フィリピン人による東チモール亡命の試み
2023年4月下旬、チャーター機で東チモールに入国し東チモールに亡命を希望していたフィリピン人が、2年の時を経て2025年5月28日、フィリピンに強制送還されました。このフィリピン人の名前はアルノルフォ=テベス=ジュニア(以下、テベス氏)といい、フィリピンの東ネグロス州の議員を務めたことのある政治家で、「ウィキペディア」によると実業家でもあり、生年月日は1972年8月10日です。
このテベス氏がなぜ祖国を出て外国に亡命を望んだのかというと、テベス氏の言い分によればフィリピン当局による迫害から逃れるためです。テベス氏にとってはこの亡命は政治亡命となります。テベス氏にかんするフィリピンでの報道をごく簡単にまとめると、以下のようになります。
フィリピン当局によってテベス氏にかけられている容疑とは、2023年3月4日、フィリピンの東ネグロス州の州知事宅が襲撃され、州知事を含む10人の殺害と少なくとも17人の負傷者をだした事件への黒幕としての関与です。また2019年、同州で起こった3人が殺害される事件にも関与したと追加して当局に告発されています。2023年7月26日、フィリピンの反テロリズム評議会はテベス氏とその一味をテロ集団と指定し、2023年8月、フィリピン当局はテベス氏を殺人罪で正式に起訴、同年9月、逮捕状を発行しました。2024年2月27日、フィリピンの反テロリズム評議会は、テベス氏に複数の重大な容疑がかけられていることを受けてインターポール(国際刑事警察機構)による「赤の通知」(Red Notice、国際逮捕状のような通知)が発行されたことを発表しました。同年8月、「赤の通知」の再発行が要求されました。
さてここでお断りをしておきます。フィリピンで起こった上記の殺人事件について、フィリピン当局のいうとおりテベス氏が関わっているのか、それともテベス氏は無罪で当局に濡れ衣を着せられようとしているのか……等々、この事件の全容と真相については触れないで(触れるだけの知識はわたしにはないので)、東チモールに亡命を希望したテベス氏にたいする東チモール当局の対応に焦点を絞ることにします。
亡命申請、最初は却下
テベス氏が東チモールに亡命を希望して入国したのが、2023年4月下旬のこと。このときはまだタウル=マタン=ルアク首相が率いる第八次立憲政府の時代で、同年5月21日が投票日となる議会選挙の選挙運動期間中(2023年4月19日~5月18日)のことでした。
テベス氏はチャーターされた「プライベートジェット機」(と、こちらの報道では表現されている)に乗って東チモールの国際空港に降り立ったことから、テベス氏は財力のある人物であると想像できます。
テベス氏を迎え入れたのがジョゼ=ラモス=オルタ大統領の顧問といわれています。当時の大統領府の顧問といえば、いわずと知れたロンギニョス=モンテイロ(2023年1月、自宅で大量の武器を不法所持していたことが発覚して、その後起訴されたが、無罪となった)ということになりますが、一般の報道では「高官」とか「大統領の顧問」という表現が使われ、個人名は使われていません。したがってここでも「高官」または「大統領の顧問」という表現を使います。もしかしてロンギニョス=モンテイロではないかもしれませんので。いずれにしてもテベス氏が来ることは東チモールの「高官」はすでに知っていたことになり、言い換えればテベス氏は東チモールに要人のコネがあったともいえます。
なお、『タトリ』(2023年5月22日)によると、テベス氏は2016年と2022年にそれぞれ一回ずつ東チモールを訪れているので、2023年4月の来訪は三回目ということになります
テベス氏は東チモールにさっそく亡命申請をしましたが、同年5月、控訴裁判所は申請を却下しました。
裁判所の最初の判断は政権交代の狭間で
2023年5月に控訴裁判所はテベス氏による亡命申請を却下しましたが、その後も東チモールに滞在しつづけることになります。同年7月、テベス氏は2回目の亡命請求を提出し、テベス氏の弁護士によればそれは「まだ検討も決定もされていない保留されたままである」(DILIGENTE、2025年5月29日)という状態がしばらくつづくことになります。
東チモールの司法当局にしてみれば亡命申請をうけるのは初体験なので、法律に則って粛々と手続きを進めるというわけにはなかなかいかなかったのかもしれません。あるいはまた、2023年5月21日に実施された選挙の結果を受けて、同年7月1日にシャナナ=グズマン首相が率いる第九次立憲政府が発足したのですが、テベス氏にたいする5月に出された控訴裁判所の判断は、政権交代という事態をうけてその実行性が待機状態となったのかもしれません。司法の独立性が未発達であることがうかがえます。
裁判所の最終判断が覆る
「まだ検討も決定もされていない保留されたままである」という二回目の亡命申請の宙吊り状態でしたが、2024年3月21日、「白い砂浜」と呼ばれる首都郊外のリゾート地でゴルフをしていたテベス氏は警察に逮捕され(東チモールでゴルフができるとは!?わたしは初めて知った)、ベコラ刑務所に収監され、その状態でテベス氏は法的手続きを待つことになりました。豪華な借家に住んでゴルフで遊んでいられる身分ではないでしょうと東チモール当局は行動に出たわけです。
2024年4月、警察官がテベス氏の家族からお金を受け取り刑務所でテベス氏を守るように依頼されたとか、5~6月になると、テベス氏はローマ教皇や国連そしてシャナナ首相に救済を求める書簡を出したとか、法的判断を待つあいだにこうした報道がされました。また、6月にテベス氏は釈放され、自宅軟禁になったようです。
その後、控訴裁判所は、テベス氏はフィリピンの殺人事件に関与していないという証人の証言を聴きました(『タトリ』、2024年6月11日)。2024年6月27日、控訴裁判所はテベス氏をフィリピンへ引き渡すという判断を下しました(『タトリ』、2024年6月28日)。しかし弁護士が控訴の構えを示し、身柄引き渡し手続きが滞ることになります。同年12月に控訴審査に入りました。
2025年3月、事態は大きく動き出しました。まず3月20日、控訴裁判所は憲法第35条第三項を根拠にして、テベス氏のフィリピン引き渡しを拒否するという判断を下したのです。つまり先の判断を覆(くつがえ)したのです(『タトリ』、2025年3月20日)。すると3月26日、今度はラモス=オルタ大統領が、控訴裁判所の決定は尊重する、控訴裁判所の決定は東チモールのASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)加盟に影響しない、などといいつつ、テベス氏は東チモールに留まることはできない、と発言したのです。翻訳すればつまり、〝控訴裁判所の決定は東チモールのASEAN加盟に影響するのでテベス氏をフィリピンに送り還せ〟と述べたも同然です。ラモス=オルタ大統領は控訴裁判所の最終的ともいえる判断に介入して司法の独立性を傷つけました。ラモス=オルタ大統領はこのときシャナナ首相とテベス氏の件について話し合ったとも述べているので、シャナナ首相の許可を得たうえでの発言です(あるいはシャナナ首相の指示による発言か)。このときから政府はテベス氏をフィリピン当局に引き渡すために具体的な作業を開始したに違いありません。
そして2025年5月27日夜、借家にいたテベス氏は移民局に逮捕され、移民局の建物に拘束されました。テベス氏の弁護士は、裁判所が発行した令状・通知がないことから当局によるこの逮捕・拘束は法的根拠がないと抗議しました。しかし翌28日午後3時、テベス氏を乗せた飛行機は東チモールを飛び去り、テベス氏はフィリピンに強制送還されてしまったのです。チャーター機で東チモールに逃げて来たテベス氏は、亡命申請むなしく、フィリピン空軍の飛行機で送り還されました。こうしてテベス氏の2年間にわたる東チモールでの逃避行は終わったのです。
憲法違反をした東チモール政府
テベス氏が亡命申請をしてから約2年の月日がたった2025年3月、憲法第35条第三項に基づいて裁判所は最終判断を出しました。その憲法第35条の第三項はこう定めています――「逃亡犯が引き渡された国の法律にそって死刑または終身刑に科せられるか、拷問または非人道的で品位をおとしめる残酷な扱いをうけることが確実であるならば、逃亡犯引き渡しは認められない」。
現在のフィリピンは死刑制度はあるが死刑執行は法律で禁じられています。また例えば禁錮刑30年という終身刑に近い刑が科せられても終身刑でなければよいし、拷問や非道な扱いをしないとフィリピン当局が東チモールに説得すれば憲法第35条第三項に抵触しないことになります。現に、テベス氏がフィリピンに引き渡されたあと東チモールとフィリピンの両方からそのような内容のことが述べられています。なお東チモール政府はテベス氏に10年間の東チモール入国禁止措置を出しました。
フィリピンのボンボン=マルコス大統領はビデオメッセージでテベス氏の引き渡しについてシャナナ首相とラモス=オルタ大統領の労をねぎらいました。またマルコス大統領は、ASEAN首脳会議でシャナナ首相からもうすぐテベス氏がフィリピンに送還されると伝えられたことを明かしました(『タトリ』、2025年5月30日)。
ASEAN加盟という果実を目前にする東チモールにとって司法の独立性・分権に目をつぶるのは、〝国益〟(しばしば私利私欲の隠れ蓑)という大義名分のもとではたやすいことなのかもしれません。しかし憲法第35条の第一項にこうあります――「逃亡犯引き渡しは司法の判断によってのみすることができる」。さらに第二項はこうです――「政治的理由による逃亡犯引き渡しを禁止する」。
したがってラモス=オルタ大統領による発言は司法に介入するだけでなく憲法違反を容認する発言であり、東チモール政府が5月27日と28日にしたことは、憲法第35条第一項と二項にたいする明確な違反行為です。権力分立の原則と憲法が踏みにじられたのです。
疑問と疑惑
2025年6月3日の東チモール国会で、テベス氏のこの度の亡命騒動にかんして調査を求める意見が与野党の議員から出ました。テベス氏を空港で迎え入れた大統領の顧問についての調査、テベス氏から金を受け取って便宜を図った個人または集団がいたのではないか、司法制度を弄んだ者がいなかったのか等々、様々な疑惑への調査です。
たしかにテベス氏の亡命騒動には腑に落ちないことが数々あります。テベス氏が東チモールにチャーター機で到着したとき、なぜ空港の入国審査で引っかからなかったのか、なぜベコラ刑務所から釈放され借家に住むことができたのか、テベス氏が2016年と2022年にそれぞれ一回ずつ東チモールを訪れたと報じられていますが、かれはそのとき何をしたのか、誰と会ったのか、…等々。わたしが最も気になるのは、テベス氏を空港で迎えた大統領の顧問はテベス氏とどのような関係にあったのか、です。両者の関係がそもそも今回の亡命騒動の発端になったかもしれないだけに気になります。
ASEAN加盟が安泰なわけではない
2025年5月23日~27日、マレーシアのクアラルンプールで開かれた第46回ASEAN会議に東チモールはオブザーバーとして参加しました。東チモールのASEAN加盟は確定事項ですが、加盟時期は未確定です。今回のASEAN会議に東チモールから、シャナナ=グズマン首相をはじめとして、フランシスコ=カルブアディ=ライ副首相、ベンディト=フレイタス外務協力大臣、アデリト=ウーゴ=ダ=コスタ国会担当副大臣、ミレナ=ランゲルASEAN担当副大臣、アウゴスト=ジュニオール=トリンダデ通商副大臣、エクスペディト=ディアス=シメネス社会通信庁長官が参加しました。
東チモール政府はそのホームページで次のように伝えました(2025年5月28日)――ASEAN会議のなかの首脳会議(5月26日~27日)で、来る2025年10月に開催される第47回ASEAN首脳会議において東チモールをASEANの11番目の加盟国として承認するというASEAN首脳の共同決定を確認したASEAN議長声明を歓迎する――。
このASEAN首脳会議に出席するためシャナナ首相がクアラルンプールに出かけたのが5月25日、関連会議は23日から始まっており、このために上記の政府要人がぞろぞろとマレーシアに赴いていました。上述したように、フィリピンのマルコス大統領がシャナナ首相からテベス氏はもうすぐフィリピンに送還されると伝えられたのがASEAN首脳会議の場ですから5月26日~27日の間です。少し時間を遡ると、フィリピン外務省が東チモール加盟を支持すると公式に発表したのは5月22日(ASEAN会議が始まる前日)、ASEAN首脳会議の準備の一環としてフィリピンのマラカニアン宮殿で開かれた記者会見でのことでした(『タトリ』、2025年5月23日)。テベス氏が東チモールに滞在していることと東チモールASEAN加盟支持の関連性をきかれたフィリピン外務省は、二つの繋がりを否定しました。結局、東チモールの移民局がテベス氏を逮捕・拘束したのが5月27日の夜、28日にフィリピン軍機は東チモールにやってきてテベス氏を乗せてフィリピンに飛び去ったのでした。ASEAN加盟支持とテベス氏の身柄引き渡しが交換されたとどうしても憶測したくなります。
東チモール国内では今回のASEAN首脳会議について東チモールのASEAN加盟が10月に達成されることが決まったという論調で報じられていますが、たとえば「東チモール、ASEAN完全加盟に少し近づく」と題された『マカオニュース』(the macao news、2025年5月27日)では、要件が満たされれば早ければ10月にも加盟することが発表されたと伝え、東チモールのASEAN正式加盟はあくまでも「要件が満たされれば」の話で、東チモールのASEAN加盟は来年に持ち越される可能性もあるという口調で論じられています。
このような事情を察すると、東チモール当局によるテベス氏の身柄引き渡しはフィリピン政府のご機嫌はとったものの、東チモールの司法制度の脆弱性を国際社会に露呈してしまったことで、ASEAN加盟実現に逆効果をもたらした可能性がなきにしもあらずとわたしは考えてしまいます。「さらばテベス氏、ようこそASEAN」――という具合に果たしてうまくいくでしょか……。
青山森人の東チモールだより easttimordayori.seesaa.net
第538号(2025年6月6日)より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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