VW-解決できるのか?
- 2015年 11月 7日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
マスメディアの報道に加えて著名な評論家諸氏のご意見や評論を拝見させて頂いているが、何を問題としているのかという視点でみれば出揃った感がある。巷の一私人、何を知っているわけでもないし、改めて取材したり、調査する能力もない。聞こえてくるものを聞こえてくるものとして、一傍観者でいるべきと思っていた。ところが聞こえてくるものがどうも物足りない。専門家でもない者の一言二言、何を言ったところで、素人のたわ言と一笑に付せられるのがおちだろう。雑音になりかねないのを恐れながらも、何かの参考にはなるかもしれない。
自動車や部品製造の生産設備やシステムを提供させて頂く企業の技術者あるいはマーケティングとして長年に渡って自動車産業にはお世話になってきた。自動車メーカそのものに身をおいたことはないが、巷では超優良企業と
言われるティアワンの合弁会社でマーケティングをしていたこともある。年数にすれば六年ほどでしかないが、ドイツの二社とドイツ語圏二社にも籍を置いていたことがある。取るに足らない経験と稚拙な知識でしかないが、全く知らない世界の話でもない。
フォルクスワーゲン社のディーゼルエンジンの排気ガスの規制逃れ、ついにこんな大きなものが出てきたか、出てくるべくして出てきたという感じで何も驚かなかった。あちこちで言われる「信用の失墜」や「社風」など、何をどこまで分かって言ってるのか、首を傾げたくなる。もしかしたら、お立場から、それ以上は言及できないのかもしれないなどと余計なことを考えてしまう。
リコールは設計不良や製造ミスだけでなく、さまざまな過失から生じる。今回の排ガス規制逃れをリコールと呼んでいるが、一般的にリコールと呼んでいるものとは性格(本質?)が違う。それはミスや過失からひきおこされたものではなく、組織だった「詐欺」だ。
乗用車に限らず、市場で販売される製品には機能と性能とコストの押し引きがある。いくら性能がよくても、便利な機能があっても、高すぎれば売れない。フォルクスワーゲン社は、排ガス規制に準拠して、なおかつ市場に受け入れられる価格で性能-燃費や加速性に耐久性を満足できる技術を持っているのだろうか?
2015年9月26日付けの英Economist誌に『The Volkswagen scandal A mucky business』と題した記事があった。urlは下記の通り。
http://www.economist.com/news/briefing/21667918-systematic-fraud-worlds-biggest-carmaker-threatens-engulf-entire-industry-and
その中に「cars carrying the VW badge make up 60% of sales but the profit margin on them is just 2%」という記述がある。説明が必要な文章とも思えないが、言っていることは「売上げの六十パーセントにはたった二パーセントの利益率しかない」百万円の車を売って、二万円の利益。薄利多売というのか、利益を犠牲にしてまで売上高と販売台数を追求した経営方針だったということだろう。
世界の自動車メーカの平均利益率は五六パーセントしかないと聞いていたから、二パーセントの利益率に驚きはしない。五六パーセントは軽自動車からブランドの高級乗用車やスポーツカー全てひっくるめての平均利益率ことで、ベンツやレクサスなどの高級車なら高マージンも可能だが、フォルクスワーゲンのような大衆車のマージンは平均を下回る。高級車も大衆車も作るのも売るのも利益が違うほどには手間やコストは変わらない。それにしても二パーセント、ちょっとしたリコールでも起こそうものなら、あり塚のように積み上げてきた利益がすっとんでしまう。
たかだか二パーセントしかない利益のところに、排ガス規制に準拠するために搭載しえる、コストアップにならない技術があるのか。常識で考えての話だが、もしその技術があるのなら、馬鹿げたソフトウェアなど開発する必要がない。フォルクスワーゲン社に今回のリコールを解決し得る技術があるのか心配になる。
今回の不祥事が起きた原因をフォルクスワーゲン社の社風や創業家の影響に求める人たちがいる。その通りだと思う。思いはするのだが、ドイツの製造業で働いた経験から、フォルクスワーゲン社や創業一族の一族としての特質や企業とその所有者との関係からだけとは思えない。
「三つ子の魂百まで」を持ち出すもの気がひけるが、フォルクスワーゲン社の創業を見れば、その影響が今でも残っているのではないかと思ってしまう。
誰がフォルクスワーゲン社を作ったかのかご存知だろう。一般大衆に自家用車(フォルクスは国で、ワーゲンは車)をというプロパガンダのもと、ヒトラーがポルシェ博士に「国民車」設計開発させたのが、ビートルと呼ばれたフォルクスワーゲンの始まりだ。ヨーロッパではめったにない、ドイツではそこだけと聞いたが、ほとんど何もないところに、まるで日本の工業団地のように、フォルクスワーゲンの工場と町まで作った。
<ビートルは当時の自動車技術の粋だった>
シャーシーのいらないモノコックボディや水平対向空冷エンジンを後部に搭載した(センターシャフトがいらない)設計思想は、当時の自動車技術の粋で、とてつもなく画期的なものだった。簡素な構造で低コスト、広い室内空間、軽量化による高速性と燃費のよさ、容易なメンテナンス、あらゆる面で後発メーカが目指したお手本のような車だった。
デイビッド・ハルバースタムは『覇者の驕り』でフォード社と日産を取り上げて、自動車業界の歴史の暗部に光を当てた。そのなかに、自社のテスト走行トラックを持ってなかった日産が、多分サニーでだと思うが、アメリカの高速道路でフォルクスワーゲンとの比較試験をした様子が描かれている。
T型フォードに対抗するために、どうしてもコストを削減したかったアルフレッド・スローンが空冷エンジンを開発しようと頑張ったが出来なかった。空冷エンジンにすればラジエターなどを省いてコストを低減できるだけでなく、軽量化もあって燃費も向上できる。自伝書『GMとともに』を参照頂きたい。
フォルクスワーゲン社の特殊な社内文化が今回の不祥事の原因の一つとしてあげている記事がいくつもあるが、はたしてフォルクスワーゲン社(だけ)に特殊な社会環境だったのかという疑問がある。技術畑の完璧主義者でミスター・クオリティー(品質)の異名をとる独裁者のような経営トップとその部隊が何をしてきたのか?私的な経験からの想像でしかないが、上意下達、由らしむべし知らしむべからず、命令に服従する文化、程度の差はあるだろうが、それはドイツのドイツたる所以の文化ではないのか。
どこにも極端な例がある。極端な例を持ち出して、それを敷衍するのは間違いであることを承知で一つ引用させて頂く。藤村信氏の『新しいヨーロッパ古いアメリカ』に興味深い記述があった。
「『私の人生にとって、命令に服従することはもっとも重要な事であった。服従の態度はドイツ人の民族的性格に根ざすものかもしれない。』
『ふり返って思うに、服従を旨として、命令に従う人生はきわめて安らかな生活である。このように生きることによって、自分のなかで物事を考える必要を最小限に減らすことができる。こどものころから、服従は私の身体のなかの一部であって、命令に従わないことなど、およそ考えられないことであった。』
これは先週、ドイツの新聞『ディ・ヴェルト』が発表したアドルフ・アイヒマンの覚え書のなかのもっとも刺激的な一部分である。アイヒマンの「告白」はドイツ人の背筋に悪寒を走らせ、ドイツのなかに論議を今ふたたびまきおこそうとするようである。」
裁判に先立って、アイヒマンの精神を鑑定した医師は、アイヒマンは私よりよほど健全な精神をもっていると報告している。
アイヒマンについてはウィキペディアを参照して頂きたい。urlは下記の通り。
果たして巷のマスコミや評論家諸氏が言うようにフォルクスワーゲン社が特殊なのか?そうだと言う人もいるだろうし、それでは起きたことを説明しきれないと考える人もいるだろう。同じようにアイヒマンが特異だったのか?それとも程度の差はあれ、彼の思考形態がドイツの文化の根幹にあるのか?個人的な経験からは程度の差としか思えない。
多くの日本人が先進ヨーロッパに対する畏敬の念を持ち続けている。それは歴史がそうさせているのであって、いいの悪いのの話ではない。ただ畏敬の念の対象が歴史的産物になってしまっていたら、そしてその畏敬の念を後生大事に持ち続けて起きていることを見れば、見えるものも見えないし、見なければならないものが見えない。<br>
利益率二パーセントの薄利に詐欺までしなければならない技術しか持っていないところに果たして傾倒すべき技術があるのか?
自分で考えることを放棄して命令に服従することを誇るべき文化とするところに、それがたとえ程度の差であったとしても、民主主義など育ちようがあるのか?
フォルクスワーゲン社の詐欺、起こるべくして起きたように思えてならない。それは拙い経験と限られた知識(誤解?)のせいで、偏った視線でしか見れないからかもしれない。偏りをフォルクスワーゲン社が矯正してくれることを祈っている。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5761:151107〕
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