オットー・クレンペラー : 「芸術と政治」問題に立ちあった人 (1)
- 2022年 9月 23日
- スタディルーム
- オットー・クレンペラー野沢敏治
はじめに クレンペラーとの出会い
オットー・クレンペラー、この人はヨーロッパ音楽の指揮者です。彼はカラヤンやバーンスタインのようなスターではなかったけれど、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルター等と並ぶ偉大な指揮者でした。彼は1885年に当時のドイツ帝国のブレスラウで生まれ、1973年にスイスのチューリッヒで亡くなりますから、今年で没後50年近くになります。
指揮者は楽器の奏者や歌手とともに作曲家と聴衆の間を結ぶ人ですが、実際の音楽は彼らがあって音になるのです。そのことは役者や演出家が芝居において台本と観衆の間をとりもつ場合と同じです。それらと比べると、文学や美術では鑑賞者は作品に直接向かいあっています。ぼくは音楽の一愛好家にすぎませんが、クレンペラーの活動に触れることで、作品を指揮し演奏するとはどういうことか、作品のテーマと表現行為との関わり方にさまざまな問題があることを知ってきました。それとともに音楽と社会との、特に音楽と政治との避けることのできない問題があることを学びました。最近、日本では「あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」」が公権力の介入によって中止に追いこまれる事件がおきました。それによって作る者と観る者が芸術表現をめぐって「対話」する場所と時間を奪われてしまったのです。およそ公共行政をわきまえることのない自治体の長や内閣の代弁者をわれわれは持ってしまいました。それにこの「音楽 対 政治」は伝統的に花鳥風月や人生の哀愁を歌う日本では避けられてきた論点です。展示を批判する側も擁護する側も展示物のテーマ内容だけでなく、内容を形にする作品作りを問題にすることは弱かったと思います。クレンペラーは以上の問題とぶつかった古典的な事例の一人でした。
どの人にもその後の人生に生き続ける音楽体験があるでしょう。ぼくの場合、その一つはクレンペラーが録音したLPレコードによってでした。クレンペラーは老齢で長旅は無理でしたから、日本に来ることはなかったのです。彼はその経歴の途中で1933年にドイツからアメリカに亡命せねばならず、ヨーロッパに復帰したあとの1955年になってようやくロンドンで活動の定位置をえたのですが、その時にはもう70歳になっていました。だから日本人が彼の演奏を聴こうとしたら、イギリスに出向くか(――わずかの日本人しか彼の演奏に接していません)、レコードを買い求めるだけでした。
ぼくのクレンペラー体験は他の人にも共有されていますが、初めて彼のレコードを聴いたのは高校1年の1960年に日米安保条約の批准をめぐって民主主義が問われた時でした。クレンペラーはその年にロンドンのフィルハーモニーを指揮してワグナーの序曲・前奏曲集を録音していました。それは黒のカートンボックスに入っていて、表には192センチの巨体でメガネの奥から眼光鋭くこちらを射るような、額の素晴らしく高い写真がデザインされていました。さっそく聴いて感じたことが、どの曲も他の指揮者によるものと違うことでした。同じ曲でも指揮者によって違って聞こえることは不思議でもなんでもありませんが、その違いがまったく独特なのです。それはいかにもワグナーらしく豪壮華麗な演奏で人を興奮させたり、感官をしびれさせる類のものでなかったのです。音に飾りがなくてまったくぶっきらぼうなのですが、遅めのテンポを押し通しつつ構成的で芯が燃えている、腹の底に響く音を出す、音楽に直に入っている感じでした。ぼくはそのことに魅了されたのです。
ぼくはその後も彼のレコードを求め、ついに大学時代に1965年録音で翌66年に発売されたベートーヴェンの『ミサ・ソレムス』にいきあい、言葉にできない衝撃を受けます。その時の日本はイザナギ景気に沸き、もうヨーロッパを追いこして学ぶものなしと息まき、2月11日の建国記念が公布された年でした。スコアにある通りの音符が目の前に見えたのです!それはどういうことであったのか。
その後、ぼくは彼がユダヤ人であってナチスに迫害されたあと亡命したこと、古典だけでなく同時代の音楽の熱心な紹介者であったこと、そして作曲もしていたことを知りました。それは歴史の記憶に値することであり、ぼくのレコード体験と関係があることも次第に分かっていきました。どのようにしてか、ぼくはここでその答をえるつもりです。
1 ナチスの文化政策との闘い
クレンペラーの亡命の原因ですが、それは彼がユダヤ人であり、それとともに彼の音楽活動が前衛的であって、ナチスの反ユダヤ主義のもとでは「ドイツ精神」に反するとみなされたからです。そのことは一応知られていますが、中身がよく理解されているとは言えません。
ユダヤ人社会の宗教的・社会階層的区別
まず、ユダヤ人と一口に言いますが、それは一様ではありません。ユダヤ人は世界史で典型的な「離散」(ディアスポラ)の歴史をたどり、移住先で迫害を受けてきましたが、その内部では宗教的態度と社会階層において違いがあります。そのことがクレンペラーの音楽活動に関連しています。
クレンペラーはピーター・ヘイワースのインタビューに答えて(佐藤章訳『クレンペラーとの対話』1976年刊)、父親は東欧ボヘミア系のアシュケナージであり、母親は南欧スペイン系のセファラードであったと述べています。このことだけでもユダヤ人は地域的に違っていることが分かります。アシュケナージはドイツ語を母語として他語と混じったイディッシュを話し、セファラードはアラビア語とスペイン語を母語とする言葉を話していました。ユダヤ人社会の構成についてはエーファ・ヴァイスヴァイラーがよく調べていので(明石政紀訳『オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』2011年刊)、彼女の本を参考にします。その本は一般の評論家のようにクレンペラーの言葉をそのままなぞる(宣伝か擁護のため)のでなく、それを裏づけるために広く深い事実の文脈におきますが、その周到さ、本人の自己正当化の甘さを許さない厳しい診察眼に打たれます。それに研究者は客観性の名のもとにあれこれの情報提供に努めますが、自分はどう思うのかの問いに答えないことが多いです。それは他人ごとではありません。
クレンペラーは幼少年時代から15歳まではハンブルクのグリンデル地区に住んでいました。そこには3つの宗派が、正統派と自由改革派、セファルディム派がありました。正統派はユダヤ教の教会(シナゴーク)に集まり、ユダヤ教の原理と伝統を厳格に守る保守派です。自由改革派はヘブライ式を脱した現代的な祭式をおこなっていて、クレンペラーの祖先はこの派に属していました。両親は母方の裕福な実家の援助を頼ってハンブルクにいたのです。彼はこの改革派の学校(ギムナジウム)で授業をヘブライ語でなくドイツ語で受けましたから、ヘブライ語を自由に読んだりドイツ語に訳すことはできませんでした。セファルディ派は南欧に起源をもち、東欧起源のアシュケナージ派に対して優越感をもっていたようです。これは被差別者のなかにある差別意識の一例です。
社会階層的にも格差があり、裕福なユダヤ教徒はその居住区(ゲットー)からキリスト教世界へ出ていき、教育と教養のあるインテリや経済人として活動します。前者のインテリにはアインシュタインやフロイトのような学者、マーラーやシェーンベルク、ガーシュイン、ハイフェッツ、メニューイン、ワルター、そしてクレンペラーのような音楽家が輩出します。この時代のヨーロッパはユダヤ人なくして立派な音楽はできないと言われていました。後者の経済人にはロスチャイルドのような金融資本家・政商がいます。クレンペラーの祖先にも銀行家や総領事となった者がいたようです。このように彼らは文化的・経済的に外のキリスト教世界に同化し、自立していくのです。そんなことで脱ゲットー派とゲットーに留まる層との間に溝ができていきます。ただし、教養知識人のなかにもユダヤ・コミュニティと精神的な絆を保ち続ける者はいました。
エーファの社会分析は続きます。分断は実はキリスト教徒の内部にもありました。上層市民と下層市民との間です。このことがキリスト教徒とユダヤ教徒との分断を複雑にします。例えば、プラハのキリスト教下層市民は同じ宗派の上層市民から受ける差別をゲットーのユダヤ教住民に転嫁していました。彼ら下層市民はユダヤ下層民を激しく憎悪してスケープゴートにしたのです。また19世紀末にハンブルクで自由港が建設されると、そこにユダヤ教徒が迫害を逃れて移り住みますが、彼らはそこでのキリスト教労働者よりも安い賃金で働いたので、後者の間に雇用不安が生じ、反ユダヤ主義の政党が移住ユダヤ人を排斥することがありました。
もちろんスケープゴートは同化した上昇ユダヤ人にもなされました。第1次大戦後のドイツは連合国から悲惨な目にあわされますが、ドイツ人はそれをユダヤ人のせいだとみなし、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺を招いたのです。
さて、脱ゲットー派の同化ユダヤ人には次のような別の問題がありました。
キリスト教への改宗
クレンペラーはユダヤ教徒でしたが、1910年にカトリックに改宗します。その理由は二つありました。一つは少数派のユダヤ教徒が多数派のキリスト教世界で仕事をするにはキリスト教に改宗せねばならなかったのです。彼は1906年に有名な演出家のマックス・ラインハルト(彼もユダヤ人)に推されてオッフェンバックの『天国と地獄』を何十回も指揮することが契機となって指揮者稼業に入ります。戦後のロンドン時代における古典の重厚な指揮ぶりからすると、こんな軽歌劇のブッファものを扱うことに意外な感を受けるかもしれませんが、それは彼の実験的なモダニズム演奏と関係がなくもないのです。
オッフェンバクはオペレッタ『地獄のオルフェ』(1958年パリで初演、日本では『天国と地獄』として知られる)でグルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』を茶化していました。そのオペラはオルフェオが亡くなった妻を求めて地獄にまで降りていくという神話をもとにした真面目なものでしたが、オッフェンバックはそれを偽善に満ちたもので実際は違うと笑うことで、当時のフランス帝政下の世相を風刺しました。その軽歌劇は「かんかん踊り」のターン タタタタ タンタンタンタン タタタタ タタタタ ター……の軽快なリズムと浮きうきした旋律で有名となっています。戦後日本の小中学校の運動会でよくとりあげられたものです。もっともそれはオッフェンバックの作曲でなく、他の人による編曲ものなのですが。このオペレッタは同時にワグナーの『ニーベルングの指輪』に出てくる古代の神々や英雄、愛による救済を皮肉るものにもなるのです。
その後、クレンペラーは1907年にマーラーの推薦でプラハのドイツ歌劇場の指揮者に、また1910年には同じくマーラーの推薦でハンブルクの歌劇場で指揮者になりました。彼は従弟からドイツで音楽活動をするにはカトリックの洗礼を受けねばならないと言われ、その言葉を受け入れるのでした。こういう改宗とその世俗的な動機は彼の師のグスタフ・マーラ―も同じでした。マーラーはウィーンの宮廷歌劇場の監督になるためにカトリックに改宗したのです。
もう一つの理由ですが、クレンペラーはストラスブールの大聖堂で主をほめたたえる儀式がパイプオルガンの音楽とステンドグラスの色彩によって効果を発揮することに感銘を受けています。実はこの理由もマーラーの場合と似ていて、マーラーにはカトリックに親和的な面がありました。クレンペラーがそれを示すものとして、マーラーの第4交響曲の終楽章や「魔法の角笛」の歌、第8交響曲第1楽章のラテン語賛歌をあげています(参照、「マーラーのエピソード」シュテファン・シュトンポア著、野口剛夫訳『クレンペラー 指揮者の本懐』1998年刊より)。マーラーと結婚したアルマ・シントラ―も『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』(石井宏訳、1998年刊)でマーラーがカトリックの神秘性に傾倒していたと認めています。しかし、クレンペラーは後年1967年にユダヤ教に戻っています。彼は宗派の教義にはあまり関心はなかったと思われます。
さて、ユダヤ人はキリスト教に改宗しても差別を免れません。クレンペラーの場合は後で取りあげるとして、マーラーの例をあげておきます。マーラーはアルマやナターリエ・バウアー=レヒナー(高野茂訳『グスタフ・マーラーの思い出』、1998年件)が証言していますが、宮廷歌劇場で活動していた時に新聞や市長、楽団員からの反ユダヤ主義に悩まされていました。また彼は宮廷歌劇場で沢山のオペラやバレーを演奏して貢献していたのですが、国外に出て公演する時によく自作の交響曲を演奏していました。それが行商人のようにツァーしていると中傷され、その交響曲は長いこと本拠地のウィーンで演奏されることはなかったのです。日本で高度成長後にマーラー・ブームを経験した世代からすると不思議の思うかもしれませんが。
音楽上の反ユダヤ主義
ところで、反ユダヤ主義は政治や行政の世界だけでなく、音楽上のものでもありました。
クレンペラーの同時代人のハンス・プフィッツナーは後期ロマン派的な作風のオペラ『パレストリーナ』や『愛の園のばら』の作曲者ですが、ナチズムを公然と支持していました。彼はユダヤ人の文化風潮を「国際ユダヤ主義」と称し、それをごたまぜの文化、根無し草のコスモポリタンとけなし、ドイツ民族の純潔の精神を犯されてはならないと主張したのです。この国際ユダヤ主義という言葉がナチスによって繰り返し宣伝されると、人々はそれがいかに虚言であっても本当かもしれないと思ってしまう、それが怖いことです。偽が真になってしまうこの状況に抗するには、意志の力をもって攻撃された音楽の真相をつかまねばなりません。
反ユダヤ主義の元祖、ワグナー
ちょっとここで、反ユダヤ主義の元祖ワグナーに付言しておきます。ワグナーは「音楽におけるユダヤ性」(1850年)という匿名の文書で(ーー1869年の論説「指揮について」まで延ばしても)、ユダヤ人のメンデルスゾーンとマイヤベーアが芸術に破壊的な影響を与えたと攻撃しました。彼らの音楽様式はユダヤ人の離散性や国際性と対応して種々の形式や作風をごたまぜにしたものであり、精神性や真の情熱、感動がないとけなされます。反ユダヤ主義は彼の音楽作品の中にも現れているようで、ナターリエは楽劇『ラインの黄金』の地下の国や『ジークフリート』のなかの若き英雄ジークフリートに嫌われるミーメがユダヤ人をカリカチュアしていると述べていますが、ワグナーの描き方はちょっとサディスティックであり、なぜこんなに嫌うのか不思議に思うことがありました。彼は親族にユダヤ系の血が混じっているのを知って自己嫌悪に陥ったのだと解釈する人もいるくらいです。マイヤベーアに対しては過去の個人的な恨みも混じっていたようです。
こんなわけでちょっと読むに堪えないところもありますが、注意しておくことはあります。ワグナーはメンデルスゾーンについては彼個人のみでなく、「音楽芸術における現代という時代の不毛ぶり」を示す代表としてあげているのです。またワグナーのメンデルスゾーン評には今日のわれわれが一般に受け入れていることも見逃せません。それにワグナーはユダヤ人の芸術家で評価している場合もあります。
それにしても、ワグナーのメンデルスゾーンへの低い評価はある事態のもとでは通用しないことを教えられます。クルト・リースが『フルトヴェングラー 音楽と政治』(八木浩・芦津丈夫訳、1959刊)で伝えていることです。ナチスがオランダに侵攻した時にゲヴァントハウス前のメンデススゾーンの記念碑は撤去されましたが、そのことに決して同意しないドイツ人がいたのです。そしてパリがナチスの支配から解放された時に、それまで演奏を禁止されていたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲がユーディ・メニューインによって演奏されると、涙する聴衆がいたのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1232:220923〕
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