ローザ・ルクセンブルクの「社会主義的民主主義」論 新資料の紹介と解釈を中心に
- 2024年 8月 7日
- スタディルーム
- ローザ・ルクセンブルク赤海勇人
はじめに
本稿の主題は、1870年代初頭、当時帝政ロシアの支配下にあったポーランドの小都市ザモシチ(Zamość)で、ユダヤ系の家庭に生まれ、主にドイツとポーランドの社会民主党で活動したローザ・ルクセンブルクの「社会主義的民主主義」論を解明することである。第一次大戦中、その大部分の期間は投獄されていたとはいえ、ローザはドイツで急進的な反戦運動に身を投じ、ボリシェヴィキとも批判的に連帯していた。ロシア革命に関する彼女の見解は、『ロシア革命論』草稿で要約的に表現されており、本稿で主に取り上げるのもこのテクストである。しかし、このテクストの内容自体は比較的よく知られているため、本稿ではむしろ近年公開された多くの新資料をもとにして、その内容を敷衍したいと考えている。それによって、ローザの「社会主義的民主主義」論が、カウツキーかレーニンか、ドイツの社会民主主義かロシアのボリシェヴィズムか、といった二者択一に還元されることのない独自の性格をもっていることを明らかにする。そこで、まず第一章では、1991年以降利用可能になった新資料のうち特に重要なものを紹介し、これらの新資料を用いて、第二章では「異なった考えをもつ者の自由」を、第三章では徹底したインターナショナリズムを、第一次大戦中のローザの「社会主義的民主主義」論の核心とみなして考察する。
1 近年の研究動向と新資料
1-1:旧東側諸国のアルヒーフの開放
1991年、ソヴィエト連邦の解体と共に、ポーランドの歴史家のフェリックス・ティフらによって、それまでは利用できなかった多くの未公刊資料が公開された。ここで紹介する二つの資料はいずれも、モスクワのマルクス=レーニン主義研究所中央党文書館に保存されていたものであり、ローザの他の多くの著作物と同様に、現在はロシア国立社会政治史文書館(РГАСПИ)に所蔵されている。一つ目の資料は、「ロシア社会民主党の状況についてのローザ・ルクセンブルクの未発表の草稿」(1911年)(1)であり、これは有名な「ロシア社会民主党の組織問題」(1904年)と『ロシア革命論』草稿(1918年)の結び目となる重要な著述だが、詳細は後述(2-2)する。二つ目の資料は、1918年の夏から秋にかけて、ポーランド王国・リトアニア社会民主党(=SDKPiL)の同志で、当時ボリシェヴィキのもとで活動していたユリアン・マルフレフスキおよびステファン・ブラトマン=ブロドフスキあてに書かれた三つの手紙である(2)。特に9月3日のブラトマン=ブロドフスキあての手紙でローザは、ロシア革命に関する「一般的見解を定式化する」つもりであること、ボリシェヴィキの置かれている「全歴史の致命的な状況」を考慮する必要があること、しかし「完全な沈黙は不可能である(ganz zu schweigen ist unmöglich)」ことを語り、『ロシア革命論』草稿の公表を主張している。なお、マルフレフスキあての手紙については後述(3-1)する。ローザ研究の大家であるアネリース・ラシッツァの伝記的研究(4)や、オットカール・ルーバンの論文「レーニンの超中央集権主義的党概念とボリシェヴィキ革命に対するローザ・ルクセンブルクの批判」(5)、さらにローザ・ルクセンブルク国際協会を組織した伊藤成彦編訳の一連の国際会議の記録(6)などでは、これらの新資料が活用されている。
1-2:ポーランド語の著述の翻訳
これまではポーランド語でしかアクセスできなかった未公刊資料を含むローザ・ルクセンブルクの著述が、とりわけ2010年代以降、次々とドイツ語、英語、日本語などに翻訳されている。『労働者問題(Sprawa Robotnicza)』紙に掲載された初期(1892~1896年)の多くのポーランド語の著述を含む、日本語版『ローザ・ルクセンブルク全集』第1巻はその大きな成果である(7)。当初の計画では日本語版全集は全16巻となり、今回紹介している新資料の多くもそこに収められる予定であったが、残念なことにこの計画は最初の1巻のみで頓挫してしまった。また、第一次ロシア革命期にローザがポーランド語で執筆し、SDKPiLの機関紙『赤旗(Czerwony Sztandar)』や理論機関紙『社会民主主義評論(Przegłąd Socjaldemokratyczny)』などに掲載された論説が、ホルガー・ポリットによって次々とドイツ語に翻訳されている(8)。最近では、1912年の『赤旗』紙に掲載され、「ロシア社会民主党の組織問題」を除くと唯一、ローザが公式にレーニンを批判した文書である「ロシア社会民主党の統一の崩壊(Rozbicie Jedności w S.D.P.R.R.)」の英語訳が利用可能となった(9)。詳細は後述(2-2)する。
1-3:Gesammelte Werkeの続巻
1970年から1975年にかけて東ドイツで刊行された『著作集(Gesammelte Werke)』は全5巻6冊からなっていたが、アネリース・ラシッツァとエックハルト・ミュラーの編集で2014年にはその第6巻が、2017年には第7巻(全2冊)が出版された(10)。第6巻には、1893年から1906年までの約270点のドキュメントが収録されており、その大部分はドイツ語である。第7巻には、1907年から1918年までの約160点のドキュメントが収録されており、ここではその一部を紹介する。第7巻の第1分冊において目立つのは、経済学関連の手書きのテクストである。ドイツ社会民主党の党学校でローザが行った講義の内容を、彼女の生徒であったロジ・ヴォルフシュタインが詳細に書き留めたノートは、未完に終わった『国民経済学入門』の研究を大きく前進させる可能性がある。『資本蓄積論』第2篇(問題の歴史的叙述)の執筆に利用されたと思われる、シスモンディ、マルサス、ロートベルトゥス、キルヒマン、レーニン、ストルーヴェ、トゥガン=バラノフスキーなどの著作に関する手書きの断片的なメモや抜粋ノートも、マルクスの抜粋ノートのように活用されうるであろう。フランソワ・ギゾーの『イギリス革命史』からの抜粋は、ローザがフランス革命と並んで17世紀のイギリス革命の経験を重視していたことを示している。第7巻の第2分冊の前半部には、帝国主義・軍国主義や大衆ストライキに関するローザの演説が収録されている。『社会民主主義通信(Sozialdemokratische Korrespondenz)』や『闘争(Der Kampf)』に掲載された、確実に、というよりは恐らくローザが執筆したと考えられる無署名論文と、ローザが獄中でつけていたカレンダー(1915, 1917, 1918年)は、第一次大戦中の彼女の反戦活動の実態を知るのに役立つであろう。最後に、『ロシア革命論』草稿と同時期に書かれた32枚の草稿群「インターナショナルとドイツ社会民主党の歴史、戦争、革命、戦後の展望についての手書きの断片」では、後述(3-3)するように、第二インターとドイツ社会民主党に対するかつてないほど厳しい評価が見られる。
2 「社会主義的民主主義」論
2-1:『ロシア革命論』草稿
本章では、報告者が昨年発表した論文に基づいて、ローザの「社会主義的民主主義」論を「異なった考えをもつ者の自由」の理念によって要約する(11)。より詳細な議論については、拙稿を参照していただきたい。1918年9月から10月にかけて、ローザはロシア十月革命以降のボリシェヴィキの政策を批判する未完の草稿を執筆し、彼女の死後、この草稿はパウル・レヴィによって『ロシア革命論』という著作として出版された。この『ロシア革命論』草稿で、彼女は次のように述べている。
プロレタリアートの歴史的課題は、権力を獲得したときに、あらゆる民主主義を廃止してしまうことではなく、ブルジョア民主主義のかわりに社会主義的民主主義(sozialistische Demokratie)を創造することである(12)。
この「社会主義的民主主義」の実質をなしているのは、人民大衆の活発な政治参加や無制限の民主主義を可能とするような根本的な政治的自由、すなわち「異なった考えをもつ者の自由」である。ドイツ連邦公文書館が公開しているデジタル資料(13)では『ロシア革命論』の原草稿の一部を閲覧することができるが、この「自由とは常に異なった考えをもつ者の自由である(Freiheit ist immer Freiheit der Andersdenkenden)」という箴言は草稿の中央左隅の方に独立して書き付けられている。この一文の挿入指定箇所は、「政府の支持者、党のメンバーのためだけの自由は、支持者やメンバーの数がどれほど多くても、決して自由ではない(Freiheit nur für die Anhänger der Regierung, nur für Mitglieder einer Partei (mögen sie noch so zahlreich sein) ist keine Freiheit)」というよく知られた文章に続く箇所である。そこには、一本の斜線で消されている次のような記述がある。
まさに、自由の概念と本質には、異なった考えをもつ者のための可能性が含まれている(Zum Begriff und Wesen der Freiheit gehört eben die Möglichkeit für Andersdenkende)。
2-2:「異なった考えをもつ者の自由」
拙稿で証明しようと試みたように、ポーランド社会党に対抗して、あるいはロシア社会民主党やドイツ社会民主党の内部で、ローザが一貫して擁護し続けたものこそ、「異なった考えをもつ者の自由」であった。ここでは、特に第一次ロシア革命後の反動期に勃発したロシア社会民主党の再分裂の危機に際して、ローザが著した二つの文書を取り上げて、このことを証明する。冒頭1-1で取り上げた「ロシア社会民主党の状況について」草稿で、彼女は、非合法の党組織を解消しようとするメンシェヴィキの解党主義との闘争を、つまり「ロシアの党の発展の複雑な諸問題と諸困難を、機械的に、いわば拳とナイフで解決しようとする、党にとって危険なレーニンの傾向」に反対している(14)。彼女の考えでは、「SDKPiLは、党の統一の名のもとにフラクションの相互排除に反対し、その逆に、党の内部で、党の再建された統一の枠内で」、批判と議論の完全な自由に基づいて解党主義に対するイデオロギー闘争を指導しなければならないのである(15)。1912年1月のプラハ協議会をもってロシア社会民主党の分裂が確定してしまった後、SDKPiLはローザの執筆した「ロシア社会民主党の統一の崩壊」を『赤旗』紙に掲載し、「異なった考えをもつ者」を誰であれ党から追放してしまう「レーニン主義」を公式に非難している。
レーニン主義(Leninizm)は、その偏狭さとセクト的な組織観とによって、反対する者を誰であれ党から追放すること以外に日和見主義と闘争するための方法を何も知らない。こういうわけで、レーニン主義とは、その本性からして絶えざる分裂の政策(polityka nieustających rozłamów)なのである(16)。
2-3:「社会主義的民主主義」実現の条件
ローザにとって、2-2で見た党内民主主義(党組織論)の問題と「社会主義的民主主義」とは不可分であり、両者は単純な手段と目的という関係にはない。むしろ、こう言ってよければ、来るべき「社会主義的民主主義」は組織内での批判と議論の完全な自由として、社会民主党のなかでも先取りされていなければならないのである。だが、たとえばカール・カウツキーも『プロレタリアートの独裁』(1918年)で「反対派の自由」を擁護している。「それゆえ、党内の少数派の思想を全て抑圧してしまうことは、いずれも、プロレタリアの階級闘争に対する損害と労働者階級の成熟過程の妨害を意味している」(17)。こうしたカウツキーやメンシェヴィキがボリシェヴィキに対して行ったような民主主義的反対論から、ローザの「社会主義的民主主義」論を区別するメルクマールとなっているのは、ロシア革命との「批判的連帯」を可能にした彼女のインターナショナリズムである。その象徴的な言葉は、『ロシア革命論』草稿の末尾にある、「ロシアでは、問題はただ提起されえたのみであった。それはロシアでは解決されえず、ただインターナショナルにのみ解決されうるのである」という言葉であろう(18)。「異なった考えをもつ者の自由」に基づく「社会主義的民主主義」というローザの構想は、彼女のインターナショナリズムの考察によって補完される必要がある。
3 インターナショナリズム
3-1:ボリシェヴィキ批判
ローザやカール・リープクネヒト、レオ・ヨギヘスら大戦中の急進左派(スパルタクス・グルッペ)の人々は、1918年の私信のなかで、ボリシェヴィキが赤色テロルを行使し、ドイツ帝国主義との妥協に走ることで、社会主義の理念のうちにもたらされる破滅的な影響を強く懸念している。たとえば、冒頭1-1で言及したローザからユリアン・マルフレフスキへの9月30日の手紙には次のようにある。
四方八方から帝国主義者のペンチが迫っているような諸条件のもとでは、社会主義でもプロレタリアートの独裁でもない、せいぜい両者のカリカチュアに過ぎないものしか実現しえないことは、明らかです。……例えば、「ブルジョアジーの虐殺」というラデックの思いつきや、単なるこういった意味での恐怖というのは、とんでもない白痴(Idiotie summo grado)なのであって、社会主義の面子を潰すこと以外の何ものでもないのです(19)。
また、9月15日のケーテ・デュンカーからヘルマン・デュンカーへの手紙では、ボリシェヴィキの赤色テロルに対する原則的な批判が見られる。
テロルを原則だと宣言することによってのみ自らを維持しうるような体制、つまり、無関係の人間が人質として射殺されるような体制は、持続することはできないし、自らのうちに死の芽吹きを運び込むのです(20)。
このように、ローザらのボリシェヴィキ批判は、従来考えられていたよりもずっと厳しく、また原則的なものであったと考えられる。
3-2:ロシア革命との批判的連帯
だが、ロシア革命の現実に対するこうした強い懸念にもかかわらず、オットカール・ルーバンが言うように、ローザら急進左派とボリシェヴィキとのあいだには、敵対ではなく「批判的連帯(kritische Solidarität)」があったと見るべきだろう(21)。ローザは『ロシア革命論』草稿の冒頭で、「ロシア革命の批判的考察の第一の課題」をこう提起している。
戦争とロシア革命の経過は、ロシアの未成熟ではなく、歴史的課題の遂行にかんするドイツ・プロレタリアートの未成熟を証明したのである。このことをどこまでもはっきりと示すことが、ロシア革命の批判的考察の第一の課題である(22)。
もしロシア革命が社会主義やプロレタリアートの独裁のカリカチュアへと堕しているとすれば、それはロシアの未成熟ではなく、帝国主義戦争に加担して階級闘争を放棄してしまったドイツ・プロレタリアートの未成熟を示しているのである。
ロシアにおけるボリシェヴィキの支配が、プロレタリアートの独裁のカリカチュアであったか、あるいは現にそうであるとすれば、その理由とはまさに、このことが社会主義的階級闘争のカリカチュアであったドイツ・プロレタリアートの態度の産物にほかならないということである(23)。
それゆえ、ドイツ・プロレタリアートの歴史的課題とは、ロシア革命が直面している困難を「自分自身にかかわる事柄(seine eigene Sache)」(24)として引き受け直すこと、ドイツ革命によって戦争を終結させ、ロシア革命を救い出すこと、そうして「社会主義的民主主義」をインターナショナルな規模で実現することである。こうした仕方でのみ、帝国主義戦争への加担と赤色テロルによって二重に傷ついた国際社会主義の名誉は救済されうるとローザは考えていた。
3-3:ドイツ社会民主党と第二インターの破産
西川正雄によれば、ローザによるドイツ社会民主党への批判とボリシェヴィキへの批判とは共に、「世界革命の、なかんずくドイツ革命の必然性と同時に必要性を明確にするためのもの」であり、前者は「正説」として、後者は「逆説」として、同一主題を奏でたものである(25)。ローザは確かにボリシェヴィキに対して批判的であったが、彼女の主要な課題はいつもドイツ革命であり、またそのためにドイツ社会民主党の日和見主義を徹底的に批判し尽くすことであった。1-3の最後に取り上げた、『ロシア革命論』と同時期に執筆された草稿「インターナショナルとドイツ社会民主党の歴史、戦争、革命、戦後の展望についての手書きの断片」では、実際に古いドイツ社会民主党と第二インターナショナルの戦術の完全な破産が、レーニンに勝るとも劣らないほどの強烈な言葉で批判されている。
プロレタリアートは、ドイツでも他のどんなところでも、あれかこれか(Entweder-Oder)に直面していた。革命的階級闘争か——それを放棄したなら——恥辱と裏切りのあらゆる段階か、いずれかを味わう必要があった。起こったのは後者であった。フィンランドなどでの英雄的な行動は、古いドイツ社会民主党と第二インターナショナルの計画をご破算にした。それらはエンゲルスとカール・カウツキーの古い権威と戦術を破壊した(26)。
このようにローザは古い社会民主主義の戦術の破産という認識をレーニンと共有していたが、しかし、その廃墟から新しいインターナショナルを創設するにあたっては、「自由とは常に異なった考えをもつ者の自由である」と信じる彼女の展望は、レーニンのそれとは大きく異なるものであった。
結論と今後の展望
本稿では、1990年代以降に利用可能になった多くの新資料を検討することで、ローザ・ルクセンブルクがボリシェヴィキに対しても、ドイツ社会民主党と第二インターに対しても、従来想定されていたよりずっと厳しい批判を向けていたことが明らかになった。「異なった考えをもつ者の自由」と徹底したインターナショナリズムに基づくローザの「社会主義的民主主義」論は、決してボリシェヴィズムにも社会民主主義にも還元されるものではなく、むしろこの両者を批判的にとらえる視座を与えてくれる点で、今日においてもなお意義を持ち続けている。もっとも、ローザが活動した時代には、社会民主主義とボリシェヴィズムとのあいだでこのような「第三の道」が占めるべき場所は存在しなかったように見える。むしろ、今日においてこそ彼女の「社会主義的民主主義」論が実を結ぶための諸条件がより多く存在しているのではないか。またこの意味で、ローザは「我々の同時代人」(フェリックス・ティフ)であると言えるだろう。
脚注
(1)Feliks Tych(Hrsg.). “Ein unveröffentlichtes Manuskript von Rosa Luxemburg zur Lage in der russischen Sozialdemokratie (1911),” Internationale wissenschaftliche Korrespondenz zur Geschichte der deutschen Arbeiterbewegung 27(3), 1991, S. 339–357.
(2)Feliks Tych(Hrsg.). “Drei unbekannte Briefe Rosa Luxemburgs über die Oktoberrevolution,” Internationale wissenschaftliche Korrespondenz zur Geschichte der deutschen Arbeiterbewegung 27(3), 1991, S. 357–366.
(3)“An Stefan Bratman-Brodowski, Gefängnis in Breslau, 3. September 1918,” in Ebenda, S. 361.
(4)Annelies Laschitza. Im Lebensrausch, trotz alledem: Rosa Luxemburg: Eine Biographie, Berlin: Aufbau Verlag, 1996.
(5)Ottokar Luban. “Rosa Luxemburg’s Critique of Lenin’s Ultra Centralistic Party Concept and of the Bolshevik Revolution,” Critique: A New Journal of Soviet Studies and Socialist Theory 40(3), 2012, pp. 357–365. ドイツ語版は、Ottokar Luban. Rosa Luxemburgs Demokratiekonzept: Ihre Kritik an Lenin und ihr politisches Wirken 1913–1919, Rosa-Luxemburg-Forschungsberichte, H. 6, Sachsen: Rosa-Luxemburg-Stiftung, 2008所収。
(6)伊藤成彦『ローザ・ルクセンブルク思想案内』社会評論社、2009年; 伊藤成彦編訳『歴史に生きるローザ・ルクセンブルク:東京・ベルリン・モスクワ・パリ:国際会議の記録』社会評論社、2014年。
(7)ローザ・ルクセンブルク『ローザ・ルクセンブルク全集』小林勝編、第1巻、御茶の水書房、2012年。
(8)Holger Politt(Hrsg.). Arbeiterrevolution 1905/06: Polnische Texte, Berlin: Dietz Verlag, 2015; Holger Politt(Hrsg.). Im Licht der Revolution: Zwei Texte Rosa Luxemburgs aus dem Jahr 1906 und Paralipomena zu Leben und Werk, Rosa-Luxemburg-Forschungsberichte, H. 12, Sachsen: Rosa-Luxemburg-Stiftung, 2015など。
(9)Jörn Schütrumpf(Hrsg.). “The Breakdown of Unity in the RSDLP,” Rosa Luxemburg: The Breakdown of Unity in the RSDLP, translated by Maciej Zurowski, Rosa-Luxemburg-Stiftung, 2023[https://www.rosalux.de/en/publication/id/51166/rosa-luxemburg-versus-the-leninists]最終閲覧日2024/07/01.
(10)Rosa Luxemburg: Gesammelte Werke, hrsg. v. Inst. für Marxismus-Leninismus beim ZK der SED, 5 Bde., Berlin: Dietz Verlag, 1970–1975; Rosa Luxemburg: Gesammelte Werke, hrsg. v. Annelies Laschitza und Eckhard Müller, Bd. 6, Berlin: Dietz Verlag, 2014; Rosa Luxemburg: Gesammelte Werke, hrsg. v. Annelies Laschitza und Eckhard Müller, Bd. 7/1, Berlin: Dietz Verlag, 2017; Rosa Luxemburg: Gesammelte Werke, hrsg. v. Annelies Laschitza und Eckhard Müller, Bd. 7/2, Berlin: Dietz Verlag, 2017. 以降、ドイツ語版『ローザ・ルクセンブルク著作集』はすべてGWと略記して引用する。
(11)赤海勇人「ローザ・ルクセンブルクの「社会主義的民主主義」論:「異なった考えをもつ者の自由」を中心として」『一橋社会科学』15、2023年、63–81頁。
(12)GW Bd. 4, S. 363(伊藤成彦訳「ロシア革命のために」『ロシア革命論』創論社、1985年、48頁).
(13)“Auszug aus dem unvollendeten Manuskript zur russischen Revolution mit dem wohl bekanntesten Ausspruch von Rosa Luxemburg, 1918,” S. 2 〔https://weimar.bundesarchiv.de/WEIMAR/DE/Content/Downloads/Virtuelle-Ausstellungen/Luxemburg-Nachlass/007-manuskript-russRev.html〕.
(14)Rosa Luxemburg. “Zur Lage in der russischen Sozialdemokratie,” in “Ein unveröffentlichtes Manuskript von Rosa Luxemburg zur Lage in der russischen Sozialdemokratie (1911),” S. 350–351.
(15)Ebenda, S. 351–352.
(16)[Róża Luksemburg.] “Krytyka w ruchu robotniczym,” Czerwony Sztandar (39), Warszawa, Styczeń 9, 1906, s. 2.
(17)Karl Kautsky. Die Diktatur des Proletariats, Wien: Wiener Volksbuchhandlung, 1918[2. Aufl.], S. 17.
(18)GW Bd. 4, S. 365(邦訳51頁).
(19)“An Julian Marchlewski, Gefängnis in Breslau, 30. September 1918,” in “Drei unbekannte Briefe Rosa Luxemburgs über die Oktoberrevolution,” S. 364.
(20)Feliks Tych und Ottokar Luban(Hrsg.). “Die Spartakusführung zur Politik der Bolschewiki: Ein Kassiber Leo Jogiches’ aus dem Gefängnis an Sophie Liebknecht vom 7. September 1918,” Internationale wissenschaftliche Korrespondenz zur Geschichte der deutschen Arbeiterbewegung 33(1), 1997, S. 97.
(21)Luban. Rosa Luxemburgs Demokratiekonzept: Ihre Kritik an Lenin und ihr politisches Wirken 1913–1919, S. 35.
(22)GW Bd. 4, S. 333–334(邦訳5頁).
(23)GW Bd. 4, S. 364–365(邦訳50頁).
(24)GW Bd. 4, S. 266(丸山敬一訳「二つの復活祭教書」『ロシア革命論』創論社、1985年、96頁).
(25)西川正雄「ローザ・ルクセンブルクとドイツの政治」『史学雑誌』69(2)、1960年、27頁。
(26)GW Bd. 7/2, S. 1093.
本稿は、同志社大学都市共生センター(MICCS)グローバル地中海地域研究同志社拠点「資本主義/民主主義」研究班の主催で、7月31日に実施された公開研究会「マルクスの子供たち:ジョレスとローザの「社会主義的民主主義」論」における口頭発表の内容を文章化したものである。
https://miccskyoto.jp/programs/627/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1311:240807〕
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