人間がすることは自然の手助けをすること――『土に生きる』第5号を手にして(6)
- 2012年 6月 20日
- スタディルーム
- 和田博之有機農業自然農業野沢敏治
本会は1978、発足してから5周年に入った。本号はそれを記念した特集号である。1979年3月31日発行。表紙のデザインと本文中のカットは杉野和子作であり、表紙は私が知る限り第4号から18号まで変わらない。会誌も5年になると扱う内容も一廻りした感じがする。そして今回の標題に掲げたように、自然農業の核心が生産者自身の言葉によって語り出されていることに改めて静かな感動を覚える。そのことを最後に取りあげる
1 高度成長下での三芳の変化と、名を知られるようになった三芳
三芳村の村長が5周年の祝辞を述べている。村長はその中で三芳村がへてきた変化を述べている。三芳も他の農村と同じく過疎に悩んでいた。生産者の樋口守の記録を参考にすると、人口は1955年には6178人であったのが、65年には5209人と、10年間で969人、15.7パーセント減少している。78年には世帯数1150戸で4140人(1戸当たり3.6人の家族)にまで減る。23年間で2038人、33パーセントもの減少である。その原因は高度成長による若者の都会への流出が大きい。
村長が三芳村の変化次のように振りかえる。1970年には米の生産調整(減反)政策が始まっており、三芳もそれに応じて転作を行ない、商品作物の栽培へと向かう。酪農や野菜(パセリ)・果樹(イチゴ、マスクメロン)・花(バラ、カーネーション)等である。また三芳は国からモデル指定されて農村総合整備の大型事業をする。箱物の事業が展開される。農村の生活様式も高度成長の影響で変わる。農家が味噌や野菜を自給しなくなり、店から買うようになる。流行を追ってマットレスや電気毛布など無駄な消費財も買ってしまう。それらの購入のために必要な現金は農業外の収入に頼らねばならない。一つは夫が出稼ぎに出ること。そのため田畑は休耕してしまい「横着農業」をしてしまう。もう一つは近くに誘致された企業に雇われること。農民はサラリーマンを兼業することで現金収入を得る。賃銀は高くなかったが、家計の柱にはなる(――最初は第1種兼業でまだ全収入のうちで農業収入が多かったが、次第に農外収入の方が多い第2種兼業に移っていく)。こうして農業者は「いかに儲けるか」を考えるようになる。
企業誘致は農村の工業化の一つであるが、それが地元の経済力をつけるかどうかは慎重な検討が必要である。宮本常一は全国の農村・漁村・離島を踏査しているが、彼がそこに見たものは企業誘致が村を「植民地化」する様であった。「農村の工村化」については既に戦前に理研の大河内正敏が自分の「科学主義工業」から生じる副産物として高く評価していた。しかし、それが地域経済の内発的発展に必ずしもプラスにはならなかった。大塚久雄の西洋経済史と農村工業論はそれらの問題に対して答をえようとするものであった。
以上の農村の変貌の中で自然農業の運動が始まる。最初はこの運動はどこまで続くかと思われていたが、生産者はとにかくやり遂げる一心でやってきた。その結果、和田金治も言うように、千葉県内でも知られていなかった三芳村が、本会の活動によって「あの三芳ですか」と名を成すまでになる。また本会は他の農村が「見習うべきつばさ」とまで言われるようになる。小学校の社会科の授業で三芳の農場が訪問される。1978年4月には和田博之がNHKのテレビに出て村の様子を紹介する。三芳は成長したのである。村長としてはそれを誇りに思わざるをえない。
2 配送問題が続く
配送をめぐる問題がまたも出される。実際に配送を専門的に担当している者によると、房総半島の南の三芳から千葉をへて東京の西の郊外までは大変な距離であり、長時間を要する。その通りであり、これ以上の距離をもつ生産者と消費者の会は他にあるが、その場合の輸送は宅配便を使うなどしている。これほどの距離を毎週定期的に生産者が直送することはあまり聞いたことがない。これでは有機農業が重視する地産地消にはならない。しかし本会は始めからその距離を分かって発足したのである。本会は長距離を克服する一つのモデルを提供している。
それだけに配送者は野菜をただ置いてくる場合を問題にする。夜遅くに配送すると、受け取りに出ないことがある。それでは普通の野菜の配達と変わらない。配送者は三芳の生産者の努力を見て知っているので、それは消費者がする努力よりも数段上である、消費者はもう少し考えるべきでないかと思ってしまう。それはもっともである。もちろん夜遅くなっても配送車が到着するのを待つ者もいる。それは女性にとって不安なことである。この点では配送者は次のことを評価してよいだろう。主婦がこの運動に参加する時には、嫁たるもの家にいて家を管理するという世の前提とぶつかることがある。そこから「自分でものを考えて、自分で行動する」女性の独立が生まれる。
荷の受け取りには男性の協力が必要だが、「旦那さんがまるっきり動いていない」のである。やがてこの問題に応えて、男性のなかにも縁農や合宿に参加する者が出てくる。
こういう配送問題をまえにすると、戸谷委代が述べたように、消費者はただの「穀つぶし」でもあるから、できることは生産者の気持を汲み取ってその作物をありがたく血肉にしていただくこと、家族ともに健康な生活をおくることという気持になる。その具体例は野菜を受け取った後の100パーセントの利用に現れる。
3 消費者に見えない生産の現場
消費者は以下のような生産者の言葉を聞くと、これまで生産の過程を想像することはなかったと気づく。生産者は虫取り一つにしても、なすの葉についたテントウムシの卵と幼虫をいちいち手でつぶさねばならない(この部分、第6号より)。消費者は生産者がごぼうを苦労して掘るのを見て、機械を使えばいいのにと思ってしまう。でもそれはせっかく幾つかの層となって生きた土壌を掘り返すので、土をだめにしてしまう。
除草剤が出てきて、炎天下での草取りが無くなって本当に楽になった。悪いことだと分かっても、夫が出稼ぎに出ていてどうしても人手がないので薬を使ってしまう。また風が強く吹いてくれば、傷がつくといけないからと、真夜中でも畑へ行って手探りでナスをもいでくる。消費者はそんな「生産の現場にたって」食品公害を論じてはこなかった。
4 自然農業の地域展開は難しい。
自然農法や消費者との提携はなかなか全村的にならない。山形の高畠町のようにかなりの地域展開をした例はあるが、まだ少ない。生産者は会員は今の38人より多くならないと言う。それだけ既存の市場を通した慣行農法の力は強いと言える。近代農法は以前よりも労働を軽減し、ビニールハウス等の施設を使って自然をある程度コントロールできたからである。それに一般の農業者は消費者と話し合いをもち、交流するなどということは生産の邪魔になり、面倒だと思っている。
有機農業推進法が今から6年前の2006年12月に成立した。それが地域的に広がる契機を作ったのであるが、その後の民主党政権下での仕分け作業でモデル農場の事業が見直しの対象となり、廃止されてしまった。痛いことであった。
5 子供の眼から見た配分作業
1,978年10月に練馬区の小学校3年生が同じ練馬区の和田ポストを見学した。同ポストはその前日の晩10ごろ荷を受け取り、翌日朝9時30分から1時間ほどかけて14人に配分する。その配分を見学した子供の感想が面白い。子供は野菜はスーパーから来ていると思っていたのである。子供の眼には大人の眼が反映しているが、大人では見ることのできない視点もある。
A――野菜を車庫のようなところで人の通る汚い所に置いている。大丈夫なのか?
大人は洗えば大丈夫と教える。
B――見たことのないピンク色の卵を秤で量っている。どうしてか。
卵はスーパーで売っているのと違って形や大きさが違う。だから重さで分けるのだと大人は答える。
C――菜っ葉や大根の葉には沢山の虫がいて萎れていた。なぜか。虫は人の身体に悪くないのか?(どうして店では虫がつかないのかと問うてもよかった。)
大人の答。野菜は消毒しないから虫がつくのであって、卵も付いている。
野菜は十分に洗うから大丈夫だ。
D――キュウリはすごく曲がっていたが、緑が濃くておいしかった。どうしてキュウリの数少ないのか?
答。この季節はキュウリはできないから来ないのだ。その代わり大根が来ている。
その他の子供の観察は以下のもの。
E――野菜を入れてきた袋や段ボールは何回か使っている。
F――おじさんでなくおばさんがやっていたのは予想外であった。
子供どうしでスーパーで買う場合とこの配分と、どちらが良いかの議論が次のようになされた。
ス-パー派の言い分――自分で買うものの費用を計算しなくていい。虫なんか付いていない。どれが良いものかすぐ分かる。
配分派の言い分――自分で買うものを選ばなくてもよい。野菜に薬がつくと人が病気になる。店のものは人がさわって汚くなる。
先生はこの議論に対して「両方ともいい意見だ」と言ったそうである。
6 自然農法=作物が育つ条件作りを人間が手助けすること
生産者の研究発表は以前よりも充実した内容になっている。彼らはそこから自然農法のなんたるかを体得していく。
ある班は自然農法の技を得るために実習農場を作った。芋を原野を刈ったあとに植え付け、その上に落ち葉等を置く。このマルチの目的は、土を直接日光に当てたり雨に叩かせて固めてしまうのを防ぐことにある。でもその成績は悪かった。その原因を考えると、構造改善で表土をはがして固めたところに腐植しない草を敷いたところで土にならないのである。よく考えないで他で行なわれている自然農法を真似しても効果は出ない。ただ落ち葉をジャガイモの上に置いても完熟しないと肥料にならない。これでは作物の生育に必要な条件の整備を人間が手助けすることにならない。完熟したところの表面をのけて作物を植え、その上を落ち葉で覆うとよい。これは「真に科学的合理的」な方法である。
生産者はジャガイモに土寄せはしない。その根もとを落ち葉で覆う。マルチをするのから草が出ず、草取りの必要がなくなる。マルチの材料は沢山必要だが、冬に用意して年々の計画で進めている。一度落ち葉でおおえば、後は土が見えてきたら足していくのみとなる。このように労力の配分を考えれば、嘘と思われるほど少なくて済むようになると言う。こうして露木が言ったように、一時期の苦労はあっても「腕ぐみをしていてやれるような農業」が可能になると言う。
とにかく不耕起で栽培するには時間がかかる。農業は工業と違って成果が出るのを「自然のサイクルの中でそれをじっと待つ」ことになる。山を開墾するのにブタを使う(――家畜も働く)時には長い時間がかかる。それが工場生産と違うところ。「工場は今日材料を入れたら、夕方自動車になる。」「農業は今日種をまいて、明日は実になりません。」
和田博之は言う。自然農法とはまったくの放任ではない。土を生かすには「自然の仕組みがより働いてもらえるよう手助けをする」。それが人間の関与ということだと。私はこの言葉に出会えたことに何かの因縁を感じる。それはヨーロッパの経済学の歴史の中で、ケネーやあのスミスが既に言い当てていたことであった。彼らは地代は「自然の賜物」と考える。それは彼ら自身の労働価値論に反する認識であったから、間違いだと片づけられてきた。マルクスも『剰余価値学説史』においてスミスが地代の源泉を自然の働きに帰した部分を重農学派の残滓と評言した。その後の学史研究者はまれな例外を除けば、マルクスをおうむ返しに繰り返し、その理論的な間違いに真実があることを見抜くことができなかった。平田清明はケネー研究の本『経済科学の創造』でケネーは「自然の贈物」を現実にするのは人間の労働だと言っていたと紹介している。スミスについてもその紹介の通りである。研究者が見過ごしたことを日本の農業者が言葉にしている。研究者はどこを見ていたのか。
和田の畑では土が「手が入るような柔らかさ」になっていたらしい。学生がそれをみて長い間の人間の努力のたまものだと感想を述べた。和田はその感想を残念がる。本当はそれは自然がやったことなのだ。ただ、自然をして自然の営みをさせるには人間の方での注意深い観察と手探りの実験が必要になるのだが。和田はそのことを理解してほしいと言うのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study515:120620〕
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