津田道夫さんの拙著『啄木と秋瑾』の書評を読んで
- 2011年 1月 30日
- 評論・紹介・意見
- 内田弘津田道夫
数日前(1月27日)、合澤清さんに教えられて、「ちきゅう座」に掲載された、作家・評論家の津田道夫さんによる拙著『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年11月15日刊行)に対する書評を拝読した。
津田道夫さんは、拙著の《啄木と秋瑾》というテーマに驚いたという。拙著を読んで、啄木歌像が変わったという。津田さんは「東海歌」を含む啄木歌5首を書評で引用しているから、心打つものがあったのであろう。津田さんは「ちきゅう座」にアクセスする人々に、拙著を薦めてくださった。津田さんには、このテーマの私の立証に基本的に同意していただいたのだと思う。
年末の3日を拙著読破に当てられたという。「著者冥利に尽きる」の思いである。ありがたいことである。津田道夫さんに感謝する。
津田道夫さんは1929年生まれであるから、71歳の私より10歳上である。津田さんは著作が多く、それぞれ重大なテーマの作品を世に問うている方である。ネット上で知ったことであるが、津田さんは埼玉県の久喜市に住んでおられる。久喜といえば、三木清が戦争末期に疎開していたところである。三木清を多少研究してきた者として、何か因縁めいたものを感じる。
津田さんは、三浦つとむの弁証法理解に共鳴して、『弁証法の復権』を書いている。時枝誠記(ときえだ・もとき。1900~1967年)の日本語=言語過程説を三浦つとむが批判的に発展した著書に、私も関心を抱いたことがある。私の或る旧友が三浦つとむのファンであった。三浦つとむとの関係でも、津田さんとつながりを感じる。
津田さんの拙著書評が機縁で、津田さんの著作に『日本ナショナリズム論』があることを知った。私の不勉強である。この反省は啄木のナショナリズム論につながる。啄木は、その永井荷風批判にしめされているように、生活主義的・社会民主主義的な愛国者であった。晩年の啄木は北輝次郎(北一輝。1883~1937年)に関心をもった。北が発禁処分を受けた自分の著書『国体論及び純正社会主義』を分冊し刊行した本を、啄木は所持し読んだ。この事実は、啄木研究史では、なぜか、まったく(といっていいほど)論じられていない。啄木研究者の啄木社会主義像がぐらりと揺らぐからだろうか。北とのこの関連で、啄木のナショナリズムをどう評価するか、この微妙な問題についても、拙著で論じた。この問題と関連して、注目すべきことに、啄木は東京外国語学校「支那語科」を卒業した友人・並木武雄に、「満洲・支那分離論」を説いた。当時(辛亥革命直前)の孫文や在日留学生たちの「満洲・支那分離論批判」とはまったく逆の意見である。
先日、内田吐夢監督・三國連太郎主演の映画『飢餓海峡』を池袋の「新文芸座」で観たあと、その売店で、三國連太郎・沖浦和光『対談《芸能と差別》の深層』(ちくま文庫、2005年)を求めた。求めたのは、三國への関心からだけでない。沖浦さんから、1970年代に《マルクスとヘーゲル》や《地球環境破壊問題》について、いろいろ教えられたからである。そのころ、私のマルクス『経済学批判要綱』の「体系的な読み方」に最初に賛意を示してくれたのが、沖浦さんである。沖浦さんはその後、『竹の民俗誌』(岩波新書、1991年)のような分野に移っていった。沖浦さんは私より12歳上である。津田さんと同じく、沖浦さんも元気である。お二人の姿は、後を歩む私を励ます。
柳田國男の故郷は姫路である。数年前、或る三木清研究者が柳田の生家跡に案内してくれた。意外と間口が狭い居所であった。三木清の生誕生育の地・龍野と比較的近いところである。三木清には「新平民」という語彙を用いた短歌がある。その「ちくま文庫」本で知ったことであるが、柳田國男は、啄木(1886~1912年)が数年生きた1910年代に「賤民」を研究していたが、1920年代になると「常民」研究に変化している。そこにも「大逆事件」(1910~1911年)の影響があるのかと思った。夏目漱石の「天子」に対する批判的態度から融和的態度への変化にも同様の影響がないだろうか、と拙著で書いた。そのころ、漱石も秋瑾を示唆する漢詩を書いている。「日本の秋瑾」が大逆事件で死刑になった管野須賀子である。共に皇帝に逆らった20世紀初頭のアジアの女である。津田さんが書評のタイトルに引用した啄木歌(『明星』1908年7月号掲載)、
見よ君を屠[ほふ]る日は来ぬヒマラヤの第一峯に赤き旗立つ
の「屠る」は、屠刀で斬首された秋瑾を、「赤き旗」は、「錦輝館」前の「赤旗事件」(1908年6月22日)の管野須賀子を、それぞれ象徴した語彙である。
その「ちくま文庫」本で、江戸の「猿楽町」が、「町人衆の居住地」とは区別された、「役者の居住地」であったことを知った。秋瑾が斬首刑で死んだすぐ後に(1907年9月6日)、その死を悼んで彼女の同志たちが出した『秋瑾詩詞』の印刷所「秀光社」の居所が「東京市神田区中猿楽町4番地」である。現在の神保町交差点の近くである。その近くに「錦輝館」があった。そこは秋瑾たち中国人留学生が集会所としてよく使った貸集会場である。啄木は錦輝館でしばしば上映される無声映画を活弁つきで観たと思われる。
管野須賀子と同じように、秋瑾も「錦輝館」に縁があった。秋瑾は「錦輝館」で1905年12月9日、「清国人留学生取締規則」という日中国家同盟による反清朝革命通達に抗議する演説をおこなった。秋瑾は演壇に日本短刀を片手にもって立ち、舌鋒強く熱弁をふるった。鬼気迫る姿である。現状を打破しなければやまない秋瑾の「渦巻く魂」は周囲の者を巻き込んだ。秋瑾は、地霊の内奥からうねり煮えたぎる情念の螺旋運動を、身体で表現した。留学生仲間が集まる場所で、酒盃を片手にもち、剣舞を舞いながら、自作の救国漢詩を歌い、友人・同志を激しく鼓舞した。秋瑾は、尊崇する古代中国光武帝の前で舞う巫(シャーマン)のように化身して、剣握り・飲酒し・舞い・歌う。秋瑾の呪術的所作でいざなわれた者たちは、《そうだ、中国革命に突進するぞ》と思いを熱くし、秋瑾に同調した。歴史の坩堝に吸い込まれるように、先頭を切ったのが、秋瑾である。その結果が、辛亥革命である。
中国浙江省紹興を離れた秋瑾は、殉死覚悟で、紹興に帰ってきた。秋瑾は、軍事蜂起準備中、発覚し逮捕され、斬首された(1907年7月15日)。啄木は、幼い頃から僧侶の父が毎日読経する経文を聞いて育ち、語感が鋭かった。漢語を体で会得していた。秋瑾斬首に衝撃を受けた啄木は、秋瑾の深く熱する情念を湛えた秋瑾詩詞を読んだ。その漢詩が霊媒となって、黒い死に向かい渦巻く秋瑾の情念が啄木の「魂」に憑依したのか、啄木は《秋瑾詩詞への返歌》を短歌で爆発的に詠った。1908年6月23日深夜からである。その爆発は数ヶ月も続く。その具体例は拙著で確かめられる。
その最初の歌のなかに、津田道夫さんが引用した「啄木東海歌」がある。秋瑾作品にも「泛東海歌」(はん・とうかい・か) がある。「東海に泛(う)かぶ歌」=「中国革命を準備するために、日本に留学する決意を歌う詩」である。啄木は、秋瑾を媒介に、20世紀初頭の日中を結ぶ地の底につながっていた。『一握の砂』に収斂する啄木歌の真実はここにある。
津田道夫さんの書評を読んで、このようなことを考えた。
津田さんが指摘する、拙著の誤植は二刷の機会があれば、訂正したい。
津田さん、ありがとう。お元気で。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0316:110130〕
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