サラダ記念日くらいの親しみがあるといい
- 2012年 5月 7日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
「『この味がいいねと』君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。あまりにも有名なこの歌を引用させてもらうのは恥ずかしいが、五月三日の憲法記念日もこれくらい親しみがあるといいのだと思う。憲法記念日というのはどこか正装をして出掛けるようなところがある。よそ行きのような所が付きまとうのである。本来は憲法が民衆の意思の結晶としてあるものなのに、制度として外《外国》から移入されたものだというところがあるからだろう、と思える。社会から生まれたものでもない、その分だけ諸個人に身体化されてある度合いも小さい。それに,大正時代以降の左翼系の人たちから憲法はブルジュワジー(資本家階級)の道具として冷たく扱われてきたことも結果していると思う。
憲法が歓迎されざる存在としてずうっとあったことが憲法の歴史といえるのかも知れないが、根本的には国民の共同意思が権力(政治)を律する原理にはなっていないことがある。憲法の根本たる憲法精神が不在のままに憲法というと条文だけの存続《流通》してきたことにもよる。精神(魂)のない仏像みたいなもので、ありがたみ味もいまいちというところなのだ。こうした憲法が日本の憲法であるが、にも関わらず世界で先進的でかつ誇れるところがある。憲法第9条である。これは現行《戦後》憲法の特異性である。多分、全体として言えば魂なき憲法の中で、この条文だけは魂があり、現行の憲法を憲法らしくしているのである。憲法第9条の非戦条項が世界遺産というべき内容であることがその一つだが、もう一つこの条項には国民の意思が反映《結晶》しているからだ。国民の戦争観(戦争についての意思)が反映されているのだ。これはこの憲法制定(形式的には改正)時に、アメリカ占領軍や日本政府の思惑を超えて国民の意思が反映したのである。この条文をあわてて作ったアメリカ占領軍が改定を促しても、彼らの意図を否定して存続してきた。アメリカの意図を受けての体制や権力の自主(?)憲法制定の動きを否定してきた。戦争の経験と集約的表現がここにある。あまり親しみのない憲法だけど、第9条だけは国民の意思という点でも、非戦と言う意味でも世界に誇っていいものだ。戦争体験のない世代に9条の歴史的意味がどのように伝わるか、という難題に逢着している。それを憲法記念日の度に想起するがこれはいまやイデオロギーを超えた課題である。野田首相など民主党の戦争体験なき幹部連中に僕らが感じているものだ。ここ十数年。僕らが一番危惧してきた事だが、日米同盟の名の下で海外派兵などに軽が軽しく踏み切りそうな動きにそれを感じている。
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〔opinion0884:120507〕
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