小中学校への単位制導入論への疑問
- 2012年 4月 8日
- 評論・紹介・意見
- 宇井 宙小中学校単位制
橋下徹大阪市長が小中学校にも留年制を導入すべきと発言したことに関連して、やすい・ゆたか氏は「留年可哀想論で抵抗するのでは本末転倒」であるが、留年制の導入論も「頭が古すぎる」のであり、むしろ学年制そのものを廃止し、「各科目、到達目標に達したら次の段階に進むという単位制度」を導入すべきだ、と主張しておられる(「学年制を廃止し単位制にせよ―大学講義のあいまに(6)http://chikyuza.net/archives/21807」)。具体的な制度構想としては、次のような案を挙げておられる。
(a)年に一回の単位認定ではなく、四回か五回ぐらいは行って、単元ごとに単位認定して、進めていく。単元ごとのクラス編成をすればいい。そうすると教師が足らないから、先に進んでしまった生徒は自修でパソコン機器などを使って先に進むようにする。
(b)単位を落とした生徒は補習で追いつかせる体制もとらなければならない。その際も教育機器を活用すべきだが、マンツーマン体制での指導も必要になってくる。ただその生徒の個性や発達度に合わせて無理のない指導をしないといけない。
やすい氏がそのように主張される根拠は以下のようなものである。
①もう大量生産時代ではないのだから、すべての科目で一斉に進級という必要はない。
②各児童生徒の個性や発達度、到達度に合わせた目標を設定して、成長させていくのが本来の教育の在り方である。
③到達していないのに次に行かせるのも不合理なら、到達しているのに次に行かせないのも不合理である。
④学力は国際競争力の土台であり、その観点からも大量生産方式から個別学習重視の個性伸長促進型の教育、あわせて基礎学力重視の教育体制をとって、日本の国民教育の水準を飛躍させなければならない。
このように、やすい氏の提案は極めてドラスティックでユニークなものだが、私は賛成できない。以下、その理由を述べる。
教育社会学者の藤田英典氏によれば、進級や進学を決める制度には課程主義・習得主義と年齢主義・履修主義があるが、前者は年齢に関わりなく、所定の課程を習得したかどうかによって進級・進学を決めるのに対して、年齢主義・履修主義は年齢と通学・履修を条件として進級・進学を決める制度である(『義務教育を問いなおす』ちくま新書、91頁)。日本では小中高では年齢主義・履修主義を採用しており、大学では課程主義・習得主義を採用している。留年制と単位制はともに課程主義・習得主義の一種であるが、やすい氏の主張される単位制は学年制の廃止とセットになっている分だけ、習得主義を徹底したものと言えるだろう。そこで、単位制導入の是非を考えるうえでは、やすい氏によれば「頭が古すぎる」留年制を採用している欧米諸国の経験が参考になるだろう。藤田氏によれば、留年制度を採用している国の経験的知見によれば、留年した生徒は、その後も低学力層に留まり続け、自尊心の低下や劣等感の定着、学習意欲のさらなる低下、学業態度・生活態度の悪化などの問題を抱えるようになり、さらには非行やドロップアウトに至るケースもあるうえ、留年者を受け入れるクラスでは教師の指導や学級運営面での困難が増大するという。また家庭環境や地域・階層などの社会的背景が劣位の子どもは留年する確率も高く、教育機会の不平等を拡大することにもなるという。さらに、PISAやTIMSSといった国際学力比較調査によれば、留年制の有無と学力との相関関係は確認されていないという(前掲書255-259頁)。このような経験的知見に基づく留年制の弊害やデメリットは、単位制を導入すれば一層拡大するのではないだろうか。単位制の具体的な帰結を考えても、中には3年程度で小学校を卒業する子どもが出てくる一方で、10年以上かけても卒業できない子どもたちも出てくるのではないだろうか。このような制度が、子どもたちと学校にとっていい影響を及ぼすとは考えにくい。
また、そもそも義務教育の意義・役割は、すべての子どもに基礎的な学力をつけることにあることは言うまでもないが、それだけに還元されるものではないだろう。それと並んで、子どもたちが集団生活を通して社会性や共同性や豊かな人間性を育むことにもあるのではないだろうか。そうだとすれば、共通教育の場である義務教育の学校は、一人ひとりの子どもが独立した人格として尊重される場であると同時に、多様な文化的背景や興味・関心を持つ子どもたちが平等に共生する場でもなければならないだろう。学力のみによって児童・生徒を選別する単位制は子どもたちの間に歪んだプライドと劣等感を生み出し、学校を多様な子どもたちが共生する場から、序列化と差別的構造の場に変えてしまう危険性が大きいように思う。
藤田氏によれば、アメリカの大学関係者の間でときおり使われる表現に「ハッピー・ボトム・クォーター(幸せな低学力層)」という言葉があるそうだ。名門エリート大学でも、学力優秀者ばかりでは、キャンパスライフも学習活動も活発なものにはならず、学力面では多少劣っていても、クラブ活動や各種のイベントでリーダーシップを発揮したり、普段の授業でも活気とユーモラスな雰囲気を作り出したりすることのできる学生の存在が重要だというのである。どのような社会も、その活力と成功は、その場に参加する多様な個性と能力を持つ人々が認め合い、協力・協働してこそ維持され発展する、と言う意味で、ボトム・クォーターが幸せであることが、その社会が成功しているメルクマールである、というのである(同書263頁)。義務教育の学校にも必要かつ有効な視点ではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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