書評 鶴見太郎著「ロシア・シオニズムの想像力ーユダヤ人・帝国・パレスチナ」
- 2012年 4月 8日
- 評論・紹介・意見
- 浅川 修史ロシア・シオニズム鶴見太郎
(東大出版会)
シオニズムとロシア・ユダヤ人の内在に新たな一石を投じる金字塔
新進気鋭の社会学者にしてユダヤ学研究家・鶴見太郎氏(1982年生まれ、日本学術振興会特別研究員PD<立教大学>)の著書「ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ」が、2012年1月に東京大学出版会から刊行された。日本におけるユダヤ学の新しい地平を築く好著である。第1回東京大学南原繁記念出版賞を受賞した栄誉に輝く。4月30日には、この本に関する読書会が東京大学駒場キャンパスで開催される。下記の研究会は関心のある方なら、どなたでも参加できる。
>NATIO第13回研究会
日時 2012年4月30日(月・祝)14:30-
会場 東京大学駒場キャンパス18号館2F院生用会議室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_17_j.html
テキスト 鶴見太郎,2012,『ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ』東京大学出版会.
コメント 穐山新/鈴木啓之
リプライ 鶴見太郎
https://sites.google.com/site/webnatio/
この本は436ページに及ぶ大著である。本来ならここではこの本の要旨を紹介するのが筋であるが、とりあえずこのコーナーでは筆者がインスパイアされた部分を紹介したい。
① ロシア帝国・ユダヤ人の世界史的重要性
ロシア帝国に居住していたユダヤ人は、1900年、約519万人を数え、当時の世界のユダヤ人の約半分を占めていた。ロシア・ユダヤ人がイスラエル建国の主要な指導者を供給したばかりでなく、米国に移住したロシア・ユダヤ人が、その後米国や世界の政治経済に多大の影響力を及ばすことになる。世界最大のユダヤ人人口を擁する米国ユダヤ人の90%がロシア帝国からの移住者の子孫である。ロシア・ユダヤ人のことは、もっと知られて良い。
最初に著者ともに、筆者(浅川)が強調したいことは、ロシア帝国のユダヤ人は、そのほとんどがロシア帝国に包摂されていたが、正確にいえば、現在のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、モルドアに居住地域がほぼ制限されていたことである。
これらの地域は、もともとはポーランド王国・リトアニア大侯国に包摂されていた地域であり、その後ロシア帝国が併合することで世界最大のユダヤ人人口を抱え込むことになり、ユダヤ人を帝国に内在的に組み込めなかったことが、ロシア帝国を瓦解させる要因の一つになる。
ポーランドについては、ドイツとソ連(ロシア)に挟まれた悲劇の小国というイメージがあるが、かつてのポーランド・リトアニア(1589年ルブリンの合同)は、その領土が左岸ウクライナに伸びる大国だった。
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キプチャク汗国(モンゴル帝国)の故地をロシアとポーランドは争う位置にあり、最後に勝ったのはウクライナのコサックを身方につけることに成功したロシアだった。この争いでポーランドが勝ち、ロシアが東方に後退する可能性もないわけではなかった。しかい、右岸ウクラナイナにおいては、20世紀に入ってからも、ロシア帝国編入後もポーランド・ファクター、すなわちポーランド貴族へのスラブ人農民支配と、ポーランド語、カトリックを両軸とするポーランド文明が優位にあり続けたことが歴史家から指摘されている。
その時代、ポーランド貴族(シュラフタ=士族)とその統治下にあったウクライナ、ベラルーシなどスラブ人農民の間に介在するユダヤ人は、中産階級、都市住民の地位を占めていた。ユダヤ人の立ち位置を、ポーランド貴族から見れば、煩雑な日常業務(徴税、資産管理、商業、金融など)を請け負う便利なパートナーである。ユダヤ人に業務をアウトソーシングすることで、ポーランド人貴族は優雅な生活を送れた。一方、スラブ人農民から見れば、ユダヤ人は、宿屋・酒場・売春宿(空間的には同じ場所で)を経営しながら、徴税を請け負い、高利貸しを通じて農民を搾取する存在だった。
ロシア帝国はポーランドを支配下に置く過程で、ユダヤ人の「ロシア本土」への移住を許さず、居住地を旧ポーランド「帝国」に制限した。その結果、旧ポーランド「帝国」はロシア帝国内の巨大なユダヤ人ゲットーになってしまった。ロシア帝国とスラブ人農民に挟まれたポーランド人貴族とユダヤ人の苦悩は、19世紀になって加速する。
ロシア帝国は統治下に入ったポーランド人貴族の既得権を制度的に容認しながらも、自らの支配権と正当性を補強することを目的に、最下層の位置にある「搾取された」スラブ人農民を、ポーランド貴族の「代理人」であるユダヤ人に嗾ける動機があった。
とくにユダヤ人革命家のひとりが加わった、1881年のアレクサンドル2世暗殺以降、ウクライナで農民の憎しみの対象になったユダヤ人の虐殺(ポグロム)が盛んになり、20世紀初頭になっても、その波は止むことはなかった。
これ以降、窮地に陥ったロシア・ユダヤ人の選択は、①ロシア正教に改宗するなど、「ユダヤ人らしさ」を捨てて、ロシア帝国への同化をさらに促進する、②ロシア帝国から米国などに移住する、③革命によってロシア帝国打倒を目指す、④ロシア帝国内で「ユダヤ民族」として承認されることを求めたり、ユダヤ人自治を拡大するなどの動きが出る<その一例がレーニンの組織論と対峙したユダヤ人ブント>が、⑤ヘルツルの影響を受けたシオニズムの活動も始まり、ロシア・ユダヤ人がシオニズム運動を中心になって担うことになる。
⑤シオニズムは①と似ているが、⑤が①と違うのは、個人ではなく集団としての西欧社会への同化<当時の支配的潮流であるネイションの建設をることでユダヤ人が同化する>を目指していることである。⑤と③と④をを分けるものは、もはやロシア社会の「改革・改造・参入」をあきらめて、それ以外の地にネイションとしてのユダヤ人国家を目標にすることである。ホロコーストの惨劇を経てたどり着いたのが、イスラエル建国である。
イスラエルというネイションを持つことで、米国、欧州のディアスポラのユダヤ人社会も威信を付与される結果になった。
② ロシア革命のもう一つの世界史的意味
1917年11月のボルシェヴィキ革命は、「史上初の社会主義国家の誕生」「労働者・農民国家の誕生」と日本の世界史教科書でも賞賛されてきたが、1991年のソ連崩壊後は、ロシア革命の冷酷な実態が広く認識されるようになり、そのような賞賛は影をひそめた。
ここうした環境の中で、新しいロシア革命の意義を探る動きがある。松里公季・北海道大学スラブ研究センター教授は、ロシア革命によって、居住制限地域に閉じ込められていたユダヤ人が、党や政府の公職につけるようになり、「ロシア本土」に進出・拡散できるようになったことを指摘する。
1941年に始まる独ソ戦で、ドイツ軍はポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクラナイナのほぼ全域を占領して、ユダヤ人虐殺を行う。その人類にとって悲惨な結果の一つは、伝統的なユダヤ教に支えられたイーディッシュ語文化が滅びたことだ。現在では、イーディッシュ語文化は、NYかエルサレムのハシディズム教団でしか見ることはできないが、そこにあるのはどこかテーマパーク的な寂しい風景である。
1917年のロシア革命で、ユダヤ人が「ロシア本土」に拡散することがなければ、ロシア・ユダヤ人が歴史からほぼ消えたことは確かだろう。 我々が日常的に使用している世界最大の検索エンジン・グーグル。その共同創業者であるセルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン氏は、1973年にモスクワで生まれたユダヤ人である。こうしたロシア・ユダヤ人の影響力を示す事例は枚挙のいとまがない。ロシア・ユダヤ人が全滅していたならば、我々が今、暮らす光景はかなり変わったものになっていただろう。
③ ロシア・ユダヤ人が生んだ対極 トロツキーとジャポティンスキー
「存在が意識を決定する」というのが俗流マルクス主義の見解だが、知識人はそうではない。この本の「第1章 ロシア帝国におけるシオニズムの生成」の冒頭では、レオン・トロツキー(1879年から1940年)とシオニズム右派の急進的指導者であるウラジミール・ジャポティンスキー(1880年から1940年)を対比させて論じる。
トロツキーについては紹介するまでもないが、ジャポンティスキーは日本では無名である。ジャポティンスキーは労働シオニズムと対峙した修正シオニズムの指導者であり、現在のイスラエルで影響力を持つリクード、カディマの源流になった思想を唱えた。イスラエル建国の思想である労働(社会主義)シオニズムが社会の変化で後退する中で、ジャポティンスキーを源流とする修正シオニズムが社会のエンジンとしてに定着した感がある。イスラエルにはジャポティンスキーの名前を冠した通りや地名があり、建国の英雄として名誉ある扱いを受けている。
一方、かつては世界で広範囲に参照されたトロツキーだが、現在ではジャポティンスキーのように賞賛されているわけではない。ソ連崩壊後、スターリンに粛清された共産党指導者が名誉を回復する中で、トロツキーは例外だった。
筆者の知っている範囲では、トロツキーは例外なくロシア人から無視されるか、嫌われている。なぜかといつも不思議に思う。
話は脇道にそれるが、トロツキーの曾孫がイスラエルにいる。ダヴィッド・アクセルロッド氏(1967年ソ連生まれ)だ。ユダヤ教正統派のラビになり、極右派団体の幹部になって活動する。曾孫の思想は明らかにジャポティンスキーの系譜に属する。
話を戻すと、トロツキーとジャポティンスキーは、驚くほど共通点が多い。
① 生年と死亡した年
② ともにオデッサ(ウクライナ)生まれのユダヤ人
③ トロツキーは富農の家に生まれ、ジャポンティンスキーは中産階級の生まれ
④ 家庭ではともにイーディッシュ語ではなく、ロシア語とウクライナ語を話していた。つまり宗教的な家庭ではなく、ロシアに同化していた家庭に育つ。
⑤ 二人とも非ユダヤ人と同じ学校に学ぶ
⑥ 成年に達してからは、ともに軍事に関心を持ち、軍人の経験があること
ジャポティンスキーは、しばしば修正シオニズム批判者から、「ユダヤ人ファシスト」と論難される。実際、ジャポティンスキーは、力(軍事力)を重視して、労働シオニズムのような、「イスラエルを建国しても、その地でユダヤ人とパレスティナ人が予定調和的に共存できる」というきれい事の主張に反対した。ジャポティンスキーは当時のロシア・ユダヤ人知識人には珍しくいかなる社会主義にも断固反対して、自由主義経済を賞賛した。
また、ムッソリーニのイタリアに共感するだけではなく、接近もしている。
こうしたことから、イスラエル・パレスチナ問題で、左翼・リベラル派が圧倒的な影響力を持つ日本の論壇ではジャポティンスキーは、無視されるか、批判される対象に過ぎないが、現在のイスラエルを考えるうえで、ジャポティンスキーを偏見を排除して、正当に理解することは欠かせない。
著者は「概していえば同様の環境(客観的文脈)に置かれていた二人がなぜ思想に関しては両極端に分かれていったのか、今になっては特定困難である。しかし、当時のロシア帝国に、両極端の思想を持つことができる程度には自由があったということである」(43㌻)として、当時のロシア帝国とユダヤ人の置かれた環境に踏み込んでいく。
この本の「序章 パレスチナに行かなかったシオニスト」の中の「5方法・視角ーー客観的文脈・主観的文脈・明示的な主張・思想」で著者は、分析の方法論と視角について記述している。筆者(浅川)にはとても興味深い部分である。
たとえば、トロツキーとジャポティンスキーの対比にあるように、著者は「そうした思想的相違が生じるのは、客観的文脈(筆者 注 環境・条件)が人間の思想形成に影響を与える際、その間に必ず<解釈>が挟まるからである」と指摘する。
「(当時のロシア帝国では)要するに、様々なことが並行して変動していった19世紀終わりから20世紀前半にかけて、特定の思想を持つことは多分に偶然の産物であったり、極めて個人的性格の問題であったり、ごく身近な社会関係の影響であったりと、およそ客観的文脈に還元できないところでも決まっていたように思われるのである」(34㌻)と述べている。「ある主張や意味を深く探るためには、研究者の間で勝手に勝手に適宜言及して関連づける前に、まず当事者自身がどのように当時の客観的文脈との関連づけを行っていたかを丁寧に検証しなければならないのである」(35㌻)と方法論に触れている。
筆者にはとても共感できる指摘であった。
終わり
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0845 :120408〕
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