必要を思うことが発明の母
- 2015年 5月 22日
- 交流の広場
- 藤澤豊
随分前のことで記憶が定かではないのだが、何かの本で次のようなことを読んだ。「時間を知りたいのだが、ただ時間を知りたいのではなく、時間を知る方法か手段が欲しい。」
時間を知るだけなら時間を知っている人に聞けば事足りる。でもそれでは、知りたいと思ったときに、いつも聞けるわけでもない。知りたいと思ったときに知る方法なり手段が欲しい。具体的に言えば時計が欲しいということになる。
この話、ちょっと考えれば、時間とそれを知るための時計を例として使っているだけで、時間や時計がさまざまな物や知識を抽象的に表していることに気付く。時間が食料で、時計が食料を得る方法のこともあれば、時間が何かの答えや値で、時計がその何かを求める計算式のこともあるだろう。
読んだときたわいもなく納得したが、後でどうもちょっと考えが足りないのではないかと思いだした。何が足りないのか、何をどう説明したら納得がゆくのかはっきりしないままでいた。
時間を知りたいから時計があればいい。話は簡単なのだが、時計が手に入ればいいのか?ちょっと考えればそこで終わりにはならないことに気付く。時計が壊れたときにどうするかなどというわき道に逸れることもないだろう。先進工業国の人たちなら、そこで必要なのは時計そのものより時計を作る製造能力だということを知っている。
しかし話がここで終わるとも思えない。製造能力とはいったいなんなのか。そこにはいくつかのか欠かせない要素がある。生産設備とそれを使って時計を製造する人的資源。さらに時計そのものを構成しているさまざまな部品がなければ時計を作れない。
この必須の要素が時計が欲しいということから遡った最終地点なのか?違うだろう。もっと本質的なことがある。時間を知りたいという欲求に答えるものとして即時計を思い浮かべるには、既に時計が実体として存在することを知っていることが前提となる。時間を知るための時計という手段を思いつくまでの知識と知恵、さらにその知識と知恵を具体的に活用して物理的な時計を作り上げる技術が必要になる。
時計を作る技術を活用して時計を作るにしても、時計を構成する機械部品やその部品の素材、その素材の原料。。。技術に関する領域だけを見ていっても遡る領域やその奥行きはかなりなものになる。
ここでモノ造りに偏った視野狭窄に注意しなければならない。物を作るとなると、即技術的な領域に視点が行って、そこで終わってしまう癖がついている。技術は人が経験と科学的思考のもとに、そのときどきの必要や欲求を満たすために人が作り上げた一つの体系でしかない。
必要や欲求がどのようなものなのかを規定できなければ、必要や欲求を満たすための技術を生み出せない。当たり前のことで、何が欲しいのか分からなければ、欲しいものを作る技術など考えようもない。機械構造物で時間を知りえるはずと思いつくことがなければ、さらに言えば機械構造物を構成する機械部品を作れる社会的および技術的基盤がなければ-思いつく環境がなければ、(機械)時計など思い浮かばない。
これを言い表している(と思っている)言葉がある。「必要は発明の母」、この言葉を聞く度に真実を言い表していると誤解するように教育されてきたような気がしてならない。発明の母は必要ではなく、必要を思う人々の思いつく環境にある。世界には、先進国の人たちの目には必要とされているとしか思えないものに対する必要が見えないところがある。上下水道設備が必要であるにもかかわらず、そのようなものが存在し得ることに思い至らなければ、そのようなものに対する必要を考えられない。電気や電話も銀行や金融システムも技術的に作りえるかどうかの問題の前に必須の条件がある。そのようなものの存在(の可能性)を考えられなければ、必要を思うに至らない。
ことは技術の領域に限らない。そのようなものがあり得る、作り得ると人々が思い描くことが先で、実現する方法や手段-その典型としての技術-は必要に応じて、必要を満たすために開発される二次的なものでしかない。
世襲制や封建制が当たり前の社会において、全ての人は基本的に平等でなければならないなどという考えは自然発生的には生まれない。そこでは歴史に培われた文化や習慣に宗教まで絡んで今まで通りの社会を良しとする常識が支配している。
そのようなところでは、実現する方法や手段、ましてや技術などより、まず今までなかったものが存在し得ると考える環境(文化)がない。環境がなければ必要は生まれない。それを満足するための技術も生まれない。技術が先にあって、それによって必要が生まれる訳ではない。ことは技術の問題ではなく社会や文化の問題に他ならない。
存在の可能性に思い至る、必要を思いえる社会や文化があって、はじめて必要が生まれ、そこからその必要を満たすための技術が生まれる可能性がある。にもかかわらず日本ではなぜ理工を重視し文化を軽視するのか。それはどこかで出来上がったものを導入することで成り立ってきたからではないか。存在の可能性や必要を思う文化があって、はじめて発明がある。文化のないところでは社会的、技術的な発明は生まれない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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