天皇、および天皇制の所在 ─ 内野光子著『天皇の短歌は何を語るか』の書評
- 2013年 12月 2日
- スタディルーム
- 三上 治
(1)やっぱり天皇(天皇制)というのは曖昧で厄介だ
天皇や天皇制についてはちょっとした事件が起きる度に、その存在の分かりにくさが露呈する。ごく最近では山本太郎が天皇に手紙を手渡した事件の反応がそうである。この事件をもっとも激しく批判したのは右翼であり、保守派である。昨今は右翼や保守というのは色々と違って来ているからこういう規定には注釈がいるのかもしれない。保守派というのは民族派的な色彩が強まってきているということを加えなければいけないのかも知れない。が、ここでは一般的な意味での保守派や右翼ということになる。批判したのは右翼であり、保守派であったが、それならば左派というかリベラル派はそうではなかったのか、というとそうでなないと思う。こちらは、右翼や保守派のように激しい批判はしなくても、山本太郎の行為に賛成という人は少なく、どちらかというと戸惑ったのではないのか。ここに見られたのは天皇や天皇制の曖昧さをあらためて浮き彫りにしたことである。端的にいえば戦後の象徴天皇、あるいは象徴天皇制の曖昧さにと言ってもいいのである。
右翼や保守派の多くは象徴天皇制については批判を持っている。もちろん.象徴天皇制に賛成の保守派もいるし、これは少数派というわけでもないと思う。左派はそれではどうだろうか、象徴天皇制にたいしては肯定派が増えつつあるのではないだろうか。いずれにしても右翼や保守派だけでなく、天皇の政治利用批判は一般的であるが、その中でも右翼や保守派は特にそれを声高にさけぶ。ただ、彼らに批判は矛盾を持っている。彼らは天皇の権威の減衰を防ぎ、それを、天皇の権威を高めたいと思っている。憲法を改正して天皇を元首にとか、立憲君主制に近付けたいということがそれを示している。そういって間違いない。だから、天皇の政治利用という意図を一番持っているのは右翼や保守派だと言っていいのである。政治利用批判は彼らの根底にぶっかるのであり、いつまでもそれをさけび続けるわけにはいかないのだ。
山本太郎の事件は彼の天皇観が問題で、天皇の政治力という幻想を抱いたのならそれは批判さるべきことである。これは錯誤であるし、天皇の政治利用を考える連中の道を開くことになるからだ。左派の面々の戸惑いはそんなところから出てきているのである。天皇が原発に反対であることはおよそのところ想像のつくことである。だから、と言って僕らは天皇の力を借りたいとか、利用したいとは思わない。それは象徴天皇制を変質させるし、天皇の政治力が前面化することに道をひらくことになりかねないことを知っているからだ。象徴天皇制に批判はあっても、それを変質させることにはもっと批判的だからだ。
あまり前口上ばかりじゃ致し方ないのだが、こんなことを考えながらこの本を読んだが、天皇、あるいは天皇制の曖昧さということがついて回り、これを根底から考え直そうという提起に共感した。この本は4つの部分で構成されているが、その中心をなすのは「Ⅰ 天皇の短歌は何を語るか―その政治的メッセージ性」と「Ⅱ 勲章が欲しい歌人たち―歌人にとって<歌会始>とは」である。天皇が発しえる政治的なもの(メツセイ―ジ)は、象徴天皇性下では、戦前に比べれば狭くなっている。大日本帝国憲法と日本国憲法の下での天皇の位置を比べれば明瞭である。この点は特別に説明のいらないことである。そうした中で政治的メッセージの手段の一つが短歌であったというのは本書の指摘する通りと思える。戦後の天皇が時期を見て短歌を発していて、その用語なども微妙に違っているという指摘は興味深かった。僕は短歌が結構好きだけれど、それは古典的な歌を読むのでなければ、ブックオフで無名に近い人の歌手を買っては手あたりに読むというものなので、天皇やその周辺の短歌は意識したことはなかった。天皇の短歌は伝統行事の一つくらいだろうと思っていたから、意識的にそれがなされているというのは本書で初めて知ったことだが、これは天皇の問題を考える時に参照にさせてもらいたい、と思った。
正直言って、天皇や天皇周辺の短歌に誰が関心を持ち、影響されるのか本書で興味を持ったことだが、歌人や歌壇に属する人が、天皇について僕らよりかは強い関心を持っているのだろうということは確認できた。これは短歌が無意識に背負ってきたものなのであろうか。前衛歌人と言われた人たちが、「歌開始」の撰者になることへの疑念は当然あるのだが、これは短歌の基盤の現在と関わることなのだろうかとも思った。俳句はどうなのだろうか、とも考えたが、短歌が無意識に背負ってきたものと思えばいいのか。ただ、中上健次が言葉の問題として天皇擁護のことを語って、僕はおどろいたことがある。その時の疑念は解かれないまま、僕の中に残っているし、三島由紀夫の「文化概念としての天皇」とも関わることだと思う。「Ⅱ 勲章が欲しい歌人たち」のところはその意味で興味深かった。日本における言葉の問題として明瞭にしなければならない問題なのだと思う。言葉と天皇というのは自覚的に考え続けるべきであるのか。そんな感想を持った。
(2)もう一度天皇制を問いただすことはやはり現在の課題だ。
「憲法改正」という動きの中で天皇の規定を現在の象徴天皇制から元首、あるいは立憲君主制的なものへ替えるというのは現在の自民党の動きである。新憲法草案を読めばそれは分かる。これに対して現在の天皇は護憲ということで一番抵抗しているように見える。象徴天皇制を現在の天皇は擁護しているようにみえるからだ。そういう中で左派の人たちにとってこれでいいのではないか、という声が深まっているのではないのか。そこが左派の立場での天皇、あるいは天皇制についての曖昧さがあるのだと思う。
「やはり、この辺でもう一度、天皇制自体を考え直す時期なのではないか。私見ながら、女帝をなどと言わず、矛盾や「お世継ぎ」の呪縛から一家を解放し、次代からは、元貴族としてひそやかに、伝統文化の継承などにつとめてもらえないだろうか」(「護憲との矛盾のはざまで」37頁)
僕はこの見解に賛成であるが、これは現在の左派的立場であると言える。この場合にかつての左翼的な天皇制論との関係が問われなければならないのだと思う。左派的な立場の人の戸惑いは天皇や、天皇制を問う時にこの問題が根底にあるといえる。護憲とのはざまでということは左派の中にもあるのだ。かつての前衛歌人たちが「歌会始」の撰者になってしまうことも含めて、天皇や天皇制をかつてのコミンテルン的な天皇制論(三二テーゼ的な天皇制論)とは違って問えるのか、ということがここにはある。私見を言わせてもらえば、コミンテルン的な天皇制では象徴天皇制も含めて天皇制への有効な批判はできないと思っている。それはすでに破産した見解である。それならばどういう天皇、あるいは天皇制についての考えが可能か。ここのところに左派の立場の天皇論の曖昧さがあると考えているからだ。
天皇、あるいは天皇制が日本における国家(共同幻想)の構成の特殊性に根ざしてきたことは確からしく思える。構成の特殊性とは権威と政治力とが二重化してあることである。姉や兄の宗教的支配力と弟の政治的支配力が二重化してきた伝統が強くあるということのほかならない。これは日本における国家の起源から、近代天皇制下の国家まで貫かれてきたことだが、国家構造の特殊な存在様式といえる。これはよく言われる国家の宗教―法―国家として転化してくる過程において特殊な構造をたどるということである。宗教―法―国家への国家の転化は段階的なものであり、例えば宗教から法への転化では宗教は個人の領域になり国家から蹴落とされる。国家は法にやがては政治的国家に支配力が移行する。しかし、国家の構造の内部(共同性の内部)で、宗教と法とが重層化したのなら、国家には宗教的な支配力と法的支配力の関係は曖昧になる。共同的権威は、権威という政治力は宗教(天皇を思い浮かべて欲しい)、政治的力は機関(官僚)にということになる。ここで何が問題であるかというと。権威が宗教(天皇)に残るということなのだ。これはどういうことであるか。近代の革命とは国家の宗教からの法への転化であるが、これは共同の権威が宗教から法に転化したことである。例えば、天皇から憲法《憲法精神》に共同の権威が移行したようなものである。権威とは己を律する精神であり、力であるが、これが天皇のような宗教から、法(共同精神としての法、あるいは憲法)に移行することであり、その権威を権威化したのはそれが革命においてだということだ。
日本の近代国家はこの二重性が重層的国家形態として現れ、その矛盾が象徴的に現出したのは戦前なら天皇機関説論争であったと言える。国体と政体という国家構成の二重化は権威と政治力の二重化であり、これは矛盾であるが、そこでの一番の問題は憲法(自由や民主制)が、つまりは憲法の精神である法が権威として存在しえなかったことである。戦後の象徴天皇制は矛盾が緩やかになって続いている状態である。国家の権威は天皇に、政治は議会や官僚にという二重化の構造を考えていいのである。
昭和天皇は戦前を引き継がざるを得なかったのに対して、現在の天皇は象徴天皇制を基盤とする度合いが強い。これは戦後憲法に対する現天皇の対応ということに特徴的に出てくるといえるのだろう。それでも、天皇が権威であることによる政治的権威と政治力の二重化、あるいは重層化の矛盾は続いているのである。法《憲法》が共同の精神として、つまりは権威を欠如させていることにかわりはない。これの解決はどこにあるか。明瞭であるように思える。日本の共同幻想の構成がこうした重層性を解体することであり、根幹は憲法の精神が権威として存在することである。権威とは多くの人が承認するものであり、そのものとして了解されてある精神性なのだ。構成的権力《憲法制定権力》が登場し、それに裏図けられた権威が共同の権威になることだ。これが共同性の根幹にあり、政治力はそれに基づく構成されるのである。国体と政体のように国家の構成が重層的にあることは矛盾なのである。天皇が国家からはずれ文化的な伝統からの継承者になるためには、共同の権威が替わることにおいてなのだ。天皇という権威が国家の権威を占めることが問題の根幹にあることだ。
昭和天皇の短歌表現の変化を分析しているところは大きな枠組みでは、同じ重層的構造とはいえ、戦前と戦後の変化をあらわしており、天皇が法的中枢にあった戦前とそこから排除させた戦後の差異が見られるようで興味深かった。戦前には国という言葉がいっさいなかったというのは初めて知ったことだが、天皇が自己と国家をどのような関係で見ていたか考えさせられるところである。
この中で注目してところがある。天皇と皇后がその関係を主従関係に置いて見ている分析しているところである。女帝の存在が議論される時代と言う点からも、最近の男女関係から見てもこれは注目されていいし、雅子さんの現状にも深く関係することではないのだろうか。ここは家族や男女関係の現在と国家的権得とのズレを映している。その保守的な所を映していて、社会的実体とのずれである。この問題は現在の国家の分析にも関わるものだが、憲法改正の目指しているものとも関係する。本書からはヒントというべき創見あって、読み手の意識が深まればそれが見えてくるわけで、なかなか刺激的な本といえる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study602:131202〕
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