オットー・クレンペラー : 「芸術と政治」問題に立ちあった人(4)
- 2022年 10月 14日
- スタディルーム
- オットー・クレンペラー野沢敏治
はじめに クレンペラーとの出会い
1 ナチス文化政策との闘い (1)
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2 「文化ボルシェヴィズム」、その音楽的中身 (2)
A オペラ上演
同時代の作品
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古典作品 (3)
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B コンサートについて (4)
B コンサートについてーー即物的演奏とは
今度はオペラと違った角度からコンサートにおけるクレンペラーの演奏芸術の精髄に迫ってみます。
最初にクレンペラーが同時代の新即物主義的な作品や無調・12音技法の作品を積極的に取りあげたことを、次に古典を新たな視点から再現したことについて考えてみます。それらの活動がやはりナチスの攻撃を受けるのでした。
音楽の違いは良いか悪いかにあり、古典と現代の間に本質的な違いはない
クレンペラーはいわゆるスペシャリストではありません。クロル・オペラ時代は現代ものの専門家と評され、戦後にはベートーヴェン・チクルスを繰り返したのでベートーヴェンの専門家とみなされます。それは表面的な見方であって事実でありませんでした。彼は実際にはクロル・オペラ時代にも古典を熱心に演奏しており、そこを去った亡命先のアメリカやスカラ座でベートーヴェン・チクルスを行なっていました。現代ものも戦後になっても演奏されます。彼はその経歴の間ずっと古典と現代の両者の様式から必要とされる指揮者でありたいと願っていたのです(参照、1961年のベートーヴェンの交響曲録音に寄せた文章、前掲『指揮者の本懐』所収)。
クレンペラーにとって古典ものと現代ものの間に本質的な違いはないのです。彼は良い音楽だから古典も現代も演奏するというのです。現代音楽は彼にとってモードのことでなく、また古典は彼にとって古典だから良い音楽なのでなく、反対によい音楽だから古典を演奏するというものでした。彼はできあがった古典・現代のイメージに固定されないのです。この点、もう少し彼に聞いてみましょう。
クレンペラーはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』(1912年)をケルンで指揮しており、亡命先のロサンジェルスでも同時代の作品を演奏し続けます。アメリカでは少数者にしか受け入れられませんでしたが。クレンペラーは12音技法について次のように誤解をただします。シェーンベルクはそれまでの技法で言うべきことがなくなったから新しい技法に移ったのでない、彼は同時に調性音楽も作曲していた、彼にとってはどちらのシステムも必要だから用いたのだ、と。クレンペラーはそういうシェーンベルクから「協和音と不協和音の間にはなんら本質的な違いはない」ことを学んだのです。もっとも12音システムが音の反復を禁止するのは行き過ぎだと認めつつ、しかしそれは抽象的な理論や数学に留まるものでなく、正しく用いれば説得力のある音楽になると説いていきます(参照、前掲『クレンペラーとの対話』)。調性音楽を擁護したフルトヴェングラーもシェーンベルクを12音技法の作曲家とだけ見ることはなかったことに注意しておきたいです。
さて、状況は時間がたてば変化します。1960年代になると、かつての前衛の旗手シェーンベルクやストラヴィンスキーは古典となり、先端はブーレーズやシュトックハウゼンに移ります。すると、その新世代と一般の聴衆の間には以前よりもずっと越えがたい溝ができ、それら現代音楽は聴衆との間で共同体験をもたないことを誇るようにすらなります。今ではブーレーズも古典になっている!クレンペラーはそんな時でも彼なりの理由で新しい音楽に関心を抱き続けていきました。
現代の音楽家はベートーヴェンと違う時代に生きていますから、もうベートーヴェンのようにソナタ形式で作曲することはできません。それが彼らの心に訴えることはありません。でも現代の聴衆はどうか。ベートーヴェンの音楽表現には現代の聴衆の心になお訴える生命力があります。それはなにゆえか、フルトヴェングラーが問うたことでした。第一、ヨーロッパの音楽は世界に唯一で普遍的といえるか、それは問題でしょう。それにクレンペラーの論理を拡大すれば、ヨーロッパ音楽と日本を含む東洋音楽に違いはあるが、本質的な区別をつけることに、ましてや優劣をつけることにあまり意味はないでしょう。結局、自分はどう感じるかが最後のよりどころなのです。
クレンペラーの即物的演奏 音楽は言葉の尽きるところから始まる
クレンペラーはシュトラウスがベートーヴェンの交響曲は標題を思い浮かべないと指揮できないと述べたことに対して、メロディには標題を与えない方がよいと否定的でした(参照、1934年12月23日『ロサンゼルス・タイムズ』でのインタビューより、『指揮者の本懐』所収)。クレンペラーのコメントはよく議論されてきた絶対音楽と標題音楽の区別と関連の問題になります。べ―トーヴェンの第3交響曲は「英雄」、第5交響曲は「運命」と名づけられていますが、それらの標題はベートーヴェンでなく、後の人がつけたものです。それにしてもまさか、第3交響曲はナポレオンの事業を表現しているとか、第5交響曲では運命がかく扉をたたいていると思って鑑賞する人はいないでしょう。第6交響曲も「田園」と愛称をつけられていますが、それが田園風景を描写したものでないことはべートーヴェン自身が5つの楽章の頭に付した説明を見ても明らかです。それは心に浮かぶ感情を表現したものです。終楽章などは精神的です。
クレンペラーは音楽を言葉や標題に縛られて音素材の動きが形をとる過程を感受しないことを戒めるのです。
マーラ―の交響曲に対しても同じことが言えます。マーラーは最初は第1交響曲に「巨人」の名を与えていました。そのロマンチックなタイトルはジャン・パウルの同名の小説に心酔して作曲していた時につけられたのです。だがアルマによると、彼はしょっちゅうそのタイトルの解説を求められることで標題の虚しさを感じ、後にその名を消します。またナターリエによると、彼は第2交響曲「復活」を彼女に解説していますが、彼はそれをただ「交響曲」と名づけ、あまり標題的に説明したくなかったようです。彼自身の説明やスコアへの記入は尊重されるべきですが、今日に至るまで商業ジャーナリズムは俗受けする標題をつけ続けています。
……でも、われわれには音楽に何かしらロマン的な感傷を求める気持ちはないでしょうか。1933年、クレンペラーがナチスの迫害で亡命した年に、映画『未完成交響楽』が作られました。主人公はシューベルト。――貧しいシューベルトに質屋の娘エミーが好意をもち、助けようとしている。「菩提樹」、「野ばら」の調べが流れ、シューベルトがロ短調交響曲のモチーフをピアノで弾く。うっとりと曲を聴く人々。そこに1人の貴婦人が現れる。その娘カロリーネはシューベルトの頭に第3楽章のモチーフが湧いてきたところで笑い出す。彼はその失礼に憮然として退出する。やがて彼はエステルハーツィー伯爵の娘の家庭教師になる。その娘がいつか笑ったあのカロリーネ。彼は最初のレッスンの時に彼女の歌声「君よ知る…」のすばらしさに驚いてしまう。彼女はいつか聞いた曲を完成させてくれと頼む。その後、2人は恋に陥る。しかし彼女の父親は両者の結婚を咎める。シューベルトは病にかかるが、ウィーンに戻って3ケ月、そこにカロリーネの妹から手紙が来る。喜ぶシューベルト、涙するエミー。しかしそれはカロリーネの結婚を知らせる手紙であった。シューベルトは彼女の結婚式でロ短調の完成した部分をピアノで弾くが、第3楽章に入ったところでカロリーネは止めて!と叫んで失神してしまう。後日、彼は他人の妻となったカロリーネと会ったうえで別れる。彼は第3楽章の部分を破って捨て、楽譜に「わが恋の終らざる如く、この曲も終わらざりし」と書きつける。
ロ短調交響曲はそれが未完成に終わった理由をこんな風に人に想像させるのですから、怖るべき曲です。しかし、クレンペラーはそんな感傷とは縁のない指揮者でした。そこで現実に戻り、問題の続きに入ってみます。
音楽を概念や思想で代えることはできない
音楽は概念や思想を表現するか。ロマン・ロランはこの問題をファシズムと第2次世界大戦の最中にベートーヴェン研究において追究していたのですが、ストラヴィンスキーが『自伝』でそのロランに対立しました。ストラヴィンスキーはベートーヴェンの音楽が世界苦と悲劇、運命に対して英雄的に立ち向かい、苦悩をつきぬけて歓喜の勝利を歌っているという解釈を批判します。またベートーヴェンがフランス革命に共感したり、貴族に対して誇り高く反発したことは事実だとしても、そういう音楽外の要素をもって音楽を理解することを批判するのです。彼は指揮はメトロノームの指示通りに振ればよいとまで言うことがありました。彼は以上のことで何を言いたかったのでしょうか。彼の真意は音楽を音楽外のものと取り替えてはならない、作曲家が標題をつけても音楽は音楽であって、それを思想や文学に代えてはならないということだったのです。その点はロマン・ロランも同じ考えでした。音楽を作るのは思想内容ではなく、それが表象にあったとしても、音符を構成していく力動が音楽なのですから。このことは舞台や演技のあるオペラでも、そして言葉のある歌でも当てはまると思います。
楽譜に忠実に 対象に即して
クレンペラーは彼自身もしぶしぶ認めるように「新即物主義」的な演奏をしていました。例えば、バッハの『管弦楽組曲』第3番に有名な「G線上のアリア」と称されている部分がありますが、クレンペラーはそれをヴィブラートもスラーもなく、感傷を交えずに「内面の震え」で演奏したため、聴衆にショックを与えたということです(参照、エーファ前掲書)。彼は戦後1949年4月のブタペスト放送でも、同曲の編曲版はやぼったく聞こえるが、本当は気高い曲だと話しています。彼は作品のムードを説いて指揮するタイプでないのです。そのことはチャイコフスキーについても言えました。その第6交響曲はヒステリックに間違った感情移入で演奏されることが多く、俗悪な悪趣味の象徴にされることがありましたが、クレンペラーはその楽譜をよく調べた結果、自分の心に忠実に書いた真正の作品であると評価しなおします(参照、1935年10月13日のインタビューに答えて、『指揮者の本懐』所収)。当時の演奏を今聴くことはできませんが、戦後のロンドンでのレコード録音がその様子を伝えています。ぼくは知人にそのCDを貸したところ、数日後、「これはどうも僕には……」と言って返しに来ました。ぜんぜん「悲愴」っぽくなかったからです。
彼はおよそ聴衆にサービスする気がないにもかかわらず、後年のロンドン時代の演奏になりますが、ウィンナ・ワルツのある部分を高く歌いあげたり、ワグナーの「ジークフリート牧歌」をオリジナルの室内楽的編成で響き合わせたり、そしてすべての曲でフィル・ハーモニーのつやのある弦の音を聴かせて、人を喜ばせることができる人でした。
クレンペラーは即物的演奏の代表としてトスカニーニの名をあげています。でもその評価には注意が必要です。クレンペラーが述べているように、また評論家も認めていたように、トスカニーニは楽譜に正確であるだけでなく、繊細な表現をした人なのです。ヴェルディの『オテロ』におけるカンタービレな歌わせかたなどは見事です。吉田隆子も太平洋戦争中に病床でラジオから流れ出るトスカニーニ指揮のベートーヴェンの第3交響曲を聴き、その第2楽章の繊細な表現に感心していました。彼女はトスカニーニの指揮から「一つの長い音符が呻っている間、その中には、何と微妙な、そして多くの言葉をつぶやいて話しかけてくるものがある事だろう」(参照、『音楽の探究』より)と感受したのです。戦後の1955年にクレンペラーはベートーヴェンの同曲をフィルハーモニーで録音します。その時の第2楽章葬送行進曲を聴くと、息絶えだえの上の旋律を下で支える低弦のデモーニッシュな響きは言いようのないものでした。
別の「即物」理解――有機的連関と「遠聴」
指揮者が楽譜を忠実に再現するのは当然の義務ですが、それは機械的に追うこととはまったく違います。フルトヴェングラーの指揮はトスカニーニと反対に楽譜に忠実でないとよく非難されました。エリーザベトがそれに対してフルトヴェングラーを弁護しています。楽譜に忠実とは一音たりとも変えてはならないことだとすれば、それは無味乾燥で感覚に訴えなくなる、楽譜の背後にある「物自体」を問題にすれば、テンポは微妙に変わり、印刷された手本は生成発展して生きたものになる、と。主情的と評されていたフルトヴェングラーも実は前述のストラヴィンスキーの考えと通じるところがあったのです。フルトヴェングラーは作品を音楽史上の様式(古典派、ロマン派、印象派、国民楽派、等々)で表面的に理解しようとはしません。また彼はベートーヴェンの曲は文学的内容を表現するものでなく、事物(ザッヘ)に即したものと捉えました。この点、彼のベートーヴェン第5交響曲の解釈に聞いてみましょう。
第5交響曲の冒頭は、例のタタタター、タタタターー、で始まります。そこに問題があったのです。第1小節のタタタの8分音符に続く第2小節のフェルマータのついた2分音符と、第3小節の8分音符タタタに続く第4小節の2分音符が第5小節の2分音符とつなげられてそこにフェルマータがつく、この2つのフェルマータをどう理解したらよいか。下記の楽譜を見てください。
この問題を提起したのはマーラーでした。最初のフェルマータはその前に1小節ありますが、2番目のフェルマータの前は2小節なのです。これは他に例のないまったく風変わりなものでした。彼はその理由を探しますが、よく分かりませんでした。それを見つけるヒントは彼の『コリオラン』序曲の演奏解釈にあるかもしれません。序曲の最初に5つの和音が鳴りますが、彼はそれを「序曲のなかの序曲」、コリオランの全運命をふくんでいるから、5つをただ機械的に打ってはとならないと解釈していました(参照。ナターリエ前掲書より)。これがフルトヴェングラーの出したフェルマータ問題への答につながると思われます。
フルトヴェングラーの解釈を知ると、それはストラヴィンスキーの即物主義的演奏論に対して即物性の意味を逆転的に捉え返していることが分かって実に面白いです(参照、「ベートーヴェンと私たち」(1951年)、『音と言葉』所収)。
フルトヴェングラーはまったく文献学的に原典に即して解釈していきます。彼はベートーヴェンの最初の自筆原稿(ファクシミリ・コピー)とその後の印刷原稿を比較してみました。すると、前者には後者にはある2小節にまたがるフェルマータがないのです。そこで彼はこう推測しました。――2小節にまたがるフェルマータは全楽章の総譜が完成した後で書き換えられたのである。そのフェルマータが冒頭だけでなく再現部の冒頭と終結部でも繰り返される。ベートーヴェンは作曲の過程でそのテーマが重要であるとはっきり再認識したので、2つ目のフェルマータをのばしたものにしたのでないか。つまり冒頭の4小節はそれ自体で1つのまとまったものであって、第1楽章だけでなくそれ以降の楽章を含めた全体に対するモットーなのでないか。だからフェルマータの意味はその後の曲の展開によってはっきりするようになっている。……これは内的で説得的な解読でした。
フルトヴェングラーは即物主義という言葉を19世紀のロマン主義に対する反動とするのでなく、また音楽史上の新旧の時代風潮や流行に関わらせるのでもなく、ザッヘに直接かかわるものとおさえるのです。ザッハリッヒとはフルトヴェングラーにとって以下のように(参照「ベートーヴェンと私たち」)作品を弁証法的に相互連関においてつかむことでした。
ベートーヴェンの交響曲は楽節が規則正しく構成されています。それはストラヴィンスキーの『春の祭典』やジャズと比べると、リズムの複雑な豊かさはなく、単純そのものですが、フルトヴェングラーは楽節や主題の間の結びつきはずっと緊密で相互に連関している点に注目するのです。どの要素も自分の立ち位置や調性の関係を知ることができる、どの小節の効果もそれに先行する小節の効果が働いている、どの瞬間も今あるようでしかなく、全体が内的な必然性をもって展開している。彼はそういう建築学的な豊かさを認めるのです。
フルトヴェングラーはその豊かな単純さを言い表すのにハインリッヒ・シェンカーから「遠聴」という言葉を借りてきました(参照、「ハインリッヒ・シェンカーー 一つの時代的な問題」、『音と言葉』所収)。人間の行為は生命の有機的な連関に組み込まれ、すべてはその原因を遠方に、つまり前後関係や因果連関の中にもつのですが、それが音楽に適用されると、楽譜の数ページにも及ぶ大きな連関を聴き取ることになるというのです。フルトヴェングラーはこの「遠聴」をドイツ古典派の特徴とみなしました。
「遠聴」という方法は俳優の役作りでも当てはまります。滝沢修は戦前に新劇運動で弾圧される経験をした俳優ですが、戦後の再出発の時に『俳優の創造』を著し、脚本をもらったら自分の役のところに印をつけるな、他の役のセリフを読め、稽古場では他の役のセリフに聴け、とすすめていました。役の人物は登場する時にはすでに「前史」をへており、舞台ではアンサンブルの「一環」になるように集中するというのです。こういう役作りは社会科学上の古典や人物を理解する時にも参考になります。
さて、クレンペラーのフェルマータ解釈は見当たりませんが、彼も即物性ということで楽譜に一切手を加えてはならないとは考えません。そのことをオーケストレーションの問題で確認しておきます。
第5交響曲の楽器編成の変更
クレンペラーはベートーヴェンの第5交響曲の演奏にあたって楽器の配置に手を加えました。現代では弦楽器は大きく編成されていますが、それに対して木管とホルンの数を倍にして音量を釣り合わせたのです。それが原曲に対する変更だと非難されました(1934年10月22日の『ニューヨーク・タイムズ』への手紙、『指揮者の本懐』所収)。マーラーも原曲にある程度手を入れていました。その理由は、ベートーヴェンはオーケストラの技法について知らないことがあり、また聴覚を失いつつあったので各楽器の響きをコントロールできなかったというものでした。後代の芸術家はベートーヴェンの意向通りに演奏しようとしたらどうしても手を加えねばならないのです。クレンペラーも同じ考えをもっていました。
クレンペラーはこのオーケストレーションの変更を第9交響曲でも行なっています。第5交響曲の場合と重なる点がありますが、改めてこの問題を取りあげてみます。
ワグナーによる先例
第9交響曲にはすでにワグナーによる改訂版があり、多くの指揮者がそれに従っていました。第9交響曲は今日でこそベートーヴェンの最高傑作とされていますが、1824年の初演後は長いこと演奏困難で理解しがたい作品と受けとめられていたのです。その誤解を解くのに貢献した一人がワグナーでした。ワグナーは木管や金管のパートに手を加えて響きを豊かにしています(参照、「べートーヴェンの交響曲を演奏するために」、1872年3月、)。
ワグナーは第9交響曲の楽器編成に以下のように疑問をもちました。――ベートーヴェンのオーケストレーションは彼以前のハイドンやモーツアルトのものを使って、彼らをはるかに超える構想の実現を要求したから、そこにギャップが生じる。これではベートーヴェンの構想にあるようにはっきりした旋律線を浮き出すことは難しい。またベートーヴェンはその時には聴覚を失っており、オーケストラの実際の響きに対するイメージを薄れさせていた。そのため彼の構想に忠実であろうとしたら、楽器の編成を変える必要が生じる。管楽器と弦楽器の間の音量のバランスを保つように配慮せねばならない。
そう言って、ワグナーは第2楽章スケルツォの第2主題がはっきり聴き取れない例をあげ、弦に対して木管と金管の数を多くしたのです。前掲論文の訳者・松原良輔は「あとがき」でワグナーの改訂を次のように紹介しました。第1ヴァイオリン18、第2ヴァイオリン16、ヴィオラとチェロ各12、コントラバス8,フルートとクラリネット各3,オーボエとファゴット各4,ホルン8,トランペット4,トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ2対、大太鼓・小太鼓・トライアングル。シンバル各1。なんという大編成か!後期ロマン派のマーラーやブルクックナーにも見当たりません。後にロマン・ロランもワグナーが提示した問題――第9交響曲の楽譜には「読むことと聴くこととの不一致」があることーーを認めています(参照、「『第9』の楽器法について」、『ロマン・ロラン全集』第25巻所収、蛯原徳夫・北沢方邦共訳)。
クレンペラーの修正
しかし、クレンペラーはワグナーのやり方では「大げさな表現となっていて純粋でなくなっている」と思い、ベルリン時代にオリジナル譜に戻しました(参照、『指揮者の本懐』)。その理由は、ワグナーの改訂は後期ロマン派の時代としては必要であったが、時代の違う今ではその改編に従わなくても内容を十分に表現できるというものでした。ただ彼もスケルツォ楽章では楽譜通りにやると主テーマが埋もれてしまうので、ワグナーの改編は認められると断っています(1927年『ミュージカル・アメリカ』誌のインタビューに答えて、『指揮者の本懐』所収)。ワグナーに限らずクレンペラーの演奏からは常に木管の旋律がくっきりと聴き取れますが、これは他の指揮者にない事なのです。
クレンペラーのオーケストレーションの別の特徴として、楽器の位置によるバランスの問題があります。彼は第1ヴァイオリンを指揮台の左側に、第2ヴァイオリンを右側におき、他の弦楽器群をその間に置いています。私どもが1950年代末の中学生の時の音楽の教科書にはこういう古典的な配置の図が載っていました。こうすると、第1ヴァイオリンと他の弦楽器および第2ヴァイオリンとの対話の様子がよくわかるのです。戦後のステレオ録音になると、この位置関係は手に取るように聴きとれたものです。現代のオーケストラの多くがしているように、この第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを並べて演奏させると、ヴァイオリンは固まって大きな音量をだせますが、弦楽器群内部の関係の様子はわかりにくくなります。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1236:221014〕
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