書評:堀江秀史著『寺山修司の写真』
- 2020年 12月 29日
- 評論・紹介・意見
- 野島直子
今回とりあげる書物は、堀江秀史著『寺山修司の写真』(青土社、2020年)である。
「寺山修司の写真」というと、さまざまなジャンルを横断したことで知られる寺山は写真にも手を出していたのか、と驚く人が多いだろう。あるいは、少し詳しい人なら、天井桟敷の活動に平行して撮られた1970年代の幻想的な演出写真を思い浮かべるかもしれない。1975年には『幻想写真館 犬神家の人々』(読売新聞社)を出版しているし、死後25年経った2008年には『写真屋・寺山修司 摩訶不思議なファインダー』(フィルムアート社)が田中未知の手によって刊行されている。しかし、一般的にいって、寺山は、写真というジャンルについては、これまでのところ、短歌や映画、演劇活動ほどには重要視されておらず、本格的に論評されることはなかった。
そんな中で上梓されたこの著作は、寺山が、1960年代に、写真史上重要な位置を占める中平卓馬と森山大道という二人の写真家の駆け出しの頃を企画組織者、批評家として支え、濃密な相互交渉をもっていたことにスポットを当て、その写真史的な意義を明らかにすると同時に、1970年代以降にみせた寺山の写真家(アマチュア、半写真家)としてのありようを、そうした相互交渉の産物として読み解きながら、独自の視点でアプローチした書物である。
まず、中平と森山について、一般的に描出されている特徴をあげるなら、どちらも、1960年代、写真家・東松照明との関わりによって写真家としてデビューし、ウィリアム・クラインが先導した、モノクロームの、「アレ・ブレ・ボケ」の作風で、60年代「政治の季節」の都市がはらんでいた「不安と昂揚感」(飯沢耕太郎)を緊迫感あふれるスナップショットで切り取った作家ということになろうか。
寺山の70年代の幻想的な演出写真とは大きく異なる作風だが、寺山は、そんな二人のデビューに、東松照明とともに深くかかわった存在であることを堀江は明らかにしている。
最初に引き金を引いたのは中平で、総合批評誌『現代の眼』の編集者だった中平は、寺山に連載小説の執筆を依頼し、1964年、小説「あゝ、荒野」の連載が始まる。同時期に、森山は東松照明の企画で『現代の眼』に写真を寄せたが、同誌に載った中平の写真に惹かれ、中平に会う。そして中平は、森山の写真に注目していた寺山と森山を引き合わせる…といった具合に、互いが互いを呼び込むといった形で三者の交流は始まる。そして、1966年には、寺山が『アサヒグラフ』において企てた「ピクチャー・エッセー 街に戦場あり」において、寺山は文章、森山と中平は交互に写真を撮るという形で三者の共同作業を行うにいたっている。「1964年ころから始まった三者の関係は、66年に絶頂を迎える」のである。
中平も森山もまだ駆け出しで、世には知られていなかったが、すでに有名な詩人だった寺山の企画で仕事をし、後にその写真が、寺山に批評されることで、注目を浴びることになるのである。
彼らを結び付けたものは何か。それは、堀江が前著『寺山修司の一九六〇年代 不可分の精神』(白水社、2020年)で明らかにした寺山の行動原理(活動理念)「ダイアローグ」であり、以下のように、中平と森山もまたそれに匹敵する世界観と理念をもっており、三人はそれを共有したというのだ。
中平は、当時、現場において、時々刻々と変化する状況に於いて生じる葛藤に向き合うことで、初めて何かが生まれるとし、予め「事実」なるものを決めてかかる態度を否定していた。これに対して、寺山は、詩において、伝えたいことが先にあるのではなく、「書きながら考えるという頼りなさ」を重視しており、書くこと、撮ること、作ることで、「新しい認識」へと「飛躍」することを望む志向が中平と共有されていた。
また、森山は、「世界は自分との関わりにおいてしか顕現しない」、「自らとの関係においてこそ世界は立ち上がる」という考え方をもっており、寺山の、「自分自身の情念をもって社会とかかわろうとする姿勢」と合致していた。
理念だけではない。寺山がはじめに惹かれた森山の写真は、「無言劇」というタイトルの、アルコール漬けの胎児の写真であり、後に寺山はそれに「見られるものへの愛」を見たとして批評するのだが、この写真は、もともと中平が文章を寄せた共作だったのであり、ことの初めから三者は、ダイアローグ的に結びついていた。
そうした結果が、「寺山という書き手と、中平、森山といった写真界の新たな潮流が出会い、それぞれの活動の中で見出した「世界」を、同一誌面上で衝突させ」るような、あるいは「個人と個人がぶつかり合う」ような連載の達成として結実することになったのだという。
ちなみに、この書物の表紙の写真は、1967年に『アサヒグラフ』の連載「世界の街角で」において寺山が撮った「アレ・ブレ・ボケ」のモノクローム写真である。堀江は、これを別な著作の中で「森山、中平と寺山の関係が最も縮まった一瞬、三人の精神がつかのま乱れ交わった時間を定着した、魂のスナップショット」であると書いている。
もっとも、この蜜月も長くは続かない。寺山は、彼らとそれぞれに別れを経験することになるのである。堀江の記すところに従い、それぞれの別れをみておこう。
まず、森山から見ていく。1967年、森山は、『カメラ毎日』に≪にっぽん劇場≫を発表しているが、題材は、大衆芸能の世界や下町の風俗といったもので、寺山の導きによって選ばれたものであった。「もっとかっこいい写真を撮りたいと思っていた」森山には不本意な対象だったが、自分の中に眠っていた体質を寺山によって無意識に引っ張り出され、「鉱脈みたいなものに当たった気がした」とのちに回想している。そして、この年の暮れ、この作品で、日本批評家協会新人賞を受賞している。寺山の導きは「当たった」のである。ここまでは、蜜月の延長にあったといってよいだろう。
しかし、翌年、≪にっぽん劇場≫を書籍化した『にっぽん劇場写真帖』を出版するにあたり、森山がしたことは、「ありとあらゆる写真をそれぞれのコンテクストから一度解体して、どのイメージも断片とみなし、それら断片を、全く別のコンテクストによって同一平面化する」ことであった。それは撮影対象によって写真を分類する考え方に対する批判でもあったし、世界を「等価」なものとしてみなし、テーマを拒否するという理念の表明でもあった。
この「等価」の思想は、その後、写真も現実そのものも「等価」であるという発想につながっていくが、ともあれ、こうした行為によって、森山の写真集は、「写真による写真論」といった趣をもつものとなった。
ジャンル批判を内包する作品=自己遡及的批評としての作品は、70年代以降寺山の作品に顕著にみられる特性であるが、「自己遡及的批評の、写真ジャンルによる先駆例を、寺山は森山に見てしまった」のだと堀江は推測する。そして森山のほうでは、これによって「寺山の庇護から脱し、必要ならば(寺山が写真ジャンルへ踏み込むならば)、寺山と対峙する覚悟を込めた」大仕事だったとしている。その後、じょじょに共同での仕事は少なくなり、穏やかな別れが二人を待っていた。
中平についてはどうだろう。
1967年、クライン論を書いた時の中平は、クラインを、「「ノー・ファインダー、荒れた粒子、極端なトリミング、等々」といった「方法の優先」を行ない、「動き続ける無数の視点を導入」した「方法的探索」によって、従来、世界を「解明しつくされた」ものとして理解したつもりで過ごしてきたわれわれに、瞬間毎に立ち現れる未知なる不安な世界を再構成してみせた」写真家としてとらえていたが、その世界観は、すでに述べた「書きながら考えるという頼りなさ」を重視し、思いを言葉にするのではなく、言葉を操作することによって思いを手繰り寄せ、詩を書いた寺山のそれと、以前よりもさらに接近しているように見える。蜜月は続いているといってよい。
しかし、1971年、『寺山修司全歌集』に載せられる寺山の顔写真を撮影したのを最後に両者は仕事をしていない。そして1973年には、『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』を出版し、そこで、巻頭論文「なぜ、植物図鑑か」において、自分の仕事に対して、以前とは180度転換する見解を表明する。
中平は、「[自分が採用した]粒子の荒れ、ブレは、ウィリアム・クラインのような世界と私との出会いから不可避的に選び出された方法であるというよりは、世界を凝視すること、事物が赤裸々に事物自体であることの確認以前に見ることをあきらめ、ちょうどその空白を埋めあわせるように情緒という人間化をそこにしのび込ませていたにすぎないのである」と書いて自己批判し、写真を撮ることは、「事物の志向、事物の視線を組織化することである」とし、それには「図鑑」の方法が最も適していると主張するにいたるのである。
これについては、寺山は批評文を書いているが、「一人のすぐれた表現者の眼を見る」、「植物図鑑は、彼のリゴリズムの喩として見ることができる」と評価しながらも、中平の見解を諾とするわけにはいかない。「写真家が相手を燃やすほどの被写体とカメラマンの関係を寺山は求めているのに、当の写真家が消えてしまっては、ダイアローグは成立しない」のだから。「<写真>の極北へと進んでしまおうとする」中平に対して、寺山は、すでに仕事を共にできない相手であることを知ることになるのである。
このように、森山とはその仕事の類似性、重複性によって、中平とはその仕事の相容れなさによって、共同作業は不可能になっていくのである。
そして、寺山自身が、写真家として写真ジャンルに参入するのは、彼らとの別れを果たし、「荒木経惟に弟子入りするも、三日で独立した」のちに撮られた、1975年『幻想写真館 犬神家の人々』によってである。そこには、「寫眞は「眞を寫す」のではなく「贋を作る」のだ」という写真観が表明されていた。
堀江は、「寺山がこの写真集で為し得たこととは、一つには「口実としての写真」であり、さらに「美術品としての写真」であったと、まとめることが出来るだろう」と書いている。
「口実としての写真」というのは、「人と人がカメラを介することで、現実原則に縛られない全く新たな関係を構築できる」という点に注目して撮られた写真である。「変身写真館」の章が分かりやすい例だろう。
「美術品としての写真」というのは、たとえば、若かりし母の写真を破いてそれを縫い閉じた写真のように、複製であっても「破かれたコピー」として世界に一つしかないものになるような写真である。
この二つについて堀江は、「<写真>なる芸術に真正面から向き合うかたちの従来の写真論が培ってきた議論―複製品としての価値、人の内面(「見えないもの」)をいかに写すか、報道写真家はどこまで現実に介入すべきか、そもそも写真とは一体何なのか、等々―から、ことごとく逸脱しており、素朴ながら新しい「写真論」になり得ている」としている。
また、これらが「「被写体と写真家」が相互に影響し合って偶発性を呼び込む<ダイアローグ>を一方で重視しつつも、寺山自身の<私>の探索も盛り込み、そして何より、それによって写真そのものを解体する自己遡及的批評が実現していた」ことにも注目し、寺山の写真ジャンルにおける意義を抽出している。
しかし、一方で、それらの試み(口実としての写真、美術品としての写真)は、「正面から<写真>に取り組む」姿勢ではなく、「写真については新たな方向を提示していない」とし、また、自己遡及的批評としての写真については、そうした方向にはすでにそれを高い水準で達成している中平、森山という壁があったとする。それゆえ、寺山は、自己をアマチュアとして、半写真家として規定したのではないか、と堀江は推理している。
以上、堀江の記述を私なりにパラフレーズしながら、寺山の写真ジャンルにおける関わりを見てきた。
私自身は、写真史に疎く、写真史的な意義を判断することはできない。しかし、この著作を読みながら、頭にあったのは、中平、森山との相互交渉があったこの時期が、寺山が歌集『田園に死す』を出版し、その跋で、「短歌は孤独な文学だ」と記している時期と重なるということであった。寺山の「歌のわかれ」は1971年出版の 『寺山修司全歌集』においてであるが、1965年の『田園に死す』以降、寺山はほとんど短歌作品を残していないのである。近年、1973年以降また短歌を作っていたことが田中未知の仕事によって明らかになったが、この時点で、いったん歌作りは中断されるのは事実である。
寺山は写真以外にも、1960年代にはさまざまな人と仕事を行っているから、写真ジャンルだけを強調するのはフェアではない(たとえばこの著作でも触れられているが、60年代初頭、寺山は土方巽と共同作業をしている)が、少なくとも、「短歌は孤独な文学だ」と書いた当時の寺山に別の可能性を抱かせたジャンルであることはまちがいがないだろう。確かにそこでは短歌とは異なるダイアローグの発現が行われたのであり、寺山は「他の写真家たちとの関わり合いの中で自身の立場を相対的に見定め、進むべきテーマを定めていった」のだという堀江の見解は説得力がある。
とりわけ面白いのは、当時、寺山が自己遡及的批評としての作品の写真における先駆例を森山に見たのではないかと推測していることである。というのは、短歌の世界では、塚本邦雄が、寺山に自己遡及的批評としての作品の先駆例を示し、良い意味で壁となっていたと想定されるからである。
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』)
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』)
医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊の自転車 (『緑色研究』)
いずれも、よく引かれる作品であるが、語割れ、句またがりによって、五七五七七の韻律を壊し、鮮烈なイメージと諷刺精神によって、読む者を震撼させる。五七五七七の形式にのせるだけで何か意味があるものと受け取られるこの形式、小野十三郎が「奴隷の韻律」と批判した形式をそれとして浮かび上がらせると同時に破壊している。
そのことによって、塚本の作品は、『古今集』の仮名序から太平洋戦争、そして戦後社会にいたるまでの和歌、短歌の歴史を否応なく喚起し、総じて「短歌による短歌批判」として読めるものになっているのである。
近・現代の短歌史を書こうとする者で、こうした塚本邦雄の試みを外す人はいないだろうし、塚本は、「正統な」前衛歌人としてその地位は今も揺らぐことはないように思える。
もちろん、寺山も、<私>性の強い近代短歌を批判的にみて、さまざまな実験を行っている。また、塚本のようにまっこうから韻律の革命を目指しはしなかったが、歌集『田園に死す』における歌は、塚本によって、「七五調三十一音律のもつ、醜悪な美学の弾劾状」であり、「新古今和歌集で浄化、昇華の極に達し、神韻にまで鋳固められた黄金律が、かくも泥臭く血の臭ひ、汗の臭ひでむせかえり、おどろおどろしい呪文に還元されることを歌人は思ひ知るべきであ」ると評価されるに至っており、これは寺山の「短歌による短歌批判」と呼べなくもないものであった。
ただ、寺山には、塚本のように、そのこと自体が歌作りの目的となることはなく、たとえばこれは初期の頃語ったことだが、「批評的性格をもつくらいに無私の面をつよめた方向に、シャンソンみたいな軽みの文学として、たのしい文学としての短歌の可能性を同時に考えている」と発言するような側面もあった。また、五音、七音がもつ大衆性が歌謡曲やコマーシャルに生きていることも批判的にはとらえず、それどころか、そこに歌人が関わることをよしとする見解さえもっていた。
『田園に死す』を編纂するにあたっても、洗練された和歌史の外部にある、もう一つの歌の系譜である和讃、口説、御詠歌、浪曲を取材し、短歌にかぎらない広義の「歌」を用いて「質問」としての「世界」を「歌物語」として構築しようとしており、和歌の歴史への敬意と呪詛を前面に出して短歌批判をする塚本とは決定的に異なる形で「短歌による短歌論」を作っていたことが知れる。
寺山は短歌を、和歌を、他の歌と「等価」にみなし、特権視することはなかった(これは森山の「等価」の思想とつながるだろう)。寺山には短歌の世界の住人であるという意識が、言い換えれば、短歌史、和歌史の一コマを自らが形成しているという意識=プライドが、塚本よりも希薄なのである。
むしろ、寺山の関心はこの短歌という形式を借りる形で行われる<私>への問いにあった。中平、森山と相互交渉のあった1965年当時、寺山は「短歌は孤独な文学だ…だが、私が他人にも伝統にもとらわれすぎず、自分の内的生活を志向できる強い(ユリシーズのような)精神を保とうと思ったら、この孤独さを大切にしなければいけない」と書く一方で、堀江が明らかにしたように、詩における「ダイアローグ」の重要性を唱え、写真の世界では、中平、森山とともに文字通り「ダイアローグ」を実践しつつあった。
当時、寺山の前には、短歌史、和歌史における「正統な前衛」塚本の姿がそびえたっていたはずだ。こうした方向には塚本がいて、それは越えがたい大きな壁として意識されていたことは十分に推測できることである。ただし、今見たように、寺山は寺山なりの問題意識をかかえていたし、寺山独自の「短歌による短歌論」を作り上げた今、もはや追随することはないのも、寺山の志向性からして明白だったといえよう。
結局、67年には、「演劇実験室・天井桟敷」を結成、71年には歌のわかれを行い、短歌の世界から離脱していく。ダイアローグの可能性を見た写真の世界でもまた、67年には蜜月状態が続いていた二人の写真家と、その後じょじょに離れていくことになる。
こうした寺山の独特の動きについては、自らを「根拠地をもたない」「情念のゲリラ」と称する寺山の発言を受けて書かれた以下の木下秀男の記事が、その特色をよく伝えていると、私は考えている。
寺山氏は彼の好きな競馬にたとえれば、今年のダービー馬アサデンコウであろう。この馬はダービー馬としては良血でなく、品格がないといわれた。だが、人気になった血統馬フイニイ等を問題にしなかった。貧しさ、生活保護を受けての闘病生活をくぐりぬけ、あらゆる分野で活躍するこの男は、まさに現代の英雄アサデンコウである。だが、彼は詩壇で、文壇で、演劇界で、王座をめざすことはないだろう。ゲリラは、一つの戦いを終えると新たな戦場へと向う。正面きって正規軍と戦うには非力である。だが、新しい分野に進入し、たくみな戦術で正規軍をほんろうする力をもっている。彼にとって戦場は無数である。(『アサヒグラフ』1967・6・23)
様々なジャンルを横断しつつある寺山のありようを、木下は、1967年の時点で、寺山の言葉を借りながら、ゲリラという視点で的確にとらえている。
ともすれば、中平、森山との相互交渉をもってきて、寺山の半写真家のありようを照射する堀江の説明の仕方は、寺山に対する評価が消極的にすぎるような印象を与えないでもない。一読すると、当該ジャンルの正統な前衛との対決において「負け」て「逃げた」かに読めるからである。
しかし、企画組織者、批評家としての寺山が写真史に与える意義や、半写真家としての寺山がみせた、自己遡及的批評としての写真集の評価(ヨーロッパでの評価や中平、森山への応答とおぼしき試みも記されている)に加え、口実としての祝祭的写真、見る人のためではない、被写体のために撮られるヌード写真など、写真に「正面から取り組む」のではないからこそ可能になった「ダイアローグ」としての写真の試みが、寺山独自の批評性をもつものであったことを堀江が見逃していないことには注意しなければならない。
堀江は、撮影という行為のもつ不思議さを素朴に問う姿勢を終始手放さないことからくる、寺山独自の批評性を肯定的に見出しているのである。また、自らをアマチュアとして規定しながらも、「寺山が遺した数々の不可思議で幻想的な写真には、写真家としての確かな手腕と作家性が窺える」と書いていることも見落とせない。
寺山は、そのジャンルの、ジャンル史の「王」たろうとしていたわけではない。結果的に天井桟敷の演劇活動が寺山の後半の生を投げうつものになったのだとしても、一つのジャンルに実存を賭ける姿勢、たとえば、「全身写真家」のようなありようは寺山のものではなかった。ジャンルとの関係においては、あくまで根拠地をもたない「ゲリラ」たらんとしたのであることを念頭におけば、また違った光景が見えてくるのである。
堀江は、主に、寺山が写真ジャンルにおいて、中平、森山から受けたインパクトを語るが、その実、中平、森山もまた、寺山に多大なインパクトを受け、ゲリラの巻き起こす風に巻き込まれないように、写真ジャンルで自らの足固めをし、彼らなりに寺山に応答し続けたのではないか、そんなことも頭をよぎった。
もっとも、私には、こうした寺山の活動をゲリラと名付けて了解しおおせるのは戦闘的にすぎて零れ落ちるものもあるように思えるので、最後に、以下の寺山の歌を、寺山のこうした特質をよく表すものとして補足しておこう。
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして
他人の夢の傍らにあって、しばし夢を共有するものの、岸にあがってしまうことなく次の他人の夢の傍らに流れ着く、それを繰り返す自分を「さみしからずや」と詠んでいる。「岸にあがる」とはジャンルの、ジャンル史の住人になることであると考えれば、1960-70年代の塚本、そして中平、森山との関係、ひいては寺山の各芸術ジャンルとの関係は、この歌にあますところなく表出されているように思える。ここに、ドゥルーズ=ガタリのノマディズムをみても的外れではなかろう。
ともあれ、堀江はこの著作を、「つまるところ寺山は、写真という戦場においても、寺山修司たらんとしたのである」という一文で終えているが、それは以上のようなありようを意味しているのだと私は解釈している。写真(史)との関わりを通して、寺山の本質的な一面をみごとに活写した、独自の寺山論だといえよう。
(2020年12月26日)
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2020.12.28より許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-370.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10421:201229〕
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