アラブの民衆反乱と情報革命。鉄の治安機構を誇るシリアでさえ、政権維持が困難に
- 2011年 12月 8日
- 評論・紹介・意見
- シリア情報革命浅川 修史
スターリン時代のボルシェヴィキ的弾圧がどんなものを知りたければ、シリアに行くとよい。人口の10%しかいない少数派のアラウィー派が、軍隊と治安機関を把握して、多数派のスンニ派を含んだ国民を監視する。その苛烈で徹底したノウハウはソ連から導入したものだ。アラウィー派は政権からすべりおちたら、これまで弾圧してきた多数派から報復を受ける。そのことを理解しているので、背水の陣で国民を弾圧する。
シリアに留学した経験のある日本人留学生が興奮ぎみに語る。日本から友人を呼んで、シリアの街を散策していたら、治安機関に尾行されたという。「日本人のただの観光客を尾行するくらいだから、国内の反対派にはどんな締め付けをしているのか容易に想像できる」と語る。
シリアのアサド大統領(先代)は、1982年に起きたムスリム同胞団の反乱=ハマー事件では数万人を女性、老人を含めて残酷に殺害したといわれる。
アラブの民衆革命はシリアにも波及した。シリアの治安体制はアラブ世界でトップレベルなので、民衆側は弾圧で多くの犠牲者を出しながらも政権は維持された。だが、ようやくシリアのバース党政権も終局を迎えようとしている。アラブ連盟がシリアへの経済制裁を決めた。国際社会の制裁の輪が狭まる。トルコまでシリアへの圧力を強めている。ほぼアサド(息子)政権の命運は尽きた。
不測の事態に対応するために、米国も空母をシリア沿岸に派遣した。
シリアは米ソ冷戦時代、ソ連圏に属していた。ソ連崩壊後は、イランと友好関係にある。シリアがイランと接近した動機の一つは、イラクとの敵対関係による。シリアとイラクは同じバース社会主義政権だが、両者の関係は険悪になっていた。
シリアの政権交代は中東の勢力関係を変化させる。
ここまでシリアを引き合いに出したのは、次のようなことを言いたいためである。
1982年のハマー事件のときは、衛星テレビもインターネットも携帯電話もなかった。グーグルやネット動画やツィッターもなかった。
今では、政府がコントロールできない情報手段が爆発的に普及している。
それ以前は、治安機関が反体制組織と指導者を監視したり、スパイを送り込むなど、伝統的なピンポイントの監視で、反政府勢力をコントロールできた。あるいは金銭を使って懐柔することも可能だった。
ところが、情報革命によって、ピンポイントの監視手法が効力を減じた。国民の小さな不満が携帯電話によって、積分されて、大きな民衆反抗を生んだ。
スマートフォンの普及率が40%にも達するというチュニジアのジャスミン革命は次のような経緯だった。
チュニジアのジャスミン革命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%B3%E9%9D%A9%E5%91%BD
自殺した青年のいとこが、警察が葬列を妨害する様子をネットで動画投稿したことが引き金になり、ベン・アリ政権が短期間で崩壊した。
シリアの場合、治安機関の力量、気迫のレベルが高い。だが、そのシリア・アサド(息子)政権ですら、終局を迎えている。時代の変化を感じる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0715:111208〕
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