「聖餐による復活」仮説とは何か?
- 2012年 3月 9日
- スタディルーム
- イエスやすい・ゆたか復活聖餐
1パンの聖餐は反復行為
パースの「プラグマティズムの格率」でいくとパンがパンの姿でパンの味なのにイエスの肉ということはあり得ないことになり、パースはキリスト教の聖餐を否定している。学生のコメントで子供が自転車をバイクだといい、木切れを剣というようなもので、どうして大の大人がそんなことを疑わないのか不思議だと指摘していた。
これは不思議では済まされない。超越神論でいくと神の体や肉をパンやワインにすること自体、フェティシズムや偶像崇拝という神への冒涜なのである。
あえて超越神論に反してでも行うのは、イエスの肉を食べ、血を飲む儀礼が聖なる神との合一であることを繰り返すことで合理化しようとする反復行為なのである。
2イエスの聖餐による復活体験
ということは、その原点において、イエスの肉を食べ、血を飲んだのではないか、それを儀礼として繰り返しているのではないかと推理できる。
仮にこの推理があたっていれば、弟子たちはイエスと合一したと思い込み、全能意識が増幅して、それでイエスを連想させるものを見たら復活のイエスを見たと思ったのではないか?
聖餐による復活体験という仮説から福音書を読み返すと、カファリナウムでの「命のパン」の説教で聖餐は命じられている。最後の晩餐は予行演習である。墓は空であった。マグダラのマリア、エオマ、エルサレムのアジトでの密室の食事での復活、どれも全能幻想から説明がつく。本当に神が復活させたならすぐ昇天は不合理ではないか。
3イエスの復活はごまかしなのか?
真剣に神によるイエスの復活を信仰しているキリスト教徒に対しては、神の意図は測り兼ねるから、矛盾点はあっても信じればいいと思う。問題は、非キリスト教徒やキリスト教徒の中の復活を信じていない人々である。彼らの帰結は、替え玉とか、トリックとか、神話とかつまりフィクションということである。
しかし初期キリスト教徒は、作り話やトリックで言いふらしたことにあれほど命がけになれたのだろうか? 私には彼らは本当にイエスの復活を体験して、その感動から命がけの信仰になったとしか思えない。それに二千年も矛盾した宗教的カニバリズムの儀礼を守り続けているのは何故か、合理化のための反復としか思えない。
4つきもの信仰と聖霊の移転
イエスが食べられて、イエスを食べた弟子たちに全能幻想が増幅して復活体験に至ったという仮説は、仰天仮説だと私自身が思った。カニバリズムを忌み嫌うヘブライズムの宗教の信徒が、イエスの肉を食べ血を飲めるだろうか?だからそれはあり得ないという反応が返ってくるのも無理はない。しかしイエスの身体は特別ではないのか、聖霊を宿しているのだから。
聖霊は、悪霊同様、イエス教団ではつきものとして信仰されていた。イエスの死によって弟子たちはその聖霊をどのようにして受け継ぐのか、その方法が「命のパン」の教説なのだ。イエスの肉を食べ、血を飲めば、永遠の命を得ることができる。それはなぜか、聖霊を引き継ぐからである。
食べれば肉や血は消化され、排せつされるが、聖霊は食べた者の体に宿る。これが聖霊の移転である。そのことを理解すれば、イエスの聖なる身体を聖餐することはむしろ当然の聖なる儀礼になるのである。
イエスの肉を食べ血を飲むことは、決して忌わしい行為ではない。カニバリズムが忌わしいのは共食いであり、人類の滅びの道だからである。聖餐はそうではない、聖霊を受け継ぎ永遠の命を得るためである、と思っているのだから、冒涜ではないのである。
それにパンやワインをイエスの肉や血として食しても聖なる食事であるのに、どうして本物のイエスの肉や血を食することが聖なる食事ではないのか、全くの論理矛盾である。現にイエスの肉や血がないからその代わりに、パンやワインがイエスの肉や血であることにしているのである。
5福音書の宗教的真実
私は自分の肉と血を与えてまで聖霊を引き継がせようとしたイエスの熱い思いに身震いするほど感動した。それでこの「聖餐による復活」仮説を、イエスの思いを伝えなければならないと思って、勇気を振り絞って発表したのである。
私の「聖餐による復活」仮説は確かに仰天仮説ではあるが、決して猟奇的な仮説でもなければ、トンデモ仮説でもない。福音書に内在して、精神分析した結果である。
その結果福音書は弟子たちの信仰体験が、多少の粉飾や弾圧を避けるための隠蔽はあるものの生き生きと保存されていることが分かったのである。
弟子の弟子が書いたとか、教会権力による改竄だらけだとか、そして九割はエジプト神話の剽窃だなどという、いわゆる聖書学者たちのイエス本は、主観的意図はともかく、福音書の権威を貶めるものでしかなかった。最も大切なイエスの復活を体験したという宗教的真実をデマゴギーと決め付けるものでしかなかったのである。
それに対して私の仮説は、福音書の権威、弟子たちの宗教的真実を擁護している。ただ、私は、十字架上で息絶えたイエスを神が生き返らせたということは、信じることはできない。もしそうなら何故昇天させてしまって、未だに再臨させないのか分からないではないか。
私の解釈は非キリスト教徒による福音書の精神分析の結果であって、それ以上でも以下でもない。その結果、私は初期キリスト教徒たちの宗教的真実を伝えることができたと思っているが、その結果が現代人にどう受け止められるかが問題である。己の肉と血を捧げてまで、聖霊を引き継がせ、人類を救済しようとしたイエスの愛はまさしく奇跡というべきかもしれない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study451:120309〕
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