日本的霊性とは何か(下)
- 2012年 5月 24日
- スタディルーム
- やすい・ゆたか物質霊性
キリスト教は世界最大の宗教ですが、日本人は大きな影響を受けているにもかかわらず、キリスト教について無知な人が多いのです。キリスト教会の礼拝をカトリックではミサと呼び、プロテスタントでは聖餐式と呼びます。礼拝の中に聖餐が含まれているのではなく、聖餐こそが礼拝のメインであり、礼拝は結局のところ聖餐につきるのです。
では聖餐とは何か、それは主イエス・キリストの命をいただく聖なる食事なのです。パンをイエスの肉としていただき、ワインをイエスの血としていただくわけですね。こうして神の肉と血を信徒の体に入れることで、大いなるイエスの体であるキリスト教会と合一するという儀式なのです。
イエスは昇天していることになっていますから、イエスの肉体を食べたり、血を飲んだりはできません。でもキリスト教会はイエスの体であるということになっていますから、そこで作られたパンやワインはイエスの肉であり血であるということになります。こうして永遠の命を与えられるということで、キリスト教会は世界最大の宗教になっているわけです。
ただしキリスト教の場合、聖霊はつきものです。イエスの肉や血自体が聖霊ではなく、イエスの肉と血に聖霊が宿っているのです。パンとワインの聖餐によってその中の聖霊が信徒の体に入るという理屈です。そこは物自体が霊性を持つという日本的霊性の元の形とは違いますね。でもキリスト教ですらただ心の中の祈りだけではなく、パンやワインという物を介して絶対者と合一しようという傾向が強いということを忘れてはいけません。
臨済宗でも食事を大切にしますね。日本料理の原点は臨済宗の精進料理だといわれています。別にお茶やお菓子でもいいわけですね。宗教者が心から祈りをこめて何か作って食べさせるということで、信徒は命を与えられた気持ちになるのです。おざなりに駄菓子を買ってきて出したり、外注でお弁当を取ったりせずに、宗教者は救いを求めてきた信徒に、祈りにきた信徒に命の食事を与えるべきです。それこそイエスのように自分の命を与えるつもりで、パンを焼き、ワインを造ることですね。仏教寺院だったらお寺の境内で野菜を育て、精進料理を出すのです。
これは簡単ではありません。残念ながらキリスト教会のパンもワインも全くシンボル化してしまって、神父の命がこもったものではありません。たんなる象徴的儀礼でしかなく、そこには魂の感動が入る余地がありません。もし神父が命がけでパンを焼き、その教会にしかないワインを食べさせたらどうでしょう。
それは神父をベーカリーや酒造りに貶めるものだと思われますか。そのような受け止め方をするのは宗教者の思い上がりです。本来はパン屋さんこそ宗教者なのです。酒屋さんこそ命を作って与える救世主なのです。そのことを認識して、パン屋になり、酒屋になることこそ真の宗教者なのです。母が子のためにドラ焼きを焼く、これが宗教の原点だということですね、それが分かれば宗教は生まれ変わるはずです。
それじゃあ宗教というのは生活と同じ意味なのかと問われそうですね。生活を大いなる生命の活動として自覚的に生きることだと捉え返すのが宗教だといえばどうでしょう。大いなる生命といっても神と言い換えても、そこには既に宗教的なものが入り込んでいるので、同義反復に陥っているという反発もあるでしょうね。
個人の有限性を自覚しますと、その個体性つまり身体的自我に固執していたのでは、はかないので空しくなります。そこでそれが大いなる生命の現れであり、我々の感覚から高度な思考まで、決してそれ自体で存在するのでないことを確認しようとします。さまざまな社会関係や自然的社会的諸事物との交渉の中で個人の意識も生み出されているわけです。ところが私的所有を前提した商品交換に基づく社会関係の形成によって、個人的な自我が発達し、私が見、感じ、思ったのだから、すべては「我思う」である自我が生み出した意識であるかに捉えられるわけです。それはある意味正しいのだけれど、やはり対象的な事物や社会関係や環境的自然が生み出している働きでもあるわけですね。
もちろん単に意識が世界によって大いなる生命によって生み出されているだけでなく、日々の生活や私の身体も生産物や生活資料と共に日々再生産されているわけですね。その意味で、すべて大いなる生命の現われとしての霊性をもっているということで、天台本覚思想でいう「山川草木悉皆成仏」ということなのです。
権力や金銭が絡み複雑な人間関係社会関係の中で、本来の生命活動として物を生み、命を与えるということが感じられなくなってしまったことによって、我々の生命は個体の枠に閉じこもってしまい、大いなる生命の現われとしての自己の本来の姿を見失っているわけですから、宗教教団はその本来の自分たちの姿を取り戻せるような場にならなくてはいけないのです。
キリスト教の聖餐は命を与えるという直接的な表現をとっているのですが、それ自身儀礼化して命を失ってしまっています。信徒と一緒にパンを焼きワインを造ったりしたらどうでしょう。庭に葡萄を植えてワインづくりもするのです。同様に仏教寺院でも豆や大根やキャベツを栽培し、精進料理を一緒につくって一緒に食べたりする機会を作るといいですね。
もちろん食べるものに限定する必要はありません。焼き物や仏像製作、あるいは綿を栽培してそこから糸を紡ぎ布に織って作務衣を作る。それを着て境内やお堂を清掃したり、社会奉仕にでかける。そういう活動を信仰生活に組み込んでいくということですね。もちろんボランティアでするので、それをしたからといって信徒はお金になるわけではありませんが、物をつくることで自己実現できること、大いなる生命の営みに自分がいることを発見する喜びを味わうことができます。
教団で本来の自分と生命活動を取り戻すことができれば、それが家庭生活や社会生活でのさまざまな矛盾や問題、人間疎外と取り組む力を養ってくれます。教団は社会や家庭からの逃避の場ではなく、社会や家庭の問題と取り組むための主体の形成の場であるべきです。教団での活動はそのまま家事や育児に応用が利くものですし、そこでの人間関係のあり方は職場の人間関係のあり方の改善の参考になるはずです。
ただし宗教教団が何らかの集団的な活動を組織しますと、建前が本来の生命活動を取り戻すとかのふれこみで行いますので、それがどんなに精神的苦痛や強制を伴うものであっても、いかにも自発的で喜びに満ちているかに見せかけようとしますので、かえってひどい人間疎外が起こりかねません。またその矛盾を糊塗しようとしてよけいにマインドコントロールを行おうとするわけです。それでもそのような活動を敬遠しようとしますと、旧態依然の形式的な儀礼だけの、何の救いもない宗教のままに終わってしまいます。
大切なことは宗教教団がそのような疎外された形での勤労奉仕に陥りがちであることを自覚した上で、大胆に創造的な文化活動や生産活動、ボランティアなどに取り組むことです。
宮沢賢治は岩手県で農業を大いなる生命の創造的な活動として捉え返しました。そして、岩手をイーハトーヴという理想的なユートピアにしようとよびかけました。宮沢賢治の場合も農民はほとんど笛吹けど踊らずで、深い挫折に見舞われます。その挫折から子供の心に響く童話や思いが通じない哀しみを歌った詩集『春と修羅』が生まれたのです。
けらをまとひおれを見るその農夫/ほんたうにおれが見えるのか/まばゆい気圏の海のそこに/(かなしみは青々ふかく)/ZYPRESSENしづかにゆすれ/鳥はまた青ぞらを截る/(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)校本宮澤賢治全集 第二巻』(筑摩書房、一九九五年刊)「春と修羅mental sketch modified」(同上、二二~二四)
「ああたれか来てわたくしに言へ『億の巨匠が並んでうまれ しかも互いに相犯さない 明るい世界はかならず来る』と――遠くでさぎが鳴いている 夜どほし赤い眼を燃して つめたい沼に立ち通すのか――」(『春と修羅 第二集』三一二番「業の花びら」)
日本的霊性とは何か、それを私が規定してしまっていいかどうか問題があるところですが、次のように考えています。日本人は、元々は、霊を大いなる生命の現われと捉えていたのではないでしょうか。その意味では森羅万象はすべて霊性をもっているということです。そしてその霊を実体的に身体に宿る不滅の部分としても思い浮かべていたわけです。それが魂です。「たま」と呼ばれる場合の「霊」ですね。これが死後変態して異界へ向かうと想像されていたわけです。また霊は大いなる生命としての自然に還ると捉えられていましたから、雲や風や星になるという発想も生まれたわけです。このように大いなる生命としての宇宙との一体性が霊ですね。それは物事はすべて相手があって、そのかかわりで生じるからです。あなたがいるから私がいる。だから私にはあなたが含まれているということですね。この論理はすべてのものに広げられますから、私の命は大いなる生命の現われで、私の中に宇宙が含まれているという発想が成り立つのです。宇宙的霊性とか賢治のように銀河的霊性という捉え方ができるわけです。
このように日本的霊性を捉えておきますと、神道にしても仏教にしてもまた神仏習合や新宗教など日本の宗教を概観する場合に大変理解しやすくなります。そして21世紀にあたって日本や世界の宗教のあり方を考え直すにあたっても、大いに参考になるのです。
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補遺 この原稿は数年前に書いたものですが、そのとき「死んで白鳥になったのは何でしょう。おそらくそれはヤマトタケルの遺体全体ではなくて、彼の神霊ですね。」と書いてしまっていました。後に『日本書紀』に次の文章を見つけましたので、この部分は訂正しなければなりません。
「時日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而、屍骨無之。(そのとき日本武尊は白鳥になって、陵から出てやまとの国を指して飛んで行かれた。家来たちがその棺を開けてみると、衣だけがむなしくのこって屍はなかった)」
つまり遺体全体が白鳥に変態しているのです。ということは普通なら遺体の一部の不死の部分である霊が抜け出して白鳥になるところですが、ヤマトタケルは遺体全体が霊であり、そのまま白鳥に変態したということになります。これはヤマトタケルは特別に尊い肉体なので、肉体全体が霊的存在だったということになります。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study502:120524〕
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