60年安保闘争私史―60年安保闘争50周年に寄せて
- 2010年 12月 24日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保闘争岩田昌征樺美智子の戦死特集:安保50周年
今年は60年安保50周年である。半世紀間顔を合わせたことがなかった山田恭暉氏から様々な50周年記念行事の案内が届いた。また雑誌『情況』のアンケートにも答えた。肝腎の6月15日前後は、義理の叔父、叔母と義母の墓参でパンチェヴォとベオグラードにいたので不参加であったが、それ以外の集まりはすべて出席したのではないかと思う。50周年ということだが、60年安保デモの体験者以外どれほどの人々がその意味をつかんでくれるのか、疑問である。考えてみると、1960年は、大逆事件50周年であった。しかし、反安保デモに情熱を注ぎこんでいた私たちは、そんな歴史年表など全く念頭になく走り回っていた。
私は高校生左翼で同学年生をオルグしたり、動員したりする側で頑張っていた。といっても「歌と踊り」の時代で警官隊と衝突するなんていうことは全く想定外であった。それでも校則違反で処罰の対象になった。「君も僕も高校を卒業したら、大学に行かないで労働者になるのだ」とはっするするT同志(同学年ながらすでにして共産党員、私やS君等の非党員活動家を指導する側にいた)に「そうだ、そうだ」と同調してもいた。幸か不幸か、高校生にとっては殿上人の世界における政変の結果、上から指導が来なくなり、運動が自然消滅した。そのおかげで、大学進学の気持ちが生じ、大学生として60年安保デモに参加することができた。
高校時代の左翼運動における体験から、党派に入って他人を自分の主張に沿ってオルグしたり、動員したりすることはしないと心に決めていた。決めたというより、おのずと心に決まっていた。しかしながら、左の心は健在なので、誰か然るべきものに要請されたら身体で応答する心境にあった。それが東大駒場の場合、ブント系の運動であった。したがって、ブントが組織した反安保デモには一兵卒として皆勤であった。ひとつひとつ覚えているわけではないが、次の三つのデモが身体記憶として残っている。余談であるが、今年の7月3日に私学会館で石井保夫氏の『青春の国際学連』出版記念会に出席したら、そこに出席しておられた初対面の島成郎夫人の島弘子氏から『ブント私史』(批評社)が後ほど送られてきた。それを読んで、全運動を指導する側の「鳥」の目がどうであったのかが分かり、私の「虫」の目の残像と突き合わせることができた。
第1のデモは、1959年11月27日である。私たちのデモ隊は特許庁横の小道を抜けて国会に行く予定であった。ところが、警察の車輌によって既にブロックされ、先へ進めなくなった。「安保は重い」ということで期待していなかった数の他大学のデモ隊が続々と到着した。最先頭の私たちは車輌と後続集団の前進圧力とに挟まれて身動きができなくなり、真に胸苦しい状態であった。次々と後続するデモ隊は、最先頭のそんな苦境を全く知らない。その現場にいたブント指導者のO氏は、何の指示もしない。これは危険だ。そこで私とH君(新宿高校時代の同級生、私が高校生活動家であったとき、高1の2学期に「僕は君たちの新聞やパンフをもう購読しない。東大に入る受験勉強をして、入学してから共産党に入り活動する」と宣言して、私たちの周辺から遠ざかった。有言実行。2010年の今日も同党で活動している、と伝え聞く。)が、「Oさん、あなたは大事な人だから用心してわきにいて下さい。私たちがやりますから」といって、H君と二人で警察車輌によじ登り、「前へ前へ」と大声を出し両手を振り、封鎖線を乗り越えてしまった。数人の警察官は、「おいおい、何するんだ」と制止する構えだけを取った。こういう次第で国会に到着してみると、すでにして他の方面からのデモ隊が国会構内に入って集会を開いていた。私たちも合流した。国会構内突入一番乗りではなかったとはいえ、警察車輌一番乗り越えではなかったろうか。
1960年4月26日、警察は何台もの警察車輌を並べて封鎖線を構築していた。私たちのデモ隊もそこで立ち止まらざるを得なかった。次々と新しいデモ隊が到着し、人数が膨らんだ。広い面積があり、11月27日のような危険性はなかったが、現場指導がなかったのは同じであった。駒場のデモ隊の責任者の一人、ブントのK氏(後に受勲の哲学者)が私に寄ってきて「岩田君、どうしたら良い?」と聞いたので、「ここまで来たら前へ進むしかないでしょう」と答えたことを覚えている。しかし、これは雑兵の言に過ぎない。そうこうするうちに、一人の男が警察車輌上に飛び上がり、演説を始めた。言葉は聞こえなかったが、身振り雰囲気から急速前進の合図であることはすぐに分かった。かくして私たちは封鎖車輌を自然に乗り越えて行った。後のその男が唐牛という妙な名前の北大生であることを知った。真実、見事な現場指揮であった。デモ隊大衆の6割方の気分を悟っていたと思う。11月27日と違って、警官隊の阻止行動は真に真剣であった。振り下ろす警棒を間髪の差でよける。力余って警棒が地面に激突する。その強い鋭い音はひやりとさせる威力があった。
その日以降、警察は封鎖線を作るのに、車輌の先頭を自分たちの方へ、後尾をデモ隊の方に向けるようになった。しかも車の後尾には垂直に板が打ち付けてあった。私たちはその前で何もなすすべを知らなかった。一種の城壁であり、私たちは攻城用武器をもっていない。
第2のデモは、1960年1月15日である。1月16日の岸首相訪米阻止のために羽田空港に向かう。これがブント指導下の駒場部隊に課せられた任務であった。大学構外にバスが数台手配されており、私たちは先頭のバスに乗り込み、夕方出発し、闇が濃くなり始めるころに羽田空港に着いた。ところが私たちを阻止するはずの警察の備えが見当たらない。何人かの警官か警備員かを見ただけである。そこでバス1台の私たちのデモ隊は、旗竿を横に隊列を整え、羽田空港の中に進入した。私はそれまでの人生で空港や地上に駐機する飛行機を見たことがなかった。少年のころ、空に見ていたのは飛行機雲であり、B-29の大編隊であった。空港のイメージがなかった。飛行場があれほど広いところであるとはその時まで知らなかった。「安保反対、アンポハンタイ」と掛け声を出しつつ、コンクリートの空港を走る。どこからも反応がない。私たちを見ている者もない。阻止に駆け寄る警察隊もいない。私たちに続くはずのデモ隊もない。私たちの口が閉まる。私たちの足がとまる。彼方に駐機する飛行機が何機か黒影を見せている。あそこまでデモるのか?!先頭バスであったから当然、ブントの指揮者がいたはずである。しかし、何の指示もない。私は文学的比喩でなく、物理的現実としての広場の孤独を実感した。ふと、視野を機影からそらし、別の方を見ると、空港の建物の黒影の一点に光明が見えた。おのずと私たちの足はその光に吸い寄せられた。着いてみると、それは空港ロビーの一角にあるレストランであって、驚くべきことに、後続バスで来たデモ隊を含め他大学の多くの学生たちがそこに立てこもっていた。私たちも参加した。一番初めに羽田に着いた私たちが一番遅く羽田集会に参加したわけである。何時間たったであろうか。レストランをロビーから分けていたガラス張りの仕切りの何本かの支柱に警官隊はロープを結びつけ、力いっぱい引っ張る。ガラスは砕けて私たちの上に降ってくる。そんな状況で乱闘になり、私たちは拘束され、建物の外に連れ出され、待ち構えていた二列の警官隊の間を何メートルか、手加減気味ではあるがこづかれ、けられて、列の末端に用意されていた護送トラックに押し込まれた。逮捕を覚悟した。大学の処分も覚悟した。さすが私も動揺したのか、「こうなっちゃ仕方がない」とかなんとかトラックの中で周りに話しかけた。その時、後にブント系の小党派の創設者となるH氏が隣にいて「声を出すな。こういう場合は一切黙っていることだ」ときつく忠告・指示してくれた。これがブントによる唯一の意味ある指導であった。数分トラックは走って、空港からかなり離れたところで止まった。警察署ではなかった。ただの十字路であった。文字通り、私たちは警察によって捨てられたわけである。冷たい小雨が降っていた。朝方であった。捨てられた者たちは気を取り直し、隊列を整え、岸訪米阻止を連呼して、空港方面に向かってデモをした。すぐ後になって、ブントの主要指導者約80名が逮捕されたことを知った。一兵卒は捨てられただけである。とすると、あの的確な指示をしてくれたH氏は、権力の目にはつかまえるに値しなかったというわけだ。彼にとっては幸いなのか、不名誉なのか。
後年、私は二度ほど「広場の孤独」を味わうことになる。一度は、1976年3月に中国を訪問し、夜中、人影の全くない天安門広場に立った時だ。広い、かつ一人。あの時と同じ身体感覚であった。もう一度は、1995年8月、ボスニア戦争中、ボスニア・ムスリム人の拠点都市トゥズラの広場の見物を楽しんでいた時、突然、砲撃警報がウーウーウーと鳴り響くと、広場にいたムスリム人たちは一斉に姿を消し、気がついてみると、私一人である。真夏の太陽の下、ままよとコンクリートの地面に横たわり、永い間空を見上げつつ、砲撃か警報解除を待った。やはり同じ身体感覚であった。
第3のデモは、言うまでもなく6月15日である。私たちのデモ隊は、国会南通用門前にいた。樺美智子さんは私よりも前方数列前にいた。私の記憶が確かならば、20年後には著名な保守論客となるN氏が石の門柱の上から獅子吼するのを見ていた。そうこうするうちに、対峙していた機動隊―いつのころからか、相手を警官隊と呼ばずに、機動隊と呼ぶようになっていた―の実力行使が突然始まった。錬度の高い屈強な青年集団が各自の力を一斉に一方向に集束させて突進するエネルギーは、まさしく波動砲であった。11月27日の特許庁横の後続デモ隊の重圧は徐々に徐々に増して私の肉体を締め付けたが、6月15日の機動隊はまさしく瞬刻の巨大波動圧であり、あっという間もなく、私の足は宙を蹴り、身体を制御できなくなっていた。私たちの中で倒れなかった者―私もだが―は逃げた。ただただ逃げることしかできなかった。警棒が頭上に打ちおろされたから逃げたのではない。黒い塊の突進にはじき飛ばされ、逃げるしか身体の動かしようがなかったのである。島成郎が描く「棍棒を振りかざし…。頭が割られ鮮血が飛び散る」(p.124)は、乱戦になってからの話である。勝負を決めたのは、あの重機関車の動きに似た集団的な突進力である。デモ隊が全く持っていなかった物理力である。帰宅後、樺さんの死を知った。その時は自覚しなかったが、徐々に私たち男子学生は一女学生を置き去りにしたまま逃げてしまったのだという苦い思いがわいてきた。
やがて、樺さんの死についてくさぐさの解釈が出回った。あるいは機動隊による虐殺だという。あるいは学生自身が踏み殺したのだという。私の実感では戦死である。どちらにも卑怯の振る舞いが全くなかった堂々の対峙を経て、一瞬の戦闘における死である。戦死としか言いようがない。6月10日の共産党系のデモによるハガチー・ヘリコプター脱出事件に刺激されてもおり、すべてが国会突入を覚悟していた。その覚悟なき者があの時あそこにおられるわけがない。それなのに、デモの最前列に近いところに女子学生をおいたブント指導部の指揮責任を問うことはできる。しかしながら、そんな危険な場所に身を置いたのは100%彼女の意思であろう。恥ずべきことがあるとすれば、あの波動エネルギーの放射を数に勝る私たち男子学生が全力を集中して受け止め、微動だにせず、力弱きものを守るということができなかったことだ。私は、クロアチア戦争かボスニア戦争かで捕虜となった若きセルビア女性の話を読んだことがある。彼女は、ベオグラードの女学生であったが、セルビア共和国の外のセルビア人同胞を助けに戦場に向かおうとはしない男子学生たちに我慢ならず、「勇気とは何かを見せてあげる」と銃を取って最前線で戦ったのである。幸いにして、彼女は戦死しなかったが、樺さんは戦死したのである。あの国民葬は虐殺された無力な者を憐れむ儀式ではなく、正当な戦いで戦死した者を悼みかつ誇る儀式ではなかったろうか。その意味において、半世紀の今日でも意義ある死であろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0262:101224〕
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