メキシコ出張-その3―はみ出し駐在記(48)
- 2015年 9月 18日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
二軒目の客は、メキシコの会社というよりアメリカ企業のメキシコ工場だった。なんでこんな大きな旋盤をと思っていたが、パイプラインのバルブを加工すると聞いて納得した。経営陣はアメリカで教育を受け人たちで、彼らと話をしている限りでは、アメリカで仕事しているのかと錯覚する。導入責任者はアルゼンチン人の優秀なマネージャーで、何にしても子気味のいい仕事ぶりだった。
それでも工場に一歩入れば、そこはメキシコ。英語は通じない。スパナやレンチを借りるにも、ノートにポンチ絵を描いて寸法を書き入れて渡す。ちょっと待っていると、頼んだものが出てくることもあれば、どこでどう違ったのか、出てきたものに驚くこともある。身振り手振りにポンチ絵と「シー, セニョール」だけの意思疎通、アメリカにいるようにはゆかない。アメリカだったら一日で終わる仕事に二日かかる。
機械は日本の工場で大きなクレート(木箱)に入れて出荷されて、クレートのまま客の工場に運び込まれる。客の工場でクレートを解体して、機械を据付場所に移動する。日本の工場と客の工場との間-輸送中にクレートを開けることはない。
機械の周りを探しても客に聞いても、ツールホルダー何点かとマニュアル類が見つからなかった。ツールホルダーは、片手では持ち上げるのがちょっときつい大きさと重さがある。どこかに紛れ込んでしまうような大きさではない。日本の工場がツールホルダーやマニュアル類をクレートに同梱し忘れたとは思えない。客の工場内で紛失したとしか考えられないが、ないといっているのをあるはずだ、探せと言っても始まらない。日本の客でも、管理体制がずさんなところでは似たようなことが起きる。客での紛失はメキシコだからという訳ではない。
上司に欠品を報告し、支社に在庫のあるものは支社から、ない物は日本から早急に発送してもらえるよう依頼した。即の対応をしてくれたが、一週間以上経っても支社から発送されたはずの物が届かない。上司に手配の再確認をしたが、物は発送されてメキシコの税関は通過していた。にもかかわらず代理店には届かない。メキシコ国内で輸送中に紛失した。再度同じものを発送してもらったが、また紛失した。いくら送っても途中でなくなってしまうだろうということで、代理店の営業マンがニューヨーク支社に飛んで、主だった物を持って帰ってきた。後日確認したら、知り合いに送った絵葉書も届いていなかった。メキシコは郵便や物流システムが当てにならない発展途上国だった。
金曜日だったと思うが、アルゼンチン人のマネージャーにアルゼンチンレストランに招待された。席について一杯飲みながら、マネージャーにお勧め料理を聞いていたら、レストランのオーナーが挨拶に来た。お互いメキシコでビジネスをしているアルゼンチン人同士だからなのか、オーナーとは知り合いだった。
席についている客への挨拶だから立ったままでいいはずなのに、一言二言言って左隣に座った。マネージャーの斜め前、奥さんの真正面に腰掛けて、上着のポケットからトランプを取り出した。流れるような手さばきでトランプを切って、混ぜたカードを孔雀の羽のようのように開いて閉じた。閉じたトランプを右手に持って、左から右に腕と手首を動かして裏向きを五枚、表向きを五枚、また裏向き五枚、表向き五枚と並べていった。上のカードが下のカードの五分の四くらい重なるように綺麗に並べられていた。残ったカードを左手に渡して、右手の手の平を上にして指先で並べたカードを左から右に撫でるようにさーっと流した。あっと思ったときは終わっていた。並べたカードが位置はそのままで、全てのカードが表向きになっていた。
何も言わずに、まとめたトランプをささっと切って、「一枚好きなカードを抜いて、抜いたカードを覚えて。。。」定番の手品だ。左手にカードの束を持って、「抜いたカードをこの上に戻して。。。」と言われて戻した。戻したカードの上に右手を添えた。添えた瞬間にストップと言って、右手を上げてもらった。一番上に乗せたカードを取って、見た。どこでどうすり替えたのか、抜いたカードはそこにはなかった。ただの手品なのだが、テレビか何かで見るのとは違う。左の席だから距離にして五十センチかそこらのところで流れるような手さばき、タネの欠片でも見つけられそうなものなのだが、何をどうしたのか分からなかった。
ブラックジャックではいつも負けてたが、カード使いのプロとのギャンブルなんか、いくらがんばったところで勝てる訳がない。
親切なマネージャーで、土曜日にはテオティワカンに連れて行ってくれた。市内からちょっと走ったところに、こんなピラミッドがあるとは知らなかった。二人で遺跡を歩き回って付設の博物館に入って驚いた。軽い感動すらあった。感動の裏返しというのも変だが、日本の博物館の物足りなさが恥ずかしかった。スペインにあれほどまでに略奪されたにもかかわらず、あふれるほどの展示物があった。日本からも明治維新や戦後のどさくさに貴重な文化財が流失したが、略奪まではなかった。にもかかわらず、素人目にはメキシコの博物館の展示の方が輝いて見えた。経済的には遥かに豊な日本の控えめな博物館はいったいどこからくるのか。
メキシコについて何を知っているわけでもないのに、雑誌『世界』か何かの記事にあったシケイロスを覚えていた。ホテルで聞いたら、シケイロスの壁画を展示した美術館が車で行けば直ぐそこだった。週末にタクシーを拾った。当時メキシコシティでタクシーといえば、フォルクスワーゲンのメキシコ製ビートルだった。二ドアなのに、どうやって後ろの席に乗るのかと思ったら、助手席がなかった。質素な作りだが車内はゆったりして広い。フォルクスワーゲンも捨てたもんじゃないと思っていたらパンクした。運転手の緩慢な動きに待ちきれずに、ついタイヤを交換してしまった。驚いたことに、パンクしたタイヤにもスペアタイヤにも溝がない。完全な坊主でゴムチューブのようなタイヤだった。産油国なのに何故タイヤは高価かなのか?
シケイロスの美術館に入って感動と失望が混ざり合った変な気持ちになった。他の来場者がいないため、まるで貸しきりだった。あまりに大きな壁画で立って見ているのが辛くなって、床に仰向けに寝転んで壁画を見上げるようにして眺めていた。タクシーの運転手が拙い英語でシケイロスは好きじゃない、自分(たち)には関係ないと言っていた。メキシコ革命の高揚は日々の生活のなかで遠い昔のかすれた希望になってしまったのか。革命も社会運動も一部の社会層が担っていただけで、一般大衆には支配者や支配構造が代わっただけにしか見えないのかもしれない。
マヤやアステカを自分たちとする自尊の念はあっても、独立とそれに続く社会運動には興味もないのか。今のメキシコのありようを規定しているは、マヤでもなければアステカでもないだろう。もっとも、そう思うのは、メキシコについて何も知らないからもしれない。
週末、代理店の営業担当者の家に招かれた。立派な家の中庭でバーベキューだった。ご夫婦に大学生の息子二人の四人家族で、スペイン系かイタリア系の中産階級の家庭だった。大学では二人とも経済学を専攻していた。技術屋の端くれの経験からでしかないが、エンジニアリングと経済学のどちらかを選べと言われたら、経済学を選ぶ。エンジニアリングは物造りの知識に限定されるが、経済学は経済の視点で社会全体を対象としている。物造り限定か社会全体か、どっちかと聞くまでもない。
メキシコでもらった名刺という名刺に書いてあった氏名の書き始めが決まってIngだった。まさか全員が同じファーストネームはないだろうと思って、営業担当に聞いたら、胸を張ってという感じで、「それはエンジニアだからだ」と言われた。話しぶりからは、ただの営業マンでエンジニアリングの基礎知識を持ち合わせているようには見えなかった。一軒目の町工場の社長の弟は文学青年だったが、名刺はきちんとIngから始まっていた。名刺のIngからメキシコではエンジニアリングの社会的ステータスが上なのだろうと想像していた。
にもかかわらず、息子は二人とも経済学。なぜ?話を聞いているうちにぼんやりとだが、家系の志向がそうさせているのだろうと見えてきた。営業マンの率直な言葉が彼らのありようを表していた。「オレの家系も女房の家系もユダヤ人で、今はメキシコで。。。」エンジニアリングは生産現場に拘束されるが、経済学からビジネスの世界に出てゆけば、メキシコに縛られることもない。メキシコにいる限りは、経済学を専攻したとしても名刺にはIngとつけてエンジニアの顔をし続けるが、物造りではなくビジネスの視点で社会を歩いてゆく人たちなのだろう。
階層化した社会で、常に自分(たち)の身の置き所を考えながら生きてゆく環境に育った人たちと、地場の生活に根ざした(アメリアッチの)視点からしか社会を見れない人たちがいる。どちらがいいの悪いのではないにしても、階層次第で、それぞれの立ち位置から見えるものも違えば思うことも違う。メキシコという国、メキシコ人という人たち、もし階層間の違いを埋め切れなかったら、あの人たちのメキシコがあって、それとは違うこの人たちのメキシコもあるということになりはしないか。
均一化された社会の脆弱性を思うと、多様性のある社会が生み出す強靭さに魅力を感じるが、それは多様性の中からの統一性、少なくともその志向があってはじめて生まれるものだろう。仕事でたかだか三週間の滞在でしかない。見えたものまでが見えただけなのだが、果たしてメキシコの人たちにどこまで統一性を求める気持ちがあるか分からない。感じ取る能力が足りないからなのかもしれないし、その程度の能力では感じ取れない性格のものなのかもしれない。ただ階層化社会でそれぞれの社会層の立場から社会をみているようでは、メキシコという国もメキシコ人も成り立ち得ないのではないかと思う。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5677:150918〕
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