アジサイの季節になって―長めの論評(十六)
- 2010年 6月 28日
- 評論・紹介・意見
- ナショナリズム三上治台湾戦争沖縄
沖縄の地域住民の意思が本土復帰という戦後処理に終わらないで、戦争について共同の意思の表出と表現であるためには日本(ヤマト)からの自立がなければならない、それが独立論や南島論の根底にあったものだ。確かに、僕はその時は独立論には懐疑していた。それは琉球民族の独立というのがナショナリズムの別の提起にしか成りえないのでは思えたからだ。日本(ヤマト)からの自立とは沖縄の住民の地域的自立ではなく、日本(ヤマト)という歴史的時間からの自立である。これはヤマトという天皇制的な日本であり、時間的にいえば千数百年の時間の中で形成された日本的なものである。天皇統治が日本的国家の祖形であるという国体イメージは時間的には起源を千数百年くらいしかさかのぼれないものだ。これが日本の起源であり、絶対的なものであるとする思想は近世のナショナリズムからでてきたものであり、国体という概念になった。また明治以降のナショナリズムを経て戦争期(満州事変から太平洋戦争までの期間)にウルトラナショナリズムになった。日本列島の住民の共同意識や文化をナショナルなものといい、それを日本的共同意識や文化というならそれは天皇制的なものよりはるかに長い射程(時間)を持つ。この時間が再生され記憶されるなら、天皇制的なものは相対化され、部分化される。沖縄がヤマトより古い時間を古層として持つなら、その自覚的再生でヤマト(天皇制的世界)を相対化し、部分化できる。吉本の南島論での提起だった。これは魅惑的な考えで在ったが、もう一つ現在性と結び付けて理解できなかった。僕の限界だった。
今、考えると沖縄地域住民の戦争についての共同意識や感情と結び付けられなかったからではという反省がある。この戦争についてのナショナルな意識や感情は国家から自立しなければ存続しえていかないし、それを南島論は裏打ちする構想であり、結びつきえるものだと思う。国家(戦争)を超える道は国家に対する国民の自立性しかない。国家(軍隊)が国民の生命を守ることは幻であり、根拠のないことであり、戦争とは他国の軍隊を使った自国民の虐殺であるという自覚に達することだ、これは日本のそして沖縄の地域住民が戦争で贖って得た思想であるとも思うが、今、沖縄の人たちがそれを表出し表現していく上で政治形態として独立を取るか、高度な自治を取るかはどちらでもよいと思う。沖縄地域住民の自己決定でいいと考えられる。日本のナシナリズムと戦争を超えるためにこの日本列島の地域住民のナショナルな意識と感情を表出し、表現して上で日本(ヤマト)の時間を相対化することは共通の課題である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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