「法人資本主義」論争について ―柴垣氏「企業と資本」への疑問―
- 2016年 3月 26日
- スタディルーム
- 河西 勝
西山忠範、奥村宏、柴垣和夫の三者間で、今はなき『経済評論』誌上で、日本の公開会社の特殊性としての「株式持合」を如何に理論的に解明するかという点をめぐって、真剣にして誠に意義深い論争がおこなわれた。もっとも、論争がそのように感じられたのは、さしあたり直接論争に参加した三者だけの主観に限られていた。この論争は、ラーテナーやバーリ・ミーンズのような広範囲な論争をもたらすこともなく、あるいは会社法改正をもたらすといった政策実践上の重要性をもつものでもなかった。その原因は、いろいろ考えられる。
たとえば、論争がおこなわれた80年代初頭からすでに、新自由主義の立場から、分離法人統治を代理法人統治(株主・資本家支配)へと逆流させる画策(2000年代にその失敗は明らかになる)といってよい法人統治論争(その日本への流入は1990年代初頭からだが)が台頭しており、また日本のバブル経済が「財テク」や「株式の時価発行」など、「株の持ち合い」構造をなし崩し的に崩壊させつつあった(株式持ち合いという「横の系列」が、純粋ないし事業持株会社による「縦の系列」に再編成されていくのは1990年代以降)。それらのことが、経営者支配を否定し資本家的支配を現実として肯定する奥村・柴垣の立場を有利にし、一方で経営者支配・脱資本主義を主張する西山の立場をかなり不利なものにする印象を与えたのである。しかし三者間に論争が限定され、相互の折り合いをもたらす議論の広がりをみせなかったもう一つの理由は、次の点にある。つまりそれぞれが自ら築き上げた精密理論の確信犯であり、論争は自分の理論の正しさと他者の理論の誤謬とを確認するだけのものにすぎない、とそれぞれが信じたことにある。関心をよせた読者も、それぞれのイデオロギーないし理論的立場の正当性を信じて自己了解のうえ沈黙をまもった。
ところで「法人資本主義論争」は、今日の日本が、経営者支配・脱資本主義社会か、資本主義社会かを争うものであり、日本が、封建主義・前資本主義社会(講座派)か、資本主義社会(労農派)かを争った大戦間期の「日本資本主義論争」と、ある意味いくぶん類似している。「日本資本主義論争」自体は、労農派(社会民主主義系)と講座派(共産主義系)のそれぞれの革命戦略を背景にするマルクス主義の骨肉イデオロギー論争であり、歴史的事実の収集以外に、理論上ではほとんど何の意義ももたなかった。とはいえこの論争は、結果的に宇野の三段階方法論をもたらす一大要因をなした。宇野三段階論は最終的に、日本の国民経済に同時存在するとされた封建主義(経済外的強制)社会と資本主義(経済法則的強制)社会との対立・矛盾を、帝国主義段階を超える一次大戦後の「脱資本主義」的「経済外的強制」社会の発展に求め、この論争を最終的に終結させたのである。
しかし「法人資本主義論争」は、論争当事者のそれぞれの立脚点をもっと広い見地から包括的に位置づけなおす方法論上の議論をもたらさなかった。その意味では、論争は今なお未完のままである。以下に簡単に示すように、「公開会社の三段階論」だけが、その論争を決済せしめるであろう。実は上記柴垣は、「株式持合」の現状分析において、より広い意味では(というのは「国家独占資本主義論」など細かく言えば宇野理論から反れる故に)宇野三段階論の適用を意図していた。しかしそこにおいて実際に示されたものは、論争全体の包括的克服などとは到底言えない、逆に宇野の原理論・段階論が抱えこむ致命的な欠陥を、自ら暴露するものに他ならなかった。
奥村・西村・柴垣の三者間の熾烈を極める「法人資本主義」論争は、「株式の持ち合い」において、「生産手段としての資本」所有・所有者とは何か、経営・経営者とは何か、「生産手段としての資本」所有と経営とはいかなる関係にあるか、総じて法人(資本家的企業・資本主義社会)とは何か、といった論点をめぐって行われた。
<奥村「法人資本主義」論は次のごとし>
「法人としての会社」は、(論理的には)、まず「経済的、実質的所有(生産手段の所有)の主体」であるが、続いて「法律的、形式的所有の主体」として「登場する」。それゆえ株主は「法律的所有の主体」をなすが、日本では、自然人とともに「法人としての会社」についても、株主たりうることを想定しなければならない。この点に、「法人資本主義」の大きな特質がある。
さて、「自然人である経営者」は、「身体がないから意志もなく行為もできない」「法人としての会社」を代表することによって、「法人としての会社」が持つ強大な権力機能を代行する。A会社を代表し、その機能を代行する経営者aは、A会社によるB会社の株式(ブロック)所有に基づいて、つまりA会社に代行して、B会社の経営者bを支配する。これはB会社に対するA会社の一方的な所有に基づく経営者bに対する経営者aの支配であり、中小企業に対する親会社の関係(縦の系列)においてかなり普通に見られる。しかしとくに二次大戦後、日本企業グループ内の会社間において、一般的にA会社をB会社に置き換え、経営者aを 経営者bに置き換える理論操作が可能なほどに、安定株主工作や外資による「乗っ取り」防止策などを通じて、典型的な株式の相互持合が進んだ。
ここにおいて、「株式の持ち合い」の本当の意味が解明される。つまり日本の企業グループは、「法人としての会社」間における株式の「相互持合い」、「相互所有」、そしてそれに基づく経営者の「相互信認」によって、構成される。そして、「法人としての会社」による資本所有にもとづくコントロール(支配)が、究極的に成立している。すなわち奥村のいわゆる「経営者支配の日本的形態」は、本質的には「法人資本主義」として、現実的に存在していることになる。
<柴垣の「法人資本主義」論は、つぎのごとし>
19世紀末に普及した資本主義の帝国主義段階を特徴づける株式会社制度は、実体的には重工業の登場に伴う固定資本の巨大化に基礎を置くが、「資本の商品化」は、「価値増殖している現実資本」(機能資本W-G…P…G`-W`)の「基本部分をなす資本金の持分および現実資本が生み出す果実への分配請求権をあらわす多数の株式証券の商品化」という「特殊な形」をとる。宇野のいう理念としての、売買されうるものとしての「それ自身に利子を生むものとしての資本」(資本の物神性)は、「株式会社の資本」つまり株式証券に「具体化される擬制資本」としてのみ、現実化するのである。ここでは、「現実資本を構成する商品、貨幣、生産手段等の所有主体は、形式的には法人格としての株式会社そのものとされるとともに」、「出資者は、株式証券という擬制資本の所有者(株主)として存在することになる」。そして小株主は事実上、株式証券・擬制資本がそれ自身で生む「利子」を受け取るだけの「貨幣資本家」化するが、他方、大株主においては、株式所有として利子を受け取る「貨幣資本家」と現実資本・機能資本がもたらす利潤をうけとる「機能資本家」とが「未分化」のままにとどまるのである。
要するに株式会社においては、W-G…P…G`-W`(現実資本)の機能を担う大株主・機能資本家(資本の人格化)の意志が「株主総会や取締役会」を左右するが、それと同時に、「企業規模の大規模化と企業組織の複雑化とが、株主以外の経営の専門家を登場せしめることになる。」いわゆる「所有と経営の分離」が成立する。このような「分離」の場合では、その会社の株式証券・擬制資本を全く持たない経営者でも、大株主と同じく現実資本・機能資本、おなじく「自己増殖する価値」運動の「担い手」であり、資本家であることに変わりない。
「すでに、株式会社制度のもとでの<所有と経営の分離>の段階で、資本家による現実資本の支配は、大株主の株式所有に基礎をおいた現実資本の支配と、大株主から委嘱を受けた経営者の<地位>を基礎とした現実資本の支配とに分化し重層化」する。そしてこの「経営と所有の分離」から「さらに変容」し、「大株主が法人化し、しかも、法人間の株式持合という形が形成されている今日の日本の」「法人資本主義」の「場合には、経営者は持合関係にある同系企業の経営者との間で「相互信認」を与えあいつつ、<地位を基礎とした資本家としてみずからの属する企業の現実資本を<占有>し支配している」。
<西村「経営者支配・脱資本主義社会」論は、つぎのごとし>
「法人が主体だというのはあくまで法律的な問題」である。奥村が、法人は(論理的に)「経済的、実質的所有」から「法律的所有に突き進む」などというのは、意味がない。法人が「法律的所有の主体であるのは当然」であり、法的主体としてのみ「経済的な主体」たりうるのである。従ってまた、個々の株主は「経済的所有の主体ではあり得る」が、自然人としてであれ、法人としてであれ、いかなる意味でも、奥村のいう「法律的所有の主体」とはなりえない。法人は、株式を発行して調達した資金によって形成される「生産手段としての資本」(株式資本)を所有する法的主体および経済的主体として成立する。この場合には、株主が「経済的所有」(つまり「生産手段としての資本」・株式資本)の「所有主体」たりうることは、明らかである。
ところが、「現代日本の大企業間における株式の相互持合い」の「目的」は、「株式資本の空洞化」または「相殺効果」である。「株式資本を空洞化し、互いに相殺される(ママ)ことによってその力をゼロに収斂せしめ、株式会社を、その限りで」「株式を発行せず株主は存在しない」「相互会社(生命保険会社など)と同じ実質に転化させることである。すなわち、株式をもたない経営者が企業の支配権を握り、かつそれを恒久化する手段であることがあきらかである。」さらに「株式持合」あるいは「安定株主工作」の動機・理由としては、奥村が指摘すると同様に、「企業間における業務上の提携、協力関係の緊密化、金融機関を中心とするグループ化などがある」。しかし、「これらの動機」は、西村が主張するような「法人としての会社」の「資本所有にもとづく」経営者コントロールなどの問題ではない。まったく逆にそれらは、「経営政策の問題」、すなわち「経営者支配」を可能にし恒久化しあるいはより強力に保護する手段を追求するものに他ならない。
「株式の相互持合」は、「労働者としての経営者が、資本家としての株主から支配力を奪取して、自らの支配を確立・維持するための手段」である。しかし「所有による支配」の崩壊と共に、「<労働力の商品化>もまた崩壊」する。「いわゆる<日本的経営>の中核となる終身雇用制、企業別組合などはもとより労働市場の流動性の欠如、配当の極少化ひいては<階級>の崩壊などは、いずれも」、「<労働力の商品化>を基礎とした資本=賃労働関係」の崩壊の「反映として把握される現象形態の一つであるにすぎない」。それゆえ「現代日本の大企業においては、一般に、<直接生産者と生産手段の分離>は存在せず、両者は<労働者共同体としての企業>において一致している」。「大企業において、労働者の企業への就職はその労働力を生産手段の所有者に売却するのでなく、その企業の社員‐構成員となることである。そして、かれらはそれによって、生産手段の占有者になり、一方においては直接生産者となるとともに他方においてはその成果である利潤の最終的取得者となる。その意味では経営者という名の労働者もその他の労働者も変わりない。」
なお西村『支配構造論』は、「日本社会の病理」として、次の5点を指摘している。1.公認会計士による会計監査制度の無機能化、2.社内取締役をコントロールすべき社外取締役の無機能化(日本では二次大戦後、ドイツ的な二層役員会制度からアメリカ的な取締役会・単層役員会制度へと商法が改正された)、3.TOB(他会社を乗っ取るために、その会社の株式を集中的に公開買い付けする)が、日本ではほとんど行われないこと、4.「経営者にとって役に立つ総会屋」の存在、5.以上の「腐敗の構造」の「政府と企業の癒着」よる完成。上記1,2の「制度」は、元来「資本家の存在を前提とした制度であるが、資本家が存在しないとなると、それらが無機能化するのは当然である」。また上記3については、経営者は、「支配力をもつ株主としての」資本家が復活することを恐れているからである。また上記4については、それをチェックする資本家が存在しないからこそ、総会屋と経営者の結託が生じる。かくして上記5によって、「経営者を含む労働者による巨大な利益共同体」、「資本主義でも社会主義でもない別の社会」、仮称「管理主義社会」が成立する。
<「法人資本主義」論争に対するコメント>。
西村、奥村、柴垣の三者全員が通説(神話)に従って、バーリ・ミーンズ式の「株式所有の分散化」・「所有とコントロール(経営)の分離」・「経営者支配」を、「資本主義の高度化に対応するもの」と見なしている。バーリ・ミーンズ・モデルを前提にする限りで、日本型企業の特殊性としての株式持合による「経営者支配」の問題を理論的に解決することは、最初から極めて容易であった。奥村と柴垣にとっては、企業グループ内の持合いにおけるブロック所有の存在は、直ちにその企業における「資本家的支配」の存在根拠をなすと信じられた。奥村と柴垣にとっては、日本企業の現実において、所有が直ちにコントロールの根拠をなすことは、疑わざるべき自明の理であった。同様に西村にとっては、株式持合いは、「株式資本」の「相殺効果」(所有自体の消滅)を意味し、それは直ちに、日本企業における「経営者支配」の根拠もたらすはずのものであった。西村にとっては、日本型の「経営者支配」と「所有とコントロールの分離」(つまり「株式持合」の限りでの「経済的所有」の「空洞化」による社外取締役のコントロール喪失、それに対応する社内取締役のコントロール確保)の「一般化だけが、資本主義の崩壊を意味する」。
しかしながら、「所有とコントロール(経営)の分離」・「経営者支配」は、資本主義的発展の高度化とか、株式所有の分散化といった、資本主義的発展にいわば内在する問題ではない。それらは、一次大戦を画期とするレッセフェール金融システムの崩壊など国民経済にとっての多様な外部環境の歴史的変化に同調するものである。それ故に現代株式会社の分析のためには、バーリ・ミーンズ・モデルを標準とすることはできない。公開会社の原理論・段階論を分析のための標準としなければならない。柴垣と奥村は、現状分析すべき株式会社を先験的に資本家的企業と決め込んだ(イデオローグとしてはともかく、そんな学問的権利はどこにもないのに)ために、所有に基づくコントロールの存在を前提にしたまま、論理的な辻褄合わせをしているにすぎない。日本の現実公開会社における所有とコントロールの非分離・同一性の幻想を立ち切れ、すると「法人資本主義」のバブルは直ちにはじける。この点では西村だけが、日本の株式会社を現状分析する正しい方向を示している。もちろんそこに問題点がないわけではない。
柴垣は、宇野の資本利子論を適用して、株式証券・擬制資本を理論的に作り出す。しかしそんなことをする前に、すでに現実資本のうち固定資本は「それ自身に利子をうむ」擬制資本として存在する。工場などの生産手段を利用する場合に支払われる地代は、その生産手段を所有し地代をうけとるものにとっては、地代の資本化としての固定資本が生み出す利子となるのである。この意味で、株式証券は本来的には、固定資本の証券化であり、それ以外の何ものでもない。柴垣は宇野とともに、誤って、固定資本を機能資本のうちに(生産過程での価値の移転の仕方が中間財などと異なるという点でのみ両者を区別して)解消してしまう。現実資本は、機能資本(循環資本)と固定資本所有から成るのに、後者が前者に還元され、機能資本と同一視される。そのため、株式会社では、株主総会(法人)が社外取締役を通じて、固定資本を形成・「所有」し、それを社内取締役・機能資本家に貸し付ける、後者は、固定資本を「占有」し利用するという関係が、全く理解できない。
資本家的企業の本質は、循環資本(機能経営者)と固定資本の形成・所有(資本所有・戦略的経営者)から成り、株主総会(法人)によって成立する株式会社は、戦略経営者・社外取締役を株主総会の代理人として、機能経営者を社内取締役として公認する代理人制度である。柴垣も奥村も、株主総会(法人)の代理人としての社外取締役を、機能経営者(会社経営者)としての社内取締役と明確に区別できない。奥村は、「法人としての会社」と表現するように、「法人」と「会社」とを混同(同一視)するので、「法人」の「代表」としての経営者(社外取締役)と実際に会社経営を担う経営者(社内取締役)とを区別できない。柴垣は、大株主においては、「貨幣資本家」と「機能資本家」と「未分化な」ままであるとか、株主以外の専門化としての経営者が登場すると「経営と所有が分離する」などという。
しかし株式会社では、大株主としては、配当(利子)を得る大株主と社外取締役(ほとんどまったく無経営報酬)とは制度的にははっきりと分化しているし、また大株主は、「機能経営者」(社内取締役)になることはまずない。また、株主でない経営者は、社内取締役としての「地位」にとどまるのであって、社外取締役になることはない。したがって、社内取締役が担う機能資本において、「経営と所有が分離する」ということなど起こりえない。資本家的企業(従って株式会社)では、固定資本所有と機能資本(循環資本)とは、概念的にも実在的にももともと分離しており、後者のもとでの固定資本用益の実現において結合する。その意味でならば、資本家的企業(従って株式会社)では、「所有と経営」はもともと分離しており、柴垣のいうように、株式会社になって初めて「分離」するというようなものではないのである。
しかし現状分析としての株式会社論の難しさは、まさしく「所有とコントロールの分離」をいかに考え・分析するか、という点にある。原理論・段階論レベルの株式会社では、株式・資本所有・私有制の絶対性(法人)と社内と社外との取締役の契約関係における権利義務の絶対性とが一致している。この両絶対性の結びつきが相対的に「分離」し、社内取締役と社内取締役との平等な契約関係が法形式的制度的にはともかく実質的にくずれ、社内取締役による社外取締役・株主総会に対する「支配」が生まれるとすることが、「所有と経営の分離」の本当の意味である。資本家的企業体制はこの「分離」の意味で確実に終わり、資本・資本家の支配に代わって、経営者支配が生まれた。では経営者が支配する公開会社とはなんであるのか、それは、まさしくは、現状分析によってしか解明しえない。
「経営と所有の分離」そして経営者支配は、現状分析の対象としなければならないのに、奥村と柴垣は、「経営者支配」の多様な現実を、原理論・段階論のレベルの現象形態に還元してしまう。
ともかく奥村と西村は、今日の大企業・株式会社を、現状分析とする方法論上の課題を必ずしも明確にしなかった。奥村と柴垣は、株式会社のいわば段階的レベルのモデルを使って、つまり所有に基づくコントロールは、当然のこととして、現実に存在する株式会社の「所有とコントロールの分離」を理論的に否定した。「法人資本主義論」は現代株式会社の「所有と経営の分離」の現実に照らしてみれば、それらの豊富な事実の発見にもかかわらず、理論的には100%成り立ちえない。西村の「経営者支配」論だけが、現状分析としての株式会社論の方向を示している。
そういうわけで、伊藤誠氏の世界資本主義の逆流論などよりも、柴垣氏の宇野三段論の適用に、絶大なる共感を感じながらも、宇野の原理論・段階論がはらんでいる根本問題にいまだに気が付かないことについて、残念だとの思いはある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study717:160326〕
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