義務教育論と単元単位制導入についてー宇井さんの再反論に応えるー
- 2012年 4月 10日
- 評論・紹介・意見
- やすい・ゆたか単位制学力義務教育
宇井宙さんの再反論を早速いただき、議論が弁証法的に発展しつつあるので、非常に喜んでおります。
まず宇井さんは、単元単位制の義務教育への導入に限って反対だということらしい。義務教育をやすいはどう考えるかということだが、国民全体に学ぶ権利を与え、国民全体の文化的あるいは知的モラル的水準を引き上げることが、近代化の基礎だった。それで導入されたわけで、その進歩的意義は大いに評価されるべきだと思う。
では単元単位制を義務教育に導入したらどんな弊害が生じるというのか、宇井さんによれば、中には小学校3年で卒業してしまう児童もいれば、10年たってもできない生徒がでてしまうということである。
しかし逆に言えば、既成の制度では、中学内容を学ばせるべき相手に 3年間も習得し終わったことを学び直させていることになり、不能率極まりないので、その不満が能力別クラス編成や学校選抜制といった新自由主義的な教育改革案につけこまれることになっている。
また10年たっても小学校を卒業できない児童のフォローの体制も留年や再履修や教育機器による自修およびマンツーマン指導などのケアが体制的に保障されないことで、既成の制度では小学校の内容を修得しないまま中学校へ進学させてしまっていることになり、中学校で中学校の教育が十分できない結果を生んでいるということである。
既成の学校制度にはそのような欠陥があるので、学力の伸長ができなかったり、遅れた児童・生徒に対するフォローができていないことで、問題が山積しているのである。それをどうするかという対案を宇井さんは示されるべきであろう。
そもそも小中高大という既成の学校制度を前提に教育改革を語るべき段階ではない。冷戦終焉後、いわゆる近代は終焉したのであり、グローバル化の時代対応した新しい教育体系をいかに作り直すべきかという観点で論じるべきで、今は実験的にいろんな制度を行ってその効果を確かめるべき段階である。
宇井さんは義務教育は学力だけが目的でないことを強調され、その観点から単元単位制に反対されている。
「そもそも義務教育の意義・役割は、すべての子どもに基礎的な学力をつけることにあることは言うまでもないが、それだけに還元されるものではないだろう。それと並んで、子どもたちが集団生活を通して社会性や共同性や豊かな人間性を育むことにもあるのではないだろうか。
そうだとすれば、共通教育の場である義務教育の学校は、一人ひとりの子どもが独立した人格として尊重される場であると同時に、多様な文化的背景や興味・関心を持つ子どもたちが平等に共生する場でもなければならないだろう。
学力のみによって児童・生徒を選別する単位制は子どもたちの間に歪んだプライドと劣等感を生み出し、学校を多様な子どもたちが共生する場から、序列化と差別的構造の場に変えてしまう危険性が大きいように思う。」
単元単位制はなにも学力で選抜しようというのではない。多くの学問には体系性というものがあり、順を追って展開していくものだから、そういう学科では順番に履修すればいいというだけである。マスターしたら次に進むということである。だから同じクラスに習得の速度の速い遅いの差のある生徒がいるのである。
序列化や差別構造というのは、学校に格差をつけたり、教える内容を濃くしたり薄くしたりして格差に応じた教育にするからである。単元単位制というのは、それまでの単元はしっかりマスターしているので、標準的なその単元の教育が行えるメリットがある。学校格差も必要ないので、入学試験も廃止できる。
また宇井さんには同年齢教育への執着があるようだが、学科とは別にホームルームを地域別に作って、さまざまな地域活動を体験させ自主性を育て、チームワークを覚えさせ、社会性を涵養させるべきだと思う。人数が確保できなければ、必ずしも同年齢にこだわらなくても、年齢の近い児童・生徒のホームルームにすればいいのではないか。
またサークル活動もきちんと時間的に保障し、仲間づくりや個性の発見、文化的な自己実現活動を学科と並んで重視すべきであろう。
義務教育制度そのものは、すでに発展解消されているに近い。そもそも勉強は一生すべきであり、社会に貢献する仕事も幼い頃からさせるべきである。したがって学校自体が産業活動も担って、地域社会に貢献し、できれば学費を無料にするとか、独立採算を目指すべきである。
また企業も教育システムを組み込んで、学習時間を従業員に保障すべきであり、地域も文化講座などで、主婦や熟年世代の学習権を保障すべきである。そして学校施設も地域や企業にも活用させるべきであることはいうまでもない。そして忘れた内容については、年齢は問わず、自由に再履修できるようにすべきであろう。そのようにすれば、歪んだプライドや劣等感など生じる余地はないと思うがどうだろう。
学力低下問題の存在そのものは認めておられ、平均の意味が分からない分数計算ができない等の現状も理解しておられるが、それは日本沈没につながるほどの問題ではないと受け止められておられるようである。その根拠が説明されておられないので、納得いかないところである。
日本はアジア諸国と比較して賃金水準が高いなどコスト面で競争力が弱いので、技術水準、文化水準の高さを利用して高付加価値商品で他国の追随を許さないようにして棲み分けていくしかないということが70年代、80年代には盛んに言われていた。しかし90年代以降はバブルがはじけてから、技術革新がすすまず、アジア諸国からの低価格商品の流入でデフレ不況を続き空洞化が進んできたことは周知のことである。
その間特に教育の荒廃が進み学力低下が深刻化している。ゆとり教育の導入の問題があるにしても、それ以前に学校制度の不能率を座視したままで、高付加価値商品で棲み分けることなど不可能ではないのか、それが日本の沈没の原因だというのは既に常識ではないかと考えるがどうだろう。
もちろん産業の技術水準と教育効率は直接相関関係を計算することはできないが、政府は財政支出を積み上げて赤字を増やしても景気を回復させようとしても、労働力の飛躍的な質的向上が図られなければ、効果は期待できない。そのための教育という重要な基礎は忘れてはならないだろう。
1000兆円を超える財政赤字で国民一人当たり1000万円の借金を抱えている、我々低所得者には気が遠くなるような話だ。日本国民は沢山資産をもっているから大丈夫というが、その資産も国家の信用に支えられているのだ。国家の破綻は目前に迫っているのではないか、宇井さんは、国家の自己疎外の深刻さに気付かれていないようで、それはどうしてか不思議である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0852 :120410〕
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