収縮する経済社会を考える
- 2024年 8月 21日
- 時代をみる
- 「リベラル21」収縮する経済社会盛田常夫
人口の劇的減少-縮む経済社会
日本で盛んに使われる「失われた30年」(1990年代初めのバブル崩壊から30年)は「経済政策の失敗の時代」と捉えられ、その政策を抜本的に転換するものが、アベノミクスだと考えられてきた。この思考は旧来の経済成長第一主義に囚われた高度成長経済時代へのノスタルジックな幻想である。この思考の最大の欠陥は日本の経済社会における歴史的構造変化を捉えていないことだ。経済社会が拡大し続け、あたかも永遠に成長を遂げるという観念に支配されている。すでに人口減少の歴史時代が始まった日本で、このような旧来の思考に囚われた経済政策は、一時的な景気の高揚を生み出しても、経済社会の持続可能な基礎を毀損する。無暗に抗がん剤を投与するような短期的な経済刺激策は、経済社会の土台を蝕むだろう。
日本の経済社会はバブル経済崩壊から10年余を経た2004年から、人口(労働人口)が絶対的に減少する時代に入った。経済学者や政治家の多くはこの歴史的構造変動に目を向けることなく、経済成長一本やりの政策を追求してきた。GDP信仰が永遠の経済成長という幻覚を社会に蔓延させた。
GDPはきわめて抽象的な量的概念である。社会的分業の環に入っている労働が生み出す付加価値(交換価値)を抽象的に集計したものにすぎない。政治家だけでなく一般大衆までが、GDP概念の定義を知ることなく、この抽象的数値を増やすことが社会の経済福祉を増やすことだと錯覚してきた。経済学者の間にも、GDP信仰が根強く浸透している。学界に影響力をもつ経済学者ですら、「将来、労働人口が半分になっても、労働生産性が倍になれば、GDPは減少しない」と主張している。これはたんなる算術計算で、社会科学分析ではない。多くの経済学者もGDPが経済的富のすべてを表現しているかのように考えている。経済学者の不確かな主張に惑わされ、政治家や一知半解の人々がGDPの拡大が経済社会の発展と考え、「消費を増やしてGDPを増やす」政策を唱えている。幻想に支配された誤った観念である。
農村の余剰労働人口が解放され、社会的分業の環に入る労働力が増え続ければ、GDPは高い持続的成長を遂げる。しかし、この高度成長時代がいつまでも続くことはない。いずれ労働人口の増加が終わり、労働人口が減少する時代を迎える。労働人口が減少するにつれ、GDPは縮小する。アベノミクスを擁護する人々は、労働人口縮小の時代に、就業者数の拡大を達成したことをアベノミクス成功の証だと主張する。しかし、アベノミクス政策時代の500万人の就業人口の増加(2012年から2019年)は、女性の就業率の拡大(204万人)と65歳以上の高齢者(男女)の就業者の拡大(296万人)によるものである。パート業務に就く主婦が増え、定年延長あるいは各種のパートタイマーとして定年退職者が増えただけのことである。それが労働人口縮小時代の就業人口拡大という矛盾した現象を生み出した。夫の給与だけでは生活できない、年金だけでは生活できない人が500万人も増えたと考えれば、アベノミクス成功の証というより、アベノミクスの失敗の証左というべきだろう。
盛田図表(!)
いわゆる先進国は、一部の例外的な国を除き、今世紀末にかけてドラスティックな人口減少に襲われる。その変動は生易しいものではない。10%あるいは20%の現象ではなく、半減あるいは6割減という途方もない人口縮小に見舞われる。封建社会から近代社会への移行に伴い、世界の人口は増え続けてきた。150~200年にわたって拡大し続けてきた近代社会が、200年前に逆戻りする歴史時代を迎えている。もちろん、これから始まる人口縮小は突然起こるものではなく、60-70年の時間をかけた変動である。60-70年の時間は長いようで短い。2100年は2025年に生まれた赤子が75歳になる年である。大方、その頃には退職年齢も75歳前後になっているだろうが、その時点で日本社会の総人口は現在の3-4割程度にまで縮小する。実に、8~9,000万人もの人口減である。近年の出生動向は低位推計の方向にむかっている。
この縮小変動の過程で、人々は社会経済の大きな変動に適応していくことを余儀なくされる。人口が半分以下に収縮する経済社会では何が起こるのだろうか。大規模地震の発生と同様に、経済社会の縮小がもたらす過程と結果について、もっと知恵を出しあって議論すべきだろう*。
*茂木自民党幹事長は、総理大臣になってやってみたい政策として、「ライドシェアや副業の解禁」をあげた。日本社会が直面している歴史的課題に比べて、あまりに愚かで貧しい発想である。
盛田図表(2)
Covid-19パンデミックが社会意識を変えた
収縮する経済社会では消費生活を中心とする社会生活の価値観は変わっていかざるを得ない。資本主義経済の発展は大量消費経済社会を生み出し、不要不急の商品やサーヴィスを氾濫させている。しかし、収縮する経済社会では資本主義経済が生み出した「あだ花」のような消費経済生活を維持できなくなる。「あだ花」を支えてきた多種多様な店舗が次々と消え去り、社会のインフラを支える事業者も激減していく。国内需要や労働力が激減するのだから、何百万台もの車を製造することが不可能になる。自動車産業にとどまらず、すべての製造や営業が劇的に縮小していく。個人的消費が中心の現在の消費生活も変わらざるを得ない。個人消費より、共同消費を拡大する方向への転換が始まるだろう。
他方、社会の高齢化が進み、高齢者が社会的活動に参加しなければ、地域社会の基本的機能の維持が難しくなる。それに加えて、日本社会はアベノミクスが積み上げた累積債務の重圧に、長期にわたって苦しむだろう。21世紀末にかけて、日本の経済社会は「革命なき社会体制の転換」という歴史的転換の時代を迎える。
資本主義経済の発展は不要不急の商品やサーヴィスを大量に生み出し、いわゆる「非エッセンシャルワーカー」の肥大化をもたらしたが、人々はそれを経済社会発展の証しとみなしてきた。資本主義の経済発展は「社会の存立になくてはならない物」の存在を覆い隠し、不要不急な商品やサーヴィスの蔓延をもたらしてきた。ところが、Covid-19のパンデミックは「必要火急」の商品・サーヴィスという観念を人々の意識の中に芽生えさせた。社会の存亡をかけた疫病の蔓延が、人々の消費生活の再考させることになった。
Covid-19のパンデミックによってバーやキャバレーあるいはパチンコ店など遊興業の営業が難しくなったが、この種の営業を公的資金で補助するより、病院や各種社会的介護施設の保護を優先すべきだという当然の議論が行われるようになった。社会存立の緊急時において、バーやキャバレーのマダムやホステスを職業差別するのはけしからんという議論は成り立たない。不要不急のサーヴィスがなくなったとしても、社会生活の維持に不可欠な機能やサーヴィスの維持強化に優先的に公的資金を使うべきだと考えるのは当然の理である。
エッセンシャルワーカーの議論は古典派経済学が取り上げ、マルクスも論じた「生産的労働(不生産的労働)」をめぐる議論に近似している。社会の存立が危ぶまれる時代において、人々は自然な形で、エッセンシャルワーカーと非エッセンシャルワーカーを区別するようになった。もちろん、社会生活の豊かさは、必需とは言えないが、生活にゆとりを与えてくれる商品やサーヴィスの消費から感じられる。しかし、社会の存立が問われる時代には、社会生活を基本的に維持する仕事や労働を重視する意識が生まれてくる。
21世紀末にかけて進行する社会経済の収縮過程の中で、人々の意識は変化せざるを得ない。Covid-19に経験したものと同様な社会的危機意識が、人々のあいだでより鮮明になってくるだろう。Covid-19は数年で収束したが、経済社会の縮小は何十年もの長期にわたる変動過程である。否が応でも、人々は社会生活や個人の消費生活の価値観を変えることを余儀なくされる。そして、社会全体の価値観が変わっていく。地方都市の衰退や空き家増加で、その変化はすでに始まっている。次第に公共インフラ(橋梁、トンネル、道路、生活インフラ等)の維持管理が難しくなるだろう・この歴史的構造変化にたいして、短期的な景気対策で対処するのか、それとも世紀末の将来社会を想定しながら社会経済政策を展開するのかという選択が迫られている。
GDP信仰からの脱却-社会的価値の転換
現代経済学は労働価値論を保有していないが、社会の歴史的変動を考える場合、古典派経済学の労働価値論を一瞥しておくことに意味があろう。
マルクスは労働価値論を展開するなかで、商品の使用価値(Gebrauchswert, value in use)と交換価値(Tauschwert, exchange value)の区別を説いている。商品生産が始まる初期の時代の商品交換は物々交換の延長であり、交換の主たる基準は当該商品の使用価値であった。しかし、物々交換の痕跡が消えた市場経済では、使用価値は前提として存在するだけで、交換価値の取得が取引の目的になる。商品生産・取引から貨幣が生まれ、普遍的な交換価値を体現する貨幣が市場経済の中心的役割を果たすようになる。貨幣の登場によって、交換価値が使用価値を圧倒し、交換価値のもっとも抽象的で象徴的な商品が経済支配力を持つようになる。
富が商品の使用価値ではなく交換価値で測られ、それが貨幣量で表わされるようになってから、使用価値が経済学の分析対象から外れた。第二次世界大戦後、国連は各国の富の大きさを比較衡量するために、商品生産の交換価値を集計する手法や体系の構築を主導してきた。これが国民所得計算から国民経済計算体系の構築へと発展してきた。このような歴史過程を辿った究極的な価値集計尺度の一つがGDPである。GDP統計は商品の交換価値を集計するものであり、使用価値を一切考慮していない。
もちろん、現実の生活において商品に使用価値は重要である。日常の消費生活では使用価値が我々の商品購入・消費を規定するが、蓄財においては交換価値が富の増殖を規定する。物々交換時代には一体化していた交換価値と使用価値が、商品生産(市場経済)の発達によって、異なる社会経済的役割を果たすことになった。消費生活が貧しい時代には商品の使用価値が商品売買の中心をなし、消費生活が豊かになった時代には余剰消費能力を交換価値に変換し、それを増やすことが目標になる。これが「普遍的な交換価値としての貨幣」から「増殖する交換価値(資本)」への発展である。
GDP概念は「必要火急」という商品の使用価値概念を捨象している。異なる労働の質(使用価値)を切り捨て、労働が生み出す量(交換価値)だけを抽象的に集計するものである。このようなGDPを絶対視し、それを増やすことが社会を豊かにすることだと考えるのは幻想である。多くの論者はGDPの定義を知ることなく、幻想的価値をあたかも経済的豊かさを測る唯一の指標だと考えている。一知半解のGDP崇拝である。
これから日本社会が迎える経済社会収縮時代では、Covid-19の蔓延時期と同様に、人々の消費生活の再考を迫るだろう。不要不急な商品やサーヴィスへの節約志向が高まり、それが就業構造そのものを変えていこう。交換価値の抽象的な追求ではなく、商品・サーヴィスの使用価値の再評価にもとづく社会的価値の転換である。抽象的な交換価値の大きさを追い求めるのではなく、社会的労働が生む有用性を判断する価値の転換が生じるだろう。こうやって初めて、GDP信仰から新しい社会的価値認識への転換が図られる。それに応じて、GDPに代わる経済社会の豊かさを測る新たな指標が探求されることになろう。
エッセンシャルワーカー論を考える
縮小する経済社会の問題を考えるにあたって、古典派経済学が対象とした「生産的労働」論を現代的に見直す必要がある。マルクスの生産的労働論は重層的であり、論理(商品生産の発展)段階において異なる規定を与えている。もっとも素朴な規定は物財の労働過程で規定される。マルクスにとって、生産とは第一義的に物質の質量転換(Stoffwechsel)である。ここから、物財生産に従事する労働を生産的労働と規定し、非物財商品の生産に従事する労働を不生産的労働と規定した。旧社会主義国の国民経済計算では、長らく、この二つの労働の区別を保持し、西側諸国とは異なる国民所得計算を維持していた。
ところが、資本主義経済の発展によって、いわゆる非物的生産であるサーヴィス業が拡大し、多くの国で第三次産業が国民経済の過半を超えるようになった。その結果、物的生産だけに限定した「生産的労働」論では国民経済の発展を捉えるのが難しくなった(現在の日本経済でいわゆる第三次産業が占める割合はほぼ就業者の4分の3にもなっている)。このような資本主義経済の発展の結果、現在の国民経済計算ではサーヴィス業を含めて、商品・サーヴィス生産・販売に従事する(社会的分業の環にある)就業者が生み出す付加価値がGDPを構成している。マルクス自身も、同様に規定については触れており、いわゆる「資本に包摂された労働」がこれにあたる。つまり、マルクス的に表現すれば、現在のGDP概念は、「資本に形式的に包摂された労働」(die formelle Subsumtion der Arbeit unter das Kapital) すべてを対象にしたものということになる。
産業別就業者の推移(2024年4月現在)
盛田図表(3)
注:第一次産業の就業者は2.9%、第二次産業のそれは22.8%、第三次産業のそれは74.22%
(労働政策研究・研修機構作成)。
筆者は第三次産業の業態が「不要不急の業態」と主張しているのではない。第三次産業に含められるサーヴィス業には社会存立に不可欠な業態を含んでいる。他方、第一次、第二次産業に含められる業態のなかには、不要不急の商品生産がある。しかし、第三次産業に含められる業態には、はるかに多くの「不要不急」サーヴィス業が存在することは事実であり、収縮する社会では第三次産業から第一次あるいは第二次産業への大きな就業シフトが生じると予想される。
Covid-19でクローズアップされた「エッセンシャル労働」は経済学上の生産的労働をめぐる論争とは異なるものだが、社会を支える基本的な労働に注目するという点で、生産的労働論に通じるものがある。「社会を支える基本的に重要な商品・サーヴィスを生み出す労働をエッセンシャル労働」と規定するなら、この議論は収縮する経済社会で、重要なテーマになるだろう。
収縮の経済学(Economics of Contraction)
20世紀から21世紀にかけての経済学の主流が「成長の経済学」だとしたら、21世紀から22世紀にかけての経済学の主流は「収縮の経済学」となるだろう。
収縮(縮小)は没落や衰退を意味するのだろうか。事は簡単ではない。たとえば、肥満の人が激やせしたとしても、それは単純に死を意味するわけではない。逆に、肥満病を抑制し、健康な体を取り戻すことは死への衰退を意味しないどころか、新たな健康な生活への復帰を意味するだろう。縮小しつつ、新たなバランスのとれた態勢を作り上げることができれば、生きる道への 収縮ということになる。一種の収縮平衡(contracting balance)への到達である。
縮小平衡の達成には公的機関による意識的な制御活動が必要になるだろう。資本主義の発展と社会主義国家の消滅によって、経済計画という発想そのものが消滅するようになった。しかし、時代が変わり、経済社会が収縮過程に入るにつれ、収縮平衡という概念が注目を浴びるようになるだろう。健全な収縮平衡の達成は、政府や地方自治体の意識的な計画制御を必要とするだろう。また、社会規模が小さくなり、人々の距離感が縮まるにつれ、公的機関と個人との距離が近づくだろう。それは住民自らが、積極的に地域共同体の維持管理に携わる機会を増やすことになる。空き家住宅を撤去し、新たに生まれた広大な空間に新しい居住環境を建設することができるようになる。そこから、新たな子育ての条件も生まれてくる。
このように考えれば、収縮平衡は肥満が高じて肥満症に陥った経済社会を再建する機会をもたらす。人類社会が21世紀で没落消滅するのではなく、肥満症を徹底して治療して、健全な社会を作り上げる歴史的時代に入るのだと考えれば、収縮過程を悲観する必要はない。新たな歴史的社会条件の中で、人類は再び新たな歴史社会を構築すると期待したい。そのためにも、社会的価値観の転換と賢い社会的リーダーが必要になっていくだろう。
初出;「リベラル21」2024.08.21より許可を得て転載
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