「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」(3)
- 2024年 11月 12日
- 評論・紹介・意見
- 「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」合澤 清
ここでは再びマキアヴェッリに立ち返る。そして特に彼の代表作である『君主論』がどういう条件下で書かれたものなのかについて考察してみたい。
15世紀~16世紀のイタリア、特にフィレンツェを取り巻く複雑な情勢
塩野七生も触れていたが、15世紀の前半に、「イタリアは、五大国並立時代を迎える。」つまり、そのころイタリアには統一国家と呼べるものはなく、それまで群雄割拠していた小国がやっと五つに集約されただけで、フィレンツェだけでなく、イタリアの政治そのものが極めて不安定で不安な時代であった。
以下、西洋近世哲学史家・野田又夫の『ルネサンスの思想家たち』(岩波新書1963)によって、当時の政治状況を概括する。この時代のカオス状態に留目されたい。
「フィレンツェについてみれば、15世紀にはいってからは元来の共和政体は事実上メディチ家の独裁に移行しており、それが大ロレンツォのような有能な人物に支えられている間は良かったが、その死(1492年)の後30年余りの間に、度々の動乱を経験することになる。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入した時、フィレンツェはロレンツォの子ピエトロを追放し、サヴォナローラの指導下に共和政に移る。しかし…サヴォナローラは四年にして殉死し、そののちなお法曹のソデリーニを首班とする共和政府がしばらく続くが、1512年にはドイツ軍とスペイン軍との力を借りてメディチ家が再び政権を回復する。サヴォナローラの死後僅か15年である。しかもさらに15年後の1527年には、ドイツ皇帝カール5世の侵入とともにフィレンツェはまた共和主義者の政府になる。(ミケランジェロが市の防衛委員長になったのはこの時である。)しかし1530年にはメディチ家がまたかえり、これ以後は単にフィレンツェのみならずイタリアの全体がスペインの勢力下におかれてしまうのである」(pp.84-5)
この野田又夫の書物は大変な慧眼で書かれていると思う。彼はこの本の中でルネサンスの思想家24名を取り上げ、当時の時代状況の中でそれぞれの思想を実に適切に位置づけているのだが、マキアヴェッリ(この書ではマキアヴェリとなっている) の評価にあたってもマキアヴェリの著書(『君主論』ばかりでなく『ローマ史論』=『政略論』なども考慮して)を先入見なく素直に読み解いている。そのため、かえって 非常に新鮮で説得力に富んでいるように思う。
野田の見解では、マキアヴェリはそもそもは共和主義者である。しかし、上に述べたようなフィレンツェおよびイタリアの全体的な混乱状態の中で、いかにしてその統一を実現すべきかを考えた時、一介のレアリストとして、その頭に思い浮かんだのは独裁的な君主主義であり、その目的達成のためには、つまり「 その権力を獲得しまたは維持するために、道徳を無視して詐欺や残虐を行うことも許される」という非情な手段の必要性であった。
「これを安定し、強力な政府をつくることが、まず望まれたのである。…フランスは例えば政治的にシャルル8世のごとき無能な国王に治められ(てはいるが)…イタリヤに比べてはるかに安定した政治を行っているのである。共和主義者でありながら現実政治において独裁君主から多くを期待し、政治の非倫理性を強調するというマキアヴェリの態度は、イタリアの無政府状態からの脱却を求めるという動機に支えられていたのである。」(p.87)
もちろん野田がこのようなマキアヴェリズムを肯定しているなどというつもりはない、むしろこの陰惨で貪戻な思考の中に内包される、今日的にも未解決な政治上の諸問題を改めて暴き出している点に彼のこの書の魅力があると思う。以下再びこの本から引用する。
「…けれども無政府より悪政の方がましであるという考えは、およそ政治が非論理的暴力を不可避に含むという事実を承認するということそのことに他ならず、今に至るまで後を引いている問題なのである。」(p.101)
「…フランスやイギリスの近代国家体制確立の初期(絶対主義の時期〉ではマキアヴェリの策は現実に実行されたといってよい。例えば17世紀フランスの枢機官宰相リシュリューが採用し、同じ17世紀の政治哲学者イギリスのトマス・ホッブスが再認した通りである。さらに19世紀にドイツとイタリヤが後れて国家の統一を成すにあたっては、マキアヴェリの説はイタリアに近代国家の統一を求める愛国者の叫びに他ならなかったと解釈され、彼は愛国者の名で弁護された。…現代の経験に属するナチズムとファッシズムにおいてマキアヴェリの獣の道が露骨に辿られたのであった。…マキアヴェリが本来共和国を目指し、ただその第一歩として不可避の暴力を肯定した、とみるならば、これはあらゆる改革と革命とにつきまとう問題である。そして独裁なくして革命は成就しないというのがこれまた今日の有力な主張の一つなのである。…マキアヴェリが現実の政治について容赦なくつつきだした諸問題、諸矛盾は、政治に付きまとう原罪のごとくに今日もなお現存するのである。」(p.102)
つまり、意識するしないに関わらず、マキアヴェリズムは為政者(権力者)が絶えず取り続けている思考法であるといえる(というよりも、俗流社会に汎通的なものといってもよいかもしれない)。
マキアヴェリの『君主論』の中のもう一つの大きなテーマは、兵制度に関する問題である。周知のように当時はたいていは傭兵制度を主とするものであった。
「当時の戦争は、傭兵軍隊が中心だった。このような傭兵軍隊が出現したのは、封建社会が崩壊してきたからで、一方では国王が貨幣を所有し、名実ともに一国の王としての経済力と政治力を持ってきたのに反し、地方封建貴族は、地方的な割拠性、独立性、主体性などを少しずつ喪失し、国王の支配下にはいらざるを得なくなってきた。官僚制が敷かれ始め、国王から与えられる封の形態が土地から貨幣に代わっていく事実などもこのことを示している。」堀米・前掲書:(pp.439-40)
「交戦がやむと、国王は途端に傭兵隊への給料支払いを停止した。そこで彼らは休戦と同時に野盗団に早変わりした。」同上:(p.445)
これでは兵隊が、雇用者(当時のイタリアでは都市国家や君主)のために身命を投げ打って忠義を尽くそう(戦争しよう)という気にはなれない。むしろ適当にやって逃亡するか、勝つ方に寝返って味方するか、である。雇用主からいえば、こんな兵隊はまったく信用できないということになる。マキアヴェリも『君主論』(池田 簾訳 世界の名著16 会田雄次編集 中央公論社1966/85)のなかで次のように嘆いている。
「元来、君主が自国を守る武力としては、自国軍か傭兵軍か、外国援軍か、混成軍かである。傭兵軍および外国援軍は役に立たず、危険である。…彼らは貴方が戦争をやらない間は、貴方に仕える兵士であることを望むが、いざ戦争となると、逃げるか消え失せるかしてしまう。」(p.91)
だからこそ彼は繰り返し、信頼できる自前の軍隊創設を主張するのである。
「何はさておき、すべての軍事行動の真の基盤となる自国の兵力を備えることが肝要である。この兵制以外に信頼のおける、虚偽のない優秀な兵士は得られない。」同上:(p.150)
それではマキアヴェリが希求していた自前の兵力とはどんな軍隊であったのだろうか。それは後の「パリ・コミューン」にみられるような武装した民衆による自発的な組織であったのではないかと考えられる。もちろんこの時代のもつ条件から考えて、こういう理想は実現不可能である。
「マキアヴェリが理想として共和国初期時代に実現に努めていた軍政は、民兵の制度であって、有事の際には一般市民が一時的に武器を取るということであった。しかしこれは、市民を全面的に信頼しうる民主国にのみ実現可能なことであり、フィレンツェにおいても貴族や大市民からの反対―一般市民に武器を持たせて訓練することは反乱の危険があるという―があってうまくゆかなかった。マキアヴェリの政治論のディレンマがここで最も鋭く表れているのである。」野田・前掲書:(pp.98-9)
マキアヴェリにとって、独裁的君主政を迂回としての共和制の実現も、そのための自前の軍隊創設(市民の武装化)の発想も、むなしく潰え去ったかに思える。しかし、われわれ自身はこの、彼によって改めて意識に上せられた問題をこれまでの歴史の中で真に解決してきたといいうるであろうか。マキアヴェリズムのもつアポリアのいくつかについては先にも触れたが、例えば、無政府状態が良いか悪政の方がましか、また、過渡期独裁政権の必然性、さらには、政治が非論理的暴力を不可避に含むという事実等々、これら今日にまで続いている難問にどう向き合い解決すべきであるか、このことを変則的な形ではあれ突き出したのが、彼マキアヴェッリであったともいえる。
この章の括りとして、マキアヴェリズムの特徴の一つと目される「植民政策」について触れるべきであろう。お読みになればお分かりのように、今日イスラエルがガザでとっている「植民政策」と瓜二つとみなすこともできる。いうまでもなく、移民兵(移民)によるパレスチナ人の駆逐である。このような、何ともおぞましい陰惨な考えが今日の時代においてもなお未解決のまま生き続けているということにもっと注意が払われるべきである。
ここでは岩波文庫版の『君主論』黒田正利訳から引用する。カッコ内は池田簾訳(世界の名著)からのもの。
「…さらに適切な策は、その国にとっていわば足かせとなるような場所を一、二選んで、そこに植民(移民兵)を送ることである。そうするか、それともそこに多数の騎兵と歩兵とを駐屯させることが必要である。植民(移民兵)には多くの費用はかからぬ。まったく費用を入れないで、あるいは僅かの費用で植民(移民兵)を送ってこれを維持することができる。ただ、新移住者に与えるためにその土地と家屋とを奪われた少数の人間の怒りをまねくぐらいのことで、しかもこれら少数の人民は貧困でかつ散在しているから、到底君主に害を及ぼすことはできない。その他の者は誰も損害を受けていないから、それによって平静になるであろうし、一方では略奪にあったものと同じ運命に自分たちもあいはせぬかと戦々恐々として、ただ過ちのないことを期している。要するにこのような植民(移民兵)は費用が少なくて済むうえにかえって忠実でしかも罪を犯すことが少ない。損害を被った側の者も、前にいったように、貧弱で散在しているので害を及ぼすほどの力はない。それについても忘れてならぬことは、人間というものは、可愛がられるべきものか、しからざれば滅ぼさるべきものであるということである。それは人間はわずかの危害に対しては復讐するが、大いなる危害に対しては復讐できないからである。それにしても人に与える危害は、それに対する復讐を恐れないで済むようにしなくてはならぬ。しかるに植民(移民兵)の代わりに軍隊(駐屯軍)を置くときは、その国の収入全部をこの兵備のために投入せねばならぬから、甚だしい損失である。…」(pp.18-9)
塩野七生はマキアヴェッリを純朴な官僚的な人間で、彼のこういう思想は時代を冷静に見つめ、外国からの侵入に対抗してイタリアを統一したいがために、あえてその経験知を傾けた結果であると評価する。その点で私は少し違った見方をしている。マキアヴェッリにあまり節操があるようには思えない。自己保身的に小ずるく世渡りをしてきたその小官僚の経験知がかかる『君主論』に結晶したようにしか思えない。もちろん、その背景に塩野が指摘するような当時のイタリア半島をめぐる複雑な事情があったことは否めない。それでもこの本からはどうしても彼の「あざとさ」ばかりが目につく。
次回は、この小論の総括として「ルネサンス・宗教改革・マキアヴェッリ」が同時代に生み出されたことの意味について考えてみたいと思う。 つづく
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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