6/20の研究会のレジュメ(戦場の社会史-アジア太平洋戦争時、北ビルマ及び中国・雲南西部で全滅した日本軍と最前線の女性たちの生死とその後―)
- 2015年 6月 1日
- スタディルーム
- 遠藤美幸
6月20日の講演内容の紹介
はじめに
「戦争」にまったく興味がなかったふつうの女性が、どのようにして戦争研究に携わるようになったのか?奇縁に導かれた四半世紀にわたる研究の軌跡をお話します。その結果見えてきた拉孟(らもう)戦とは?補給路が絶たれ孤立無援の「拉孟守備隊」の運命は?
前線の慰安所、そこで運命を翻弄された女性たちの生死や本音、歩兵と砲兵の確執など、多面的で矛盾に満ちた凄惨な戦場のリアルな姿をお伝えしたいと思います。
全滅に至った拉孟守備隊の戦闘について、連合軍側の一次史料、拉孟守備隊の生存者のオーラル・ヒストリー(聞き取り)及び手記を用いて、防衛庁防衛研修所戦史部編纂の「公刊戦史」の記載されている内容とは異なる拉孟守備隊全滅の戦場の実相を明らかにします。
インパール作戦や拉孟戦を含むビルマ戦線とは?
日本陸軍の英領ビルマ(現ミャンマー)侵攻の目的は、英米連合軍の蒋介石軍への軍需物資の補給路(援蒋ルート・ビルマルート)の遮断にあります。日本陸軍は1941(昭和16)年の開戦後、間もなくビルマに侵攻し、1942(昭和17)年5月にビルマ全域を制定しました。その後圧倒的な兵力をもつ連合軍の猛烈な反攻に遭い、日本軍は一気に劣勢に転じていきます。敗戦まで続いたビルマ戦線の戦死者は膨大で、投入した約33万人の兵力のうち19万人が戦死したといわれています。さらに悲惨なことに、ビルマ戦の戦死者の約8割が、マラリア、赤痢、脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死であったといわれています。
拉孟(らもう)戦とは?
1943年5月、日本陸軍は北ビルマ・中国雲南省西部の山上の拉孟まで到達します。日本軍は援蒋ルートの重要な拠点であった拉孟に、補給路の遮断のために堅固な拉孟陣地(2キロ四方)を構築します。1944年以降、インパール作戦に代表されますが、拉孟戦も同様に、日本軍の無謀な作戦計画と補給を絶たれ孤立無援の状態に置かれます。とくに拉孟のように洋上の孤島でもない内陸部での全滅は、戦史上類がないと言われています。
拉孟戦をひと言でいえば、連合軍の補給路の遮断をめぐる日本軍と中国軍(米軍支援)の壮絶な攻防戦です。4万人の中国軍に包囲された1300人の拉孟守備隊は、100日間の戦闘の末に、1944年9月7日に全滅します。
最後に
戦後70年を迎えたいま、直接戦場を体験された方の証言にどのように向き合っていけばよいのか、若い世代に歴史をどう伝えていけばいいのかなど、戦場体験を受け継ぐことの意義を皆さんと考えてみたいと思います。
主催:現代史研・社会運動史研
講演会のお知らせ
演題 戦場の社会史
-アジア太平洋戦争時、北ビルマ及び中国・雲南西部で全滅した日本軍と
最前線の女性たちの生死とその後―
講師 遠藤美幸(神田外語大)
1995年慶應義塾大学経済学研究科博士課程修了。1982年から88年まで日本航空(株)国際線客室乗務員として勤務。現在、神田外語大学非常勤講師(歴史学)。
主な論文に、「戦場の社会史―ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月‐9月(前後編)」『三田学会雑誌』102巻3号(2009年10月)及び4号(2010年1月)。「ビルマ戦線と憲兵の諜報活動(1945年7月)」『三田学会雑誌』104巻2号(2011年7月)。「ビルマ戦線と龍陵の戦場」『季刊戦争責任研究』第81号(2013年冬季号)など。
日時 6月20日(土)午後1時~4時30分
場所 明治大学研究棟第9号会議室(2階)
JRお茶の水駅徒歩4分 リバティタワー裏手
資料代等 1,000円
研究論文「戦場の社会史」及びレジュメなど
申し込み・問い合わせ 社会運動史研究会
由井 格 090‐7181‐3291 or 03‐3480‐1392
〒201‐0002 狛江市東野川3-17-2-912
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study642:150601]
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