいに通っていました。
アメリカと日本の間で、安保条約の歪がつぎつぎと明るみに出る中で、日本中の世論が十年目の改定の時期を迎えて沸騰していました。永田町、国会周辺は「安保反対！改定を許すな！」と連日万余の民衆が取り囲み、昼夜を超えてデモが続いていました。僕もその前日は午後早めに仕事を済ませて国会前での道幅一杯のフランスデモに参加しました。
院長室ではじめて会う医師である坂本参議院議員は、国民救援会の会長でもあり、十五日夜社会党議員として真っ先にこの事件を知ったという。十六日の司法解剖に同級生の佐藤院長と一緒に立ち会う予定で代々木病院に来たのだが佐藤院長が留守だったので、急遽中田副院長が同行した。了解を得て二人は慶応の法医学解剖室で中舘教授の樺美智子さんの解剖所見を、一言も漏らさず記録した、そのノートである。
解剖所見は、身長・体重の計測からはじまり、所定の手続きに従って慎重に進められる。中舘教授の一言一言が記録され、のちの写真撮影、顕微鏡所見などと併せて鑑定書がまとめられる。坂本・中田両先生も、大学の記録係とは別に、進められるメスの行方を見つめるとともに教授の口述を記録した。僕に託されたのがそのノートである。
当時僕は病理学の勉強のために、週二回午前、芝白金台の伝染病研究所・草野信夫先生の教室に通っていた。草野先生もまた、坂本議員、佐藤院長らと、東大で同級生であった。草野先生は広島へ原爆が投下された直後、東大の救援班の一員として広島に駆けつけ、病理学者として原爆症の解明に大いに力量を発揮された。一九五三年六月、ウイ―ンで開催された国際医師会議で、日本代表として草野先生が始めて報告した「原爆症」（Atomic Bomb Injuries）は、その悲惨な医学的所見を、冷徹な病理学者の目を通して記録されたもので、参加者に強い衝撃を与えた。今日なお、草野信夫著の『原爆症』が、原爆にかかわる医書の原点とされている所以である。（余談であるが、アメリカは占領直後原爆に関する一切の資料を－解剖資料も含めて－本国に持ち帰り、日本での研究・調査のすべてを禁止した。一九七三年五月にアメリカ軍が接収した広島・長崎の被曝資料の返還式があってようやく帰ってきた。草野先生は解剖のプレパラート標本を密かに持ち帰っておられたのだ。）
坂本・中田両先生の記録ノートと解剖現場での意見交換などを、お聞きした範囲で伝えて、草野先生の解剖学者としての見解を語ってもらった。ぬいぐるみの熊のような人なつこい、そしてやや怖い感じの草野先生は、しばらくじっと僕を見据えてゆっくりと意見を述べられた。僕はこれをメモして樺さんの死因をまとめた。
① 死体の血液が暗赤色流動性であり、
② 肺臓、脾臓、腎臓などの実質臓器にうっ血があり、
③ 皮膚、漿膜下、粘膜下、などに多数の溢血点がみとめられ、これらが窒息死によって起こったもの（窒息死の三徴候）であることは疑いのないところである。
④ さらに窒息死の所見以外には、膵臓頭部の激しい出血、
⑤ および前頸部筋肉内の出血性扼痕があった。
特に中舘教授や助刀の中山助手も驚かせたという、膵臓頭部の激しい出血については、僕も慶応大学・法医学教室を訪ねて臓器そのものを見せてもらっている。これは樺さんの腹部に固い鈍器での強い衝撃が、膵臓頭部を脊柱との間に挟んでの外傷性出血で、途中で見学にこられた東大の上野教授もこの出血を見て、仲舘教授に無言でうなずきながら腹を強く突く所作をし、しばらくして退室して行かれたと、中田・坂本先生の話であった。その後も綿密な解剖所見が続けられて、彼女の頸部筋肉内に扼痕が見つかった。通常であればこの程度の扼痕で窒息を起こすなどは考えられないが、樺さんは膵臓の挫滅出血ですでに重症の状態であって、さらに追い討ちをかけるようなノド仏の両側の扼痕が、手で頚を絞められたことが、彼女の直接の死因となった、と。
解剖の手順に従って書き続けられている口述筆記（プロトコール）を、草野先生は
諄々と僕に説明してくれた。僕は先生の言葉を書き取りながら、当夜の状況を、そして樺さんの死因の重大さをあらためて思わざるを得なかった。そして翌日、慶応大法医学教室を訪ねて樺さんの残された臓器を見せてもらい、改めて彼女の冥福を祈った。
樺さんは腹部に（警棒様の）鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵臓頭部出血と、さら
に扼頚による窒息で死亡した、という結論をまとめた。
Ⅱ 死因発表と検察の対応
樺美智子さんの死について、樺さんご両親から直接に会って「美智子の死の真相を明らかにしてほしい」と、代々木病院の医局で丁重に頼まれた。僕が彼女の死因をまとめて参議院議員の坂本昭氏（当時、国民救援会会長）にわたし、それを国民救援会は公式に発表した。当日の朝日新聞の記事を借ります。
樺さんの死因「ヤク死の疑い」
樺美智子さんの司法解剖に立ち会った参議院議員坂本昭氏、代々木病院副院長中田友也氏は二十一日夕「樺さん死因は窒息であり、ヤク死の疑いが強い」と参議院会館で記者団に中間発表した。両医博の発表は樺さんが死ぬまでの状況や、加害者については一言も触れていない。両医博は樺家の知人として、慶大教授中館久平医博の執刀する解剖に終始立会い、その所見をまとめたものである。
発表によると、両医博は、次の理由で結論を出したと言う。
① まぶたの裏の大きな出血ハンや、肺臓のうっ血など体内各所に窒息死の徴候がある。窒息の原因はノドボトケの両側に筋肉内出血があり、特に右側がひどいので右手による扼死の可能性がいちばん強い。胸を圧迫されたための窒息ということは立証する所見がない。
② すい臓出血がある。きわめて珍しい症例で、比較的面積がせまく、かつ固い鈍体が強く作用した結果と認められるが、出血量が五・六〇立方㌢という少量で、かつ、すい蔵の外へあふれ出ていないので、これが死因とは考えられない。（‘60．6．22、朝日新聞）
社会党‐「警視総監らを告発」―殺人、職権乱用で日本社会党不当弾圧対策特別委員会（委員長木原津与志代議士）は二十三日、小倉謙警視総監、伊林長松警視庁第四機動隊長、岡村端同第七方面隊長と六・一五統一行動の当時，衆院南通用門付近にいた機動隊全員を殺人、職権乱用、傷害罪で東京地検に起訴した。告発状によると、六月十五日午後五時頃、南通用門付近にいた請願中の学生数百人に警棒をふるって暴行、東大生樺美智子(二二)さんをなぐったりけったりして倒したうえ、首を押さえつけ腹を強圧、結果として窒息死させた。また学生、学者、一般市民数百人に暴行、障害を加えたと言うもの。(‘60．6．24、朝日新聞)
関連して検察庁から「根拠のない『虐殺』」であることのパンフレットが配られていることが、朝日新聞の同じ紙面の記事に載せられている。
幾日か遅れて、司法解剖をした慶応大学の中舘教授からの鑑定書が提出されました。『鈍器で腹部を突かれ膵臓挫滅出血、首を絞められた（頚部扼こん反応）』というこの第一次鑑定書は、検察の受け取るところとならなくて書き直しを迫られました（当時、慶大法医の解剖の助刀を勤めた中山浄先生から、逐一連絡がありました）。訂正鑑定書では上記の死因に「人なだれによる胸腹部圧迫」が加えられたと知らされました。この「人なだれによる胸腹部の圧迫が窒息の原因」は六月十五日，樺さんの死体を検察局で検視した監察医務院医師・渡辺富雄氏の「監察医意見書」として検察当局に提出されていたものでした。なお追記すれば渡辺監察医は慶応大学の司法解剖には立ち会っていません。
この第二次の中館鑑定書は検察局の受け取るところとなりましたが、当局はこの内容に不満で、東大・法医学・上野教授へ「再鑑定」の依頼をしました。上野教授からは「人なだれによる圧迫死・内臓臓出血も窒息による」としたようです。この上野再鑑定書によって、鑑定書は公表されないまま社会党の告訴はとりさげられ、樺美智子さんの死の真相は闇に葬られたこととなりました。法医学会ではその後幾年か、その論争「胸腹部の圧迫窒息で内臓臓器にどのような出血が起こるか」が続きました。しかしそのことは閉ざされた一学会のなかでの論争のひとつで、広く国民の耳目に触れることはありませんでした。
検察局は、中館、上野、いずれの鑑定書も公表しないと言うことで幕引きを図りましたが、坂本・中田両先生は国民救援会からの「死因の発表」について触れたうえ、「朝日ジャーナル、’60．8.21号」に『樺美智子さんの死因をめぐって』との論文で、上野鑑定書の公表を求めています。朝日ジャーナルはさっそく翌週（八月二八日号）に、同文の表題『樺美智子さんの死因』として上野教授の反論－「窒息によって身体各所の出血、脾臓への出血も起こる。」ことを載せていましたし。内容は窒息によって小さな溢血様の出血の起こることは周知のことだが、絞頚による窒息の場合も脾臓に高度の出血があった例がある。窒息による死亡の場合、東大の解剖例を再調査したところ内臓出血を認めたものが三十～四十％あったとして「人なだれによる窒息死」で膵臓頭部の出血も起こりうることを記載していました。しかし正式の法医学鑑定書は、両者のいずれもいまだ公表はされていません。
Ⅲ かくされた「死因」
「死体は語る」という言葉があります。司法解剖にしろ、病気の原因を探る病理解剖にしろ、解剖台の死体はその「死」に至る前にその人の身体に何が起こったのかをもっとも雄弁に語っているものです。
僕が受け取った樺美智子さんのプロトコールは，彼女が警棒様の固い鈍器で上腹部を激しく突かれて、脊柱と間にはさまれて挫傷して出血したことを示しています。
「人なだれ」は、デモの後方で起きており、当夜「人なだれによる死」が、彼女ただ一人であって、そのために骨折など怪我をしたりした学生のあったことは聞いた事がありません。一人の学生が「死」に至るような「はげしい人なだれ」は、あったのでしょうか？
六月十五日の当夜、出動した第四機動隊と、「安保反対」をシュプレヒコールしながらの素手の学生たちと、衝突があったのです。坂本昭参議院議員も、障害を受けた彼女の当夜の位置が何処にあったのか、何とか確認したいと、しきりに言って居られました。僕自身は当夜の国会の状況を知りませんでしたので、そのことはずっと心の奥に滞ったままでした。
当時、東大文学部学友会委員長として、全学連の幾百人かと一緒に国会に請願デモの指揮をとった金田晋氏が広島大学で教鞭をふるっておられて、いまは名誉教授、そして請われて下関市：東亜大学総合人間・文化学部長になっておられることを知りました。僕は「広島文学」の稲田公子さんに紹介を受け、突然のお手紙を差し上げました。
「六十年安保」の樺美智子さんの死に至る状況を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。僕が金田先生に差し上げた手紙の一字一字を覚えていませんが、折り返し先生からお返事をいただきました。
拝復、お便りと同封されていた「現代詩手帖」連載の御文を拝読しました。何度も読ませていただきました。こんなに近いところに、私のほとんど封印してきた青春を、有無を言わさず引きずり出される方がおろうとは、驚きでした。
樺美智子は今でも私の友人です。「死者はいつまでも若い」今でもあのときの顔が浮かんできます。六月十五日夜、国会議事堂南通用門から追い出された直後、死者は文学部の学生らしい、樺さんらしい。警察病院に行くように、というレポが入りました。私は当時東大文学部学友会委員長でした。彼女と同学分の学生を連れて、警察が用意した車で警察病院に駆けつけました。遺体のある部屋に通されて、私は樺さんであることを確認しました。
・・・中略・・・
前日の六月十四日午後、銀杏並木沿いの三四郎池側にあるアーケードのうえの文学部階段教室で学生大会を開催し、国会突入を決議しました。といっても出席者は50名にたらず、大会は定足数に達せず、正式には有志決議ということでした。私の前の期の学友会副委員長であった樺さんは四月からは卒業論文の準備をしていましたが、それでもデモや集会にはよく顔を出してくれました。
学生大会では、反対の意見も出ました。樺さんは階段教室の一番上に座っていて、決議したときは拍手をしてくれました。翌朝出発時にはスラックス姿で、文学部のアーケード下の集合場所に来てくれていました。その時のさわやかな顔が今でも思い出されます。その日がどうなるか、僕にも読めませんでした。思いだけがすすんでいたように思います。朝、桂寿一文学部長は私を学部長室に呼ばれて「君たちの気持ちはわかるが、身体に気をつけるように。国会突入の方針と聞くが、無茶をせぬように」という訓辞を受けました。文学部には女子学生がずいぶんいましたが、国会近くにきたとき、三名だけがデモの隊列に加わっていました。外側は男子学生が、中に女子学生が入りました。しかしそのような配慮も、南通用門を突破して、内部で集会を開き、機動隊に押し返される中で、何の意味があったでしょうか。
御庄先生のお手紙を拝読。私自身、樺さんはデモの隊列の崩れるナダレの中で圧死したという当局の説明に、そうだったかもしれないと，なかば思い込みはじめていました。もちろん、私たちも坂本議員などの国民救援会の、死因は警棒で突かれたことにあるという報告は受けていましたが、しかし当局の発表もそうかな？と思わせるような状況はありました。御庄先生のきわめて正確な記述を読み、今更ながらに歴史の隠蔽、捏造ということに、憤りを感じています。それに当局の発表に流されていった自分自身が、樺さんの無念をしっかりと受け止めていなかったことを恥じています。
私自身も、先生にぜひお会いして、いろいろなお話を伺いたいと思います。
（二〇〇〇年十一月八日）
四十年後の二〇〇〇年暮十二月二十二日、機会を得てお会いすることができました。“六十年六月十五日“その夜、実際にどのようなことが起こったのか？　率直にお尋ねしました。後日その状況をお手紙にいただいたのでこれも転載します。
あけましておめでとうございます。下関でお年賀と詩集、それに拙文についてのご感想を含めた書信を拝受しました。ご返礼が遅れたことを、お許しください。
１）用件のほうから、記します。六十年六月十五日は、寒くて震えていたことを記憶しています。雨模様でした。服が濡れていました。それが放水車の水であったのか、雨であったのか、汗であったのか、記憶は区別を拒んでいるようです。お昼に東大文学部の部隊は法文二号館のアーケード下に集まり大学全体で気勢を上げて、国会議事堂に向かいました。国会議事堂南通用門までは近づくことが出来ましたが、門はしっかり閉ざされ、門の内側には装甲車が後ろ向けに置かれていました。明治、中央と東大の部隊が南通用門をロープで引っ張って倒し、装甲車を引きずり出し、隊伍を整えて、中に入っていきました。そのとき、文学部は東大部隊の先頭でしたが、三人の女子学生がこの隊伍に加わっていました。私は委員長でしたので、隊列を確認し、女子学生三人は機動隊からの攻撃から守るため、スクラムは八人か十人の隊列だったと思いますが、その中央に入ってもらいました。三人は、樺美智子さん、榎本暢子さん（のちに長崎姓、東大名誉教授、近代インド史、特にセポイの乱の研究者）、福田瑞枝さん（のちに黒田姓、夫の黒田氏はヴェトナム戦争の報道で活躍したジャーナリスト）です。榎本、福田両名も頭部を負傷、一時病院に入院しました。その三人以外にも、文学部には、教育学部もそうですが，多くの女子学生がいました。彼女らは隊列の外にいながら、歩道を占拠していてくれていました。
彼女らのうちで大学院に進学した者以外、そのあととくに交流があるわけではありませんが、卒業後、労働省に勤めた女性は30年近く後に、突然便りをくれ、研修所で自分が教えている高校卒の人物の哲学論文に論評をしてもらえないかと言ってきました。在野にあってすばらしい哲学者との交流がはじまり、今も続いています。そのような信頼関係は、私たちにあったようです。
・ ・・中略・・・
先日「そごう」でお会いしたとき、舌足らずでしたが、時間について、カフカの時間についての話が出ました。時間が過去から未来にただ流れてゆく、昨日の次に今日があって、次に明日が来る、そんなふうに進行するものでない、もしそうだとすれば、今という時はなんと貧素で抽象的なものなのか。聖アウグスチヌスは今の３相、つまり記憶としての今（過去）、予期・期待としての今（将来）、そして紛れもなくここに立っているという今が重層に豊かな今を形成していることを語りました。
それにしても、先生の記憶としての今、その中に六月十五日をしっかり根付かせておられること、心の底からうれしく思いました。私もまた先生との出会いによって、四十年前を今に呼び戻そうとしています。・・・後略・・・
（〇一年一月一三日）
四十年、長い間抱き続けていた疑問が、やっと、ややあかるみに出たことを感じましたが、いつか樺さんの友人として一緒に国会構内に入り、その夜の乱闘に巻き込まれたと思われる二人の友人、榎本暢子さん、福田瑞枝さんにお会いして、その夜の状況を直接お聞きしたいものだと思っていました。
機会を得ず、いつのまにか歳月が過ぎましたが、10年後の今年、思いがけず「長崎暢子（榎本暢子）さんに会える」ということで、僕の思いは一挙に五十年をさかのぼった、といっていいでしょう。
日時を打ち合わせ、金田先生が同道して直接広島共立病院へこられるといわれます。僕は虚心にお迎えしたいと思いました。
Ⅳ 「樺美智子の死」の真相 

五十年前、樺美智子さんの死について、僕が直接かかわっていることは、坂本参議院議員や中田先生の「死因について」の発表のとき、必ずご一緒していたのでよく知られていたことでした。ご両親、樺俊雄（当時・中央大教授）ご夫妻が代々木病院の医局に僕を訪ねてこられて、「美智子の死の真相を明らかにしてほしい！」と、こころから頼まれました。彼女の「死」が、「人ナダレによるもの」という風説のなかで、アイマイにされようとしている頃でした。
樺さんの「死」が、当夜の学生と機動隊の激しく接触する中で、国会構内の何処で起こったことなのか？事実は一つしかないのでしょう。何とかその事実を知りたいものだと、手探りをしていた頃だったでしょうか、坂本議員が朝日新聞の記事を持ってきました。
元警部補が入水自殺
デモ隊警備でノイローゼ？
安保改定反対闘争の警備に出動、激しいデモ隊とのやりとりにノイローゼ気味で辞表を出した警視庁の警官が、（七月）九日朝、水死体（自殺）で見つかるという事件が起こった。東京・小松川署警ら第二係長の岡田理警部補（三三）…略…は六月十三日「部下の指導監督の能力を失った」との理由で辞表を出し、去る五日辞職が認められたが六日に家出、九日朝、板橋区志村船渡町2－56戸田橋上流の荒川で水死体となって発見された。警視庁と同署では現職者でないとして、詳しくいわないが、六月中はほとんど連日行われた全学連などの安保改定反対闘争の警備に出動しているうち疲労と精神的な悩みから、ノイローゼになっていたという。自殺の原因もそこにあるのではないかといっている。
なお岡田警部補は去る十月警視庁交通二課から小松川署に転出、安保改定闘争中に第七方面本部構成の警備隊小隊長として第四機動隊に編入され警備に当たっていた。・・・　（‘６０年７月９日・朝日新聞・夕刊）
当時「ＰＴＳＤ(外傷性ストレス障害)」という言葉は一般的ではなかったが、一九六〇年代後半からのヴェトナム戦争から帰還した米兵にこの障害が起こった。事故や犯罪、災害といった衝撃的な出来事に巻き込まれた個人を襲う深刻な精神障害の一つで、不安障害などに比べると、自殺企図などの問題行動が多い、とされている。
第四機動隊は当夜、国会突入の学生たちと正面衝突をした機動隊であった。坂本議員は「岡田警部補は、小隊長として事件の目撃者であったのではないか。彼の日常を調べてもらったが、近所の人たちとの付き合いもよく、誠実な人で、柔道の高段者であった。七月はじめに辞職が決まり、翌日家出、三日後には水死というが、水死はおかしい。荒川の船頭組合に問い合わせても、その日、水死者があったことはないという。口封じに消されたのではないか。」と言っていました。謎のある事件であった。「ＰＴＳＤ」での自殺であったか、坂本議員の疑問が正しいのか、今となってはこれも闇の中といわざるを得ない。
金田先生と長崎先生が本年(二〇一〇年)四月八日、広島共立病院へ僕を訪ねてこられた。
病院の応接室で、僕の知る「樺美智子の死」のことを、長崎先生に話した。長崎先生は当日、樺さん、福田さんと女性三人，学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。その後がどのように混乱したか、確かなことは「警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでした」などと話された。その後の取り調べのときに「自分の当夜の写真を見せられて、確認をさせられたこと、その写真は当夜たくさんの写真が撮られていて、そのうちの私だけを取り出して見せられたこと」などを話された。福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院したという。樺さんもほとんど同じ状況であったろう。写真が機動隊側から撮影される位置は、すぐ前面が警備隊ということだ。「それにしても樺さんのお父さんお母さん、とても親しくしていただいていたことで、警棒に突かれた胸とこころが数年経っても痛みました」と。
「最初は隊列の後方へ、とスクラムを組んでいましたが、国会突入後、衝突してからは僕らははがされ、はがされして、どのような状況になったのか、僕にもわかりません」と、金田先生は言う。当然であったろう。いつのまにか樺さんたちは警備隊との衝突の前面に出されていたのだろう。
数日後、長崎先生から、お茶菓子とお便りをいただいた。
「昨日は長年の望みであった先生にお会いでき、本当に胸の晴れる思いでした」（十年四月十日）と。
さらに旬日後金田先生からもお便りがあった。
「・・・先日は長崎暢子（旧姓・榎本）と連れ立っておうかがいし、私どもにつながった樺美智子について、それぞれの思いを語り合えたこと、楽しい一日でした。六十年安保は、戦後日本の政治・経済・文化の大きな節目であったことを、今更ながらに思い返しています。６月１５日はその象徴的な事件で、樺さんは、いつも私たちの間で生きているように思います。お送りいただいた写真は、今度の出会いのかけがえのない証となりましょう・・・」（’１０年五月四日）
五十年前、検察側は国会構内の警備隊の目前で起こったことをあたかもデモ隊の後方の列で起こった「人ナダレによる」とはやばやと断定し、その後は司法解剖の行われた法医学鑑定書を、再鑑定など学問解釈上の裁をとりながら、虚偽、隠蔽、捏造といったあらゆる手段を用いて、己に都合のよい結論を自ら仕立てた。樺美智子さんの死はこうして隠蔽され、不問に伏せられたのである。長崎暢子さんにお会いして、当夜の実情を聞かせてもらって、僕は検察権力の、巧みな隠蔽、捏造の事実を今更ながら、鳥肌の立つ思いで振り返っている。
安保改定時の『核密約』も、やっと白日の下に晒された。
六十年安保から五十年、樺美智子さんの司法解剖に立ち会って『死の真相』を知る人は、今はただ僕一人が残されているのでしょうか。僕は樺俊雄先生ご夫妻の「美智子の死の真相を！」というご依頼にやっと応えることができたと思う。
「歴史の流れ」が、音を立てて足元から聞こえてきます。
終わりに
六十年安保から五十年です。
五十年前のこの時間に、僕は樺さんの『死』を知らされました。
それから彼女の「死の真相」を尋ねて、うかうかと五十年が過ぎました。
見渡せば、彼女の「死の真相」を知る人は、もう一人も残っていません。
記憶を奮い起こして、書きました。
一人の少女の死―Ｎさんに会って
御庄　博実
一人の少女の死を追って
僕は長い年月　霧の中を歩き続けていた
あの夕　死んだ東大女子学生と
肩を組んで国会に突入した
Ｎさんと始めて会った
五十年が過ぎている。
判然としなければならぬはずの
過去の歴史の歩みについてさえ
何も明らかにしようとしない
それがあたかも善意であるかのような
あいまいさの中ですごしてきた
責任を取るべき人　証拠の資料
僕たちの国の戦後史
いま俎上に　腐臭を晒している。
五十年前六月　国会の前庭で
一人の東大女子学生が死んだ
警防様の鈍器で　激しく腹部を突かれ
膵臓頭部が挫滅　内出血
慶応大法医教室で見た血に染まった膵臓
ほとんど瀕死の少女の
のど笛に更に薄い扼痕があった
首を絞められたとどめの痕だ
少女は殺されたのだ。
大きな歴史の曲がり角であった
アメリカ大統領がマニラから日本への
訪日を中止した瞬間であった
岸信介首相にも　天皇にも会わず
アイゼンハウワーは九年後に亡くなったが
改定された安保は今も生きつづけている
少女の死―２
少女の死はアイクの訪日を止めた
だが彼女の死の真相は闇に隠されたまま。
彼女と肩を組んで国会に突入したＮさん
私も警棒で胸を　腹を突かれ　頭を殴られ
ほとんど意識もうろうとなりました
救急車で病院に運ばれるとき気がつきました
その後幾年か　十幾年か
警棒で突かれた胸が痛みました
五十年後のいまも
警棒で突かれた心が痛みます
遠い日の思い出を
昨日のことのように話す　黒い瞳
真実が語られなければならないのに
いつもこうなのだ
一人の少女の死が
いまもあいまいのままなのだ
真相をだらだらと先延ばしにして
こんなふるさとでいいのだろうか
僕はいまも　深い霧の中に立たされている
※   一人の少女の死・・六十年安保、国会構内で樺美智子死す
補遣・六十年安保
一九六〇年五月一九日、岸信介自民党内閣による衆議院での強行採決、参議院での議論をへないままの同二十三日の自然成立と、その後の日本外交に大きく影響する条約にしては、異例なかたちで成立した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。簡単に言えば米ソの対立がはげしい時代、アメリカの対アジア戦略にのっとったアメリカ主導の軍事同盟であったといえるだろう。一〇年間は異議申し立てができない代物であった。（十年後の一九七〇年、もはや六十年時のような大衆デモはなかった）
第六条にいわく。
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
しかも、右の基地内は、治外法権となって日本の行政は及ばない。
この安保条約締結に反対するデモは、次第に燃えさかり、国会周辺を連日埋め尽くすこととなる。（六月一五～一六日は約十万人）
戦時下の空襲・飢餓の痛手による体験がなおなまなましいなかで、アメリカ一方に与し、その戦略に巻きこまれることはごめんだ、という素朴な感情が、多くの人びとをデモへ駆り立てたといえるだろう。
明治以後、日本が外国と軍事同盟をむすんだのは二回。日英同盟（一九〇二年）と、日独伊三国同盟（一九四〇年）。前者は日露戦争、後者は米英ほかの連合軍との戦争へと雪崩れていった。軍事同盟の危険を肌で人びとは感じとったのではあるまいか。
だから、連日、国会を埋めるデモに対し、岸首相が、「声なき声は自分たちを支持している」と語ったとき、早速に、声なき声というプラカードを作ってデモに行くものがあらわれ、これといった組織のない人びとがそのプラカードの後ろに付いて、みるみる膨れ上がっていく現象も起きたのだった。
そのようななかで、学生たちが立ち上がり、そこに二十三歳、東大文学部国史科学生の樺美智子もいたわけである。
彼女の遺稿集『人しれず微笑まん』（三一書房）には、講義に提出したレポートも載っていて、徳川慶喜論―政治史的考察、あるいは律令時代の損田処分法、など真摯な考察がなされていて、いずれ学者として大成していったろうことを偲ばせる。
しかし、時代は研究室に彼女をゆったり置いておかなかったのであり、それは彼女の真面目さとその詩に見られる感受性の鋭さにも拠ったであろう。
一篇の詩をあげておこう。
最後に 樺美智子
誰かが私を笑っている
こっちでも向うでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく言うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」　と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れず　ほほえみたいものだ
（一九五六年）
成長途上であった誠実な娘は、獰猛な暴力によって、すい臓をなぐられ、首を絞められ、はかなくなってしまった。残念でならない。（石川逸子）
＊御庄博実という名前は詩人のペンネームです。本名は丸屋　博。（編集部注）
初出：『ヒロシマ　ナガサキを考える』第99号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0263:101224〕
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5376/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>60年安保闘争私史―６０年安保闘争５０周年に寄せて</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/5374</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/5374#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Dec 2010 04:23:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[岩田昌征]]></category>
		<category><![CDATA[樺美智子の戦死]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>
		<category><![CDATA[６０年安保闘争]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=5374</guid>
		<description><![CDATA[今年は60年安保50周年である。半世紀間顔を合わせたことがなかった山田恭暉氏から様々な50周年記念行事の案内が届いた。また雑誌『情況』のアンケートにも答えた。肝腎の6月15日前後は、義理の叔父、叔母と義母の墓参でパンチェヴォとベオグラードにいたので不参加であったが、それ以外の集まりはすべて出席したのではないかと思う。50周年ということだが、60年安保デモの体験者以外どれほどの人々がその意味をつかんでくれるのか、疑問である。考えてみると、1960年は、大逆事件50周年であった。しかし、反安保デモに情熱を注ぎこんでいた私たちは、そんな歴史年表など全く念頭になく走り回っていた。
私は高校生左翼で同学年生をオルグしたり、動員したりする側で頑張っていた。といっても「歌と踊り」の時代で警官隊と衝突するなんていうことは全く想定外であった。それでも校則違反で処罰の対象になった。「君も僕も高校を卒業したら、大学に行かないで労働者になるのだ」とはっするするT同志（同学年ながらすでにして共産党員、私やS君等の非党員活動家を指導する側にいた）に「そうだ、そうだ」と同調してもいた。幸か不幸か、高校生にとっては殿上人の世界における政変の結果、上から指導が来なくなり、運動が自然消滅した。そのおかげで、大学進学の気持ちが生じ、大学生として60年安保デモに参加することができた。
高校時代の左翼運動における体験から、党派に入って他人を自分の主張に沿ってオルグしたり、動員したりすることはしないと心に決めていた。決めたというより、おのずと心に決まっていた。しかしながら、左の心は健在なので、誰か然るべきものに要請されたら身体で応答する心境にあった。それが東大駒場の場合、ブント系の運動であった。したがって、ブントが組織した反安保デモには一兵卒として皆勤であった。ひとつひとつ覚えているわけではないが、次の三つのデモが身体記憶として残っている。余談であるが、今年の7月3日に私学会館で石井保夫氏の『青春の国際学連』出版記念会に出席したら、そこに出席しておられた初対面の島成郎夫人の島弘子氏から『ブント私史』（批評社）が後ほど送られてきた。それを読んで、全運動を指導する側の「鳥」の目がどうであったのかが分かり、私の「虫」の目の残像と突き合わせることができた。
第1のデモは、1959年11月27日である。私たちのデモ隊は特許庁横の小道を抜けて国会に行く予定であった。ところが、警察の車輌によって既にブロックされ、先へ進めなくなった。「安保は重い」ということで期待していなかった数の他大学のデモ隊が続々と到着した。最先頭の私たちは車輌と後続集団の前進圧力とに挟まれて身動きができなくなり、真に胸苦しい状態であった。次々と後続するデモ隊は、最先頭のそんな苦境を全く知らない。その現場にいたブント指導者のO氏は、何の指示もしない。これは危険だ。そこで私とH君（新宿高校時代の同級生、私が高校生活動家であったとき、高1の2学期に「僕は君たちの新聞やパンフをもう購読しない。東大に入る受験勉強をして、入学してから共産党に入り活動する」と宣言して、私たちの周辺から遠ざかった。有言実行。2010年の今日も同党で活動している、と伝え聞く。）が、「Oさん、あなたは大事な人だから用心してわきにいて下さい。私たちがやりますから」といって、H君と二人で警察車輌によじ登り、「前へ前へ」と大声を出し両手を振り、封鎖線を乗り越えてしまった。数人の警察官は、「おいおい、何するんだ」と制止する構えだけを取った。こういう次第で国会に到着してみると、すでにして他の方面からのデモ隊が国会構内に入って集会を開いていた。私たちも合流した。国会構内突入一番乗りではなかったとはいえ、警察車輌一番乗り越えではなかったろうか。
1960年4月26日、警察は何台もの警察車輌を並べて封鎖線を構築していた。私たちのデモ隊もそこで立ち止まらざるを得なかった。次々と新しいデモ隊が到着し、人数が膨らんだ。広い面積があり、11月27日のような危険性はなかったが、現場指導がなかったのは同じであった。駒場のデモ隊の責任者の一人、ブントのK氏（後に受勲の哲学者）が私に寄ってきて「岩田君、どうしたら良い？」と聞いたので、「ここまで来たら前へ進むしかないでしょう」と答えたことを覚えている。しかし、これは雑兵の言に過ぎない。そうこうするうちに、一人の男が警察車輌上に飛び上がり、演説を始めた。言葉は聞こえなかったが、身振り雰囲気から急速前進の合図であることはすぐに分かった。かくして私たちは封鎖車輌を自然に乗り越えて行った。後のその男が唐牛という妙な名前の北大生であることを知った。真実、見事な現場指揮であった。デモ隊大衆の6割方の気分を悟っていたと思う。11月27日と違って、警官隊の阻止行動は真に真剣であった。振り下ろす警棒を間髪の差でよける。力余って警棒が地面に激突する。その強い鋭い音はひやりとさせる威力があった。
その日以降、警察は封鎖線を作るのに、車輌の先頭を自分たちの方へ、後尾をデモ隊の方に向けるようになった。しかも車の後尾には垂直に板が打ち付けてあった。私たちはその前で何もなすすべを知らなかった。一種の城壁であり、私たちは攻城用武器をもっていない。
第2のデモは、1960年1月15日である。1月16日の岸首相訪米阻止のために羽田空港に向かう。これがブント指導下の駒場部隊に課せられた任務であった。大学構外にバスが数台手配されており、私たちは先頭のバスに乗り込み、夕方出発し、闇が濃くなり始めるころに羽田空港に着いた。ところが私たちを阻止するはずの警察の備えが見当たらない。何人かの警官か警備員かを見ただけである。そこでバス1台の私たちのデモ隊は、旗竿を横に隊列を整え、羽田空港の中に進入した。私はそれまでの人生で空港や地上に駐機する飛行機を見たことがなかった。少年のころ、空に見ていたのは飛行機雲であり、B-29の大編隊であった。空港のイメージがなかった。飛行場があれほど広いところであるとはその時まで知らなかった。「安保反対、アンポハンタイ」と掛け声を出しつつ、コンクリートの空港を走る。どこからも反応がない。私たちを見ている者もない。阻止に駆け寄る警察隊もいない。私たちに続くはずのデモ隊もない。私たちの口が閉まる。私たちの足がとまる。彼方に駐機する飛行機が何機か黒影を見せている。あそこまでデモるのか？！先頭バスであったから当然、ブントの指揮者がいたはずである。しかし、何の指示もない。私は文学的比喩でなく、物理的現実としての広場の孤独を実感した。ふと、視野を機影からそらし、別の方を見ると、空港の建物の黒影の一点に光明が見えた。おのずと私たちの足はその光に吸い寄せられた。着いてみると、それは空港ロビーの一角にあるレストランであって、驚くべきことに、後続バスで来たデモ隊を含め他大学の多くの学生たちがそこに立てこもっていた。私たちも参加した。一番初めに羽田に着いた私たちが一番遅く羽田集会に参加したわけである。何時間たったであろうか。レストランをロビーから分けていたガラス張りの仕切りの何本かの支柱に警官隊はロープを結びつけ、力いっぱい引っ張る。ガラスは砕けて私たちの上に降ってくる。そんな状況で乱闘になり、私たちは拘束され、建物の外に連れ出され、待ち構えていた二列の警官隊の間を何メートルか、手加減気味ではあるがこづかれ、けられて、列の末端に用意されていた護送トラックに押し込まれた。逮捕を覚悟した。大学の処分も覚悟した。さすが私も動揺したのか、「こうなっちゃ仕方がない」とかなんとかトラックの中で周りに話しかけた。その時、後にブント系の小党派の創設者となるH氏が隣にいて「声を出すな。こういう場合は一切黙っていることだ」ときつく忠告・指示してくれた。これがブントによる唯一の意味ある指導であった。数分トラックは走って、空港からかなり離れたところで止まった。警察署ではなかった。ただの十字路であった。文字通り、私たちは警察によって捨てられたわけである。冷たい小雨が降っていた。朝方であった。捨てられた者たちは気を取り直し、隊列を整え、岸訪米阻止を連呼して、空港方面に向かってデモをした。すぐ後になって、ブントの主要指導者約80名が逮捕されたことを知った。一兵卒は捨てられただけである。とすると、あの的確な指示をしてくれたH氏は、権力の目にはつかまえるに値しなかったというわけだ。彼にとっては幸いなのか、不名誉なのか。
後年、私は二度ほど「広場の孤独」を味わうことになる。一度は、1976年3月に中国を訪問し、夜中、人影の全くない天安門広場に立った時だ。広い、かつ一人。あの時と同じ身体感覚であった。もう一度は、1995年8月、ボスニア戦争中、ボスニア・ムスリム人の拠点都市トゥズラの広場の見物を楽しんでいた時、突然、砲撃警報がウーウーウーと鳴り響くと、広場にいたムスリム人たちは一斉に姿を消し、気がついてみると、私一人である。真夏の太陽の下、ままよとコンクリートの地面に横たわり、永い間空を見上げつつ、砲撃か警報解除を待った。やはり同じ身体感覚であった。
第3のデモは、言うまでもなく6月15日である。私たちのデモ隊は、国会南通用門前にいた。樺美智子さんは私よりも前方数列前にいた。私の記憶が確かならば、20年後には著名な保守論客となるN氏が石の門柱の上から獅子吼するのを見ていた。そうこうするうちに、対峙していた機動隊―いつのころからか、相手を警官隊と呼ばずに、機動隊と呼ぶようになっていた―の実力行使が突然始まった。錬度の高い屈強な青年集団が各自の力を一斉に一方向に集束させて突進するエネルギーは、まさしく波動砲であった。11月27日の特許庁横の後続デモ隊の重圧は徐々に徐々に増して私の肉体を締め付けたが、6月15日の機動隊はまさしく瞬刻の巨大波動圧であり、あっという間もなく、私の足は宙を蹴り、身体を制御できなくなっていた。私たちの中で倒れなかった者―私もだが―は逃げた。ただただ逃げることしかできなかった。警棒が頭上に打ちおろされたから逃げたのではない。黒い塊の突進にはじき飛ばされ、逃げるしか身体の動かしようがなかったのである。島成郎が描く「棍棒を振りかざし…。頭が割られ鮮血が飛び散る」（p.124）は、乱戦になってからの話である。勝負を決めたのは、あの重機関車の動きに似た集団的な突進力である。デモ隊が全く持っていなかった物理力である。帰宅後、樺さんの死を知った。その時は自覚しなかったが、徐々に私たち男子学生は一女学生を置き去りにしたまま逃げてしまったのだという苦い思いがわいてきた。
やがて、樺さんの死についてくさぐさの解釈が出回った。あるいは機動隊による虐殺だという。あるいは学生自身が踏み殺したのだという。私の実感では戦死である。どちらにも卑怯の振る舞いが全くなかった堂々の対峙を経て、一瞬の戦闘における死である。戦死としか言いようがない。6月10日の共産党系のデモによるハガチー・ヘリコプター脱出事件に刺激されてもおり、すべてが国会突入を覚悟していた。その覚悟なき者があの時あそこにおられるわけがない。それなのに、デモの最前列に近いところに女子学生をおいたブント指導部の指揮責任を問うことはできる。しかしながら、そんな危険な場所に身を置いたのは100％彼女の意思であろう。恥ずべきことがあるとすれば、あの波動エネルギーの放射を数に勝る私たち男子学生が全力を集中して受け止め、微動だにせず、力弱きものを守るということができなかったことだ。私は、クロアチア戦争かボスニア戦争かで捕虜となった若きセルビア女性の話を読んだことがある。彼女は、ベオグラードの女学生であったが、セルビア共和国の外のセルビア人同胞を助けに戦場に向かおうとはしない男子学生たちに我慢ならず、「勇気とは何かを見せてあげる」と銃を取って最前線で戦ったのである。幸いにして、彼女は戦死しなかったが、樺さんは戦死したのである。あの国民葬は虐殺された無力な者を憐れむ儀式ではなく、正当な戦いで戦死した者を悼みかつ誇る儀式ではなかったろうか。その意味において、半世紀の今日でも意義ある死であろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion026２:101224〕
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/5374/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>六０年安保の闘いを引きずって　生涯を中小労働運動に</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/3590</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/3590#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 04 Oct 2010 02:07:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[60年安保闘争]]></category>
		<category><![CDATA[労働運動]]></category>
		<category><![CDATA[日本共産党]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>
		<category><![CDATA[由井格]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=3590</guid>
		<description><![CDATA[労働者の共済生協に就職
1958年秋の警察官職務執行法（警職法）の改訂反対闘争は、助走段階なしでのいきなりの展開となったが、「オイコラ警官の復活反対」という国民感情を背景に一気に盛り上がり、10.4のゼネストでとどめをさし、ひとまず岸戦犯内閣を打ち砕くことができた。運動の中では、第二の治安維持法ともいえる警職法の改訂は阻止できたが、岸内閣と日本資本主義は、60年の安保改訂＝日米軍事同盟の強化をめざしており、われわれはそれを阻止するために、次の段階に対応できる体制構築にかかるべきだという方向が提示された。
警職法反対闘争が一区切りついた時点で、中央大学自治会は、その闘争の総括と、来るべき安保闘争への意思統一をかねて、箱根仙石原の萬岳楼で、全自治委員を対象とした討論合宿を行った。講師は当時の日本共産党神奈川県委員長の中西功さんにお願いした。その理由は、中西さんは対米従属論一途の党本部主流とは異なり、日本独占資本は帝国主義的自立をめざしており、革命の性格は社会主義革命であると主張されていると、われわれが判断したことによる。
砂川闘争や6.1事件（全学連大会に出席の党員グループ会議を党本部で開催、党中央代表はつるしあげられ、中央委員会不信任を決議。学生対策の津島本部長等が暴力を受けた事件）以後、学生細胞に対する党本部の監視は強まり、特に全学連主流に近い細胞や党員に対しては、地区委員会や都委員会を飛び越した指導や介入が行われた。党中央は、6.1事件とともに、法政大学第一細胞が10.4の警職法反対の労働者の統一ストにあたって、都内で配布した「労働者は武器を持って起ち上れ」というビラの「武器」という表現をストライキという意味ではではなく、文字通り武器と判断して法大細胞の指導部を除名処分にし、それに従うよう千代田地区委員会傘下の学生細胞に押し付けてきた。さらに、私が所属していた中央大細胞や自治会を例に上げると、58年に学内改革をめざした昼夜両自治会の共同ストライキが企画され、クラス討議でも確認されたが、ストライキは運動の巾をせばめるという昼間部の一部党員の意見に便乗したOB党員と党本部学生対策部の介入が行われ、「活動者会議」なるものが招集された。そこでは、スト決行派の委員長（由井）と共闘担当の中執、AG（反戦学生同盟）の二、三人の活動家に非難が集中し、つるしあげが行われた。自治会の機関決定はその圧力で覆され、その結果、二部（夜間部）自治会だけのスト突入となり、孤立した闘いの末、指導部が処分されるという大きな打撃を受けた。
その当時の二部自治会の指導部は、社会党員と共産党員によって構成されていたが、その後の60年安保闘争では、ハガチー事件、アイク訪日阻止闘争で大きな役割をはたすことになり、さらにその後、生協運動でも大きな足跡を遺している。
箱根仙石原の合宿のねらいは、党や誤った権威から自立した運動をどうつくるか、後を託す人たちが自らの思考に依拠して物事を決めて行く契機になれば、という私の思いもあったといえる。異端者とも見られていた中西さんにお願いしたのも、新しい段階に突入した日本資本主義に対し、われわれはどのような視点を確立するべきかという伏線を持ってのことであった。
なお、これまた後日談になるが、この後を引き継いだ中大の活動家の諸君は、59年末から
60年にかけてブントに加入し、その後は諸派に移り、今日も活動を続けている人が多い。
59年2月の役員改選で、私は退任し卒業、就職することにし、3月15日創立２年目の労働者の共済生活協同組合である「東京労済」の就職試験を受け、オルグとして採用された。
東京労済は、労働者の相互扶助を目的とした組織で、日本生協連の都連、東京労働金庫、東京地評（東京地方労働組合評議会）、都内の中立系の労働組合が57年春に創設した生協である。このような事業体組織は大阪・新潟等数府県で先行していたが、法的根拠を生活協同組合法に基づいて設立されたのは東京が全国で初めてである。
東京労済への応募、就職した契機はいくつかあるが、主なものは、中大の何人かは、明大、法大の党員と同様、千代田地区委員会（委員長は中西三洋氏・中西功さんの末弟）の要請もあり、千代田地区労支援の活動や原水協の働き手を務めていた。その上、U君と私は当時の区内の共産派と革同派の労働組合活動家で構成していた「千代田労懇」にも顔を出していた。そんな関係で、東京原水協の事務局の仕事を手伝うことになった。当時東京原水協の事務局（事務局員は法大の服部君）は東京地評会館に置かれており、学生運動の合間には地評に顔を出すことも多く、芳賀事務局長や常任幹事、書記局のメンバーと顔見知りになっていた。そんなわけで推薦、身元保証人は、芳賀地評事務局長、稲村明喜原水協事務局長（全金東京）、草野幹事（全日通）に引き受けていただいた。
労働者共済のオルグとして、共闘組織も担当、59年4月1日から勤務ということであったが、仕事を早く覚えるために３月20日頃から出勤した。当時の東京労済の事務所は、港区田村町の労金会館に置かれていた。この建物は元全自動車の会館であったが、長期闘争の敗北後、労働金庫が引き取ったものであった。住人は労働金庫協会、日本生協連、労済連（現全労済）中央福対協（現中央労福協）、労住協、東京労済、等々で、今日でいうその労働者福祉運動の事業体の総本山的役割を果たしていた。
59年3月末から私の勤め人生活ははじまったが、当時私は千代田地区労の要請により闘争中の永田町グランドホテル労組（全国一般）の職場占拠に加わっており、泊り込み要員の一人だったので、この高級ホテルから職場に通うことになった。（この争議は、首相官邸の脇で、安保まで持ち越させるわけには行かないという、経営者、政府、暴力団、警察の弾圧によって終結させられた）
警職法反対闘争を闘った東京の労働団体は、前年に結成された警職法反対共闘会議を、来るべき安保闘争に向けて、「平和と民主主義を守る東京共闘会議」として再編成し、59年２月20日に発足させていた。オブザーバーを含めて31団体で構成し、11の常任団体と、社共両党のオブザーバー参加によって運営されることになった。私の就職先の東京労済は、東京労働者福祉団体連絡協議会（東京福祉連＝現東京労福協）の構成員であり、その共闘組織の常任団体に選定された。東京福祉連の事務局は東京労済に置かれ、４月よりその担当書記を私が兼任することになり、東京共闘会議に参加することにもなった。
その後3月28日には、総評の呼びかけに呼応した13団体を軸に「安保改訂阻止国民会議」が結成された。国労会館での結成大会には地方代表を含めて約600名が結集し、4月15日には第一次中央行動が展開された。
しかし、統一行動を展開してみて、思うように運動は拡がらず、誰と無く「安保は重い」という言葉が発せられるようにもなった。その上もう一つやっかいな問題が表面化してきた。59年6月25日の第三次統一行動のスローガンに、東京共闘会議は「岸内閣打倒」を加えるように主張したが、少数意見として処理された。さらに7月の国民会議の幹事会では、共産党、原水協、平和委員会等の反対で決定されなかった。反対理由は、岸内閣打倒という政治的スローガンをかかげると、安保反対という一点で結集して来た人たちが参加しなくなる。原水協などに加わっている自民党系の人たちが参加しにくくなるというものであった。以下この種の論争は、11月10日の日本共産党機関紙「アカハタ」に安保闘争スローガンの一つとして「アジア人民の敵、売国と反動の元凶岸内閣打倒」がかかげられるまで続いた。ところがこれで一件落着したわけではなかった。11.27の「国会突入」の評価をめぐって共産党やその影響下にある団体と、東京共闘との対立はますます深まっていった。さらに年明けの岸渡米阻止闘争では、いったん決まった動員計画と「配置」までがひっくり返されることになる。これには宮本顕治と太田総評議長がかんでいる。なおこれらのことを含めて、日共本部（主流）と東京共闘会議の対立・闘争・党の介入経過については、東京共闘会議の事務局次長であり、岩垂総評書記と共に、安保闘争を実質的に組み立てた竹内基浩東京地評書記の遺稿＜「六〇年安保」を労働者はいかに闘ったか＞（社会評論社）に詳しい。
さて、東京共闘会議は「重い安保」という軛を断ち切り、併せて、闘いの足枷となる「幅広共闘論」の克服をめざして、7月の第四次統一行動を前に、闘いへの意思統一のために7月16～17日箱根で討論集会を開催した。この討論集会への参加は、私にとってはじめての泊り込みの出張であった。東京労済の職員でもあり、福祉連の書記でもあるから、まさか手ぶらで参加するわけにも行くまい、という思い込みで手作りの資料を持って出かけた。内容は、今後の闘いのことを考えると、企業内組合ということがガンとなる。企業内外の労働者を分断している要因の一つは、個別企業で実施している「企業内福祉」であり、それに対する闘争を拡げ、企業、組合を横断する労働者自身の福祉活動に取り組もう、という提案だったと記憶している。しかしながら印刷物の汚さと、当時としてはトッピもない提起だったためか、全然問題にされなかった。但しこの提案は、60年安保闘争の一段落後東京地評オルグによっても取り上げられ、後の合同労組運動や産別ごとに統一的な共済制度を活用しての横断的組織づくりに生かされることになった。
労務管理の一手段・企業内福祉との闘い
3月末から仕事につき、まず共済事業の内容と事業の流れを覚え、それがすんだらいよいよ外に出ることになった。普通の会社ならさしずめセールスということだが、労済の非常勤役員（東京地評の常幹や、中立系組合の幹部、生協等事業団体の役員）や、専従役員の兵站部の活動と位置づけていたので、組合まわり、外まわりの職員を「オルグ」と呼ぶようにしていた。そして、特に59年3月労働組合活動の経験者3名（都職員・国鉄のパージ者、民間の職人組合の書記）と、4月の学卒者2名（東外大の生協役員と私）に加え、それ以前に採用していて共済事業に詳しい20才前後の職員2～3名を加えて４月から「組織部」をつくり、オルグ団を編成した。このオルグは当初は担当地区を持たずに、自分のつながりのある組合や地域を思い思いにまわっていたが、59年夏ごろまでには担当地区を持つようになった。それにともない、週のはじめには定例のオルグ団会議を持って、情報交換、共通課題の検討などを行い地域に散っていった。（当時の東京労済の事務局長は「君は中小企業労組のオルグつもりで働いて欲しい」と私に伝えていた。）
私は福祉連の書記兼務ということもあり、東京中部地区と、北部全域と東部の一部を担当した。
事業としての労済は火災共済からはじまった。当時火災保険は掛け金も高く、建物の構造や地域によっても料率が違っていた。その上被災時の査定が厳しく、加入者の不満はくすぶっていた。そもそも労働者集団の居住区は保険市場からも敬遠されていた。そんな中、54年に大阪・新潟の福体協による火災共済事業が出発、56年には、中央福対協、総評、全労、日本生協連、労金協会の呼びかけによって火災共済の危険分散を担保する再共済機能を持つ「労済連」が設立された。この労済連は各都道府県の単位労済生協の設立を指導するとともに、新しい共済制度の開発を行った。その一つが非常時の闘争積立をかねた「積立金付生命共済」（一口に付き月200円の掛金、内150円が闘争積立金をかね、残りの50円で死亡時５万円保証）で、組織（慶弔）共済とともに企業内福祉に対抗し、労働組合の自立化のために一定の役割をはたすようになった。同じ頃、労働者の相互扶助機構としては大先輩格の労働金庫も、社内預金廃止の運動を開始した。（企業の倒産によって山陽特殊鋼での社内預金が消えたのを契機に運動は大きく前進した）
この全労済は早速機能を発揮した。一つは発足直後に発生した新潟大火による被災者への共済金の支払い（但し、当初は新潟福対協＝労済単独対応）と59年9月の伊勢湾台風による1000名を越す労働者の死亡に対する見舞金（給付金）の支出等である。
組織（慶弔）共済は、当初月60円という定額掛金であったが、給付項目が多岐にわたっており、勤続年数等に関係なく適用されたので急激に普及した。労働組合本体からも、労働者の中小企業への帰属意識離れを促進するものとして本格的に受け入れられた。この共済は、他の共済と結合されて大型化する方向と、長野県や山梨県で実施されたように、地域での企業の枠を越えた合同労組運動の基礎固めにも活用された。なおこの種の共済制度を利用しての合同労組運動では、東京東北部で展開された東部一般の活動がある。中でも南葛飾一般の活動は今日でも継承されている。
話しが共済活動に走りすぎたので安保闘争とのかかわりに返ろう。といっても「安保は重い」という言葉の裏には、もちろん一気に盛り上がった警職法闘争との比較があるが、組合活動家にとっては、どうにもならぬ企業内組合という問題がある。こうまで労働者を企業にしばりつけているのは、恩恵として与えられる企業内の福利厚生も一つの要因である、と位置付けたのは先程から記している中央福対協なり、福祉連の見解であった。その点からすると、このことは「重い安保」と一面重なり合うことになる。東京労済は7月に生協としての総代会を開催していた。総代＝代議員は、協力団体として位置付けられた労組の代表（規模にかかわらず１名）と地域代表からなる。総会前に各地区ごとに運動方針と共済制度の内容討議の「地域集会」を実施してきた（通常は「強化月間」と併せて年2回）。余談だが、地区共闘の行動日と、プロレスの放映される金曜日は、人が集まらないので避けた。そこでは企業内福祉との闘いは必ず提起された。ある意味では側面からの支援になっていたと思う。
港区労協　港地区委員会でのこと
就職にともない職場の労組に加入、いきなり港区労協に顔を出すことになり幹事会のメンバーになった。港区労協は東京地評会館に事務局を置いていた。私は高橋良彦（通称ヨッチャン・政治家名松本礼二）部長の下で、争議対策部を担当することになった。昼はオルグとしての担当の地域を回り、東京共闘会議や福祉連や社保協の仕事（東京社保協結成時まではその書記の仕事も受け持った）があるときは主に地評会館と労金会館で働いた。夜になると、中小企業の争議現場で過ごした。その中でも区内の全金高山精密支部の争議では、戸板一枚挟んで、動員された暴力団と、お互いに鉄棒を持って対峙した。新橋駅近くの十仁病院争議ではヨッチャンが愛育会病院の方にまわっていったので、私が責任者で対応した。早朝４時頃、暴力団員にガード下に呼び出されて短刀をちらつかせて「殺すぞ」とおどかされた時は、思わず「警察を呼ぶぞ」と口走り、後で人間の弱さをつくづく知らされた。十仁病院争議からは、北部の仕事が忙しくなって手を引いたが、その後地区事務局長で区議の渡辺勇さんから聞いたことによると、地元暴力団の介入に対して、当時首都高建設で立ち退きを迫られ、警視庁と対抗していた在日の華僑・黄華会館（？）の人たちが組合を支援し解決したとのことである。
就職にともない共産党籍は千代田区から港地区委員会に移った。千代田区は党本部から見れば「自由主義・分散主義」で締め付けも弱く、所属細胞では弾圧されながらも、比較的自由に居られた。ところが港に転籍してみると、まさに党内論争・闘争の真っ盛り。港地区委員会傘下には、（東京）地評会館細胞もあり、安保闘争の方針、最賃性の問題で、党本部と対立していた。それに全電通本社支部問題も重なり、地区委員会の多数は本部批判派となっていた。そのことの根底は、復活した日本資本主義をどう評価し、それに基づいてどのような方針を立てるか、ということにあったが、六全協以来機関にしがみついて来た地区委員の多くは、本部の言いなりで、論争に加わることができなかった。港の動向を心配した共産党都本部は、区内で開催される討論集会には、構造改革派であるとみられる安東仁兵衛氏を監視役に派遣してきていた。われわれは安仁さんが、党員と思われる活動家の発言をいちいちチェックするのを見て彼に対する評価にとまどいを持った。それでも党改革には、党内の構改派の人たちとの連携が欠かせないと判断し、59年10月の地区大会では「現代の理論」を廃刊させた党本部は誤りであるということを含めた中央委員会批判決議を、賛成38、反対13、保留16で可決した。挙手採決であったので大よその傾向は判った。賛成は安保闘争に積極的に取り組んでいる職場細胞、反対は区内に多数存在していた党寄りの経営細胞や金融機関、保留は居住と大雑把な分類ができた。
安仁さんのことに戻せば、この頃の態度が後でかなり影響した。安保闘争一段落後、すでに除名されたり、離党したりした人たちや党本部批判派の結集のための集まりが、教育会館で開催されるという呼びかけがあったが、安仁さんが中心にいるということで、出席を　　ためらった部分がいた（私もその一人）。
港地区党大会で敗北した党本部はその直後都委員会名で、指示を発令、「党規約に基づく」地区委員会を発足させた。地区党大会で選出された「多数派」の党報は、安保に反対する闘いのさらなる前進を訴えているが、党本部派の党報は「アカハタ」の拡大と党員を増やすことが主要課題となっている。地区党大会での論争での党本部のレベルを示す論調の一つを紹介する。大会二日目のことだが、第一日目の都委員会からの出席者は杉本文雄氏、戦前からの労働運動の活動家で、その人柄から労働運動の活動家からは信頼されていた人物であったが、最賃性をはじめ一連の賃金問題や電通本社支部委員会の解雇問題（千代田丸事件）に充分対応しきれなかった。そこで二日目には春日正一都委員会長が乗り込んできたが、国際情勢の分析と日本資本主義の現状分析で、多数派の地区委員と論争になった。答弁に詰まった春日氏は、地区党は地区の問題を論議すべきで、地区党までが世界情勢分析まですると、さまざまな判断が生じて党はアッチコッチに頭ができてヤマタノオロチになりまとまりがなくなると反論してきた。我々の対米従属論一本槍のナショナリズムだという批判に対しては、諸君はインターナショナルでなく、メトロポリタンだという答弁で奇妙な論を展開していた。
60年になると多数派地区委員会の数名かがブントに加入したが、地評会館細胞の多くや、私のような党本部批判派の党員は、党本部の指定した新地区委員会をサラリーマン集団と見做して別離し独自の道を歩むことになった。
安保闘争の中でのめぐりあい
「安保闘争の真実」については、先にも述べたように竹内基浩さんの遺稿を参照してほしい。私はここでは、東京地評の書記局の人たちについてふれて置く。
当時の東京地評は、戦前の全評の流れを継ぐ人たちが指導部を形成していた。いわゆる高野派の人たちで、芳賀事務局長をはじめ36・7年の人民戦線事件を経験している。それに加えて、戦前合法左翼として最後までねばった東交の人たちが中核をなしていた。さらに、戦後戦地から復員してきた新しい幹部たち。この人たちは民同派ではあったが、いざ闘いとなるとセクトは捨てていた。これらの指導部の下に水野邦夫、佐々木靖夫、竹内基浩をはじめとする異能な書記集団が活動していた。
水野は主に組織担当。早大時代は日共神山派、除名退学後故郷での青年団運動にかかわり、その活動が総評から評価されオルグになった人。佐々木は陸軍幼年学校時代、広島で被爆、仙台交通労組を経て地評へ。主に教宣担当。安保闘争時に彼の編集した地評新聞は、政党からのイチャモンにより二度弾圧を受けた。竹内は政治担当。安保闘争時は日共党員、総評岩垂書記と共に安保闘争を組み立てた人。大衆団体、共闘会議の決定を守り実行することを原則とし、そのため党と対立。60年4月安保闘争の「決戦」を前に国際的な連帯の必要性が追求されている時に北京総工会より東京地評へ招待状が来た。訪中団事務局長として渡中する彼に、党本部は「密書」を託す。帰国後春日庄次郎はそのことを謝罪。その密書にはこの男は反党分子だから気をつけて対応してほしいという内容だったという。私は、労働運動についてはこの三人から大きな影響を受けた。またこの人たちは私の意見も受け入れてくれ、仲間として扱ってくれた。60年6月闘争に一区切りつくと、水野を中心に、企業別組合をいかに克服するかという研究が本格化し、合同労組運動が模索され始めた。企業組合を横断した組織に変えるにしろ、個人加盟の純粋な合同労組を形成するにしろ、共済制度が一定の役割を持つ、ということで、その原案つくりをまかされた。制度は全労済制度を軸にしながら大型化し、独自部分を加えることで充実させた。
佐々木とは異質のおつきあいとなった。まずアナキズムに目を開かせてくれたことだ。おかげで、山口健二というトッピモナイ人も知った。また私が13年間山梨県で仕事をし、県内の労働組合員の山登りの仲間と協力して山小屋を造ったが、佐々木には、山小屋での料理を教えてもらった。
竹内の下で東京共闘会議の下働きをした。竹内からは、政党と労働組合の関係はいかにあるべきかを学んだ。60年安保闘争終焉後、64年の日本共産党の6・17ストつぶしの時期にかけて、都教組の内田宜人を頭目に、竹内たちと都内の非日共系左派の活動家を結集して「労働者同盟」をつくり、それを東京労働戦線連絡会議に発展させた。さらに全国に呼びかけて当時の中労委会館を満員にすることができた。
その竹内の遺稿集がこのほど刊行されることになった。解説を担当したが、共に闘い、指導してくれた今は亡き三人の方への鎮魂としたい。
追記
私は1968年から82年までの13年間、山梨県で全労済山梨県本部の事務局長に就任していたが、その間、注射による筋短縮症から子供を守る全国協議会、連峰スカイライン建設反対共闘会議、南アルプススーパー林道建設反対（現地）共闘等々の事務局長も担当した。また、その間山梨県労働者生活協同組合の役員も兼務し、多くの仲間に支えられながら労働運動をはじめとする社会運動の分野で働くことができた。指導してくれた方々、支えてくれた方々に心から感謝している。
＊2011年4月2日に著者の要望によって補足訂正いたしました（編集部）
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion156:101004〕
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/3590/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>０１０年安保</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/1892</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/1892#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 00:38:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DOHI Makoto</dc:creator>
				<category><![CDATA[交流の広場]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=1892</guid>
		<description><![CDATA[０１０年安保で流行語大賞獲るために２００７年からドミノを倒してきました。
歌集０１０年安保いよいよ発売。
１１月にバラク、家に来たら接待するからよろしく。
 http://www.youtube.com/watch?v=BhpsMCkRUjI
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/1892/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>資料：６０年安保関連日誌</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/1662</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/1662#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 25 Jun 2010 04:43:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[スタディルーム]]></category>
		<category><![CDATA[年表]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>
		<category><![CDATA[鈴木顕介]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=1662</guid>
		<description><![CDATA[＊６０年安保闘争から既に５０年がたち、今の若い方の間には「６０年安保」やその時代状況が一体何だったのか判りかねるという方々が増えていることと思われる。それ故、この特集を読み、理解していただくための一助として、以下の年表を添えて参考資料としたい。
1955.08.29　 安保改定対米打診
重光外相、ワシントンで安保改定を打診するが、ダレス国務長官が拒否
1955.08.05~　砂川闘争
1956.10.13　 立川基地拡張をめぐる反対闘争、拡張は阻止された。57.07.08の第2次砂川事件では東京地裁で米軍駐留を違憲とする伊達判決が出る。
1956.10.19　 日ソ国交回復
.12.18   日本、国連に加盟
1957.06.21　 岸首相訪米、日米共同声明
安保条約検討の日米安保委員会設置を決める
1958.09.11　 藤山外相、ダレス国務長官と会談
安保条約改定で合意、10.04マッカーサー大使と改定交渉開始
.10.08　 警察官職務執行法改正案を突如国会提出
警察国家復活と猛反対が起こり、11.22審議未了で廃案
.12.10　 共産主義者同盟（ブント）結成
島成郎書記長、全学連主流派を指導、安保闘争の中核に
1959.03.28　 安保改定阻止国民会議が発足
社会党、総評、原水協など13団体が幹事、共産党はオブザーバー、全学連は安保改定阻止青年学生共闘会議の一員として参加
.03.30　 砂川事件で伊達判決
検察最高裁に跳躍上告、12.16最高裁、伊達判決破棄、差し戻し。米公開公文書から、マッカーサー大使と田中最高裁長官、藤山外相と密議が明るみに
.04.10   皇太子結婚式
.04.15　 国民会議第1次統一行動
.06.02　 参議院選挙
自民党非改選議席を合わせ、参議院で絶対多数を確保
.06.12　 第2次岸内閣
.06.25　 国民会議第3次統一行動
全国で350万人が参加、全学連も24大学20万人が参加とそれぞれ発表
.09.13　 社会党大会
安保闘争方針の対立で西尾末広ら33人が離党、60.1.24の民主社会党結成
.09.26   伊勢湾台風
死者、行方不明5098人
.11.27　 国民会議第8次統一行動
全学連主流派を中心とした請願デモ隊2万人、警官隊の阻止線突破、国会構内で集会
国会デモは請願権の行使、旗、プラカードなし、請願書を届ける形をとる
.12.11　三池闘争始まる
活動家の指名解雇に反対、無期限ストに~60.11.11、総資本対総労働の対決
1960.01.16　岸訪米阻止羽田闘争
全学連主流派約700人が空港食堂を占拠、篭城、唐牛委員長ら78人が逮捕
.01.19　新安保助役調印
渡米した岸首相、アイゼンハワー米大統領がホワイトハウスで調印式
.02.06  安保批判の会、諸組織への要請
清水幾太郎、中島健三、亀井勝一郎、滝沢修らの同会が全学連羽田闘争と関連して「国民のエネルギーをくみ上げよ」指導部を批判、
.02.19　衆議院安保特別委で新安保条約審議開始
.03.16　全学連臨時大会
共産党系(全学連反主流派)を排除、ブントの指導体制確立
.04.18　韓国李承晩大統領辞任
学生デモが起爆剤、国民的辞任要求デモで独裁政権が崩壊、米国亡命(05.29)
.04.26　国民会議第15次統一行動
連日請願デモが続く、26日は8万人。焼香デモと批判する全学連主流派6000人は国会正門前の警官隊阻止線を突破、国会内突入を図る。唐牛委員長ら幹部17人逮捕
.05.09　Ｕ2機撃墜事件（05.01）
フルシチョフ・ソ連首相米スパイ偵察機Ｕ2機撃墜で、発進基地攻撃と　　　　警告、厚木のＵ2機を新安保の戦争巻き込まれと関連付け、安保特別委で追求
.05.14　国民会議、非常事態宣言
請願署名者1350万人と発表
.05.16　衆院安保特別委公聴会終了
.05.19　新安保強行採決、警官隊国会導入
衆院安保特別委で質疑打ち切り、採決動議、新安保条約、地位協定、関連法
を強行採決。清瀬議長の議場着席を阻止する社会党議員を警官500人が排除、
国会会期延長を議決。
国会周辺は緊急動員で3万人のデモ隊で埋まる
.05.20　衆院本会議単独可決
午前零時06分衆議院本会議開会、自民党単独採決で新安保条約など3法可決。
国民会議「岸内閣打倒、国会解散」の声明発表。
国会周辺デモ隊は未明にいったん解散するが、午前には自然発生的に国会デモが始まる。全学連主流派。首相官邸突入を図り、警官隊と衝突。
この日を境に運動は安保改定反対から岸退陣へと質的に変化、さらに大きな国民的運動に拡大する
~.05.25　連日岸打倒デモ、国会から渋谷南平台岸公邸まで
デモの層は労働組合、学生にとどまらず、各界各層に広がり、一般市民も加わった。東京だけでなく地方からの上京するデモ参加者も増えた。
デモの渦は集合地点となった日比谷公園、清水谷公園から解散地点の有楽町、
東京駅周辺にまで広がる。
.05.26　国民会議第16次統一行動
総評加盟労組の時限スト職場大会参加200万人、国会請願でも17万5000人
夜銀座街頭でジグザグデモ。
.06.04　安保改定阻止第1波実力行使
ゼネスト規模の抗議行動、統一行動参加者560万人、一般市民も参加した国会デモ13万人。
.06.10　ハガチー事件
アイゼンハワー米大統領来日準備で羽田に着いたハガチー新聞係秘書をデモ隊が包囲、ヘリコプターで脱出。共産党は安保闘争を反米闘争と位置づけ、このデモは共産党系全学連反主流派が主役。
.06.14　総評、羽田デモ中止決定
19日のアイク来日時の羽田デモ中止、13日社会党は自民党政治休戦党首会談
に応じるとの決定と並んで、アイク来日阻止の戦列が乱れる。
.0615　 全学連国会突入、樺美智子の死
安保改定阻止第2波実力行使211単産、580万人参加、社会党アイク訪日抗議デモ取り止め。
国会周辺、午前10時ごろから10万人が国会デモ、夕刻右翼集団が安保批判の会の隊列を襲撃、負傷者80人。
午後5時ごろ全学連主流派8000人が南通用門に集結、国会突入を図る。警官隊に激しい投石、門を破壊、阻止車両を引き出す。警官隊放水車で対抗するも、学生構内に入る。
午後7時過ぎの警官隊の警棒使用の実力行使で一旦学生は門外に押し出される。その際の激しい衝突の混乱の中で樺美智子が死亡。
この抗議集会で学生は再び国会構内に入る。午後10時ごろ学生集団が国家正面に移動を始めた際、警官隊に包囲攻撃される。午前1時過ぎ国会周辺の学生集団に催涙ガスが打ち込まれ、警官隊の襲撃を受ける。
逮捕者174人、救急車収容の負傷者だけで555人。バリケード用車両24台
炎上または破損。
6.15事件の審理に当たった東京地裁は判決の事実認定で警官の実力行使は「職務権限を越えた違法なもの」と断定した。
.06.16　アイク訪日延期要請
岸は臨時閣議で延期要請を決定、同時に首相辞任の意も固める。
全国各大学で抗議集会、国会前では全学連など1万人が抗議デモ。
.06.17　７社共同宣言
在京7新聞社が「暴力を排し、議会主義を守れ」の宣言を17日付け朝刊
に掲載。安保闘争は一転後退局面に。
.06.18　新安保自然成立前日
安保改定阻止第3波実力行使、国会周辺を33万人のデモが埋める。全学連主流派3万人国会座り込み、反主流派2万人警視庁デモ。
岸、自衛隊の出動を赤城防衛庁長官意打診するが、同意を得られず。自然承認の瞬間を弟佐藤蔵相2人だけで官邸で待つ。国会を囲むデモ隊も座り込んで同じ時を待つ。
.06.23　岸辞任表明
新安保条約批准書交換、岸閣議で辞意表明。
.07.19　池田内閣成立
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study308:100625〕
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/1662/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>安保認識とジャーナリスト運動</title>
		<link>http://chikyuza.net/n/archives/1660</link>
		<comments>http://chikyuza.net/n/archives/1660#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 25 Jun 2010 04:29:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>akiyoshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[評論・紹介・意見]]></category>
		<category><![CDATA[ジャーナリスト運動]]></category>
		<category><![CDATA[メディアの劣化]]></category>
		<category><![CDATA[大内要三]]></category>
		<category><![CDATA[特集：安保５０周年]]></category>
		<category><![CDATA[６０年安保]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://chikyuza.net/n/?p=1660</guid>
		<description><![CDATA[　四月に刊行された『沖縄と日米安保　問題の核心点は何か』（社会評論社）に、柴田鉄治さんが「日米同盟50年、日本のメディアの驚くべき『変質』」という論文を執筆されました。
　一読して、日本メディアの「米国一辺倒」化を憂慮する趣旨には賛同いたしました。しかし長くジャーナリスト運動に関わってきた者として、違和感を覚えたことがいくつかありますので、そのことについて書きます。
１．一九六〇年に改定された現行安保条約の評価について。
　柴田論文は「安保条約の改定そのものは、いまから考えると必ずしも『改悪』ではなく、前より悪くなったわけではない」と書き、「60年安保騒動」が爆発したのは「国会での強行採決という強引な手法と、岸首相が戦前の日本を戦争に導いたＡ級戦犯のひとりだという不入気も加わって」のことだとされています。確かに旧安保に比べ内乱条項がなくなったことは「改善」かもしれませんが、二条の経済条項、三条の防衛力整備条項、五条の共同防衛条項、六条の基地貸与条項を合わせて、さらに言えば交換公文や密約まで含めて、日本を米国の目下の同盟者としてトータルに縛る条約であり、沖縄・安保の今日の状況の淵源であるととらえるのが、ジャーナリスト運動の基本認識だと私は思ってきました。やはり「改悪」ではないでしょうか。新聞労連朝日労組もＪＣＪも60年当時は「安保反対」でまとまっていたと聞いています。
２．一九六〇年六月一七目の「七社共同宣言」について。
　柴田さんは「七社共同社説」と書いていますが、これは当日の紙面を見ると「宣言」となっていますし、「岸首相には退陣を迫った」と柴田さんは書いていますが、岸退陣を求めたのは共同宣言ではなく六月二一日の朝日社説です。それはともかく、共同宣言は無防備のデモ隊を警棒で殴り重傷者を続出させた警官の暴力を不問にし、なぜ国会を30万のデモ隊が取り巻いたかの「よってきたるゆえんを別として」事態収拾を求め、安保闘争に冷や水を浴びせたものでした。だからこそ、これは「新聞の死んだ日」と言われ、新聞労連もＪＣＪも抗議しました。いま普天間問題をめぐってマスコミ各社が歩調をそろえて「同盟を壊すな」と叫んでいるのと同じ状況ではないでしょうか。
３．ベトナム戦争報道への米国からの圧力について。
　柴田さんは「駐日米大使が『日本の新聞社には共産主義者が大勢いる』と語った」とさらりと書いていますが、一連の問題の発端、一九六五年四月七日に米上院外交委員会の聴聞会でマッカーサー国務次官補（前駐日大使）が「朝日新聞社は編集局のなかに二〇〇人以上の共産党員をかかえていた」等と証言したのを皮切りとして、ライシャワー大使が各紙首脳と「懇談」して干渉したと諸書にあります。安保闘争後、村山社主家と東京編集局木村・三浦体制による労組破壊で疲弊していた、かつて二〇〇名を超えるメンバーを誇ったＪＣＪ東京朝日支部は、この事件を契機にほぼ潰滅したということてすから、このあたりはもう少し書き込んでいただきたかったところです。
　以上三点、ジャーナリスト運動の歴史から学ぶ上でも、いま安保を読み解く上でも、大事な問題ではないでしょうか。いま運動史を踏まえた安保報道についての議論が深まることを期待します。
　なお付け加えますと、私は一九七一年に朝日新聞に入社すると同時にＪＣＪ会員となりましたが、ずっと東京朝日には支部がなかったので個入会員のままです。右の記述はすべて諸先輩からの聞き取りと文献からの学習によるものにすぎません。誤りはご指摘くだされば幸甚です。失礼の段はどうぞお許しください。また、私白身もこの六月に『日米安保を読み解く　東アジアの平和のために考えるべきこと』（窓社）という本を上梓しましたが、こちらは運動については触れておりません。併せてご批判たまわれば幸いに存じます。
初出：日本ジャーナリスト会議機関紙「ジャーナリスト」2010年6月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion038:100625〕
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://chikyuza.net/n/archives/1660/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>

