駄本がくれる勇気
- 2015年 1月 22日
- 交流の広場
- 藤澤豊
随分前になるが、ミクロかマクロか忘れたが経済学のまともな教科書をWebで探していたとき、偶然「落第生の答案」という気になる書評?を見つけた。半年くらい経ってから思い出して、図書館でその書評を頂戴した本を借りてきた。大した値段ではないが買うのも馬鹿馬鹿しそうだし、通販で買ったらそんな本を買ったという購買履歴に汚点が残りかねない。
立派な経済学者による書評なので、本に書かれていることがまっとうで書評の方が間違っている可能性はまずありえない。それでも万が一ということもあるかもしれない。全般としては不可でも、思わぬ視点があるかもしれないと思いながら、どの程度ひどかったら落第生と呼ばれるのかも気になって、一度は目を通しておこうかと。
その本、十数ページ読んでというより目を通して止めたというか、それ以上前に進めなかった。全く何を言わんとしているのか分からない。文字は日本語だし、文章も日本語だが、あまりのひどさに読み進められない。書評された経済学者、本当に完読されたのだろうかと疑いたくなるほどひどい。完読には相当の忍耐が要求される。
書評した経済学者が落第生と評価した経済理論上の誤り以前に日本語になっていない。小学生のフツーの作文でもここまでひどいのはなかなかない。落第生というからには高校か、多くは大学生の不出来を指しているのだろうが、とてもそのレベルではない。書かれていたというより、書き捨てたとでも言うべき支離滅裂さかげんは、できることなら、もう一度小学校からやり直した方がご本人のために言っても言い過ぎではないレベルだった。
ここまでひどいものが、たとえ名だけであっても、そこそこ知れた出版社から発行されるものなのか?もし、その出版社の企画なり編集なりがまともに機能していたら全部書き直しになるか、企画自体がボツになるはずだが。出版社も商売と考えれば、また、その程度の出版社ででしかない出版社では、本の内容は読者のご判断にお任せという立派な経営理念に基づいて、理由はどうであれ、売れればいいという本を出版しているに過ぎないということだろう。
めちゃくちゃな、読もうにも読めないレベルのものが大手を振って出版されるということは、それ相当の購買者がいるはず、あるいは販売できると計算できるからなのだろう、と想像してあらためて通販サイトでその本に対するカスタマーレビューを見て、また驚いた。たまにチョンボして本が発売される前にカスタマーレビューが出してしまうというカスタマーレビューだから全てを真に受ける気はさらさらないが、それでも、たとえ数件のものでも、ここまで絶賛されると、もう、身内のやらせ以外にないと勝手に結論したくなる。
落第生の答案と揶揄された、呆れた本ほどめちゃくちゃではないにしても、現象として見えたものをあまりに稚拙な理解というのもおこがましい論理?で、くどくど解説している本が多すぎる。(お陰で、まともな本が見つかり難い。)月を指さして月を論じるのならまだかわいいもんで、なかには起きている現象を説明するのに、まるで太陽を指さして、太陽が地球の周りを回っていると主張しているようなものまである。ところが、これは実に説得力のある解説で、フツーに日常生活を送っていれば、おっしゃる通り、誰が見ても地球の周りを太陽が回っているようにしか見えない。これは正しくない、正しくは太陽の周りを地球が回っている、それが見た目には地球の周りを太陽が回っているように見えるだけだと、大多数の人が理解するようになったのは、長い人類の歴史でみれば、つい最近のことででしかない。
穿った見方をすれば、太陽が回っているという日常体験に思考の基準を置き、それ以外の基準がありうるということを考えられない人たちに、太陽が回っているという似非理論を売り物にする人たち。どっちもどっちで、需要と供給がバランスしているのだろう。天動説になってしまう実体験に基づいてしか考えられない経営者には、天動説で現象を説明してくれる本やセミナーの方がありがたい。自分が日常見ている景色の延長線なら想像もつくし、納得もできる。地動説なんかで説明されても見てきたことと違いすぎて、拒否するだけに終わるだろう。
似非理論を売り物にする人たちの本を間違って手にすると、拙稿を書く手にも力が入ろうってもんだが、最近、多少は賢くなったのか駄本を手にすることが少なくなった。
後何十年かすると、以前はxxxだと考えられていたのが、よりよい社会にするには、yyyと考えなければならないという常識の転倒が起きるかもしれない。海の向こうで、ある社会層が主張している“勤労者層の税率より富裕層の税率を低くして、投資を奨励しなければ社会が豊にならない”なんてのは、天動説に近いと思うのだが、それがそれで通ってる“立派”な社会があるのも事実。
ここで社会の前に“立派”なと付けることで一呼吸おける。なにが“立派“なのか?内容は怪しくても売れる本。内容は正鵠を射ているにもかかわらず売れない本。視点の違いで何が立派か多少なりとも違ってくる。視点の違い、言ってしまえば自らの社会観、それも歴史的に見ても現時点で見ても多少の幅があったにして社会の良識から大きくは外れていないだろうという視点から立派であろうとすることしかできない。この視点でみて「落第生の答案」は勇気をくれた。それは落第生というより横丁の酔っ払いのオヤジのたわ言とでも言ったほうが当たってる。その程度でも、あるいはその程度だからこそ食っていける豊な社会にいることに妙な幸せを感じてしまう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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