移住される側の見方 ――八ヶ岳山麓から(490)――
- 2024年 10月 8日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」新住民阿部治平
わたしの住む集落は、コロナ禍以後、急ににぎやかになった。道端に不動産会社の「土地売出し中」の看板が立っている。林の中では別荘か永住住宅かわからないが、家を建てる大きな物音が響いている。
不動産屋は土地の見端をよくするためにまず林床の藪を草刈り機やチェーンソーで切り開く。つぎに40メートルからの立木を伐採してブルドーザーで道路際まで運び出す。パワーシャベルで整地をする。そのうちに林を買った人が、いよいよ家を建てる。行き交うダンプカーやミキサー車、建材を運ぶトラックの往来、建材を叩くカケヤ、なんだかんだで騒然としている。
この夏、わが集落に保育園をつくるという話があった。突然だったので、かなり大きな騒ぎになった。少子化・出産数の激減、子育てを何とかしなくてはという世情だから、保育園建設を拒否する理由はないと思うかもしれないが、別荘の持主やら新来の永住予定の人やらが強烈な拒否反応を起こした。「静けさ」を求めて来たのに、子供の騒ぎと送迎の車に悩まされるのはたまらないという理由であった。 保育所建設は中止された。
その一方で、ここに住宅や別荘の新築工事が始まった。「静けさ」を求めた人にとっては、東隣の家が完成したと思ったら、また西側に工事が始まったといった状態だ。いま、新築中の施主もやはり「静けさ」を求めてわが集落に永住しようとしているのだろうか。それとも夏の「涼しさ」を求めて来るのだろうか。いずれにせよ、先住の人は先取特権を振り回して新来のお隣に建築を止めてくれとは言いにくい。
わが集落は八ヶ岳の緩い傾斜地にある。やや標高の低い方は農家と畑、高い方は林で「新興住宅地」である。山に降った雨や雪による地下水が浸み出す大小の湿地帯がある。これを我々は「アーラ」と呼んできた。「アーラ」の表面は草や藪に覆われていて、雨でも降らない限り普段は湿地だとはわからない。
もちろん、不動産屋はお客に「ここはアーラです」とはいわない。「アーラ」に建てた家は、大雨のたびに床下浸水に見舞われる。役場に何とかしてほしいと頼んだ人がいる。地下室を作ったはいいが、使い物にならないという人もいる。役場でも手の施しようがない。すべては自己責任だ。
わたしの鼻垂れ小僧のときはこの土地は「オオバタケ」と呼ばれる林と荒野の共同入会地だった。春は「刈敷(緑肥)」を刈り、秋は屋根材としてのススキを刈り、こたつ用のバラ炭を焼いた。「オオバタケ」の上の方の林からは建材を得た。戦後の農地改革のあと、村当局は農家に入会地を分割した。満蒙開拓団の引揚者・「親村」の次三男がこの荒野の一部をあたえられて入植し、開墾して畑にした。わたしの従兄もその一人だ。いま、セロリーやブロッコリー、切り花の畑が広がっている。
わたしが14歳のとき、村当局は、中学生を「動員」して「オオバタケ」にカラマツ苗を植えた。あれから70年、カラマツは40メートルを越え、ススキや灌木の藪は消えた。いろんなキノコも消えた。アケビやサルナシ、グミを取ったり、バッタやキリギリスを追いかけたり、お盆用のユリやキキョウ、オミナエシをとる子供の姿もなくなった。増えたのは住宅とニホンジカだ。
1970年代から別荘があちこちに建ち始め、バブル景気のときは脱サラの人たちのペンション・ブームがあった。同時にゆっくりだが、定年後永住の人が増えてきた。新築の家の屎尿は処理装置を通すものの地下浸透方式だ。日照りが続くと川に緑藻が生えるようになった。以後、原住民で湧水や川の水を飲むものはいなくなった。
それにしても、今どうしてこんなに新来の人が多くなったのか。
従兄の息子は、「住みやすい村」ということで、テレビで取り上げられたせいだ、だから子育てをする若い夫婦の移住も増えた、それにコロナ禍以来テレワークというやり方があるという。そうだとしても、わたしには何が「住みやすい」のかわからない。
夏の涼しさか?今年の夏、下界は酷暑だったらしいが、当地は冷房はいらない。だが、海抜1000~1200メートル前後の高原だから、わたしが高校生の頃、厳冬期はマイナス15℃の日が1週間はあった。温暖化の今もマイナス10℃にはなる。雪はスキーをやるほどは降らず、シベリアからの寒風が吹きすさぶのみ。暖房は、最低7か月は必要だ。薪ストーブがしゃれているからといって、半年以上の薪を蓄えるのは思いがけないほど金も労力もかかる。
「ふるさと創生」の1億円で掘り当てた温泉があるが、湯量はそれほど豊かではない。時々の買物はコンビニと農協のAコープが1軒ずつあるが、品揃えが豊富だとはいいにくい。診療所はあるが、町の大病院からはかなり離れている。
弟は、移住者が多いのは、老人に対する医療給付があるからだという。これは、バブルが崩壊するまでは日本各地にあった制度だが、地方財政が苦しくなるにつれて消えていった。だが、わが村には65歳以上の高齢者医療費を公費で負担する制度が残った。これが村財政を圧迫するようになって、2017年から給付年齢を引き上げ、今年からは70歳以上になった。ただし、受給は住民登録後2年を経過すること、長野県内の医療機関にかかった場合だけという制限がある。
わたしは、新築の激増は、農家が安い価格で簡単に山林を手放すようになったのが、一番の原因ではないかと思う。経済の高度成長期以前は、山は緑肥と薪炭、建材を生んだから財産としての価値があった。いま燃料はガスと灯油がほとんどだし、建材は輸入材の方が安い。しかも林は建材になりにくいカラマツが主だ。となれば、これを放置しておくよりは、多少安くても売って株を買うか投資信託にまわしたほうがよい。それにわれわれ原住民は、隣が林を売って現金を手にしたとなれば、「じゃあ、おれも」となりやすい。不動産屋は大当たり、有卦に入っているだろう。
林のなかには、ガラスが破れ、電線も外し、根太が腐りかけ、今にも倒れそうなのが何軒かある。カネがかかるから、壊すにも壊せないのだ。そこまでいかなくても、入口に車のタイヤ跡がない家がいくらでもある。この数年人が来ないのである。
移住して15年という人に、「なんでこんな何にもないところへ来たんだね?」と尋ねたことがある。「そこがいいんですよ」という答えだった。空気がきれい、鳥の声がいっぱい、焚火もできる、新鮮な野菜があるという人もいた。一代目はそうかもしれないが、二代目三代目は、一代目とは趣味が違う。密生した森におおわれた薄暗い家なんぞに来る気になれないのであろう。
なにしろ、わたしの生れた「親村」だって、毎年、住む人が絶えた家が生まれている。養蚕のために大きく間取りをした空き家が、壁の落ちた土蔵と共に吹きっさらしの中に立っているのは寂しいかぎりだ。他人事ではない、わたしも弟も、息子たちは故郷に帰る気配が少しもないのだから。
家屋は利用しなくても不動産税やガス・水道の基本料金がかかり、別荘なら管理費は年間十万円を超えることがある。一般の勤め人の場合、たまに来たところで、1日目は湿りきった布団を干したり、カビだらけの壁や床を拭いたりしてくたくたになる。2日目か3日目、ようやく林の散歩でもしようかと思っても、やたらに眠くて動けない。標高が高く気圧が低いためだ。間もなく、4日目か5日目には仕事のために去らなければならない。おせっかいをいえば、建築費と維持費を合わせると、旅館・ホテル泊まりの避暑の方が安上がりではあるまいか。
いま、こういう「つわものどもの夢のあと」に、ふたたびみたび、新しい希望を持った人たちがやって来て、じゃんじゃんスマートな家を建てている。歴史が繰り返すものならば、次の世代には、わが集落はあちこち幽霊の出そうな廃屋だらけということにならないか。
(2024・10・05)
初出:「リベラル21」2024.10.08より許可を得て転載
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〔opinion13905:241008〕
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