1 「選択的夫婦別姓」要求は、実は根が深い?
石破茂首相自身、昨年の党総裁選の時には、「『選択的』なのだから、夫婦別姓を否定する理由はない」と語っていた。
確かに、この要求自体、「選択的」と明確に規定しているのだから、「夫婦別姓」と言えど、「別姓ではなく同姓」を希望する人たちは、これまでと変わることなく「同姓」を選ぶことができる、そういう柔軟で寛容な制度への転換を求めている。したがって、「多様性の尊重」や「寛容さ」が重視される時代に、この「選択的夫婦別姓」制度案は、いとも容易く法案化され、実現されるはず・・・と、石破首相をはじめとした大方の人には受け止められていたのかもしれない。
しかし、自民党内には今では、推進派はそれなりの数を束ねているものの、昔から手強い反対派が居座っている。その自民党内の捩れを目の当たりにして、公明党は最近になって積極姿勢を後退させ、様子伺い状況である。一方、野党の側では、積極的な推進部隊である立憲民主党を除けば、いずれも、「戸籍制度」や「同一戸籍・同一氏」の原則維持の立場を、改めて強固に確認し始めている。日本維新の会は、その立場を早々と表明し、具体的には「旧姓の通称使用」のさらなる制度的保障(法定化)を求めている。
立憲民主党の辻元清美代表代行は、さる6月2日の記者会見で、今回の「別姓導入法案」に当たって、国民民主党案に賛同する可能性を述べているが、しかし、国民民主党は、最近になって、若手の「保守的な?」支持層を逃さないためにも、「戸籍は残す。(したがって)家族としての戸籍のアイデンティティーは残る」と発言している(玉木雄一郎代表)。「希望する者のみの、選択的夫婦別姓要求」が、結果として、戦後も続いて来た「戸籍制度」およびそれに基づく「家族=同一戸籍・同一氏」という風習を揺るがすものであることに気づかれた(?)結果の、動揺および抵抗なのであろうか。
このように、各党の現状を伺うと、最近の石破首相の次のような発言も、「選択的夫婦別姓」要求の制度化が、実は、「日本の戸籍制度(一体的な家族)」の問い直しを迫りかねないということ、また、そのためには、かなりの本気度を要求されるものであることに、遅ればせながら気づかれた結果の、戸惑いなのだろうと推測することができる。
石破首相曰く、「制度を作ること自体がどうなんだという根源的な疑問にどう答えるかはかなり難しい。」(朝日新聞2025.4.2)
2 「働く女性の通称使用」要求の限界
もともと「選択的夫婦別姓」問題は、国連の「女性差別撤廃条約」(1979年採択)に日本もまた批准した1985年以降、課題になり続けてきたテーマである。日本は、当初は、国連の「女性差別撤廃委員会」の勧告に素直に従い、早くも1996年、法務省の法制審議会が「選択的夫婦別姓」制度の導入を求める民法改正案を答申している。しかし、その時もいち早く、自民党の「保守派」の強い反対で現実化されなかった。
その後は、日本の政治の「悪しき風土」のせいなのか、自民党はもちろん、野党も「事なかれ主義」の下、こぞってダンマリのまま、「女性差別撤廃委員会」のその後の勧告(2003年、2009年、2016年)を受けても、それらを放置したまま現在に至っている(もっとも、2010年、再度、民法改正の動きは見られたものの、それもまた潰えてしまっている)。
にもかかわらず、今回改めて、「選択的夫婦別姓」問題がクローズアップされた原因は何か?
一つには、国民に「夫婦同姓」を法律によって強いている国は「日本だけ!」という事実が明らかになったこと。いま一つは、経団連が、「選択的夫婦別姓」を可能にする法律の早期制定を求める「提言」を公表したこと、この二つが要因であるだろう。
以上の二つの要因の内、もしも前者だけだとしたら、自民党はむしろ開き直って、「日本唯一の伝統!」を強調したかもしれない。事実、2024年の国連からの4度目の勧告を受けての対面審査(10月17日、スイスジュネーブの国連欧州本部にて)にも、形ばかりの派遣団を送っただけ、本気で対応した様子は伺えなかった。
ということは、やはり今回は、「経団連」の「提言」が、かなりの圧力を伴って、日本の政治に影響を及ぼしたと言えるかもしれない。
ただし、「経団連」という組織の性格上、「提言」の軸になったのは、各職場で活躍するキャリア女性の抱える問題性、つまり「旧姓の通称使用」の問題点である。
世界的に見ても、「氏名=姓名」は個人認証に不可欠な基礎的な情報である。それなのに、その個人の「姓」が、「通称」としてであれ「二つ」存在するということは、混乱の因であり、信頼も揺らいでしまう。・・・それだからこその「選択的夫婦別姓」要求としてクローズアップされたのであった。
しかし、元々、「選択的夫婦別姓」が問題として提起されてきた経緯は、「男女平等」をまさしく当然!と規定している日本国憲法の下で、「夫婦同姓」を規定している現行民法750条(および戸籍法74条1号=夫婦が称する氏の記載)の「憲法違反」を問う事だったのである。
したがって、「経団連」の提言や「キャリア女性」の抱える問題性(いわゆる「通称使用」)へのクローズアップが、当然のように、「選択的夫婦別姓」問題への関心を広めかつ高めたのは事実であるが、しかし、元々の「夫婦同姓規定は、憲法違反ではないか?!」という肝心の問題を逸らすことになってしまっては身も蓋もなくなってしまうだろう。
3 二度の最高裁による「合憲」判決―形式的「字面」主義?
国連の「女性差別撤廃委員会」の度重なる勧告にもかかわらず、それらが無視され続け、国会での動きもまったくストップしたままの状況に、ついに業を煮やしたか、事実婚のカップルその他が、民法の「夫婦同姓」規定は憲法違反である!として、裁判に持ち込んだ。最初は、2015年、その後は2021年である。
しかし、周知のように、この裁判の最高裁判決は、二度とも「日本の夫婦同氏制度は憲法に違反してはいない!」と、「合憲」を言い渡し、それぞれの原告は、ともに敗訴となった。この2回にわたる最高裁の「合憲」判決は、原告に対しては勿論のこと、日本社会全体にとっても、非常に「残念なこと!」と、今にして思う。
なぜなら、最高裁自身が、二度に渡って、「夫婦同氏規定が憲法違反か否か」という問題と、「夫婦の氏はどのようであるべきか」という二つの問題に恣意的に分けた上で、前者には「合憲」の判定を与え、後者には、「国会で審議すべき課題」として、国会に丸投げしてしまったからである。
これからの日本の夫婦の「氏(姓)」が、どうあるべきか?は、もちろん、国民自身も含めた今後の課題ではあるが、問われていたのは、いま現在の民法の「夫婦同氏(姓)」規定が「男女平等規定か否か」(つまり憲法違反であるかどうか)であったにもかかわらず、である。はっきり言えば、最高裁は、この問われていた問題から「身を躱した」つまりは「逃げた」と言われても仕方がないかもしれない。
いま一度、「夫婦同氏(姓)」の根拠である民法750条を見てみよう。
― 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
この民法の規定(文章)には、たしかに、どこにも「強制」の文字は見られない。しかも、「夫の氏を称する」と書かれていれば、その「偏向」はたちまちに露わになるのであろうが、何と「夫又は妻の氏を称する」となっている。もちろん、「妻の氏」になるケースは「婿養子」の場合なのであるが、そのことも十分に承知されていたのだろうか。
多くの裁判官の「几帳面な、文字に(のみ)即しての読解力」からでは、この民法750条規定の紛れもなき「強制性」・・・ゆえに「男女平等」違反!という事実は認識されなかった、ということである。何とも悔いの残る残念な結果だったと言わざるを得ない。
しかし、一方で、忘れてならないことには、これら二度に渡る裁判において、いずれにも、「夫婦同姓は憲法違反!」という明確な少数意見が付されていたことである。私自身、当時は「合憲判決」を悔しい思いのまま、つぶさに読み通していたのだが、この「違憲」を訴える少数意見にはさほど丁寧に目を通していなかったのかもしれない。最近になって、改めて読み返すと、その指摘の妥当性、鋭さに、胸を突かれる。当時の裁判長を初めとする、その他の多数派の裁判官にも、もう一度、この「夫婦同姓制度は憲法違反!」という少数派の意見をしっかりと読んでもらいたいものだと思う。
そして、石破首相を初めとして、私たちもまた改めて、「選択的夫婦別姓」要求の意味する所は、個人の「氏名」の持っている本質的な基底性ということ、それゆえに、社会制度によって「氏・姓」を強制的に変えさせられることの理不尽、つまりは権利の侵害である、ということを、明確に認識すべきではないだろうか。
もちろん、自ら願って「改姓」する男女を排除しないという意味での、「選択的」夫婦別姓要求であることは、言うまでもないことではある。
4 最高裁判決における少数意見―「夫婦同姓は憲法違反!」
2015年、2021年の二度に渡る「夫婦同姓」をめぐる裁判で、いずれの場合も、最高裁判決では「合憲!」と判定されたことは周知の事実であるし、ここでもすでに述べた。
ただ、いずれの場合も、「夫婦同姓規定は憲法違反である!」と述べた裁判官が居たこと、さらにその内容については、広く注目されることは少なかった。
それゆえに、ここでは、今後のより意味ある議論のためにも、少数意見のいくつかを改めて、紹介しておきたいと思う。
2015年での「夫婦同姓は憲法違反」(少数意見)
岡部喜代子・櫻井龍子・鬼丸かおる・木内道祥・山浦善樹
2021年での「夫婦同姓は憲法違反」(少数意見)
三浦守・宮崎裕子・宇賀克也・草野耕一
木内道祥:ここで重要なのは、問題となる合理性とは、夫婦が同氏であることの合理性ではなく、夫婦同氏が例外を許さないことの合理性であり、立法裁量の合理性という場合、単に夫婦同氏となることに合理性があるということだけでは足りず、夫婦同氏に例外を許さないことに合理性があるといえなければならないことである。
山浦善樹:夫婦が別氏を称することが、夫婦・親子関係の本質なり理念に反するものではないことは、既に世界の多くの国において夫婦別氏が実現していることの一事をとっても明らかである。
三浦守:法が夫婦別姓の選択肢を設けていないことは、憲法24条の規定に反する。/問題となるのは、例外を許さない夫婦同姓が婚姻の自由の制約との関係で正当化されるかという合理性だ。
宮崎裕子・宇賀克也:当事者の意思に反して夫婦同姓を受け入れることに同意しない限り、婚姻が法的に認められないというのでは、婚姻の意思決定が自由で平等なものとは到底いえない。憲法24条1項の趣旨に反する。
私たちは、「遅ればせながら」ではあるが、以上の「例外を認めない夫婦同姓規定は憲法24条違反である!」という少数の裁判官たちの意見に、いま一度立ち戻る必要があるのではなかろうか。(とりあえず了) 2025.6.6
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14265:250609〕