「この大災害に比べられるのは、ヒロシマとナガサキへの爆撃だけだ」
- 2011年 6月 15日
- 時代をみる
- 伊藤 成彦
ドイツのヘルムート・シュミット元宰相が語る
1.原発事故に日本よりも敏感なドイツのメディア
東日本大震災の発生から1カ月になる。心の重い日々の1カ月であった。震災の罹災者、関係者にとっては、毎時、天地がひっくりかえるような思いの1カ月であったことであろう。今度の震災は、先ず地震であった。その地震は、マグニチュード9という日本の気象庁発足以来初めての記録となる最大級の地震だった。阪神淡路大震災は、地震だけであれだけの大災害となった。しかし、「3.11」震災は、地震に踵を接して三陸沿岸を巨大な津波が襲った。4月10日の新聞が報じる死者1万2915人、行方不明1万4921人の大多数は、津波によってもたらされたものと推測される。
これだけでも最大級の災害である上に、東京電力福島第1原子力発電所の4基の原子炉の事故が重なってきた。世界初の3重苦災害と言うべき災害であろう。
私の手元にドイツから毎週『ディ・ツァイト』という誌名の週刊新聞が送られてくる。ドイツでは70年代以来「緑の人たち・党」の運動が活発で、ドイツ社会民主党と「緑の党」が連合政権を構成していた2000年6月に、シュレーダー氏を宰相とする連合政権が主要な原子力発電会社との間で原子力発電所(以下では「原発」)を2032年までに全廃するという取り決めを行った。
しかし、この交渉は簡単ではなかった。それは政府側が原発の耐用年数を30年と決めて、2030年までの30年間に全原発を完全に廃止することを主張したのに対して、会社側は、どの原発も毎年1カ月は安全点検のために休止するので、全原発の稼働期間を毎年11カ月と計算すべきだと主張し、原発の最終廃棄年が2年延長されたことからも窺える。
従って日本の原発事故に対して『ディ・ツァイト』は敏感に反応した。すでに事故発生の週内の3月17日号の巻頭に、「もはや如何なる嘘も許さない」という大見出しを掲げて特集を組んだ。大見出しの下には、次の導入文が付いている。
「こう言われている:我々の原発は安全だ。我々は自然災害を技術の力で制御する。安全性は経済的利益に優先する。原発離脱はよくない。耐用年延長はよろしい。
フクシマの事故と日本の人びとの苦しみは、これら全ての事柄に疑問符を突きつける。そして世界に対して新しい眼差しを求める。宣伝はいらないーーしかし、政党の道具化もお断りだ」
そして、「世界のための日本の教訓」と題した論文が巻頭に置かれている。その論文の中で、筆者のベルント・ウルリッヒ氏は次のように指摘している。
「日本の原発は、マグニチュード8までの地震に合わせて造られていたが、今回の地震はマグニチュード9だったことが分かった。では何故日本の政策は、こういう安全基準で満足していたのだろうか? 何故なら、マグニチュード9の地震はマグニチュード8の10倍の強さで、ヨーロッパの安全基準で言えば、そのための費用が大幅に増えるだろうからだ。それは原発の電力をその他のエネルギーよりも高価にし、会社の利益を削減する」
ウルリッヒ氏はこのように述べている。安全性と費用・利潤との関係はその通りだが、ウルリッヒ氏は日本の原発会社・政府を買いかぶっている。東電の福島第1原発は、ウルリッヒ氏が想定しているようにマグニチュード8をも想定していなかった。そもそも安全基準など無視していたのだ。その証拠が、3月11日の地震直後の次のような実情だ。
「東京電力は9日、東日本大震災による福島第1、第2原発の津波の被害調査結果を公表した。第1原発では、原子炉建屋などの主要部分がほぼ全域で深さ4-5㍍浸水していた。第1原発を襲った津波の第1波は地震発生41分後の3月11日午後3時27分、第2波はその8分後の3時35分ごろ。東電は震災前、5・7㍍の津波を想定していたが、それを大幅に上回る14ー15㍍だったとしている。同原発1-4号機の敷地の高さは海面から10㍍で、それを超えた4-5㍍の深さでほぼ全域が浸水。建屋2階まで水に襲われ、海水の取水ポンプなど周辺の機器などが被災した」(毎日新聞、4月10日)
2.安全性を無視してきた日本の原発産業
東電は、これほど強い地震や津波の力の想定を間違えたのだろうか。そうではなかったことを次の報道が示している。
「東京電力福島第1原発の深刻な事故の原因となった大津波を伴う巨大地震について、09年の経済産業省の審議会で、約1100年前に起きた地震の解析から再来の可能性を指摘されていたことが26日、分かった」と、毎日新聞(3月27日) は「『大津波再来』の指摘軽視」という見出しで次のように伝えた。
「09年6月、25年ぶりの原発の耐震指針の改定を受け電力会社が実施した耐震性評価の中間報告を検討する審議会が開催された。取り上げられたのが869年に宮城県沖で発生したマグニチュード8以上と見られる『貞観地震』だ。報告書案にはこの地震が触れられておらず、委員の岡村信行・産業技術総合研究所活断層・地震研究センター長は『非常にでかいもの(地震)が来ているのが分かっている』と問いただした。東電側は『被害はそれほど見当たらない』と答えたが、岡村センター長は、海岸線から数㌔内陸まで浸水したという最新の研究から『納得できない』と指摘した。その後の会合で、東電は、貞観地震で予想される揺れは原発の耐震構造の想定内との見方を示した」
この記事の最後に、記者は岡村センター長の次の言葉を加えている。
「原発であればどんなリスクも当然考慮すべきだ。あれほど指摘したが、東電から新たな調査結果は出てこなかった。『想定外』とするのは言い訳に過ぎない」
こうして事故は『想定外』で起きたのではなく、『想定』を受け入れなかったことで起きた。起きるべくして起きた「人災」であることは明らかだ。
しかも、東電が危険の『想定』をあえて意識的に無視してきたことの背景が、「大規模工事になりカネかかる」(朝日新聞、4月6日)という見出しの記事からも分かる。
さらに驚くべきことは、本来原発の安全性を監督すべき原子力安全委員会が、「長期間にわたる電源喪失を考慮する必要はない」という設定指針を定めていたことが明らかになったことだ。原子力の安全性の守り手であるべき原子力安全委員会がこれでは、日本の原子力行政は完全に崩壊していたのだ、と言うほかはない。
3.「ヒロシマ、ナガサキの悲劇」は「人災」だった
ドイツの週刊誌『ディ・ツァイト』に戻ると、3月17号の7面に1974年から1982年まで西ドイツ(当時)の連邦宰相を勤め、その後30年近く『ディ・ツァイト』の主筆・編集幹部として活躍している92歳のヘルムート・シュミット氏の「原子力の未来と日本政府の危機管理について」と題したインタビューを掲載している。その冒頭でシュミット元宰相が、「この大災害に比べられるのは、ヒロシマとナガサキへの爆撃だけだ」と語っているのを見て、一瞬、私は違和感をもった。「ヒロシマとナガサキへの爆撃」は、戦争の中で起きたことで、今回のような事故ではない、と思ったからだ。しかし、深く考えてみると、ヒロシマとナガサキへの原爆投下は、日本国民が賢明で、軍国主義の暴走を抑え、戦争を防止していれば起きなかったことだから、そういう意味では「人災」だった。またドイツ人が賢明で、ヒトラーとナチスの台頭を抑えていれば、アメリカのルーズベルト大統領がヒトラーとナチスの暴走を抑えるために「マンハッタン計画」に莫大な投資をして原子爆弾を開発することもなかっただろうと考えれば、その面から見ても「ヒロシマとナガサキの悲劇」は「人災」だった。実際、「マンハッタン計画」を組織して原爆開発で中心的な役割を果たしたロバート・オッペンハイマー博士は、戦争をなくす筈のところが逆に戦争を煽る兵器となったことに気がついて、水素爆弾の製造に断固として反対し、公職から追放されても核兵器の厳しい管理を主張し続けたことからも、「ヒロシマとナガサキの悲劇」が巨大な「人災」だったことが分かる。
こう考えると、「この大災害に比べられるのは、ヒロシマとナガサキへの爆撃だけだ」というシュミット氏の言わんとすることが分かる。東京電力福島第1原発の惨事は、チェルノブイリを超えてヒロシマ、ナガサキの惨状に匹敵する「人災」としての惨事なのだ。だから『ディ・ツァイト』の18面と19面は、福島原発の現場近くで幼児を抱いて心配する若い母親たちの写真を掲載して、「日本は原発災害の警告を無視した。ドイツの防護は大丈夫か?」と題した長文の記事を掲載している。その記事には次のような中見出しが立っている。
「日本にはまだこれから超チェルノブイリがやって来る可能性がある」
「ドイツには地震はないが、重要問題はテロだ」
「日本の放送は、チェルノブイリと全く比較しない」
「被爆地域では、幼児の死亡率、白血病、乳がんが増大する」
これらの中見出しは、日本に「ヒロシマとナガサキ」の場合のように「被爆者」がすでに存在し、増加していることを示して、ドイツの読者に向けて、「他所事出はない」を警告しているのだ。
また『ディ・ツァイト』には、毎号『ツァイト・マガジン』という56頁の雑誌が付録として付いているが、3月23日号の『ツァイト・マガジン』の巻頭企画は、「フクシマの世代」と題して、11歳から13歳までの少女14人に「脱原発」を語らせ、ある少女は語っている。「私はもう水曜日に学校から帰ってニュースを見ました。新しいエネルギーに投資するべきなのね。風車は原発のように危険ではないわね」。また別の少女は言う。「私は3年前から原子力というテーマと取り組んできました。原発は全部閉鎖すべきです」
日本の原発事故に対してこれほど敏感に反応して、原発問題を11歳の子供から考えさせるドイツのジャーナリズムを見ると、日本でこれほどの大事件が起きているのに、問題の掘り下げ方が何と浅いことか、と思わざるを得なかった。それで3月末に私が共同代表を務めている平和運動団体の会が開かれた時に、憲法や平和との関係で「東日本大震災」について幹事が語り合った。その結果、この討論をもっと深め、意見をまとめて政府と主要政党に緊急提案として渡そうということになり、当面の問題を地震・津波から生じた問題と福島原発の問題に絞って意見をまとめた「東日本大震災の罹災者支援・復興と福島原発大事故に対する政府、政党への緊急提言」を震災発生1カ月の4月11日に民主党をはじめ国民新党、社民党、共産党、自民党、公明党に渡した後に記者会見で発表した。
「緊急提言」は「平和憲法21世紀の会」で鎌倉孝夫、浅野健一、伊藤成彦、吉原節夫、河野道夫、藤田高景が討論し、鎌倉、浅野、伊藤の3幹事が文章に纏めた。その「緊急提言」を「マスコミ市民」編集部の好意でここに掲載する。
東日本大震災の罹災者支援・復興と福島原発大事故に対する
政府、各政党への緊急提言
平和憲法21世紀の会
3月11日14時46分頃、三陸沖を震源とする「東日本大震災」は、気象庁初のマグニチュード9を記録、地震に続いて岩手、宮城、福島の3県を中心に茨城、千葉の2県にも及んで海岸一帯を巨大な津波が襲い、瞬時に多数の犠牲者を出しました。
これまでに確認された死者数は1万2915名(4月10日現在)で、震災の犠牲者に心から哀悼の意を表します。それと同時に、震災発生後1カ月を経た今日なお、死者数を越える1万4921名の行方不明者に対して、これらの方々が1日も早く家族のもとに迎えられることを心から祈らずにはいられません。そして、安心して住む家なく避難されている15万人を超える方々が1日でも早く安住の場所に落ちつかれるように願っています。
この大震災について、「予想を超えた災害」「天罰」「国難」などの言葉が聞こえてきますが、こういう時こそ冷静を持し、言葉の使い方に気をつけ、何が「天災」で何が「人災」に属するかを見極めて、この大災害から、今後いかなる「天災」も決して大災害とさせないための教訓を学ぶべきでありましょう。
従って、ここでは明らかに「天災」と見られる地震・津波に関する問題と、明らかに「人災」と見られる「東京電力福島原子力発電所事故」の問題を二つに分けて考察し、日本の政府と主要政党に以下のとおり提言します。
Ⅰ.東日本大震災の地震・津波に対して
(1) 震災の被害と「為政者」の責任
「東日本大震災」の地震と津波は、人間の力では止めることのできない「災害」でした。マグニチュード9を記録した地震は、記録に残る限り、日本では今回が初めてです。しかし、大きな津波を引き起こした地震は、これが初めてではありません。三陸沖地震の記録では、過去1世紀近くだけを見ても、1896(明治29)年6月15日に起きた「明治の三陸沖地震」は、M8.2ー8.5で、津波は大船渡で38.2mに及び、犠牲者は死者2万1915人、行方不明者4398人でした。また、1933(昭和8)年3月3日に起きた「昭和の三陸沖地震」は、M8.1、津波は大船渡で28.7 m、死者1522人、行方不明者1万2053人の犠牲者を出しました。この経験から、岩手県宮古市田老町の住民は、ほぼ50年かけて高さ10m、幅2キロm超の堤防を築いてきました。この堤防は、1960(昭和35)年のチリ地震による津波を防ぎましたが、今回の20m超の津波には乗り越えられ、少なからざる犠牲者をだしました。しかし、堤防そのものは崩壊せず、建物の破壊は堤防から200mまでで止まったのは、堤防が津波の力を吸収したものと見られています。
田老町だけではありません。岩手県野田村の小田裕士村長は、今回の経験から端的にこう語っています。「安心して住める村を目指しています。村の主要部が海に面する野田村は津波対策が命です。国と県に働きかけ、高さ7.5mの防潮堤を徐々に12mにしましたが、津波は想定をはるかに超えていました。でも落ち込む前に『やるしかない』という気持ちが起きてきました。そのためには何をするのか―国には何より財政支援をお願いしたい。公共施設と漁業への支援、そして防災ですね。この村はしっかりした防潮堤がなければ再建はありえません。被災後も村に住みたいという人がたくさんいる。その人たちのためにも必要です」(毎日新聞、4月1日)。
罹災した地域住民のこれらの証言は、もし政府に関わる為政者が、過去の経験を教訓に、堅固で綿密な防災体制を整えていれば、明らかに被害は減少されたという意味で、今回の震災の被害は、決して「天災の宿命」ではなく、政治の責任であることを過去・現在の為政者は肝に銘じておくべきです。
(2) 復興は先ずライフラインの早急な復活と仮設住宅の十分な建設から
菅直人首相は、4月1日に首相官邸の記者会見で、「すばらしい東北、日本をつくるという夢を持った復興計画を進める」ために、「有識者や被災地関係者の復興構想会議を設置して具体案を練る考えを表明」し、大津波の襲来を受けた三陸沿岸の再生策について、「山を削って高台に住むところを置き、海岸沿いの水産業(会社)、漁港まで通勤する」「植物やバイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウンをつくり、福祉都市としての性格を持たせる」などと説明し(朝日新聞、4月2日)、また「被災地の土地の国有化、公有化も検討する」と語りました(毎日新聞、4月2日)。
三陸沿岸に限らず、全被災地を住民の生活と生命の安全を保障する地域として復興すべきことは当然のことです。特に三陸沿岸について、住居を高台に移すことは、菅首相に限らず、そう考える人は多いことでしょう。問題はその実現性と手法です。
しかし、現在、政府が先ず行うべきことは、被災地でのライフラインの早急な復活と、仮説住宅の十分な建設で、避難所で暮らす15万を超える方々に当面安心して暮らせる住居を保障することです。
(3) 復興計画は住民自治の原則で
次に政府が行うべきことは、住民自治の基礎となる地域コミュニティーの再建、防災を考慮した地域の農漁業とその施設の復活整備、地域住民の雇用確保・拡大による地域経済の再生・自立・拡大です。
菅首相は、4月1日に語った「復興構想会議」案の発表に続いて、4月6日に、五百旗部真防衛大学校長を議長に、被災県の知事三人と有識者数人で構成し、震災から1カ月の4月11日に発足させると発表しました。
「復興」の掛け声で元気と希望を呼びさますことは大事ですが、罹災地では行方不明者の捜索が続けられ、15万を超える人たちが仮設住宅を待ち、しかも福島原発の大事故の状態が日々憂慮される現在の問題を冷静に直視すべきではないでしょうか。
これらの問題の見通しが開けてくれば、被災者を初め、多くの住民の中から切実な要求、意見が必ず出てきます。政府は、復興構想を上から落とすのでなく、先ず地域社会を復興させ、地域自治体を中心にして住民自身が復興計画をつくり、同時にそれを地域住民の雇用の場とする方向を、政府は物心両面から支援することを考えるべきでしょう。その際、政府は憲法前文が示す主権在民・人権保障・平和的生存権・国際協調の原則をしっかり踏まえて、住民が主体的に創り出す復興構想を物心両面から支えることが大事です。
(4) 自衛隊の本格的な災害救援組織への転換を
東日本大震災では,3月19日から10万6千人の自衛隊員が、菅首相の指示により、自衛隊法第63条(災害派遣)に基づいて陸・海・空ともに災害地に派遣されましたが、この数は現在の隊員数の半数で、「かつてない事態」だということです(毎日新聞、3月24日)。
同紙によれば、「今回の震災では、復旧の中核となる行政機関が壊滅し、自衛隊が肩代わりする地域が多い」「新たな課題に浮上しているのが遺体の移送作業だ。自衛隊は既に3000体を超える遺体を収容しており、その際墓地までの移送を懇願されることが多い」ということです(同前)。
自衛隊の災害出動は、現在までに3万2千回に及び、2006年に行われたある世論調査では、自衛隊の存在目的を災害出動と見る回答が75,3%だったということです。(インターネット・フリー百科事典『ウィキペディア』)。
このように自衛隊は今回の東日本大震災でも活躍をして、被災者から感謝されています。また上記の世論調査でも災害出動への支持率は高いのですが、前掲の毎日新聞記事は、「自衛隊10万人長期化/防衛空白の懸念も」という見出しを立てて、「10万人態勢が長期化するほど、朝鮮半島有事など緊張が高まった場合、自衛隊が即応できる余力を失っている可能性が高まるのも事実で、省内は〈いつまで持つのか〉と懸念する声もあがる」と自衛隊の本音を伝えています。
しかし、「朝鮮半島有事など緊張が高まった場合」と自衛隊幹部が心配する朝鮮民主主義人民共和国政府は、日本との国交がないために日本赤十字社を通して被災者に弔慰電報と共に10万米ドルの慰問金を送ってきています。大災害に付け込むような国は日本の向こう三軒両隣には一つもなかったのです。これらを踏まえて、日本政府はこの機会に北朝鮮と友好関係を結び、憲法第9条の本旨に従って、自衛隊を国の内外で活躍する平和的な災害救援組織への転換を図るべきです。
Ⅱ.福島原発大事故の教訓は、生活と生命の安全のためにー脱原発への転換を
(1) 先ず必要なことは、政府と会社から独立し、全原発を「安全」の立場から点検する権限をもつ組織の確立です。
M9の地震と、それに伴う大津波だけでも大災害である上に、福島原発事故という大災害が襲いかかってきました。しかし、起こるべくして起きた災害で、これこそはまさしく人災です。政府・電力会社が唱えてきた「原発は安全」の神話は幻となったのです。
福島原発の事故発生以後、次々と驚くべき事実が明らかになりました。いくつかの例を上げます。
例(1) 2009年6月に、原発の耐震指針の25年ぶりの改定を受けて開催された審議会で、産業技術総合研究所・地震研究センター長の岡村行信委員が、869年に宮城県沖で発生したM8以上と見られる貞観地震を取り上げて、地震は内陸数キロmまでの津波を伴っていたという最近の研究に基づいて電力会社が提示した指針の見直しを求めたが、電力会社は「それも想定内」と言って無視していたことが震災後に報道されました(毎日新聞、3月27日)。
例(2) 「原発耐震の根拠崩れる」という見出しの記事は次のように伝えています。
「新指針は阪神大震災の知見を踏まえて25年ぶりに改定された。各電力会社は、その指針にそって08年3月、既存原発の揺れの想定を大幅に引き上げ、安全性の再評価を進めていた。東電は第1原発が想定する地下の揺れを引き上げたうえ、3、5号機については個別の安全性は確保されると報告。経済産業省原子力安全・保安院もこれを妥当と評価していた。東電は今回の地震の規模に近いとされる貞観地震(869年)の揺れでも想定を超えないとし、超える場合も、その確率は1万年から100万年に1回と評価していた」(朝日新聞、4月2日夕)。
さらに、「国の原子力安全委員会が定めた設計指針では、『長時間にわたる電源喪失を考慮する必要はない』とされており、規定が電源喪失に対する対応の遅れにつながった可能性があることが分かった」(東京新聞、4月6日)という報道、「福島第1原子力発電所で津波を受けて電源喪失事故に至った主要な理由が設計の不備にあったことが分かった」ということや、設計上の欠陥に気がついても「大規模工事になりカネがかかる」ということで放置してきた(朝日新聞、4月6日)などの驚くべき事実が次々と出てきました。
このように危険に気がつきながら、それを放置してきた責任は、電力会社と同時に、危険性を事前に検査・指摘・監視すべき任務を負う機関にあります。この機関として、原子力基本法に基づいて設置された「原子力委員会及び原子力安全委員会」と経済産業省に属する「原子力安全・保安院」があり、事故後にメディアに出てくるのはもっぱら「原子力安全・保安院」で、本来「原子力安全・保安院」を監督すべき「原子力安全委員会」が目立たないので、「見えぬ原子力安全委」(朝日新聞、4月5日)と指摘されています。
この2つの機関が十分に機能しなかったのは、原子力基本法に基づいて「安全確保」に専念すべき「原子力安全委員会」が、独立機関としての機能を十分に果して来なかった点にあると考えられます。政府は、「東京電力の福島第1原発での事故を受け、経済産業省の外局である原子力安全・保安院を同省から切り離し、内閣府の原子力安全委員会と統合させて新たな規制機関を設置する方向で検討に入った」(毎日新聞、4月6日)ということです。しかし、本来は政府からも独立し、安全という観点から全ての原発を点検する権限をもつ機関が必要なのです。
(2) 現状で政府が当面なすべきこと。
福島原発は暴走を続け、放射性物資を地上、空中、海中に出し続けています。そして、政府の細野豪志首相補佐官は、放射性物資を封じ込める時期について、「数か月が1つの目標になる」と言っています(毎日新聞、4月4日)。一方、「放射能封じ長期戦」という見出しで、「廃炉には数十年」という意見もあります(朝日新聞、3月31日夕)。要するに、目下は政府にも東京電力にも、確たる見通しはない、と認めているのです。しかし、これほど無責任な態度を認めることはできません。
第1に、原子炉の目下の状態を部分的にではなく、全体的に正確に説明し、「数か月が1つの目標」という根拠を示すべきです。
第2に、現在の日々の放射能の数値を地上、海中、空中について測定して健康への影響を分かりやすく公表すべきです。
第3に、現在及び予測される放射能量に応じて、乳幼児から順次疎開させる計画を立て、説明すべきです。
Ⅲ.脱原発への道
今回の大事故で、次のことが明らかになりました。
(1) 原子力発電に使う核燃料は、人間の能力・技術によって制御できない性格をもつものであること。
(2) 最低限M9の震度に耐えられる安全性の確保が必要であること。従って、現在稼働中の原発をM9の震度に耐えられるか否かを基準として全て検査すべきこと。
(3) 欧州の脱原発の例を見ますと、オーストリアが1978年11月に国民投票で原発を全面的に廃止した例をはじめとして、1980年にスウェーデンが国民投票で原発の新設を禁止し、稼働中の原発は30年後の2010年で全廃(その後に期限延期など政策変更あり)することを決めました。次いでイタリアがチェルノブイリ事故以後、1987年に行った国民投票で原発の拡大を規制しました。こうした反原発の世論を受けて、ドイツの社会民主党と緑の党の連合政権が、2000年6月に32年間に古い原発から順次廃止することを主要電力会社と取り決め、原発廃止を法制化しました。こうした欧州各国の脱原発への歩みは、世論の盛り上がり(国民投票の成功)と政府の決断が不可であることを示しています。注目すべきことは、ドイツのメルケル政権が原発の全廃を3年間先延ばしすることを決めていましたが、日本の原発事故を見て、2000年の決定通り、2032年で全廃する決定に戻りました。
チェルノブイリ事故から25年目に起きた日本の事故に、欧州全体が強い衝撃を受けているので、脱原発に向けて、今後さらに世論が強まることは必至だと思われます。
(4) 日本では、先ず建設が予定されている14基の計画を取りやめ、同時に、ドイツのように耐用年数を30年として、現在稼働する50基の原発を稼働歴30年の順に廃止していくことです。日本で最新の原発は、1997年に運転を開始した東電の柏崎第7号機なので、全廃はドイツより少し早く2027年になります。
(5) 原発を廃止するのと平行して、日本と世界における社会経済構造を変革し、市民一人ひとりが、自分が使う電気は自分で生み出す決意で太陽、風、波の利用を工夫する必要があります。つまり、脱原発を本当に進めるには、経済社会構造の改革と、市民一人ひとりの創意と努力が求められるのです。
「平和憲法21世紀の会」について
「平和憲法21世紀の会」は、2000年2月に、21世紀を迎えて「平和憲法」を21世紀に輝かせたいという願いをこめて生まれました。
その前年の1999年4月に「国旗・国歌法案」が国会に提出され、この法案に反対するために、全国的な署名運動を呼びかけ、国会に法案破棄の請願を行いました。しかし「国旗・国歌法案」は、残念ながら同年夏に国会で成立し、同時に衆参両院に「憲法調査会」を設置する法案も成立し、2000年1月から衆参両院に「憲法調査会」が設置されました。こうした動きに対して、私たちは、「平和憲法を21世紀に輝かせる」ことで、国旗・国歌法の狭隘な排外独善主義をも克服することを目指して、2000年2月に「平和憲法21世紀の会」を結成しました。全国の通信会員数は500人。結成当時の役員は次のとおりです。
共同代表 槙枝元文(元日教組委員長、総評議長)、伊藤成彦(中央大学教授)
幹 事 家 正治(神戸大学教授) 岩淵達治(演出家) 内田雅敏(弁護士)
大島孝一(キリスト者政治連盟) 太田一男(北海道酪農大学教授)
大田昌秀(前参議院議員)大槻勲子(日本婦人有権者同盟副委員長)
鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授) 北野弘久(日本大学名誉教授)
宜保幸男(元沖縄高教組委員長) 國弘正雄(元参議院議員)
桑江テル子(沖縄うないネット) 島袋宗康(元参議院議員)
中小路清雄(元日教組書記長) 永田悦子(元日教組中執)
野添憲治(作家) 武者小路公秀(元国連大学副学長)
毛利子来(医師) 山口鶴男(元衆議院議員)
渡辺 峯(日本YWCA理事長)
結成以後10年間に永田悦子さん、北野弘久さんと共同代表の槙枝元文さんが亡くなり、槇枝さんの後任として浅野健一(同志社大学教授)が共同代表に就任しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1462:110615〕
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