文学渉猟:欧米風に物語られた中国のお話
- 2010年 9月 21日
- 評論・紹介・意見
- 合澤清書評
『千年の祈り』 イーユン・リー作 篠森ゆりこ訳 (新潮社2007)
O.ヘンリーかモーパッサンを思わせるようなしゃれた10本の短編が並んでいる。話はどれをとっても奇抜であり、読者を飽きさせない。読み始めたとたんにするりと話の中に入り込めるのもよい。この夏の暑さを忘れさせる一服の清涼剤として秀逸な作品だと思う。
しかし、語り口、話の構成など、どれをとっても欧米風である。だが、そこで語られているのは紛れもなく現代中国の話である。しかもそのことが不調和ではなく、実によくマッチングしているのに驚かされる。新しい中国文学の出現というべきか、あるいは中国文学が既に世界文学として展開されたことの謂いとみるべきか・・・。
この謎は作者の生い立ち、また彼女がこの作品を母国語(中国語)ではなく、英語で書いたということを知って初めて少しずつ氷解してくる。彼女の生まれは1972年、文化大革命のさなかの北京であり、父親は核開発の研究者、母親は教師というインテリの家庭である。そして、1989年、彼女が17歳の高校生のころに天安門事件が起きている。
この作品全体の基調の一つは、中国共産党体制の官僚主義的な管理社会への批判である。そこでは圧倒的に多くの普通の生活者が虐げられ、相変わらずの貧困にあえいでいる姿が浮き彫りにされる。神や仏への信仰にとって代わった、新たな毛沢東信仰、マルクス信仰があちこちで皮肉なスパイスとして使われる(毛沢東に生き写しの風貌を持つ男の悲劇を扱った『不滅』など)。
もう一つの基調は、中国社会が持ち続けている古い伝統的な風俗習慣であろう。ブローデルの歴史理論を考えるまでもなく、このような伝統は長い年月変化しないものである。
なぜ彼女は外国語(英語)で物語を書かなければならなかったのか?そのことについてはこの本のタイトルになっている『千年の祈り』で短く、しかし非常に印象深くふれられている。それは娘の寡黙さを非難する父親に向けて発せられる次のことばである。
「ちがうのよ。英語で話すと話しやすいの。わたし、中国語だとうまく話せないのよ」(p.241)
彼女の父親は核開発の研究者として、その家族は実際に全く隔離された環境(厳重に隠蔽され、警戒された塀の中)での生活を強いられてきた。父親の仕事内容はもとより、すべては家庭の中ででも秘密にされる。この家族関係の息苦しさ。同様の息苦しさは共同体の中でも感じられる(例えば自由な意見交換・発言の禁止、禁書など)。それに伝統的な中国社会の考え方や風習(例えば、良妻賢母的な意味の「好女人」が理想化されていること、など)が更なる枷として加味される。
古い中国社会の因習、また共産党体制下での新たな抑圧的な環境、こういうものから自己を解放ち、逆にそれらを多少の笑いとペーソスを込めて描きだすための立脚点、それがほかならぬ外国語の世界というものなのである。外国語を使うことで、自分をも、また家族や社会環境をも、いったんは突き放した形でその外に立つことができるからであろう。ヘーゲル的にいえば、即自存在が外国語を使うことで対他存在へと転換され、更に対自化されるという構造になっている。
個々の物語の詳細な紹介はここでは控えたいと思う。しかし次の点は注意されてよい。折に触れて中国のことわざが使われ、中国人の生活習慣やものの考え方、さては歴史などが素材として提供されている点である。もちろんそれらのいずれもが平凡に処理されているわけではない。逆に古い伝統からはみ出す形での話(老婦人の少年への恋や、その少年のフェティシズムを扱った『あまりもの』)を通して、これらの古い中国社会、あるいは新しい共産主義の中国がかなり強烈に逆照射される仕組みになっている。いわば今までただ漫然と受け止められてきた日常生活に潜む非日常的なものが、ここでは物語に仕立てられてえぐりだされているといえる。此の点にこの小説の持つ面白さ、辛辣さがあるように思う。
欧米風のスタイルでありながら、なおかつ欧米のものとの決定的な違いは、個人がこのような共同体社会の中でとらえ返されている点にある。個人が共同体に向けて発言するにとどまらず、共同体が個人を通じて自己をさらけ出すのである。
注文をつけるとすれば、この短編集では「自由な国アメリカ」への賛歌があまりにもあどけない形で唱われているように思われるし、あまりにも無邪気に資本主義への礼賛が唱えられているように思われる(実際には、あちこちの場面で金銭社会への皮肉が書かれているにもかかわらずである)。しかし、例えば堤未果の『貧困大国アメリカ』にみられるごときアメリカ資本主義の退廃(つい最近の発表では7人に1人の割合で貧困者が存在する)が、中国社会のそれに劣らずすさましいものであることへの認識にいささか欠けているように思われるのは残念である。
『鳥は一口の餌のために死に、人は一銭の富のために死ぬ』という中国のことわざ、「花を見ているのではない、お金を見ているんだ」という厖夫人のため息(『死を正しく語るには』p.193)は、中国の社会が共産主義という政治的衣をはおった資本主義に他ならず、アメリカの現状と少しも変わりがないことを言い当てているのだということ、このことの認識が大切であるように思う。そのためには、今度は中国語でアメリカの現状を描くしかないのかもしれないが・・・。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion144:100921 〕
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