『がんばろう』と『同期の桜』
- 2015年 6月 14日
- 交流の広場
- 藤澤豊
学校に来ていた求人募集に応募したら、会社見学に来るようにとの連絡があった。指定された日(四月中旬)に訪問して驚いた。春闘まっさかりで正門の前には労組の旗がたなびいていた。その前に作業服を着た人たちが二列に分かれて大きな旗を振っている。出勤する人たちは、二列の旗の間を通り抜けて会社の門に入ってゆく。二列の最後の数名の人たちは、旗ではなくビラを抱えて出勤してくる人たちに配っていた。
会社訪問で初めて春闘を間近に見た。それまで春闘とは電車やバスがストライキで動かないため休校になるくらいの縁しかなかった。労組の春闘、学園紛争のような過激さはない。整然としたなかに地に足のついた熱気のある春闘に見えた。
見学に行っただけでゴールデンウィーク明けには内定してしまった。一年近く経って、見学に行ったときと同じ春闘の熱気なかで入社した。数週間の新入社員教育(座学?)が終わるのを待って、組合事務所に出向いた。どのような人たちがあの熱気に溢れた春闘を組織しているのかが気になっていた。年配の組合幹部らしき人たちと若い活動家がいくつかに分かれて大きな声で話をしていた。(周囲が煩い機械工場で仕事していると、何時の間にやら声が大きくなる。) 後日分かったが、年配者は組合幹部とその取り巻きで、取り巻きの多くが元幹部。若い活動家は青年婦人部の幹部とその元幹部や取り巻き連中だった。
何がある訳でもなくのそっと顔を出した。この立て込んでいるときに何?という顔をされた。独身寮で面識がある先輩が気付いてくれた。おお来たかという感じで、活動家の何名かに簡単に紹介してくれた。話の輪に入る予備知識もなく、脇で活動家連中の話を聞いていた。
組合は組合そのものと青年婦人部の二重構造になっていた。青年婦人部は三十歳以下(原則)の独身男性と女性(年齢に関係なし)によって構成されていた。青年婦人部がビラを作ったり配布したり、旗を振るなどの実務を担当していた。
何度も顔を出しているうちに、どのような人たちなのかだんだん分かってきた。組合活動に積極的に関与しているのは現場の人たちで学卒者は誰もいなかった。組合幹部は現場の班長クラスの人たちで、よほどのことがなければ職制上それ以上の昇進は期待できない。建前は従業員のための組合としながらも、幹部個人としての実利面を見ている人も少なからずいた。会社の手先(失礼?)として組合をある許容値内に収めて、会社ぐるみの地方選挙に出馬して市議会議員としての道を模索するもあれば、班長を超えた職制への昇進を目論んでいる人たちもいた。
青年婦人部は実行部隊としての意識もあってか当時の派手な労使紛争をイメージしていた。社内でジグザグデモを組織するなど組合幹部の方針に収まりきらなかった。この収まりきらない志向が熱気に溢れた春闘の背景にあった。
青年婦人部の幹部連中やその取り巻きと踏み込んだ話をできるようなるのに時間はかからなかった。ただ、いくら話を聞いても彼らが何を目指しているのか理解できなかった。組合幹部の顰蹙をよそに青年婦人部として独自路線を目指したところで最終的には社会党右派の域をでない。組合委員長の席を取れば多少話が違ってくるかもしれないが、青年婦人部では御用組合の看板は掛け替えられない。ましてや企業内労働組合のくびきから脱出する理論体系などあろうはずもなかった。
いくら話し合っても、どうなるものでもないというより、そもそも議論にならない。議論とも呼べない話でぐるぐる回りしていた。ちょっと議論ぽい話になると、 必ずと言っていいほど、「理論が先か行動が先か?」などという禅問答のようなのを持ち出してきた。口の達者な学卒は、ああだのこうだの弁を弄するのが上手いが、何もしないじゃないかという現場の人たちの気持ちは分かる。分かりはするが、禅問答のようなことをいくらしたところで、何ら身のある結論など出るわけがない。
彼らにとって組合活動は不満を発露し、自分の存在を主張する場でしかなかった。傍から見ればただ騒いでいるだけで、何をどうして行くのかという考えがない。その考えがないのが彼らのお気に入りの歌に象徴的に現れていた。
青年婦人部のちょっとした集まりがあれば、『がんばろう』か『インターナショナル』が声高に歌われた。どっちも聞いたこともなかったし、歌を歌う習慣など持ち合わせていなかったが、まるで『君が代』のように覚えてしまった。
誘われるがままに青年婦人部の夏のキャンプに参加した。大型バス二台仕立てた大所帯で磐梯に行った。男千人に女五十人の機械屋。どうしても男女比が合わないからだろう、市内の製糸工場の女工さんも参加してのキャンプだった。
バスのなかでマイクを回して誰も彼もが流行歌や演歌を歌いまくった。キャンプファイヤーになってまた歌になった。そこで信じられないことが起きた。『がんばろう』のあとに『同期の桜』が同じ調子で歌われた。
ああだのこうだの能書き垂れて何もしないのも問題だが、何をどのように考え、何をしなければならないのかについて何も考えることもなく、ただ労働運動だと言っているから起きるのだろう。経済的、社会的格差をなくし民主的な社会をと思う労働者や勤労者の歌としての『がんばろう』と軍事独裁主義の象徴としての『同期の桜』をなぜ一緒に歌えるのか?フツーの神経にフツーの常識に多少欠けたとしても『同期の桜』はない。あっちゃいけない。
なぜ一緒に歌えるのか?説明をあえて探せば、労働組合の活動家連中、“仕切りたがり屋”か“目立ちたり屋”、そうでなければ、ただの“不満分子”でしかなかったのだと思う。
何をいくら話しても、話せば話すほど違和感だけしか残らなかった。本質的なところでは一緒にはいられない人たちだった。
p.s.
似たようなことが西暦と年号にも言える。三つの理由で年号は極力使わないようにしている。一つは実利的な理由。海外とのやり取りを西暦で、国内のやり取りに年号を使うのは煩わしい。平成になって西暦と間違える可能性がでてきた。10年と言ったときに、それが2010年のこともあれば、平成10年の可能性もある。どこでも通じる、平成と間違える可能性のない西暦だけにしてしまいたい。次に天皇が変われば、また一から数え始める。二つ以上の年号をまたがると年を数えるのが面倒になる。長かった昭和のおかげで、将来の事業計画に多分ないであろう昭和の年を入れるのに違和感すらあった。必ず変わる年号を使うのは面倒すぎる。面倒を押してもする利点があるとは思えない。第三に、年の勘定を天皇に即位した年から始めるのは民主的な方法とは思えない。西暦だってキリスト生誕から始まっているではないかという主張もあるだろう。確かにその通り。それでも天皇が変わるたびに一にリセットはしない。世界で広く使われている西暦をひっくり返す力もなし、現実的な選択肢としては西暦しか残らない。
固いことを言うなと言われるだろうが、民主的であろうとすれば年号は使えない。使いたくないはず。民主主義を標榜しながら年号を使うのは、どこか『がんばろう』と『同期の桜』の同居と似てはいまいか。
もっとも人それぞれの民主主義もあって、天皇制に基づいた民主主義だと主張される方もいるかもしれない。主張されるのは自由だが、基本的なところでズレた言葉遊びのような議論にかかわる気にはなれない。そんなもの民主主義であろうはずがない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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