夏 に なると
- 2023年 7月 23日
- 時代をみる
- ホームレス笠井和明
「高田馬場駅」から、西武新宿線で「拝島駅」へ。
所要時間は45分程度。「拝島駅」の中にあるそば屋にて昼食。
「拝島駅」からJR八高線にて「小宮駅」まで。本数は少ないが一駅なので、所要は10分程度。
この地は父が生まれ育った地。
その父が他界した。
ホームレス支援をしている不届きものの息子を持とう とは露知らず、この地で生まれた父は、青年期に戦争となり、当時の人々は皆そうであったのであろうが、それに大きく影響され、育った。昭和5年生まれ。農家の次男坊。
戦争の最中、多摩川の向こう岸にある高等小学校に通い、14歳の春、そのまま戦闘機を作る会社に職人見習いで入社。
遺品の中に「厚生年金の記録」や「職務経歴書」と云 うものが大事にしまってあり、それによると昭和19年4 月6日に工場に入社、資格を失ったのは昭和20年10月26 日。おそらく幾度も続いた「立川空襲」によって焼かれ、アメリカ軍の占領によって、近辺の工場もあらかた 閉鎖されたのだろう。
当時、立川の北、拝島、昭島近辺は軍需産業、航空機産業のメッカであり、戦後米軍に接種され、その後「返 還」、今は「昭和記念公園」に整備された「立川陸軍飛 行場」や、拝島の北の福生には「多摩陸軍飛行場」(後の「横田基地」)もあり、B29を落すため幾多の戦闘機 がそこから飛び立った。そして、それを若き工場労働者であった父も旗を振って見送り、空襲の度にバケツリレ ーをしていたのであろう。
戦後の空白期に父がなにをしていたかと云えば、立川の英語学校に1年、通っていたようである。その変わり身の早さは何だか頼もしい。そして、その後、古巣の飛 行機会社が再開すると、そこへ復帰。それから、ゼロ戦 で有名な田無の「中島飛行機」の跡地に出来
た、これまた飛行機関連の工場に転じ、自衛隊の戦闘機作りやら、ロケット開発やら、「下町ロケット」ではないが、そんな技術者として、その産業に関わることになり、ひたすら働き、定年後は、小さな庭に畑を作り、のんびりとした老後を送ることが出来た。
「小宮駅」から少し歩くと、多摩川と八高線の鉄橋が見える。
戦後まもなくの頃、その鉄橋で列車脱線の大事故があり、地元の若い衆であった父は、救助やら何やらに奮闘したと、そんな話しは聞いたことがあったが、戦争のことは何も語らなかった。
語ったからと、どうにかなるものでもないと知っていたからかも知れない。
ウクライナの戦争は病室のテレビで見ていた。何も語ることなく、只、じっと見ていた。
まるで「ホームレス支援」には理解のかけらもなかった父であるが、「良いことではないと思うが、だからと言って、悪いことではないわなぁ」と訳の分からぬことを語っていたことがあった。
ならば、少しでも供養になるかも知れぬと、高田馬場のシャワーサービスで下着が少なくなったと聞けば、実家の引き出しから下着類を引っ張り出し、靴下がないと聞けば、靴下を探し出しと、遺品は衣類提供などに使わさせてもらっている。
これまでも、「旦那さんが亡くなった」「父が亡くな った」「息子が亡くなった」。その遺品を役立ててもらいたいと衣類や物品の寄付を多くの方々から頂いて来た。「遺品整理」なんていう仕事も巷では市民権を得るようにもなった。遺品は何かと溜まる。近ごろは「終活」をする高齢者の方々も多くなったが、それでも捨てきれずに取っておくものは、そこそこ多く、遺族はその山を見ながら、ため息をつく。
自分もその当事者になってみると、気持ちが良く分かる。遺品をどうしようかと云うのは、ごみ箱に「ポイ」とも簡単にはいかないので、悩みどころである。使ってもらった方が、一回着ただけで捨てられたとしても、そ ちらの方が何だか救われるような気がする。
「供養」と云うものは、気持ちの問題だけに難しいが、そう思うようにした。
父も苦笑いをしているかも、知れぬ。
私事の話になってしまったが、私たちのホームレスの仲間と共に進める運動の原点は、先人達の苦労、戦後のこの国を、懸命に復興させた労働者達の汗と力、それをリスペクトするからこそ、労働者の使い捨ては許せなかった。そんな思いからである。仕事がないからとリストラし、住居も追い立て、路上生活を安易にさせる社会、 そして、それを放置し、揚げ句の果てには路上からも追い立てる社会が許せなかった。
先の戦争と、復興、高度経済成長期、そこで働き続けて来た人々の列から「路上生活者」と呼ばれる人々は生まれて来た。
建築労働で全国を渡り歩き、港湾労働では港で汗をかき、農家では稼げないので出稼ぎに来て、寄せ場で日雇 仕事を続け、呑み屋をやったり、自営や都市雑業に従事 したり、そうやって懸命にそして必死で働いて来た人々 の中から、「運」や「巡り合わせ」が悪いだけで路上生 活者になる。
そして、なったらそこで「ジ・エンド」。救いの手すらないと云うのは、それはあまりにもである。終いには 「野垂れ死」。「おかげさまで人が死にました!」であ った。
だから、当事者たちをまとめ、私たちは単なる「救済」ではない共助の「運動」を作った。
「立川基地」の北側は旧砂川町である。そこに新型ジェット機が飛ぶとか飛ばないとかで、米軍の基地拡張計画が出て、地元の地主や議員、住民などが猛反対。そこへ学生も加わり、かの有名な「砂川闘争」と云うものが起こり、そんなこんなで米軍も拡張計画を断念して、今は「昭和記念公園」である。
労働運動ではなく住民運動,中でも地主による運動は 社会運動史の中では特筆すべきもので、このたたかいが、後の「三里塚闘争」に影響を及ぼし、国策と真っ向からたたかう農民と学生運動が、普通に考えれば立場が違うのであるが、共に学びあいながら共闘していくと云う、これまた特筆すべき運動が展開され、現在も続いている。
本来、立ち上がらないと思われている人々が立ち上がると、既成の価値観にこだわる人々や、それを前提にしている多数派や、時には「左翼」からも批判される。
私たちの運動もそうであった。
立場が違う人々が何らかの価値観を共有しながら共闘を続けている。そんな歴史を俯瞰してみると、日雇い労働者の運動、「日雇全協」や「山谷争議団」もまた同じである。
新宿連絡会もまた同様。日雇労働者がいて、野宿労働者がいて、その支持があってこそ「争議団」や「連絡会」は成り立っていた。
日雇労働者であることを肯定し、「何が悪い」と堂々と語った「山谷争議団」。
その歴史もまた、砂川や三里塚と同じく、寄せ場やら路上やら、その当事者が逆境のなかでも生きる姿に感銘し、リスペクトした当時の学生や若い活動家がそこに加わり、作りだしたものである。
戦後の東京の歴史や、寄せ場の歴史、労働者の歴史、そして、路上生活者の歴史の上は、何かがつながり、なんとなく、何かが継承されて来たのであろう。
それらに関わった人々の生き方がどんなに凡庸であろうと、どんなに苛烈であろうと、どんなに惨いものであろうと、そうやって生き続けて来た人々を認め、尊重し、尊敬したいと思うのである。
父の死をきっかけに、色々なことがつながっていることに気がついた。
「平町」のバス停からバスに乗り、会津藩と共にたたかった幕末の志士で有名な「日野駅」へ。所要時間20分。そこからJR中央線に乗り、次の宿場町である新宿に戻る。およそ30分ぐらい。
……………
東京も梅雨になった。激しい雨の中、仲間達は逃 げ場を求めてあっち行ったり、来たり。 梅雨が明ければ、明けたで、都会の熱中地獄で、涼を求めて行ったり来たり。
東京都による1月の「路上生活者概数調査」が今年も発表された。
大方の予想通り、順調に減じている。
「コロナ渦」の騒動、喧騒はどうしたことであろうか。路上生活の数と、世の困窮の度合いと云うか、その深度は、直接リンクはしないものである。
路上の仲間は「長期化、高齢化」の言葉で修練され、それに加え「減少化」が、全国的な流れである。
路上生活者ではないホームレスの存在(これは昔からその「恐れのある」人々として想定されていたのであるが)、が路上生活者の減少と同時に注目される(と、云うか「話題性」を作っているというか)ようになって来た。
これらの人々を総じて「生活困窮者」(これは法律用 語でもあるが)と呼ぶそうだが、安定した住居がない人は「ホームレス」(こちらも一応時限立法の法律用語でもあるが)であるが、こちらは使い回され、「差別用語化」しているので、この呼称を嫌がる人もいるのだろう。
しかし、だからと云って「生活困窮者」が一般的な呼称かと云えば首を傾げたくなる。年齢、性別不詳で、対象が広すぎる。誰のことを言っているのかまるで判らない。「処遇困難者」と云う言葉のよう、どこか上から目線の感もする。「お前に言われたくない!」と叫ばれそうな呼称である。
まあ、それはともかくここら辺の人々は稼働年齢層が多い。バブル崩壊後のホームレス問題の発生、団塊世代のリストラ等からすると、その次の世代である。
気質もまた違って来る。
理知的であれと、誰もが「大学生」になってしまうような「学歴社会」の世の中、頭でっかちが多く、権利主張のようだけれど、よくよく聴いてみると、依存しているとしか思えない人もまた結構いる。
まあ、そんな傾向はどの時代でもあって「今の若者は!」と語られ続けるのが「若者」なのであるが、それでも、生まれた環境やら、その時々の社会や文化の影響からは逆らえない。今の人々の「気風」や「気質」、今の「下層」がどうなっているのかは、今の人でなければ
解明できないのも世の常。
それでもこれらの人々は、現実世界で必死に働き、生きている。シェルターに泊り、「ウーバーイーツ」でちゃりんこ乗って、汗水流したり、都会の飲食業を転々としている者、飯場や寮を転々としている者、「家」がなくても、「居場所」があればそれで良い。「不安定就 労」なんて、そもそもが当たり前。なので正社員でないことが困っている訳ではない。
これの人々が路上生活をしているとなれば、それは「補足」や「発見」されやすいし、接触もしやすいし、 実態もそれなりに把握しやすい。
けれど、路上生活をしていない「生活困窮者」は、本人や家族の訴えがない限り判りにくい。全体の実態は不明だし、そもそも「定住」と云う生き方をしていないのだから、どこに居るのかも不明であるし、そんなものを興味本位で探し当てるのも「野暮」と云うものである。 それぞれがそれぞれで頑張っているのであるから。
「コロナ渦」と云えば「定額給付金」の問題で、色々と動いたのであるが、住所、住民票の問題もまた複雑である。住所が「職権抹消」され、「住所不定」状態になると、それをどこかで復活させない限り住民サービスは基本的には受けられない。なので、「住所を移せ」今流行りの「マイナンバーカードを作れ」となる。
けれどそれを明確に拒否する人々も多い。面倒くさいと言うのもあるのだろうが、家族や借金取りなどから「逃げている」人もそんなに珍しくはない。こうなると 逃げることを支援するか、捕まることを支援するのか と、なかなか支援の側の判断も大変でもある。もちろん フォーマルな解決策はあるのであるが、それがあったとしても乗ってこないのは、路上の人々が「生活保護」があるのに、それを使おうとしないのと同じである。だからと言って「非難」したとしてもどうしようもない。
「捜索願」(今は「行方不明者届」と云うらしいが)を出されている人はまだ良い。「捜索願」すら出されず、定着もせず、社会との関係を絶とうとしている人に対し、役所は何も言えないし、せいぜい住民登録を「職権抹消」するぐらい。
そう云う暮らしをしていると、それが普通になり、それに固執し、離れなれなくなる。なかなか一筋縄ではいかない難しい問題である。
私たちが呼び続けて来た「先輩」と云う言葉は、世代が変わったことで、ほとんど死後になってしまった。なので「後輩」とでも呼ぼうか、そんな年下の「宿」のない仲間には、とにかく「頑張れよ」と励ますしかない。 尊厳は自分で作りな、あんまり一般の大人とか「常識」を信じるな、リスペクトすべき相手は自分で探せ。道なき道でもそこを迷わず、否、迷ったとしても愚直に行きさせすれば、きっと何かにぶつかるから。
「シェルター」や「宿泊施設」なんてのも一応作って、仕事もまた作ったりして来たが、そんな古い制度や古い支援なんてのは気の向く時に使えばよい。
こんな都市の矛盾や闇に首を突っ込むのは、
「良いことではないと思うが、だからと言って悪いことではないわなぁ」
である。
…………
まあ、連絡会は、そもそも、バブル崩壊後の古い路上の仲間の「共助」や「支持」や「激励」で成り立っているので、時代が変わったとしても、あまり課題を広げず、見栄を張らず、地道にコツコツ、今まだ残る路上の仲間や、路上にゆかりのある仲間と共に、路上からのみ 社会を見渡す場所に居続けるだろう。
お気楽な「学者」になるつもりも、「評論家」になるつもりもない。気の向くまま、私たちが感じたまま、仲間や仲間に通じる人々に語り続けるだけである。
「お天道様に背中を向けて歩く 馬鹿な人間」(鶴田浩二の「傷だらけの人生」)がたくさん居て、そんな街の中でそれを許されてしまう「路上生活者」も、何故だか一定の水準でずっと居て、そこからは何も生み出されはしないかも知れぬし、「自立」や「再起」なんてのは嘘っぱちかも知れないが、でもそう云う「夢」や「希望」のようなものを持ち、信じたり、裏切られたりしながら、どうにかこうにか生きている。
生きていれば、声も出せるし、笑うことも出来る、怒ることも出来る。仲間もまた出来る。ボランティアなんてそんな大げさなものではなく、助けあうことが当たり前で、もちつもたれつみんなで生きて行く。
そんな肩ひじ張らないところが、新宿ならでは。
大きな声を出さなくとも、困った時に新宿福祉事務所だけは何とかしてくれるし、仲間も何とかしてくれる。
「修羅の道」でも「地獄道」でも、「自業自得」であろうと「負け組」であろうとも、社会から蔑まれつづけていても、俺らは、どこにでも歩いて行くことは出来るし、どこでも寝ることも出来る。
そして、この街で生き続けることが出来る。 (了)
初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL87」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye5085:230723〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。