ネオコン(Neo Con)・新保守主義と新国際秩序について(上)

(編集部注:以下の「ネオコン(Neo Con)・新保守主義と新国際秩序について(上)」は、市民グループ「ユーゴネット」が2024年6月に発表したものです)

ネオコンの淵源は左派

米国のイデオロギー集団に「ネオコン」と称している組織がある。ネオ・コンサーヴァティズム(NeoConservatism)を「ネオコン・新保守主義」と短縮したものだ。しかし、この通称は必ずしも実態を表しているとはいえない。伝統的な保守主義とはまったく別の思想的根源を持つ政治的政策集団だからである。

その思想的発祥は20世紀初頭まで遡ることができる。反スターリン主義など左派が淵源であり、それが20世紀中葉には民主党の一部を構成するリベラル派へと変容した。さらに、保守に遷移して共和党のタカ派・右派を構成することになる。現在、民主党にも人道的なる軍事力行使を優先する(介入主義)思想を持つ人たちがネオコンの主流として影響力を行使している。バイデン政権もヒラリー・クリントンもネオコンに寄生されていた。2024年11月に行なわれた大統領選では民主党はネオコン化した。元来、民主党は軍産複合体と親和的である。

軍事力行使を優先するネオコン

1960年代、共和党の大統領候補ゴールド・ウォーターは次のような演説をした。「自由を守るための急進主義はいかなる意味においても悪徳ではない。正義を追求しようとする際の穏健主義はいかなる意味においても美徳ではない」と。

米国式の自由と正義を守るためには武力行使をためらうなということのようだが、以来ネオコンはこの思考様式を受け継いできた。ネオコンと自称するようになったのは、理論的先導者である「ナショナル・インタレスト」誌発行人のアーヴィング・クリストルといわれる。1980年代のことであり、このころからネオコンの思想は拡散していった。

米国特殊論

A・クリストルは、「アメリカは世界の警察官、あるいは保安官、同時に灯台であり案内人ではなくてはならない」と米国特殊論を展開している。この特殊国家論は米国を見習えというような軽い問題ではない。米国の世界覇権を認めよということなのだ。

このアメリカ特殊論は一貫しており、米国の行動は軍事力の行使を含めてアメリカの理想の伝搬にあると考えている。それゆえに欧州とは考え方の違いがあっても米国式の理想主義の実現として押し切ることが多い。

ネオコンの思想的主軸は「自由主義、民主主義、グローバリゼーション(アメリカニゼーション)」にある。アメリカを理想国家と位置づけ、「アメリカの大義は全人類の大義」と捉えている。理想主義と自己利益を同一と位置づけ、目的は「世界はアメリカであり、アメリカは世界である」と捉えた世界覇権にある。

ネオコンの総帥は、ブッシュ大統領(Sr)の時期に国防長官、ブッシュ大統領(Jr)時には副大統領を務めたディック・チェイニーといわれている。当然ながら娘のリズ・チェイニー上院議員もネオコンの一員である。カラー革命を資金面から支えた投資家のジョージ・ソロスもネオコンの中心人物の一人である。「文明の衝突」を著したハンチントン、および「歴史の終わり」で話題を提供したフランシス・フクヤマもネオコンに属する論客である。

関連シンクタンク

ネオコンの政策の影響下にある組織として以下のようなものがあげられる。

*「ナショナル・インタレスト誌」・1985年創刊。発行人・アーヴィング・クリストル。

*「ウィークリー・スタンダード誌」・1994年創刊。ウィリアム・クリストル(アーヴィングの息子)が編集長をつとめる。彼はハーバード大学の教授にもなっている。

*「ランド研究所」・米国陸軍が管轄するシンクタンク。1948年5月に設立。ネオコンが研究員として多数入り込んでいる。

*「ハドソン研究所」・1961年に非営利のシンクタンクとして設立。主として安全保障の研究を行なっている。

*「ヘリテージ財団」・1973年設立。ネオコンへの資金援助をしている旧統一教会と深い関係にある。

*「外交問題評議会・CFR」・1921年に設立。1922年に「フォーリンア・アフェイアーズ」を創刊。米国の外交の指針を示しているといわれる。現在は、ネオコンの影響を濃厚に受けている。

*「全米民主主義基金・NED」・1982年にレーガン政権が設立。アメリカ国務省管轄の政治財団。CIAの活動が批判されたために諜報活動を代行するNGOとして設立された。NGOとはいえ運営資金はほとんど国家予算から支給されているのでCIAの代替機関といっていい。

*「アメリカン・エンタ-プライズ公共政策研究所・AEI」・1943年設立。ネオコンと親和性のある保守系シンクタンク。

*「アメリカ新世紀プロジェクト・PNAC」・1997年にネオコンの中心人物アーヴィング・クリストルの息子ウィリアム・クリストルとV・ヌーランドが共同創立者として設立した新イスラエル系シンクタンクである。

*「戦争研究所・ISW」・2007年にアフガニスタンとイラクの問題に取り組むことを目的に軍事請負会社が中心になって外交と防衛政策のシンクタンクとして設立された。ネオコンのV・ヌーランドの夫ロバート・ケーガンの兄弟の妻キンバリー・ケーガンが所長を務めている。理事会には、ウィリアム・クリストル、リーバーマン米元上院議員、ペトレイアス大将、マッカーシーJrなどが名を連ねている。非営利団体として、防衛産業のジェネラル・ダイナミックスやレイセオン、マイクロソフト、ゼネラル・モーターズなどからの寄付によって運営されている。主として中近東のアフガニスタン戦争やイラク戦争などの情報を提供していたが、ウクライナ戦争では主として戦況図などを提供している。支援者が防衛産業であることから推察推察できるように、戦争に対しては硬派である。

*「新アメリカ安全保障センター・CNAS」・V・ヌーランドが中心となって2007年に軍事コンサルタントとして設立。主として軍需産業が出資して安全保障について発信している。

ネオコンの世界干渉の論理

ネオコンが1997年に設立した「アメリカ新世紀プロジェクト・PNAC」の基本綱領は以下のようなものである。

1,アメリカは地球規模での責任を遂行するため、軍事力を増強する必要がある。

2,民主主義諸国との同盟を強化し、価値観を共有しない国とは対峙する。

3,国外での政治的、経済的自由と大義を強化する。

4,国際秩序を維持するためにも、アメリカのみが勝ちうる唯一の手法を選択する。

5,特殊作戦部隊-2001年のアフガニスタン侵攻作戦「不朽の自由作戦」において、先行潜入して地元の軍閥と接触して買収し、共同作戦を展開してタリバン政権を崩壊させた。

PNACは、2000年9月に「アメリカ防衛再建計画」を発表した。それには「アメリカの防衛体制は、新しい真珠湾攻撃のような破滅的なできごと抜きには、その再建プロセスは長期間を要するものとなるだろう」との分析が挿入されていた。このことが、9・11事件との関係が疑われることになる。ネオコンは二元論的思考を行なう。「敵と味方」、「善と悪」に分類し、アメリカは類を見ない特殊な模範 的な国であり、常に善であると位置づける。したがって世界の同盟国は、米国の善意の行動を支援すべきであると考える。手法は「分断と支配」である。武力による干渉戦争の論理は、米国型の民主主義を模範と位置づけてその地に植え付けることにある。

ドイツと日本およびイタリアの民主化に成功したのだから、他の国もその可能性があるはずだというのが米国の論理である。しかし、ほとんどの国は米国の軍事力干渉によって社会的混乱に陥っている。ネオコンは、米国が理想の実現に向けて行動を起こすのであるから、対象国の政治、経済、文化などの事情を考慮する必要はないと捉える。そのために干渉を受けた国や地域は安定しないのである。日本とドイツおよびイタリアが米国に従属するのは、もちろん第2次大戦で敗戦国となったからである。朝鮮戦争があった韓国を除くと、米軍基地数はこの3ヵ国が未だにトップを占めている。1位が日本で120ヵ所、2位がドイツで119ヵ所、韓国が3位で70ヵ所、イタリアが4位で44ヵ所存在する。この基地の数は未だに戦勝国としての米国の占領軍がこの4ヵ国を支配していることを示している。

イラン・イラク戦争から湾岸戦争へ

1979年にイラン革命が起こり、親米王朝のパーレビ国王が追放された。それに伴って米・英はイラン油田の権益を失う。この権益を取り戻すために、米国はイラクの独裁者サダム・フセインを唆して翌1980年にイラク・イラン戦争を起こさせた。

米国は表向きイラクを支援していたが、密かにイランにも武器を供給していた。これは単純な信義則違反ではない。イランへの武器売却益でニカラグアの反政府テロ組織「コントラ」を組織し、資金を提供してニカラグア政府打倒を企図したのである。この政治犯罪はイラン・コントラ事件」として明るみにでる。トラ事件」として明るみに出る事件の中心人物の一人であるオリバー・ノース中佐は有罪になり収監されたがすぐに恩赦で釈放された。政権の犯罪なので彼一人に罪を着せることは公正とはいえなかったからである。

この事件の背景には劣勢だったイランに武器を供給することで梃子入れし、イラク・イラン戦争を長引かせるという意図が隠されていた。戦争の最中にネオコンのディック・チェイニー国防長官は、「両国とも戦い続けて潰れてくれるといい」との本音を漏らしている。これがイラク・イラン戦争の本質であり、分断と支配の一例である。

このイ・イ戦争は米国が絡んでいるために周辺諸国は仲裁に入れずに8年間も続くこととなった。1988年になってようやく国連安保理が仲介して停戦決議を受諾させた。両国間の戦争は終結したものの、イラクは戦費を消尽して多額の負債を抱えることになった。その打開策としてイラクはクウェートに1990年8月に侵攻してしまう。クエートが借款の返済を繁く求めたからである。それにしても、イラクが軍事力を行使したのは愚策である。

ネオコンによる第1次湾岸戦争

このイラクの愚かな行為に対する米国の対応は、サッチャー英首相が唆したのか、ネオコンの働きかけが効を奏したのかは判然としないが、米国は膨大な多国籍軍を編成して1991年1月に「湾岸戦争」を発動しサダム・フセインのイラク国軍を粉砕した。しかし、ブッシュ大統領Srはバグダッドまで侵攻してサダム・フセインを排除することはしなかった。このことにネオコンのディック・チェイニーやポール・ウォルフォニッツは不満を表明して「1990年代の国防政策―地球防衛政策」を発刊してブッシュSrの政策を批判した。ネオコンの批判文書のなかには、戦術核兵器を使用する必要性も記述されていた。この対応を見ると、ネオコンがサダム・フセインを排除するために「湾岸戦争」を仕掛けたと言っていい。

ブッシュSr大統領の「湾岸戦争」はネオコンとの駆け引きともいえる異様な戦争であったが、ブッシュSr大統領そのものは必ずしも好戦的ではないように見える。それは、湾岸戦争直後の1991年6月に、旧ユーゴスラヴィア連邦のスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言したときの対応に現れている。ブッシュ大統領は、両国が独立を宣言した翌日の6月26日に「必要なのは話し合いによる解決だ」との第一声を発出した。しかし、政権内にはディック・チェイニーなどのネオコンがいたため、次第に強硬な対応へと変化していく。そして、92年4月にはスロヴェニアとクロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナの3ヵ国の独立を先行して承認してしまう。EU諸国はこれに追随し、翌日に3ヵ国の独立を承認する。このことがユーゴスラヴィア連邦の内戦を拡大させて激化する要因となった。

クロアチア・ボスニア内戦そしてコソヴォ紛争の「選択した戦争」

ネオコンは軍事力行使を二つに分類している。「選択した戦争」と「必要な戦争」である。それ故、二重基準を避けることはできない。ユーゴ連邦解体戦争は「選択した戦争」であり、アフガニスタン戦争やイラク戦争およびのちのウクライナ戦争は「必要な戦争」である。1993年1月にブッシュSr大統領を蹴落として大統領に就任したクリントン政権は、当初から軍事力行使を優先させた政策を採用した。マデレーン・オルブライト米国務長官およびバルカン担当のリチャード・ホルブルックがネオコンだったということもあるが、ディック・チェイニーや論客のウィリアム・クリストルらネオコンなど外部からの強い働きかけがあったと考えられる。

クリントン米政権は1994年2月に「新戦略」を立案し、新ユーゴスラヴィア連邦を解体する方針を決定した。そして、クロアチア共和国とボスニアのムスリム人勢力らの首脳陣をワシントンに呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させる。それには、クロアチアとボスニア・ムスリム人勢力への軍事訓練を施すことが含まれていた。そして94年の1年間を訓練に充てると、95年には米軍事請負会社・MPRIなどの指導下に連続した軍事作戦を発動した。この作戦にはNATO軍が絡んでおり、クロアチアやボスニアのセルビア人勢力に対して「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を8月30日に発動し、ボスニア・セルビア人勢力に空爆を加えて屈服させた。

コソヴォ紛争への欺瞞的な関与

コソヴォ紛争へのネオコンがらみの介入も慎重に進められた。米国が主導するNATO軍はクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を1995年に「周到な軍事作戦」を発動して屈服させると、翌96年にミロシェヴィチ・セルビア大統領を説得してコソヴォにCIAの拠点となる「情報・文化センター」の設置を認めさせた。直後にコンブルム国務次官補は「コソヴォに関与し続ける一例である」と露骨に述べた。

米ネオコン政権は「情報・文化センター」を通してセルビア共和国からコソヴォの分離独立を図る若者の過激派グループ「コソヴォ解放軍・KLA」と接触して養成した。当時のコソヴォ独立を図る政治運動の主流はルゴヴァが率いる「コソヴォ民主連盟」である。にもかかわらず、米国は一時期テロ組織に指定したコソヴォ解放軍を「自由の戦士」と称えて支援することにしたのである。コソヴォ民主連盟の老練なルゴヴァより、若者の過激派集団であるコソヴォ解放軍の方が扱いやすいと分析したのである。ルゴヴァのコソヴォ民主連盟は以後ほとんど無視されことになる。

戦争のための戦争としてのユーゴ・コソヴォ空爆

コソヴォ解放軍は、97年に隣国アルバニアが政治的混乱に陥ると、そこから武器を大量に入手して直ちにコソヴォで武力闘争を開始した。コソヴォ紛争はコソヴォ解放軍が仕掛けた武力紛争であり、米国はコソヴォに「情報・文化センター」を設置させていたことからすれば、米CIAはコソヴォの状況が「低強度紛争」にすぎないことを知悉していたはずである。ところが、米政府はコソヴォのアルバニア系住民がセルビア治安部隊の迫害を受け、10万人から20万人の命が危険にさらされているとのブラック・プロパガンダを発して国際社会を幻惑した。

そして、ネオコンのオルブライト米国務長官は一刻の猶予もならないと言い募り、フランスのランブイエで行なわれた和平交渉を主導してユーゴ連邦側に全土にNATO軍を駐留させよとの難題を押しつけ、故意に交渉を破綻させる。そして、NATOは安保理決議を回避し、1999年3月24日に人道的と称する「同盟国の軍事作戦」なる大規模な「ユーゴ・コソヴォ空爆」をユーゴ連邦に対して発動した。78日間に及んだNATOの空爆対象はメディア、病院、鉄道、発電所、道路、橋、工場、官庁、大統領官邸、住宅、さらに駐ベオグラード中国大使館へミサイル3発を撃ち込むなど無差別なものだった。これは明らかに空戦規則に反し、国際法違反である。

人道的介入とはセルビア共和国を弱体化させること

人道的の名を冠したNATOの軍事行動の思惑について、英国のNATO関係者は次のように述べた。「われわれはセルビアが再び軍事大国になるのを阻止しなければならない。我々は意図的に非軍事の道路、橋、工場を空爆した。セルビアはNATO空爆後の復興の際、民需の修復の必要が大きければ大きいほど、軍事部門の復興は困難になる。それが狙いだ」と、ユーゴ・コソヴォ空爆の目的を語った。これは世界の支配者の論理であり、西欧の民主主義の思想的到達度がこの程度のものであることを示している。NATOがネオコンの分断と支配の思想を適用したのが、ユーゴスラヴィア連邦解体戦争の本質なのである。

ユーゴスラヴィア連邦を解体させたいとの意図の背景には非同盟諸国会議」が拡大し、いわゆる第三世界が力を持つことを阻止する功利性が隠されていた可能性も否定できない。当時はミロシェヴィチ・セルビア大統領の地域支配の意図が内戦を激化させたという言説が世界に流布され、西側のメディアや知識人と称される人たちに広く受容された。疑問を呈する人は罵倒の対象となった。  2022年にウクライナ戦争が発生した時点では、NATOがユーゴ連邦を解体するために空爆をしたことは西側のほとんどの国では忘れさられているように見える。自らに都合の悪いことはなかったことにするのが西側の正義の手法なのであろう。

もちろんEUの関係者がすべて一色だったわけではない。当時のフランスのベドリヌ外相は、ネオコンのオルブライト米国務長官を評して、「脅し文句を並べ、自国の力と長所を露骨に自慢しながら、他国の政府を説教することを外交の得意技とする初めての国務長官だ」と述べて批判した。「収容所群島」を著してソ連の体制を批判したソルジェニツィンは国外に追放されていたが、ゴルバチョフ政権に許されて1994年に亡命先の米国からからロシアに帰国した。それからNATOの一連のユーゴ・セルビアへの空爆を見るに及び、「NATOのセルビア空爆は残酷なものであった。ロシアはショックを受けた。西側への幻想は消えた」と、ロシアがNATOのユーゴ連邦空爆をどのように受け取ったかを端的に語った。

ウクライナ戦争の淵源

ロシアのエリツィン政権はずぶずぶの親米政治・経済改革を進めていたが、NATOの「ユーゴ・コソヴォ空爆」をみてNATOが仮想敵国になると捉え、空爆続行中の99年5月に早くも対NATOの「新戦略概念」および「軍事ドクトリン」の改訂に取りかかった。これを主導したのが安全保障会議の書記となっていたプーチンであった。プーチンは2000年5月に大統領に就任すると、ヨーロッ側と極東で核戦争を想定した軍事演習を行なわせることになる。

ユーゴ連邦への予防的先制攻撃を選択したNATO

のちにクリントン米大統領はボスニア内戦やコソヴォ紛争について、「米国に直接の脅威は存在しなかったが、これらの国々の国民と周辺諸国に対する危害を未然に防止するために軍事力を行使した」と述べた。ユーゴ連邦が周辺国に武力行使をした事実はなく、その可能性もなかった。しかし、米国は覇権拡大を企図して表向き人道上看過できないとの理由をつけてネオコン流の選択的な予防的先制攻撃理論を適用してNATOによるユーゴ連邦への空爆を実行したのである。それ故に、ネオコンの主流はユーゴスラヴィア連邦内戦問題をNATOの軍事力行使によって決着したことを評価している。

ミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領は暗殺されたのか

ネオコンそのものではないが、英国の諜報機関・MI6の元要員だったリチャード・トムリンソンはMI6がミロシェヴィチ・ユーゴ連邦大統領の暗殺計画を立てていた、とのちに述懐した。その計画に添ったのかどうかは明らかではないが、ミロシェヴィチ大統領は旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYで裁判が続く中、持病の心臓病を仮病扱いされ、治療を受けられないまま拘置所で獄死させられた。

一説にはICTYのスタッフが米国人によって占められていたことから不適切な薬剤が処方されたともいわれる。NATO諸国はユーゴ連邦解体戦争に軍事介入するにあたり内戦の過程で生じた諸悪の責をすべて「セルビア・ミロシェヴィチ悪」に帰してきたが、それを考証することの困難さを解消するための策謀といえよう。国際社会には法の支配が及ばない闇がある。

NATOの空爆を止められなかったチェコ大統領のお詫び

のちにセルビアのヴチッチ大統領がチェコを訪問し、ゼマン・チェコ大統領と会談した。その際、ゼマン大統領は「1999年のNATOのコソヴォ空爆は誤りであり、それを止められなかった。そのことについて私はずっと苦しんできた。それは犯罪より悪い。私を許してくれるようセルビアの人々にお願いしたい」と謝罪を表明した。1999年当時のチェコの大統領はバーツラフ・ハベルで、彼は1968年の「プラハの春」が武力で鎮圧された体験をしていながら、NATOの軍事行動を熱心に支持した。ゼマンは当時首相を務めていたのだが、それを止められなかった。そのお詫びとしての発言である。ゼマン・チェコ大統領の発言でセルビアとチェコは和解した。

                                        (上)

*ロシアのウクライナ侵攻は、E・ラモンが指摘しているようにユーゴスラヴィア連邦解体戦争 の際のNATO諸国の対応と深い関係があります。関心がおありの方は、以下のホームページをご覧ください。

ユーゴスラヴィア連邦解体戦争」      yugo-net.jp

2024年6月      「市民グループ・ユーゴネット」

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14259:250608〕